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松本俊彦 「身近な薬物のはなし」

第6回 カフェイン(2) 人類とカフェインの歴史

 【連載】松本俊彦「身近な薬物のはなし」(6)

 はじめに

 歴史学者川北稔の著書『砂糖の世界史』1の第5章扉絵には、17世紀に書かれた1枚の絵が挿入されています。その絵には、コーヒーカップを手にしたアラビア人、茶のカップを手にした中国人、そして、チョコレートのカップを手にしたアステカ人という3人の姿が描かれています(図1)。当時にヨーロッパで広まった3種類の飲み物を、それぞれの産地の人間として象徴的に表現しているのでしょう。

 

 

図1 コーヒー・茶・チョコレートそれぞれの産地を示す3人

 

 この3つの飲み物には2つの共通点があります。1つは、いずれもカフェインという精神作用物質を含有していること、そしてもう1つは、砂糖との相性が非常によく、それゆえにヨーロッパで人気を博することができた、ということです。

 近代以降のヨーロッパ社会は、ヨーロッパ以外の地域から伝来した、これらのカフェイン含有飲料を抜きに語ることはできません。コーヒーはエチオピアが原産であり、アラビア半島で宗教的儀式や医薬品として用いられた後、一部はエジプトを介して地中海経由で、しかし主にはトルコを介した陸路で、17世紀にヨーロッパに伝来しました。一方、茶は中国雲南省付近が原産地とされ、漢代以降、揚子江流域や江南に広まり、唐代には中国全域に日常の習慣として定着しました2。ヨーロッパへの伝来は、16 世紀後半にオランダ人が輸入したのが始まりとされています。それから、チョコレートの原材料カカオ豆は中南米が原産であり、スペインを通してヨーロッパに広がっていきました。

 ある精神作用物質との遭遇が、種族や民族、あるいは社会のありようを一気に変化させることがあります。たとえば、第4回で触れたように、アルコールとの遭遇が人類を定住生活に向かわせたように。私は、カフェインもまたヨーロッパに「近代」をもたらしたと考えています。

 今回は、人類とカフェインの歴史について、最もカフェイン含有量が多い飲み物、コーヒーを中心に考えてみましょう。

カフェインの起源と人類との出会い

コーヒーノキの誕生と霊長類進化の分岐点

 コーヒーノキの故郷アフリカ大陸は、人類誕生の地でもあります。

 遺伝子学・微生物学研究者の旦部幸博によれば、ゴリラやチンパンジーといった私たちと共通の祖先が、進化の系統樹上でオランウータンと分岐した時期は、まさにコーヒーノキ属が地球上に出現した時期――1400万年前頃――と一致するそうです。

 その後、約700万年前の南アフリカで猿人が分岐し、さらにその仲間から約200万年前のタンザニアで「ヒト属(ホモ属)」、すなわち、現生人類の共通祖先が生まれました3

エチオピアにおける「脳の爆発」

 カフェインは、ヒトの進化に影響を与えた可能性があります。

 人類学における謎の1つとして、50万年前に起こったとされる「脳の爆発」があります。この頃、ヒトの脳は大脳を中心に容積が30%増大したことがわかっています。いうまでもなく、大脳は思考や洞察を司る、脳の最上位機能部位です。

 この「脳の爆発」は、言語発達による影響ではないかと考えられています。確かに言語を用いるには多くの思考が必要であり、それに伴って脳も大型化する必要があります。その結果、以前には思考することのなかった抽象的な概念――たとえば、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリのいう「虚構」5――を想像し、それを仲間と共有したり、あるいは、環境を自分たちの生活にあわせて改変したりすることが可能となったのでしょう。

 アントニー・ワイルドは、私たちの祖先がアフリカ大陸中部からヨーロッパへと北上する際、エチオピア付近を通過したことに注目し、その高原の森林に増殖していた野生のコーヒーが「脳の爆発」を促進した可能性を想定しています。つまり、創世記で語られる「禁断の果実」――人類に自意識を芽生えさせた知恵の実――とは、コーヒーの実のことではないか、というわけです。

 もちろん、真偽は不明です。さすがにカフェインの直接的な影響で脳が大きくなるなんてことはないでしょうが、その薬理作用によって思考や議論が活発化した結果、二次的に人類の脳容積が増大した、といった間接的な影響ならば、確かにあり得なくもない話です。

 いずれにしても、人類の創世期よりエチオピア高原にコーヒーノキが野生し、それを早くから活用してた種族がいたのは確かです。事実、エチオピアのオロモ族は、すでに5000年以上も前から、戦争に赴く際にはコーヒーを用いた保存食を携行していたといわれています。それは、煎って潰したコーヒー豆を動物の脂(バター)と混ぜて大きな団子に丸めたもので、カフェインの興奮作用とバターの高いカロリーを備えた、いわば「エナジーボール」ともいうべきものでした3

山羊飼いカルディの伝説

 以上の話は、いずれも遺跡からの発掘品にもとづく断片的な推測にすぎません。伝説や民間伝承を含め、人類とコーヒーとのかかわりの歴史がはじまるのは、それよりもはるかに後、紀元9世紀頃からとなります。

 有名なのはカルディの伝説です。その伝説を、ウィリアム・H・ユーカースが1922年に刊行した著書『ALL ABOUT COFFEE』6からご紹介しましょう。

 9世紀半ば、カルディという名前のエチオピアに住む山羊飼いは、あるとき、夜になっても山羊が眠らずに興奮して跳ねまわる光景を見て、不思議に思いました。それで、山羊たちの行動を仔細に観察したところ、草と一緒に赤い実を食べているのがわかったのです。

 カルディは修道院長にコーヒーの実を紹介したところ、最初のうち、修道院長は、それを邪悪なものとして警戒しました。しかし、コーヒーの実の煮出し汁を飲むと頭がすっきりし、修道僧たちが夜通し礼拝を続けられることを知るや、態度を一変させ、以後、夜の礼拝において積極的にこれを飲むよう推奨するようになったそうです。

生理的欲求に抗う飲み物

 記録に残っているかぎりでは、エチオピア原産のコーヒーは、いつしか紅海を挟んで向かいの国イエメンに渡り、15世紀にはイスラム教神秘主義者の一派スーフィー教団の僧侶たちによって有用性を見いだされていたようです。コーヒーの効果は、食欲や睡眠欲といった生理的欲求に抗う不自然なものでしたが、そこがまさに彼らの価値観に合致していました。

 スーフィー教団は禁欲的で厳しい修行を行うことで知られており、特に、夜を徹して一心不乱に祈祷句を読み上げる儀式を重視していました。そして、その儀式の際に、眠気覚ましとしてコーヒーが飲まれるようになったのです。

 スーフィー教団の習慣は、15世紀にはアラビア半島全域で広まり、主に医薬品として用いられました。その後、16世紀にはカイロやメッカ、イスタンブールで嗜好品として人気を博した後、17世紀になってようやくヨーロッパに伝来します。

 興味深いのは、ヨーロッパにおいて最初にコーヒーを歓迎した人々もまた、スーフィー教団と同様、「何かを一心不乱に追求する人たち」であったことです。実際、1650年、英国で最初にコーヒーハウスがオープンした場所は、大学街オックスフォードでした。

 当初、このコーヒーハウスは物議を醸しました。コーヒーがオックスフォードの学生のあいだで人気を集めると、大学上層部はその取り締まりを試みたのです。理由は、「コーヒーハウスは怠け癖を助長し、研究の妨げになる」との懸念からです3

 しかし、それは杞憂どころか、完全な見当違いというべきでした。というのも、コーヒーハウスには、科学――当時は「自然哲学」と呼ばれていました――に関心のある人々が集まり、学術的討論の場として人気を博したからです。つまり、コーヒーは知的活動を妨げるどころか、むしろこれを促進したのです。

 実際、コーヒーハウスは「ペニー大学」とも呼ばれ、コーヒー1杯分の代金である1ペニー少々を払えば、誰でも店に入って議論に参加できました。トム・スタンテージは、当時の次のような詩の一節を紹介しています。「こんなに素晴らしい大学はどこにもないと思う。1ペニー払うだけで、だれでも学者になれるのだから」

 こうしたコーヒーハウスの科学愛好家グループのメンバーには、かのアイザック・ニュートンやロバート・フックもいて、後に英国の科学者集団「王立学会」へと発展していきました。

第2の脳の爆発

 カフェイン伝来後、コーヒーハウスを震源地としてヨーロッパ「近代」は加速し、社会はあたかも「第2の脳の爆発」ともいうべき変化を遂げていきます。それは、ワイルドのいう「脳の爆発」が、人類の脳容積拡大というハード面の進化であったとすれば、17世紀以降のヨーロッパで生じた「第2の脳の爆発」は、思想的大転換というソフト面の進化でした。

 具体的に見ていきましょう。

 英国では、オックスフォードでのコーヒーハウス開店から2年後、アルメニア人パスクァ・ロゼがロンドンのシティでコーヒーハウス「ロゼの店」をオープンしました。すると、またたく間に人気の店となり、異例の賑わいを見せました。

 注目すべきなのは、こうしたコーヒーショップが提供していたのは、単にコーヒーだけではなかった、ということです。そのことは、その後、続々開店したコーヒーショップの宣伝ビラに記された、「コーヒーハウス利用規則」からも一目瞭然でした。曰く、「身分にかかわらず誰でも歓迎」「他人を口汚い言葉で罵ったりしない」「賭博は禁止」「大声での議論を慎み、静かに語り合うべし」……。

 つまり、店は客に対して紳士的なマナーを求め、禁欲的な男たちが心地よく過ごせる居場所作りを目指し、居酒屋とは異なる新しい価値観、新しい社交のあり方を提案したわけです。これが大当たりしました。コーヒーハウスは街に欠かせない存在となり、ロンドンには相次いで多数のコーヒーハウスが開店していったのです。

 当時、英国は激動の時代でした。1640年のピューリタン革命からはじまったクロムウェルの独裁、その後の王政復古、さらには1688年の名誉革命による議会政治の確立と、国内では大きな政治的事件が立て続いていました。当然ながら、ウエストミンスター議会場近くのコーヒーハウスには人々が集まって政治談義を活発に行い、そうした議論から当時の2大政党、トーリーとホイッグが生まれています

 また、王立取引所のあるシティにオープンしたコーヒーハウスでは、店内で船舶の競売が行われたり、スペインから輸入されたタバコが販売されたりと、経済取引の場を兼ねるようになりました。なかでも歴史に名を残しているのは、1688年にオープンした「ロイズ・コーヒーハウス」です。この店の主要な客層は、商人、あるいは、貿易船の船長や船主といった人たちでした。次第に店内では海運情報が飛び交うようになり、そうした議論はやがてロイズ海上保険組合の誕生へと結実しました。証券や株の売買も行われていました

 要するに、英国の民主主義と資本主義は、コーヒーハウスで育まれたのです。

 一方、フランスでは、英国から遅れること約20年、1672年にパリで最初のコーヒーハウス(=カフェ)がオープンしています。フランスにおいても顧客の中心は知識人でしたが、その属性は英国とは少し異なり、店がはたす機能も違っていました。端的にいえば、ロンドンのコーヒーハウスが民主主義と資本主義の中心地であったのに対し、パリのコーヒーハウスは革命と扇動の震源地となったのです。

 革命期、ルーブル宮殿の北にあるパレ・ロワイヤル広場周辺にはカフェが建ち並び、思想家やジャーナリストたちがコーヒーを飲みながら政治を議論していました。なかでもカフェ・プロコープは、フランス革命決起の密談場所として有名です。そこに集まった人々は、漆黒の飲み物の奥をじっと覗き込みながら意識を研ぎ澄まし、決起のときをうかがっていたことになります。

 そして、ついに1789年7月12日がやってきます。カフェ・プロコープの常連客カミーユ・デムーランは、改革派の財務長官ジャック・ネッケル解任の報に接するや、パレ・ロワイヤル広場に飛び出し、有名な「武器を取れ!」という演説を行ったのです。これに呼応した民衆の暴動はパリ全市に拡大し、7月14日には革命の幕開けとなるバスティーユ監獄の襲撃へと至ります。

 その後も、マラーやダントン、ロベスピエールら、王制打倒を叫ぶ「ジャコバン派」の急進改革派たちも、パレ・ロワイヤルのコーヒーハウスで密議を重ねたといわれています。

 パリのカフェは啓蒙思想の発信地でもありました。たとえば、カフェ・ド・パルナスとカフェ・プロコープの常連客には、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールといった錚々たる面々がそろっていました。これに芸術家たちも加わり、それ以降、現代まで続くパリならではの「カフェ文化」が花開くことになります

なぜコーヒーはかくも激しくヨーロッパを変えたのか

 コーヒーによる社会の変化は、イスラムにおいてよりもヨーロッパにおいて顕著でした。もちろん、イスラム社会でも多くのコーヒーハウスが開かれ、社交の場として人気を集めましたが、社会を大きく変えるほどの影響という点では、ヨーロッパにはおよびませんでした。

 なぜでしょうか? 

 思うに、ヨーロッパの人々はそれまであまりにも酒浸りすぎでした。教義上飲酒習慣のなかったイスラムの人々に比べると、アルコールで日がな一日朦朧としていたヨーロッパ人の脳には、カフェインという中枢神経興奮薬が持つ、アルコールとはまるきり正反対の薬理作用はあまりにも顕著かつ強烈に感じられたにちがいありません。

 事実、コーヒーや茶などの非アルコール飲料がヨーロッパに入る以前、17世紀の平均的な家庭では、老若男女はもちろん幼児も含めて、1人平均1日に3Lのビールを消費していたといわれています10。もちろん、これはあくまでも消費量であって、単に飲むだけではなく、スープや漬物を作るのに用いた分も含まれています。この頃、ビールやワインは、水よりも清潔な飲用水として生活必需品であり(一方、蒸留酒は「酔う」ためのドラッグでした)、階級に関係なく、朝からビールやワインを飲むのがあたりまえでした。

 だからこそ、ヨーロッパの人々はしらふであることのありがたみを痛感していたはずです。なにしろ、当時は「謹厳なる(ソーバー: 「しらふ」の意もあり)ピューリタン」の時世です。コーヒーは、煮沸され、抗菌作用を持つカフェインも含まれる、きわめて清潔な飲料です。しかも、酩酊しないばかりか、しらふ以上に意識を透徹させてくれるわけです。熱烈に歓迎されて当然でしょう。

 コーヒーはまた、人間の時間感覚に影響を与えた可能性もあります。マイケル・ポーランは、カフェインがヨーロッパの人々の時間感覚を変化させたと指摘しています11。というのも、コーヒーの伝来・普及と期を同じくして、時計の分針が誕生したからです。

 近代以前の人々、特に屋外で肉体労働をする人々にとっては、時計の針より太陽の傾きのほうが大事でした。少なくとも、それまでの時計に分針がなかったのは、そこまで細かく時間を分割する必要がなかったからです。しかし、知的労働者は違います。おそらくカフェインは人間1人が1日にこなす仕事量、いや、1時間にこなす仕事量を大きく増大させたことでしょう。 

カフェインに対する社会の反応

イスラム社会におけるカフェイン弾圧

 ここまでカフェインを含有するコーヒーがいかに人々から熱狂的に迎えられ、社会に肯定的な変化をもたらしてきたのかを述べてきました。しかし、あらゆる新奇な舶来薬物の例に漏れず、コーヒーもまた批判や非難に曝され、販売者や使用者が逮捕・弾圧されています。

 コーヒーがイスラム社会に広まった際、最初に問題となったのはイスラム経の教義との整合性でした。宗教家のあいだでは、コーヒーの覚醒的陶酔効果を、イスラム教が禁じる「酔い」という点でアルコールと同種のものではないかといった、今日の薬理学的知見からすれば明らかに見当外れの批判があったのです。

 まもなくこの議論は決着がつきましたが、今度は、医師たちがコーヒーの害に関して警鐘を鳴らしました。コーヒーが引き起こす不眠や食欲減退、利尿作用を「健康被害」と捉え、その危険性を唱え出したのです。しかし、こうした健康被害に関する真偽不明の噂は、コーヒー愛好家が増えるにつれて雲散霧消していきました。

 最後まで反対していたのは、為政者や官吏でした。彼らは、コーヒーハウスという場に不安を感じていました。というのも、コーヒーハウスにおいて、人々はあまりにも自由闊達かつ饒舌に会話に興じていたため、そこから何らかの体制批判的意見が生起するのを怖れたからです12

 イスラム社会における最初の大きな弾圧は、1511年、メッカにおいて行われました。マムルーク朝トルコの官吏が販売者からコーヒーを押収し、コーヒー豆をすべて焼却するとともに、販売者を鞭打ちの刑に処しました。ところが、なんとその数ヶ月後には、上級当局がその裁定を覆し、コーヒーの飲用・販売を許容したのです13。こうした朝令暮改的な対応は、王朝がオスマン朝に代わった後もくりかえされました3

 まず、1517年にオスマン皇帝セリム1世はコーヒーを解禁し、コーヒーの健康被害を根拠に禁止を指示した医師2名を腰斬処刑しました。しかし1526年には皇帝スレイマン1世が再びコーヒーを禁止し、1535年には当局の軍隊によってコーヒーハウスを襲撃させ、1539年にはコーヒーハウスに集まっていた客を片っ端から逮捕しています。その結果、地下コーヒーハウスが乱立する事態が引き起こされました。これに対して1544年に再度のコーヒー禁止令を通知しましたが、翌日にはそれを撤回しています。

 さらに皇帝ムラト4世は、1633年に新たなコーヒー禁止令を出し、1回でもコーヒーを販売したり飲んだりしているところを見つかれば、逮捕即死刑としました。その後、1656年の改訂禁止令では、1回目は杖で叩かれるだけに緩和されたものの、2回目の逮捕では、違反者を革袋に入れてボスポラス海峡に放り込む、という残酷な処刑方法が採用されていました。

 しかし、こうした厳罰政策は人々にコーヒーを諦めさせる実効的な力はありませんでした。最終的にはオスマン朝はコーヒーを人々の嗜好品として許容せざるを得なくなり、むしろコーヒーを税収源とすることで解決を図ったのでした。

ヨーロッパ社会におけるカフェイン弾圧

 ヨーロッパにおいてもコーヒーに反対したのは、やはり聖職者、医師、為政者といった体制側・保守層の人々でした。

 コーヒーに疑念を抱く司祭たちは、コーヒーをサタンが作り出した飲み物であると決めつけました。彼らは、「サタンはその信奉者であるイスラム教徒にワインの飲用を禁じたので、代用としてコーヒーというおぞましい飲み物を与えた。キリスト教徒にとってコーヒーを飲むという行為は、魂を乗っ取ろうとするサタンの罠に自ら陥ることである」と主張し、ローマ教皇クレメンス8世にキリスト教徒のコーヒー飲用を禁じるように求めたのです6

 しかし、この論争はあっさり決着がついてしまいました。クレメンス8世は、ヴェネツィア商人が検品用に持参したコーヒーを味見するや、すぐさまその味と香りにすっかり魅了されてしまったからです。彼は、コーヒーをイスラム教徒だけに独占させるわけにはいかないと、キリスト教徒がコーヒーを飲むことを認めたのでした

 一方、医師たちは、当時、健康飲料として売り出されたコーヒーの効果に疑念を抱き、しぶとくその有害性を主張しました。おそらく医師たちは、自分たちの処方薬がコーヒーに取って代わられる不安を感じたのでしょう。コーヒーをめぐる医学的論議は熱気を帯びて、一般の人々をも巻き込んだ大論争となり、コーヒーの是非をめぐる様々なパンフレットが刊行されました。

 そうしたパンフレットのなかで有名なのは、1674年に英国で発行された、著者匿名の『コーヒー禁止を求める女性たちの請願書』です。冊子は、コーヒーが男性の生殖機能を低下させると主張し、かなりあけすけな表現で、日がな一日コーヒーハウスに入り浸る男たちを非難しています。

 「男たちのズボンがこれほど緩くなったことも、男たちの情熱がこれほど減ったことも、いまだかつてありません……コーヒーのせいで、男たちが出す液体といえば鼻水だけ、固くなるのは関節だけ、立つのは耳だけです」

 いうまでもないことですが、コーヒーが男性の生殖機能を障害する、という医学的事実はありません。

 さて、英国の為政者がコーヒーを警戒したのは、コーヒーの薬理作用ではなく、やはりコーヒーハウスという場に不信感を抱いたからでした。理由はオスマン朝トルコの場合と同じでした。ロンドンのコーヒーハウスでの会話は政治がテーマになることが多く、とくに1660年の王政復古以降、言論の自由を大いに利用して、人々が政府への怒りを爆発させていたからです。

 そこで、国王チャールズ2世はコーヒーハウスでひそかに陰謀が企まれるのを心配し、1675 年、コーヒーハウスの閉鎖に乗りだしました。しかし、チャールズ2世の対コーヒー戦争はわずか11日で断念せざるを得ませんでした。もはや王権をもってしても、コーヒー人気を抑えることはできなくなっていたのです。すでにコーヒーハウスは英国人の日常生活にすっかり定着し、名のあるロンドン市民の多くはカフェイン抜きでは暮らせなくなっていたからです。このため、人々ははなから国王の命令を無視し、平然とコーヒーを飲み続けたのです。

 チャールズ2世は、自分の権威をわざわざ試して情けない現実を突きつけられるのを恐れ、おとなしく引きさがる決断をしました。そして、「王族にふさわしい考慮をし、情けをかけるべきと判断して」などと弁解がましい理屈をつけて、「禁止宣言撤回」を布告したのでした11

カフェイン依存のヨーロッパ

 様々な批判や弾圧にもかかわらず、ヨーロッパ人の多くにとって、もはやコーヒーなしの生活など考えられなくなっていました。カフェイン依存はヨーロッパ全域を覆い尽くしていたのです。

 こうした、年々増大するコーヒー需要に応えることができた国は、当時の貿易大国オランダだけでした。それまで、ヨーロッパで消費されるコーヒーは、すべてイエメンの海岸都市モカの港から海路経由で供給される輸入品であり、コーヒー人気に調子づいたアラビア商人がやたらに価格をつり上げたため、その価格は年々高騰していました。ところが、17世紀末、オランダはみずからの植民地ジャワ、セイロンにおいてコーヒーノキの移植を成功させ、大量生産とコストダウンを実現したのです3。その結果、18世紀以降、ヨーロッパで消費されるコーヒーの多くがアムステルダムから供給されるようになりました。

 しかし逆にいえば、このことは、オランダ以外の国にとってコーヒーが完全な輸入品となったことを意味します。実際、ドイツでは、人々が自国産のビールではなく、輸入品のコーヒーばかり飲むようになった結果、貿易赤字が深刻化し、財政逼迫を招いていました3。その結果、プロイセン国王フリードリッヒ2世が、「ドイツ人はビールで育ったはずだ。コーヒーではなく、ビールを飲め」といった、逆ギレのような布告をする事態にも発展しました6

 このような情勢のなかで、ナポレオンのある決断が、ヨーロッパの人々に自身のカフェイン依存の事実を突きつけることとなります。

 ナポレオンは、1799年の軍事クーデターで実権を掌握すると、革命に乗じて侵略をしかけてきた周辺国に対して反攻に転じ、逆に、ヨーロッパ大陸部全体をその勢力下におさめていきました。残るはドーヴァー海峡を挟んで対峙する英国だけです。

 そこで彼は、1806年、ヨーロッパ大陸と英国の間を封鎖することで、英国の物資の輸出入を止める大陸封鎖令を発令します。これは、「世界の工場」と呼ばれていた英国を経済的に圧迫する目的によるものでした。しかし、大陸封鎖は、当時ヨーロッパ最大の貿易港アムステルダムに届いた輸入品を、ヨーロッパ大陸の人たちが享受できなくなることを意味します。その結果、ヨーロッパでは、植民地からの輸入品である砂糖とコーヒーが著しく不足する事態に直面しました。

 当然ながら、人々の不満が高まりました。こうした不満を鎮めるべく、ナポレオンは、輸入に頼らずにヨーロッパ独自の資源から砂糖やコーヒーを作り出す方策を求めて、科学研究を奨励しました。まもなく砂糖については、ヨーロッパ産のテンサイ(サトウダイコン)から作り出せるようになり、ただちに実用化されましたが、コーヒーはなかなか代替品が見つかりません。

 結局、大陸封鎖はヨーロッパ大陸全土に深刻なコーヒー不足をもたらし、フランスやドイツでも、人々はチコリや大麦から作った代用コーヒーに甘んじるほかなくなったのです。人々が満足できなかったのはいうまでもありません。というのも、コーヒーの覚醒作用の本体であるカフェインは、ヨーロッパに自生する植物には含まれておらず、そもそも代用不能だったからです。

 旦部によれば、その時代に生きていた哲学者カール・マルクスは、「大陸封鎖による砂糖とコーヒーの不足が、ドイツの人々をナポレオン打倒に駆り立てた」と書いているそうです3

コーヒーから茶へと切り替えた英国

 ところで、ヨーロッパでいち早くコーヒー文化が花開いた英国ですが、18世紀以降、そのコーヒー文化が急速に衰退し、かつてロンドン市内において軒を争っていたコーヒーハウスは次々に店じまいしていきました。その背景には、オランダとの貿易抗争における敗北が影響していました。オランダとは異なり、英国はコーヒーを産出できる植民地を所有していなかったため、英国内におけるコーヒーの供給が不安定となり、価格も高騰していたのです3

 しかしその一方で、英国東インド会社は中国との茶の交易を独占し、英国内の人々に茶を安価かつ大量に供給できるようになりました。その結果、人々のカフェイン摂取源はコーヒーから紅茶へと変化していくとともに、かつては知的労働者に限られていたカフェインの恩恵を、工場労働者も浴することができるようになったのです。

 茶の利点は、家庭でも簡単に淹れられることでした。当時の英国では、工場労働者は苛酷な都市生活を強いられていました。乏しい収入と狭い住居に暮らす彼らは、調理用燃料を購入する財力がなく、また、複雑な調理をするスペースも持ち合わせていませんでした。当然、パンを焼くこともできませんし、そもそも、労働者は時間に追われ、朝食を準備する余裕がありません。そんな彼らにとって、砂糖(カロリー源)を入れた茶(カフェイン)は実に便利な朝食だったのです。

 工場を経営する資本家にとっても、茶は労務管理上のメリットがありました。かつての労働者は、水分補給源として朝からビールを飲み、休憩時間にもビールを飲み、さらに週末にはジンを痛飲して、月曜日は二日酔いで欠勤――「セント・マンデー」と自虐的に表現されていました――といった行動パターンが常態化していました。ところが、紅茶の普及により欠勤や工場での事故が減少したのです。これは、勤勉をよしとする産業革命以降の価値観に合致していました。こうして、機械は水蒸気を、人間は茶を動力源として英国の工場を支えることとなります。

 コーヒー文化から茶文化への移行は、英国において独自の嗜好品文化を花開かせました。コーヒーハウスはティーガーデンへと置き換わり、コーヒーハウスから閉め出された女性たちを新たな顧客として吸収しました。また、多くの労働者が働く工場においても、昼食と夕食のあいだを埋める「ティーブレイク」の習慣が生まれ、これはやがて「アフターヌーン・ティー」と呼ばれるようになります。そしてこの時期、1日4食という英国人の食習慣が確立したのです。

 なお、この時代、英国内におけるアルコール消費量は著明に減少したばかりか、赤痢など水を媒介する伝染病も激減しています。これは、抗菌効果を持つ茶が広く普及したことによると考えられています14

米国の選択

 一方、米国はコーヒー文化を突き進みました。その最大の契機となったのは、何といってもあの「ボストン茶会事件」(1773年)です。当時、英国の植民地であった米国の人々は、かねてより本国からの重い徴税に強い不満を抱いていました。そのような折りに、東インド会社に茶の専売権を与える茶法が制定されたのです。これは、植民地人が茶の売買をすることを規制するものでした。ここで米国市民の怒りは一気に爆発し、ボストン港で東インド会社の茶を海に投げ捨てる、という事件が勃発します。続いて、茶の不買運動が起こり、ついには独立運動へと発展します。

 こうした経緯もあり、米国は建国時より「コーヒーこそ国民飲料」という態度を貫いてきました。実際、1776年7月4日に、植民地13州代表議会に採択された独立宣言を人々に向けて読み上げた場所も、ボストンのコーヒーハウスでした6

 以後、米国内のコーヒー消費量は着実に増加していきます。これには米国の港が、カリブ海地域産コーヒーの中継地として機能したこと、さらには、禁酒法施行によってコーヒー需要が増加してことも影響しています。その結果、1930年代末には、コーヒーは家庭で毎日飲むもの、それも朝食や昼食の食中飲料として定着し、工場においても、米国内のほとんどの企業が、勤務中のコーヒーブレイク時間を採用するようになりました13

 しかし、1950年代後半になると、米国内のコーヒー人気には翳りが見られるようになります。コカ・コーラなどのカフェイン入り清涼飲料が台頭してきたためです。コーヒーの巻き返しは、1970年代におけるシアトル系コーヒー(スターバックスなど)による「セカンド・ウェーブ」の勃興を待つ必要がありました15

カフェインが引き起こした悲劇

カフェインと戦争

 カフェインの覚醒・意欲増進作用は、知的活動を促し、議論を活発化させるだけにはとどまりません。運動機能を高め、さらには、人を好戦的にさせる効果もあります。

 実際、カフェインは戦争で活用されました。最も顕著な例は、米国の南北戦争(1860~65年)です。ご承知のように、この戦争は北軍の勝利で終わっていますが、北軍勝利にはカフェインが大いに貢献した、といわれています。歴史学者ジョナサン・モリスによれば、南北戦争時、北軍は大量のコーヒーを確保するとともに、南部沿いの沿岸を封鎖することで、南軍側の州にコーヒーが運ばれないようにしたそうです15。そして、北軍の将軍たちは、戦闘前には必ず部下の兵士たちにたっぷりコーヒーを飲ませました。実際、前線の兵士にコーヒーを給仕してまわると、指揮官から見ると、「新しい連隊を戦闘に投入したかのごとく」15士気が上がったそうです。

 それ以降、戦争のたびにコーヒーの需要は高まりました。米国におけるコーヒー消費量が最大となったのは第二次世界大戦中です。当時、米国民1人あたりの年間コーヒー消費量は174Lに達したといわれ、当時、兵士は一般国民に比べて1.5~2倍の量のコーヒーを飲んでいました15

 ちなみに、こうした、中枢神経興奮薬による戦闘力強化は、その後いっそう過激化していきます。その最たるものが覚醒剤の使用です。第二次世界大戦中、日本やドイツが軍需品として覚醒剤を用いていたことはあまりにも有名です。当時、特攻隊員は出撃前にヒロポン(メタンフェタミン)を注射したことはよく知られていますが、軍需工場で、戦地に送るための覚醒剤入りチョコレートの包装作業をした、という勤労奉仕する女学生の証言も伝えられています。ナチスドイツでも覚醒剤の軍用使用は常態化しており16、そもそも、ヒトラーからして覚醒剤のヘビーユーザーでした17。近年では、湾岸戦争の際にも米軍兵が覚醒剤を使用しています16

 カフェイン争奪が戦争勃発の原因となったこともありました。19 世紀後半、ドイツはようやく世界列強の仲間入りをはたしましたが、ヨーロッパ諸国のなかで、ドイツだけが植民地のない「もたざる国」でした。当然、コーヒーはもっぱら他国からの輸入に依存し、国際情勢に左右されて入手困難な状況に陥っていました。それにもかかわらず、すでにドイツの人々はもはやコーヒーなしでは生活できない身体になっていたのです。前出のマルクスの言葉にもあるとおり、普仏戦争は、「代用コーヒー」を卒業したい、というドイツ人の思いに突き動かされたものといわれています

 それから、コーヒーの話ではありませんが、他にも国民のカフェイン渇望が戦争の遠因となった例があります。アヘン戦争です。英国内での茶の需要の異様な高まり、そして、それに伴って増大し続ける対中国貿易赤字が英国の暴挙を促しました。つまり、嫌がる中国に対して無理矢理アヘンを売りつけ、「茶の購入代金をアヘンで支払う」という非人道的な三角貿易です。

 アヘン戦争というと、麻薬の怖さを印象づけるべく、薬物乱用防止教室などでやたらと言及されていますが、正しくは、カフェインの恐ろしさを実感させる戦争というべきでしょう。

カフェインと大虐殺

 ドイツ文学者の臼井隆一郎は、カフェインは大虐殺にも悪用されたと指摘しています18

 すでに触れたドイツ人の「本物のコーヒー」に対する強い欲求は、第二次世界大戦中のナチスドイツ政権下で利用されました。アウシュヴィッツの強制収容所において、生きた人間を大量かつ円滑に「ガス処理」すべく、「コーヒー」という言葉が利用されたのです。

 ナチス側にしてみれば、多数の被収容者をガス室に送り込む際、誰かが異変に気づいて暴動を起こしたりすると、きわめて厄介な事態となります。そこで、所長ルドルフ・ヘスは部下に、被収容者にこう伝えるよう命じたそうです。

 「これからシャワー室に入る。シャワーが終わったら、コーヒーを出す」

 もちろん、強制収容所に本物のコーヒーなどあるはずはありません。しかし、本当にコーヒーが用意されているように見せかけるために、収容所の外に炊事用車両を停車させる、という周到な演出までなされていたのです。当然、コーヒーという言葉を聞いた被収容者たちは、それぞれかつての平穏な生活を思い出し、郷愁の念に心を揺さぶられたことでしょう。そして事実、シャワー後のコーヒーを期待しながら、暴動を起こすことなく整然と、シャワー室ならぬガス室へと入っていったのです。

カフェインと支配・搾取

 このあたりで、本稿冒頭で引用した、川北稔著『砂糖の世界史』1の第5章の扉絵――コーヒーと茶とチョコレートのカップを手にした、アラビア人、中国人、アステカ人――の地点に戻ります。

 欧米においてこれらのカフェイン含有飲料が爆発的人気を博したのは、いうまでもなく砂糖が添加されたおかげです。そして、コーヒー、茶、チョコレート、砂糖を欧米諸国に供給してきたのは、ヨーロッパの帝国主義国家に侵略され、支配下に置かれた植民地でした。

 近代以降、人類がカフェインから受けてきた恩恵は、いずれも理不尽な暴力と犠牲を抜きに語ることはできません。なぜなら、その依存性薬物の供給は、植民地での搾取によって維持されてきたからです。そうした国のなかには、独立した現在でもかつてのモノカルチャー経済の後遺症を引きずっていて、産業は低迷し、高い失業率と貧困に喘いでいる国が少なくありません。

 さらにいえば、現在、コカインやヘロインといった違法薬物を密造している国の多くもまた、かつての植民地国家です。そして、密造された違法薬物の多くは、かつての帝国主義国家である欧米諸国で消費されています。要するに、カフェインも違法薬物も、その生産と消費の構造は何も変わっていないのです。

おわりに 

 今回、コーヒーの歴史を振り返って改めて実感するのは、その普及・拡散の異様な速さです。イスタンブールでもロンドンでもパリでも、ごく短期間のうちにコーヒーハウスが乱立し、またたく間に人々をカフェイン抜きでは生活できない身体にしています。そして驚くべきことに、人々の嗜好は度重なる禁止令や弾圧にも屈することがありませんでした。

 もちろん、すでに第3回でアルコールを例に取り上げ、その規制のむずかしさを確認済みではありますが、とはいえ、カフェインはアルコールとは違います。カフェインは人類にとってつきあいの歴史が非常に浅い薬物なのです。それにもかかわらず、イスラムでもヨーロッパでも禁止や弾圧に失敗しています。これほど短期間に人類に浸透し、なおかつこれほど強靱な規制抵抗性を持つ依存性薬物は、古今東西、見たことも聞いたこともありません。この事実は、カフェインがいかに強力な依存性薬物であるかを物語るものといえるでしょう。

 しかし同時に、薬理学的依存性だけでは、コーヒーが持つ拡散の速さや規制抵抗性を十分に説明できないようにも思うのです。

 ここで思い起こすべきなのは、コーヒーハウスという場が持っていた機能です。

 思えば、イスラムでもヨーロッパでも、コーヒーハウスはかつてなかった独特の社交場でした15。たとえば、オスマン朝トルコ時代のコーヒーハウスには、壁に沿って非常に長い椅子が置かれ、階層にかかわらず、人々は入店順に長椅子の空いたスペースに腰掛けました。つまり、人々は一杯のコーヒーを買うだけで、対等な立場で歓談することができたのです。このことは英国でも同様でした。英国のコーヒーハウスの店内には長いテーブルが置かれ、階層を問わず誰もが同じテーブルに着くようになっていました。そのテーブルを挟んで人々は忌憚なく政治や思想を論じあい、船旅で見聞した海外事情に耳を傾け、あるいは、商談を進めたのです。

 こういいかえてもよいでしょう。コーヒーハウスは、ちょうど古代ギリシアや古代ローマの「広場」(アゴラ、もしくはフォルム)と同じ機能を持つ、一種の公共空間だったのだ、と。

 おそらく当時の人々は、家や仕事場以外で「しらふで集える場所」を、それも、「初対面の人と対等に出会える場所」を切望していたのでしょう。とりわけヨーロッパは革命や議会政治勃興の季節でした。そうした時代の気運もあって、人々は集うことを求めていたのではないでしょうか? 

 社会学者のエリック・クリネンバーグは、コミュニティのなかに人々が集える場所があることは、人々の孤立を防ぐばかりか、災害死や麻薬の過量摂取による死亡を防ぐなど、公衆衛生上のメリットが大きい、と指摘していますが19、初期のコーヒーハウスにはそれと同じ機能があったように思うのです。

 ここに1つの学びがあります。依存性薬物の乱用エピデミックは、単に物質の薬理作用だけによって引き起こされるものではなく、必ずや社会や時代の要請という側面がある、ということです。その意味では、薬物問題を善悪といった単純な価値基準で断じるなど、到底できるものではない、といえるでしょう。

 

文献 

1. 川北稔:砂糖の世界史.岩波ジュニア新書,1996.

2. 梶田昭:医学の歴史.講談社学術文庫,2003.

3. 旦部幸博:珈琲の世界史.講談社現代新書,2017.

4. アントニー・ワイルド著/三角和代訳:コーヒーの真実――世界中を虜にした嗜好品の歴史と現在.白揚社,2011.

5. ユヴァル・ノア・ハラリ著/柴田裕之訳:サピエンス全史(上)――文明の構造と人類の幸福.河出書房新社,2016.

6. ウィリアム・H・ユーカース著/山内秀文訳:ALL ABOUT COFFEE コーヒーのすべて.角川ソフィア文庫,2017.

7. トム・スタンデージ著/新井崇嗣訳:歴史を変えた6つの飲物――ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラが語る もうひとつの世界史.楽工社,2017.

8. 岩切正介:男たちの仕事場――近代ロンドンのコーヒーハウス法政大学出版局.2009.

9. 臼井隆一郎:コーヒーが廻り 世界史が廻る――近代市民社会の黒い血液.中公新書,1992.

10. マッシモ・モンタナーリ著/山辺規子・城戸照子訳:ヨーロッパの食文化.平凡社,1999.

11. マイケル・ポーラン著/宮﨑真紀訳:意識をゆさぶる植物――アヘン・カフェイン・メスカリンの可能性.亜紀書房,2023.

12. ラルフ・S・ハトックス著/斎藤富美子・田村愛理訳:コーヒーとコーヒーハウス――中世中東における社交飲料の起源.同文館,1993.

13. マーク・ペンダーグラスト著/樋口幸子訳:コーヒーの歴史.河出書房新社,2002.

14. 角山栄:茶の世界史 改版――緑茶の文化と紅茶の社会.中公新書,2017.

15. ジョナサン・モリス著/龍和子訳:コーヒーの歴史.原書房,2019.

16. 園田 寿:戦争と覚醒剤の歴史を振り返る ナチスから湾岸戦争まで…自衛隊法も例外を認めていた.Asahi Shinbun GLOBE+.https://globe.asahi.com/article/14980788

17. ナシア・ガミー著/山岸洋・村井俊哉訳:一流の狂気――心の病がリーダーを強くする.日本評論社,2016.

18. 臼井隆一郎:朝コーヒーを飲む普通の生活の世界政治――20世紀ドイツ文学の視座から.嗜好品文化研究,2018(3),2018.

19. エリック・クリネンバーグ著/藤原朝子訳:集まる場所が必要だ――孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学.英治出版,2021.

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著者略歴

  1. 松本 俊彦

    精神科医。国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長/同センター病院 薬物依存症センター センター長。1993年佐賀医科大学卒。横浜市立大学医学部附属病院精神科、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所司法精神医学研究部、同研究所自殺予防総合対策センターなどを経て、2015年より現職。第7回 日本アルコール・アディクション医学会柳田知司賞、日本アルコール・アディクション医学会理事。著書に『自傷行為の理解と援助』(日本評論社 2009)、『もしも「死にたい」と言われたら』(中外医学社 2015)、『薬物依存症』(ちくま新書 2018)、『誰がために医師はいる』(第70回日本エッセイスト・クラブ賞、みすず書房 2021)他多数。訳書にターナー『自傷からの回復』(監修、みすず書房 2009)、カンツィアン他『人はなぜ依存症になるのか』(星和書店 2013)、フィッシャー『依存症と人類』(監訳、みすず書房 2023)他多数。

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