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松本俊彦 「身近な薬物のはなし」

第3回 アルコール(2)人類とアルコールとの戦い

【連載】松本俊彦「身近な薬物のはなし」(3) 

はじめに                                        

 アルコールは人類が遭遇した最古の依存性薬物ですが、人類はそのすばらしさとともに、早くから危険性にも気づいていました。

 紀元前400~200年頃に編纂されたといわれる『戦国策』には、中国における酒の起源にまつわる伝説が記されています1。中国最古の王朝、夏(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)の始祖禹(う)王のもとに、北方異民族の儀狄(ぎてき)なる人物がやってきました。曰く、「穀物から酒なる飲み物を初めて造ったので、それを献上したい」というのです。禹は酒を一口飲んで、あまりのうまさと酔い心地に驚きました。しかし、すぐに我に返り、「後世、この美味にして陶然とさせる飲み物によって国を滅ぼす者が出るであろう」と述べ、以降、酒を断ち、儀狄を追放したそうです。

 一方、古代ギリシアの都市、アテナイに住む人々は、「酒を断つ」のではなく「うまくつきあう」ことを選択し、飲酒にあたってのルールを定めました。それは、ワインは必ず水で3倍に希釈して飲む、というものです。そのことから、彼らは、アルコール度数にして4%程度のワインを飲んでいたことになると推測されています2。アテナイの人々は、水を加えずにワインを飲むことは無教養かつ野蛮な行為であり、もしもそのまま飲んでしまえば、手がつけられないほど凶暴になるか、さもなければ発狂すると考えていました。歴史家トム・スタンデージによれば、アテナイの哲学者プラトンは、ワインをそのまま飲む風習を持つスキタイ人とトラキア人について、教養がない人々であったと評していました3

 その意味でいうと、マケドニアのアレキサンダー大王は野蛮と無教養の典型でした。彼はワインを薄めずに夜な夜な飲んで酔い潰れ、酔った勢いで征服した都市を火の海にして人々の恨みを買い、さらには、諫言に逆上して腹心を殺害するなど、重大なミスを連発しました4。最終的に彼は、大酒に起因するかたちで、弱冠30代前半、志半ばでこの世を去っています。

 確かにアルコールは人の理性を曇らせます。王ならぬ一般人の場合、さすがに「国を滅ぼす」ほどの影響力はないにしても、「身を滅ぼす」くらいなら枚挙にいとまがないほど前例があります。だからこそ、人類は自衛のためにアルコールの規制を試みてきたのです。

 さて、今回は、アルコール規制の歴史を振り返ってみたいと思います。

 ジンとの戦い――ジン・クレイズとジン規制

 蒸留酒の発明

 近代以前にもアルコールで身持ちを崩した人はいましたが、それでも、社会全体から見れば、ほんのごく一握りの人に限られていました。というのも、ビールであれワインであれ、いずれも貴重かつ高価なものであり、前後不覚になるほどの酩酊を呈したり、内臓障害を来したり、依存症になったりするほど連日大量に飲めるのは、王侯貴族や金持ちだけだったからです。

 しかし、科学技術の進歩は、生産コストの低下や摂取効率の向上をもたらし、人間と薬物との関係を変えてしまうことがあります。たとえば、オピオイドにおけるモルヒネ単離の成功や注射器の発明、あるいは、タバコにおける紙巻きタバコ製造機械の発明と大量生産の実現といった出来事は、それらの依存性薬物を神聖な嗜好品から悪魔的な毒へと変貌させました。そしてアルコールにおいては、そのような変化は蒸留技術の発明によって引き起こされたといえます。

 蒸留酒の起源は医薬品です。アルコールの蒸留技術は10世紀にコルドバの錬金術師たちによって確立され、後にフランスやオランダにおいて、純粋なエタノールを得るべく、ブドウの果皮や穀類が蒸留されるようになりました5。中世の医学においては、蒸留したワインは「アクア・ヴィータ」(生命の水)と呼ばれ、気つけ薬や、ペスト感染から身を守る消毒薬として欠かせない医薬品とされていました6。さらに時代が下って大航海時代に突入すると、蒸留酒は長期の船旅に欠かせない水分補給源、そして、商談に際しては人間関係の潤滑油として機能し、その、かさばらずに携行しやすく、長期保存の利く性質から、海上交易における代替貨幣の役割をも担っていました。

 なかでも、オランダのライデン大学医学部教授フランシスクス・シルヴィウスが、1660年に創製した解熱・利尿用薬用酒「イェネーフェル」(「jenever」のオランダ語読みです。英語読みは「ジュネイバー」)は、画期的な大ヒット作でした。というのも、この蒸留酒、大麦やライ麦などの穀物を蒸留し、利尿・解熱作用があるとされる杜松(ねず)の実(juniper berry:ジュニパー・ベリー)で香りづけをしただけなのに、意外にもふつうに美味しい飲み物だったからです。

 この「イェネーフェル」こそがジンの起源であり、その英語読み「ジュネイバー」が短縮、変形されて「ジン」と呼ばれるようになりました。

 かくしてジンは、本来の薬用酒としての用途を越えて一般に広まり、この高濃度エタノール液をただ「酔う」ことを目的として用いられるようになったのです。やがて、この蒸留酒が、人間とアルコールとの関係を変化させていくことになります。

 英国を襲ったジン・クレイズ

まもなくジンはドーバー海峡をわたって英国に上陸し、1689年、英国政府が、一定のライセンス料を国に納めれば誰でも蒸留業を営んでよい、というお触れを出すと、ロンドンには空前のジン・ブームが到来しました。17世紀後半から18世紀にかけてジンの消費量は爆発的に跳ね上がり、それまで一般的なアルコール飲料であったビールを完全に圧倒しました。期を同じくして、フランスからのブランデー輸入に制限が加えられたこと、そして1694年にビールに重税がかけられ、相対的にジンが安い酒となったことも、ブームの追い風となりました。

 この時代は、後に「ジン・クレイズ(Gin Craze)」――ジンに狂った時代――と呼ばれるようになります。

 当時、ロンドンはまさに産業革命の勃興期、農村部から多くの人々がやってきて、安い賃金と引き換えに、工場で自らを機械に屈従させる生活を強いられていました。そこにジンという安価で、少量でもすぐに酔うことができ、疲れや心の憂さを霧散させてくれる酒が簡単に手に入るようになったわけです。飲酒人口の裾野は一気に広がり、街は酔っ払った下層階級の人々で溢れかえりました。危機感を覚えた政治家や宗教的指導者は、「ジンが人間をだらしなくし、犯罪行為を助長して社会秩序を撹乱し、さらには精神疾患の原因となっている」と激しくジンを非難し、人々に警鐘を鳴らしました。どこか、わが国における「ストロング系」禍を彷彿させます。

 当時のロンドンの様子を活写したものとして、ホガース作『ジン横丁』(1751年、図1)という有名な絵画があります。その絵には、ジン狂いのロンドン市民の姿が描かれており、とりわけ、ジンによって理性を失った大人の犠牲になる子どもの姿がクローズアップされています。

 

ウィリアム・ホガース作『ジン横丁』(1751年)

 もちろん、英国政府もこうした事態に手をこまねいて静観していたわけではありません。1729年には、課税を通じてジンの販売規制をする最初の「ジン法案」を通過させ、それ以降、1751年までに計4回の法改正を行い、その都度、販売者に対する課税率や販売ライセンス料を引き上げてきました。しかし、こうした規則に従う市民はほとんどおらず、多くの人々は隠れて自家製のジンを作り続け、実質的なジン蒸留量は皮肉にも増加の一途をたどりました。

 最終的に英国政府は規制を諦め、むしろこれを徴税に生かす方向へと政策転換しました。つまり、販売ライセンス料を低く抑える一方で、品質の高いジンの販売を促す政策です。すると奇妙なことに、ここに来てようやくジン・クレイズは収束しはじめたのです。

 しかし、案外重要かもしれないのは、次の2つの影響です。1つは、1757年の小麦収穫失敗により、原料となる穀物が値上がりし7、自家製ジンの製造がままならなくなったことです。穀物の値上がりは食料価格の上昇をもたらし、底辺層の人々の生活を困窮させました。そうした人たちのなかには、英国内での生活を諦め、新天地を求めて、当時英国領であったアメリカ大陸やオーストラリア大陸へとわたっていった人も少なくありませんでした。

 それからもう1つは、英国東インド会社による紅茶の輸入量が増加したことです。実際、この頃、多くの人々が日常の飲み物としてジンから紅茶へと変えていったそうです8

 米国におけるアルコール規制

 建国創生期における米国の飲酒文化

 英国での生活に見切りをつけて大西洋をわたり、ようやく北米のニューイングランドに入植した人々にとって、ラム酒は特別な意味を持つ蒸留酒でした。

 当時の英国人にとって、ラム酒は船旅の必需品だったのです。そのアルコール度数の高さによりラム酒には殺菌作用があるので、ビールやワインのように航海中の品質劣化を心配する必要はありません。実際、ラム酒を水で割って砂糖とライムで味つけをした、「グロッグ」なる飲み物は、英国海軍御用達でした。船内で保存されているまずい水はラム酒で浄化され、また、ライムに含まれるビタミンCは船乗りの職業病、壊血病を予防します。ちなみに、トラファルガー海戦においてフランス・スペイン連合艦隊が英国に破れたのは、当時、フランス海軍が兵士に配給していた飲料が単なるブランデーであって、ビタミンCが含まれていなかったせいであるといわれています3

 ラム酒はまた、新大陸における代替通貨であり、先住民を支配し、利益を生み出す武器でもありました。つまり、ラム酒で奴隷を購入し、その奴隷をサトウキビ畑で働かせて砂糖を作らせ、砂糖の生産で生じた廃棄物を蒸留してラム酒を作り、それでまた奴隷を購入する……ラム酒は、悪夢のような永久機関を駆動させるガソリンだったわけです。

 一方、北米の内陸部では、ウィスキー作りがさかんになり、空前のウィスキー・ブームが到来していました。なかでも、ケンタッキー州で製造が始まった、トウモロコシを主要な原材料とする蒸留酒――バーボン・ウイスキー――は、新大陸ならではの新しい飲酒文化を誘導しました。当時の米国社会では、人々は昼夜を問わず、そして仕事中であるか否かかかわらず、終日ウィスキーを呷りながらの生活が許容されていたといいます9。こうした状況に対して、トマス・ジェファーソンは次のような苦言を呈しました。曰く、「ウィスキーは毒だ。ワインが安く手に入る国に酔っぱらいはいない。ワインが高く、代わりに強い酒を日常的に飲む国にしらふはいない」3

 かくして建国創生期、米国民はラム酒やウィスキーといった蒸留酒で日がな一日酩酊し、慣習に囚われない、新大陸ならではの自由を謳歌していたわけです9

 禁酒法の制定

 米国は矛盾する道徳観、価値観が混在する国です。上述したように、利己的で享楽的な面がある一方で、敬虔なプロテスタントとして勤勉と禁欲を美徳とする面も持ち合わせているからです。そして、まもなくその後者の側面が巻き返しをはかり、禁酒運動が胎動し始めます。

 19世紀末より米国各地で勃興した禁酒運動の発端は、1840年代の反カトリック運動に遡ります。カトリック教徒が多いアイルランド系移民(大酒家が多かったそうです)に対する差別意識から、彼らの飲酒習慣に対する非難の声が上がるようになったのです10

 この声に共鳴したのが、敬虔なプロテスタントの女性たちでした。彼女たちは、かねてより家庭を顧みずに酒場で多くの時間をすごす、男たちのホモ・ソーシャルな行動様式に不満を抱いていました。そして時勢を見て、「いまこそ好機」とばかりに不満を爆発させたのでした。彼女たちは大挙して酒場に押し入り、店内に並ぶウィスキーの瓶をハンマーで破壊してまわりました。ここに、KKK(クー・クラックス・クラン)などの人種差別主義者、さらには、黒人奴隷の飲酒による生産性低下を嘆く大農場経営者の思惑が相乗りして、禁酒運動へと発展していきました。

 それでも、当初、禁酒運動家たちが問題にしていたのはあくまでも蒸留酒でした。ところが、1917年に米国が第一次世界大戦に参戦すると、様相は一変しました。米国内で不寛容なナショナリズムが高まり、敵国ドイツに対する憎悪の念が、当時ドイツ系移民企業の寡占状態にあったビール製造業界に向けられるようになり、禁酒運動のターゲットがビールを含むすべてのアルコール飲料にまで拡大されたからです。そして同年、国民全体を覆う集団ヒステリーのような社会情勢のなかで禁酒法が可決され、1920年より施行されることとなりました。

 禁酒法の廃止

 残念なことに、禁酒法後の世界は、敬虔なプロテスタントの女性たちが願ったのとは異なるものでした。というのも、禁酒法がもたらしたのは、粗悪な密造酒の横行ともぐり酒場の隆盛、アル・カポネをはじめとする反社会組織の肥大、そして何よりも都市部における治安の悪化だったからです。もちろん、肝硬変罹患者の減少など肯定的な影響がなかったわけではありませんが、それ以上に、メチルアルコールなどの工業用アルコールが混入された、粗悪な蒸留酒の流通による健康被害――失明や死亡――は決して無視できないものでした。

 最終的には1929年の大恐慌が転機となりました。大量の失業者が発生したにもかかわらず、酒税を手放した米国政府には十分な福祉施策を講じる財源がなく、そこから禁酒法に対する批判的意見が噴出するようになったのです。このような、国民の禁酒法に対する反発心を追い風としたのが、第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトでした。彼は禁酒法撤廃を公約に掲げて大統領選を圧勝し、1933年に禁酒法は廃止されました。

 禁酒法の廃止が米国民の健康と福祉にどのような影響を与えたのかを一言でいうのはむずかしいですが、ひとつはっきりしていることがあります。それは、「酩酊癖はもはや道徳の問題ではなく、刑罰では解決しない」という認識が広がったことです。

 禁酒法廃止から2年後の1935年、アルコール依存症の自助グループ「アルコホリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous; AA)」が誕生しました。AAのセントラル・ドグマは、「酩酊をくりかえすのは病気のせい」というものですが、このような「病い」という認識は、禁酒法という、酩酊を刑罰でコントロールする試みの失敗なくして獲得できなかったはずです。

他の国々におけるアルコール規制

 もともと教義によって飲酒が禁じられているイスラム圏の国々を別として、20世紀以降に禁酒法、もしくは、それに準じる強硬なアルコール規制を行った国は、他にも存在します。

 ロシア、カナダ、ノルウェー、フィンランド、アイスランドがそうです。たとえば、ノルウェーでは、1916~1927年に蒸留酒が、フィンランドでは1919~1932年にすべてのアルコール飲料が禁止されていました。また、アイスランドでは、1915年から全面的な禁酒令が導入され、スピリッツとワインは1935年まで、そして、ビールは1989年まで合法化されませんでした。さらに、最終的に可決こそされませんでしたが、禁酒法の是非をめぐって国民投票まで行った国としては、スウェーデンとニュージーランドが挙げられます。

 そのような国々のアルコール政策についても、以下に紹介したいと思います。

ロシア

 ロシアで最も愛されている蒸留酒は、ご存じのようにウォッカです。帝政ロシア時代、ロシア皇帝軍はウォッカに寛容であることで知られていました。浴びるほどウォッカを飲むことが軍隊生活の習慣であり、さらにその習慣は軍隊のみならず、国民全体にまで広がっていました。こうした文化は、15世紀にイワン3世が戦争資金調達のためにウォッカ製造産業を国営として以来続く伝統であり、人々がウォッカを飲めば飲むほど国に金が入る仕組みとなっていました。しかしその一方で、このようなウォッカ文化は、国民の怠惰と生産性低下をもたらし、さらにはロシア人男性の短命さの原因となっていました。

 そのことを憂いたロシア皇帝ニコライ2世は、1914年にロシア全土でのウォッカ販売禁止へと踏み切ったのです。しかし、これは明らかに失策でした。というのも、税収を断たれた政府の財政は大きく傾き、人々の経済活動は停滞し、国民の不満も高まったからです。そのような状況のなかで、1917年にロシア革命が起こり、1918年にニコライ2世は処刑されてしまいます11

 ところが、意外なことに、ソヴィエト連邦(ソ連)の誕生後しばらくのあいだウォッカ販売禁止令は廃止されませんでした。それどころか、レーニンは、「泥酔をくりかえす者はソ連共産党入党を認めない」と主張し、飲酒に対する厳しい態度をとり続けました。おそらくそれほどまでにロシア人のアルコール問題は深刻であったのでしょう。ウォッカ販売禁止令の廃止は、レーニンの死の翌年、スターリンが権力を手中におさめる1925年まで待たねばなりませんでした。

 しかし、それから60年の歳月を経て、ソ連は再びアルコール規制に乗り出します。1985年3月に書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカ(構造改革)とグラスノスチ(情報公開)という大胆な政策ともに、「節酒令」を発布し、国家規模の反アルコール・キャンペーンを展開したのです。その背景には、二日酔いによる欠勤や生産性の低下が社会問題化していたことが挙げられます。具体的には、国内のアルコール飲料製造工場の多くを閉鎖して、アルコール飲料の生産量をそれまでの半分に抑えること、また、アルコール飲料販売店の数も減らすとともに、ウォッカの価格を大幅に引き上げ、その販売と摂取を午後2時以降とすること、さらに、街中で泥酔している者や二日酔いで欠勤した者を逮捕して罰金を科すこと……などでした。

 その成果はといえば、まさに「歴史はくりかえす」でした。なるほど、国民全体のアルコール消費量が減少したばかりか、自殺者も減少するなど、公衆衛生的にはみるべき成果はありました。しかし、酒の密売が横行して政府への信頼が失墜し、国民の不満が高まりました。そうした一連の出来事は、確実にソ連解体の遠因になったといわれています4

スウェーデン

 20世紀に入り、スウェーデンでも禁酒運動が広がり、1920年から「割り当て配給制」(後述)が施行され、ついに1922年には、禁酒法制定に関する国民投票が行われるところまで、禁酒の気運が高まりました。結果は、賛成49%、反対51%という僅差で禁酒法不成立となりましたが、「割り当て配給制」は変わらず継続されました12。この制度は、飲酒と自己決定の自由を尊重しつつも、アルコールが引き起こす弊害を低く抑えることを目的としていました。

 この制度では、21歳以上のすべての国民に「予防手帳」なるものが配布され、アルコール飲料購入時にはこの手帳の提示が義務づけられました。販売店の店員は、客が購入したアルコール飲料の種類――ワイン、ビール、アクアヴィット(ジャガイモから作った蒸留酒)など――と量を手帳に記入し、同時に、店の台帳にも購入者の名前と日付・時刻、購入したアルコール飲料の種類と量を記録するのです。

 蒸留酒に関しては、月ごとに飲酒量の上限が定められていました。当初、既婚の成人男性は、1ヶ月に最大4Lのアクアヴィットを購入することが認められていましたが、1941年にはこれが3Lに減らされました。独身男性や独身女性の場合には、アルコール飲料の割当て量はさらに少なく、既婚女性に至っては手帳を持つ権利が認められておらず、配偶者への割り当て分から自分の分を捻出しなければなりませんでした(既婚男性への割り当て分が多かったのは、それが個人分ではなく世帯分としての意味があったのでしょう)。また、販売者には、泥酔者や頻回購入者への販売を拒否する権限があり、実際、地域で悪名高い常習泥酔者やアルコール依存症の治療歴がある者にはアルコール飲料をいっさい売らないこともあったようです。

 この制度、部分的には好ましい効果はありました。というのも、少なくとも1940年代までは、国内のアクアヴィット消費量は年々減少していったからです。しかし、1950年代に入ると、アルコール消費量は再び増加へと転じました。さらにそれに伴って、この制度に対する批判的な声が噴出するようになりました。それは、酒類販売者の権限が大きくなりすぎ、地域に警察体制にも似た監視システムができあがってしまったことへの不満でした。

 その後、1955年の法改正で、スウェーデン政府は配給制と予防手帳を廃止しました。その代わりに、アルコール専売制度を導入し、アルコール度数に応じた課税という巧みな価格戦略を駆使して、健康リスクの高いアルコール飲料の消費をコントロールする方針を採用したのです。その結果、アルコール度数が比較的低いビールやワインが購入しやすくなる一方で、アクアヴィットなどの蒸留酒は手が届きにくいものとなりました。

 その他にも、表1に示したような、米国やわが国と比べても厳しい、販売時間・曜日の制限や広告規制が行われました12。そうした対策の結果、現在までのところ、国民の総アルコール消費量、あるいは、交通事故や肝硬変への罹患を低く抑えるのに成功しています。

表1 スウェーデン、米国、日本における基本的アルコール政策の比較

  スウェーデン アメリカ 日本
製造 免許制 免許制 免許制
販売 専売制 免許制 免許制
小売規制 時間・日・場所・店舗数  時間・場所・店舗数  店舗数(その後撤廃)
酒類購入可能年齢 飲酒店:18歳 21歳 20歳
    販売店:20歳    
酒 価 ビール かなり安い きわめて安い かなり安い
ワイン かなり安い きわめて安い 不明
蒸留酒 きわめて高い きわめて安い きわめて安い
酒 税 ビール かなり安い 不明 きわめて高い
ワイン 中くらい 不明 不明
蒸留酒 きわめて高い 不明 中くらい
広 告 国営テレビ 禁止 自主基準 自主基準
国営ラジオ 禁止 自主基準 規制なし
印刷物 禁止 自主基準 自主基準
消費量 6.86L 8.51L 7.38L
アルコール依存症 不明 7.7% 4.1%
死亡率 交通事故 5.84% 15.00% 7.38%
肝硬変 3.97% 7.47% 6.15%
口腔咽頭ガン 1.69% 2.00% 2.23%
禁酒家 11.3% 33.9% 13.5%

※消費量は15歳以上の国民1人当たりの年間飲酒量を純アルコールに換算したもの。アルコール依存症は成人男女における発症率。死亡率は、100,000人当たりの数字。中本新一: アメリカおよびスウェーデンのアルコール政策. 同志社政策科学研究 9 (1): 171-181,2007より表の一部を引用。

フィンランド

 スウェーデンと同じスカンジナビア半島の国、フィンランドでは、20世紀前半における禁酒法の失敗を経て、アルコール飲料の専売へと政策転換を図りました。その結果、フィンランドでは、アルコール度数4.7%以上のアルコール飲料(アルコール度数の高いストロング・ビールやワイン、ウォッカやウィスキーなどの蒸留酒、リキュール類など)に対しては、従来、高い課税がなされ、購入する際には国直営のアルコール飲料専売店に出向く必要がありました。専売店の開店時間は、金曜日以外の平日は9~18時、金曜日は9~20時、土曜日は9~18時と制限されており、日曜日にいたっては営業していません。

 こうした政府による専売や販売制限には、国内でアルコールに関連する健康問題や社会問題が深刻化した場合に、課税率や営業時間の変更などによって国民のアルコール消費を容易にコントロールできる、というメリットがあります。

 しかし、1994年のEU加盟を機に、これまでのようにアルコール飲料に法外な高い税を課すことが困難となり、他のEU諸国と同水準とする必要が生じました。また、これまで専売という形で政府が独占してきたアルコール市場の自由化を求める声も高まりました。最終的にフィンランド政府は、蒸留酒に関しては従来通りの課税率を維持しつつ、ビールとワインの課税率だけを大幅に引き下げるとともに、ワイン農家によるワインの小売販売を許可しました。また、これまで禁止されていた、公園やビーチといった戸外での飲酒も認められるようになったのです13

 この大胆な政策転換には、ある目論見がありました。それは、フィンランド国民の飲酒文化を変えるというものです。北欧諸国の人々のアルコール消費量は、地中海沿岸のヨーロッパ諸国と比べて決して多くはないものの、その飲酒文化は大きく異なります。フランスや地中海沿岸の国々では、平日に食事とともにワインを楽しむ傾向があります(「コンチネンタル飲酒文化」)。これに対して、北欧では、食事の際には飲酒しない人が多い一方で、週末にパーティなどで「ハイになる」ために蒸留酒を飲む傾向があります(「ビンジ飲酒文化」)14。一般に、コンチネンタル飲酒文化は肝疾患などの慢性中毒をもたらしやすく、他方で、ビンジ飲酒文化は急性中毒によって暴力事件や交通事故、そして自殺を多発させやすい傾向があります。そこで、フィンランド国民の飲酒文化を、「ビンジ」から「コンチネンタル」へと変えようとしたわけです。

 フィンランドの新しいアルコール政策はひとまず成功したといってよいでしょう。というのも、国内におけるビールとワインの消費量こそ増加したものの、蒸留酒の消費量は減少し続け、男性の自殺死亡率が減少したからです。このことは驚くにあたりません。世界中の多くの国において、男性の自殺死亡率は国内アルコール消費量とは正の相関をもって推移します。かつて自殺大国と呼ばれたフィンランドは、国を挙げての取り組みで自殺を3割も減少させ、国際的には自殺対策の見本とされていますが、アルコール政策の貢献は意外に見落とされています。

 ただ、その後、フィンランドのアルコール政策は次なる課題に直面しました。なるほど、「国民の飲酒文化を変える」という目的の遂行には成功しました。事実、1995年以降、高齢者を中心にビールとワインの国内消費量は確実に増加し続け、純アルコール消費量としてはかつてより増加したにもかかわらず、現在までのところフィンランドでは自殺率の上昇は見られていないからです。おそらく蒸留酒の消費量が抑えられているためでしょう。

 しかしその一方で、1998~2008年の10年で肝疾患による死者は倍増しているのです14。つまり、「コンチネンタル飲酒文化」は、これまでとは別の面でフィンランド国民の健康に害をなしているわけです。

 なぜアルコール規制はむずかしいのか

 今回は、20世紀以降に焦点を当てて、各国におけるアルコール規制の試みを振り返ってみました。しかし、これは全体のごく一部です。もっと小規模な形ではありますが、古来、多くの為政者がたびたび禁酒令を出しては、失敗に終わるか、さもなければ、うやむやのうちに反故にされてきた歴史があります。

 わが国とて例外ではありません。みなさんも、コロナ禍において政府が行った、飲食店でのアルコール飲料提供自粛の呼びかけを覚えているでしょう。その呼びかけは、口角泡飛ばして語らう酩酊者がコロナウイルスを拡散させる、という懸念に端を発しています。

 しかし、コロナ禍を脱したいま、あの「飲み会自粛」にいかほどの効果があったのか、いささか疑問ではあります。なるほど、当時、飲食店はどこも早々に閉店し、あるいは、閑散としていましたが、繁華街近くの公園周辺には、ストロング系の缶を片手に路上飲みする若者たちの群れがやたらと増えていました。それどころか、人々の不満は野焼きの火のようにじわじわと広がって、内閣支持率は着実に低下し、最終的には、首相が交代せざるを得ない事態へと至りました。

 そうなのです。アルコール規制は為政者の失脚を招きます。それは、人々は酩酊するのが大好きだからです。マーク・フォーサイズは、その著書11のなかで、「ヒトは酒を飲むようにできている」と、半ばやけくそのように言い放った後、こう続けています。「しばしば人々は『ドラッグに対する戦争』(War on Drug)を口にするが、これはばかげている。ドラッグはつねに存在し、ドラッグのあいだで戦争が行われているにすぎない。そしてこの戦争において、アルコールはほぼ確実に必ず勝利する」と。

 では、なぜ人はかくもアルコールを欲するのでしょうか? 次回はそのことについて考えてみたいと思います。

 

文献 

1. 横山裕一:人類-酒関係の歴史的変遷と飲酒の功罪の概念(1) 古代における考察――飲酒文化の萌芽とその拡大. 慶應保健研究39: 35-42, 2021.

2. 山下範久:教養としてのワインの世界史. 筑摩書房, 2018.

3. トム・スタンデージ著/新井崇嗣訳:歴史を変えた6つの飲物――ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラが語るもうひとつの世界史. 楽工社, 2017.

4. ブノワ・フランクバルム著/神田順子・村上尚子・田辺希久子訳:酔っぱらいが変えた世界史――アレクサンドロス大王からエリツィンまで. 原書房, 2021.

5. レスリー・ジェイコブズ・ソルモンソン著/井上廣美訳: ジンの歴史 (「食」の図書館). 原書房, 2018.

6. 宮崎正勝:知っておきたい「酒」の世界史. KADOKAWA, 2007.

7. Difford’s Guide: Gin.(https://www.diffordsguide.com/g/1108/gin/history-of-gin-1728-1794

8. THE COLLECTOR: What Was the Shocking London Gin Craze?(https://www.thecollector.com/london-gin-craze/

9. Levine, H.G.: The alcohol problem in America: from temperance to alcoholism. British Journal of Addiction, 79(4): 109-119, 1984.

10. カール・エリック・フィッシャー著/松本俊彦監訳:依存症と人類――われわれはアルコール・薬物と共存できるのか. みすず書房, 2023.

11. マーク・フォーサイズ著/篠儀直子訳: 酔っぱらいの歴史. 青土社, 2018.

12. 中本新一: アメリカおよびスウェーデンのアルコール政策. 同志社政策科学研究 9(1): 171-181, 2007.

13. Karlsson T. Ed. : Alcohol in Finland in the early 2000s: Consumption, harm and policy. National Institute for Health and Welfare, Finland, 2009.

14. Karlsson T, Mäkelä P, Österberg E, et al.: A new alcohol environment: Trends in alcohol consumption, harms and policy: Finland 1990–2010. Nordic Studies on Alcohol and Drugs, 27: 497-513, 2010.

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著者略歴

  1. 松本 俊彦

    精神科医。国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長/同センター病院 薬物依存症センター センター長。1993年佐賀医科大学卒。横浜市立大学医学部附属病院精神科、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所司法精神医学研究部、同研究所自殺予防総合対策センターなどを経て、2015年より現職。第7回 日本アルコール・アディクション医学会柳田知司賞、日本アルコール・アディクション医学会理事。著書に『自傷行為の理解と援助』(日本評論社 2009)、『もしも「死にたい」と言われたら』(中外医学社 2015)、『薬物依存症』(ちくま新書 2018)、『誰がために医師はいる』(第70回日本エッセイスト・クラブ賞、みすず書房 2021)他多数。訳書にターナー『自傷からの回復』(監修、みすず書房 2009)、カンツィアン他『人はなぜ依存症になるのか』(星和書店 2013)、フィッシャー『依存症と人類』(監訳、みすず書房 2023)他多数。

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