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思想の言葉:世俗にまみれ、世界にまぎれる 小笠原博毅【『思想』2024年6月号】

◇目次◇

思想の言葉 小笠原博毅

支配の基礎構造について
デヴィッド・グレーバー/芳賀達彦+高橋侑里 訳

民族を超越した視点からみた「ウクライナ問題」
ボードアン・ド・クルトネ/桑野隆 訳

機械翻訳とともに生きることを学んで
ホイト・ロング/秋草俊一郎 訳

フロイトの欲望とその解釈
──フェレンツィ・リトル・ラカン
工藤顕太

概念史,認識論的歴史,日本の近代化
──世界の近代化と前近代世界の概念体系(1):問題の枠組
彌永信美

思考中華民国・序論
──原点から出発する思考(下)
楊儒賓/丸川哲史 訳

〈連続討議〉戦争責任・戦後責任論の課題と可能性(下)
宇田川幸大・内海愛子・金ヨンロン・芝健介

 
◇思想の言葉◇

世俗にまみれ、世界にまぎれる

小笠原博毅

  拝啓、スチュアート・ホール。あなたがこの世から去り一〇年経ちますが、世界はまだまだ植民者的侵略にあふれ、コンヴィヴィアルではありません。私があなたを直接知ったときは、あなたはオープン・ユニバーシティを退職する直前で、自宅のキッチンに寄せては返すように訪れる「教え子」たちを招き入れ、論文構想や研究報告を熱心に聴いていました。その波に私が加わったのは二〇代の後半でした。

 「新左翼の巨人」、「一番ヒップなやつ」、「マルクス主義のドリアン・グレイ」、「多文化主義のゴッドファーザー」。マイノリティの権利を文化を通じて回復することがカルチュラル・スタディーズだと称賛と揶揄と皮肉とともに誤読され続けるなかで、私はカルチュラル・スタディーズは終わったと書いたことがあります。学び捨てたような振りをすることで、あなたの思考や方法論に何か新しいアクセントをつけられるのではないかと思ったからです。そして今、「教師の仕事は、根源的に聴くこと」だと繰り返していたあなたの声を思い起こすと、茶目っ気たっぷりの言い草を下支えする引力あるベース音が聞き取れます。それは一見軽やかで華やかな当世流の(八〇年代ならばポスト構造主義的な)言葉遣いでも、その使い方には一癖も二癖も込められていて、その癖を読み取らなければあなたが言いたいことを本当に理解するのが難しいのと同じような気がします。

 たとえばアイデンティティ。もう一つのキャッチ・ワードであるディアスポラとともに、頻出するほどに理解が遠のく、そんな言葉です。アイデンティティの政治ではなくアイデンティフィケーションにおいて政治が生成されていることが重要なんだとそこかしこで主張していたにもかかわらず、あなたをフォローしていると自認する人々の多くによって、属性や資格付けによって文化を担う解釈共同体が形成され、それらがそれぞれのアイデンティティをぶつけ合っている、そんな様相を記述するのがカルチュラル・スタディーズだということにされてしまいました。アイデンティティとは表層に現れるマーカーです。しかしそれがいつの間にか、主体が所有する財産であるかのように語られ始めました。まるでロマン主義です。「~の」思想、「~の」哲学。

 「スチュアート・ホールの思想」。二〇〇四年に西インド大学モナ校で開催されたあなたの業績を回顧する大きなシンポジウムのタイトルです。しかしあなたはその場でこう言いました。「みなさんがお話になっているスチュアート・ホールという人間がどこにいるのか、探してしまったよ」。一人の人間を所有主とする思想などあるのかい? 自分はあくまでもプリズムであって、そこには数多くの他者の思考、思想、哲学が不可避的に入り込んでいる。発話し、書く責任まで、つまり言表によって主体となることまで放り投げる気はないが、しかし「考えるということについてもっと考え」ないかい?──単著を出版することに最後まで抵抗していた、それこそあなた「の」哲学を示すエピソードでしょう。

 あなたがかつて帰郷する機会を自ら閉ざしたキングストンでのこのシンポジウムは、「われらが息子(Native Son)の帰還」とも言われましたね。この「われら=ネイティヴ」という言葉。土着性、固有性、混じり気のなさ、本来のあり方、原初。そうしたものへの欲望を喚起する言葉ですが、現在再び転生している気配があります。カリブでもアフリカでもアジアでもいいでしょう。なぜヨーロッパ哲学に範を置くのか、カリブ独自の思想がある、アジアに合った哲学がある、アフリカ的思考というものがあるのに。これは「思想や理論の土着性」への回帰です。たしかに、そういう言説で構成される対象はあるでしょう。言語やどこが発信元かという意味で。しかし私は、この「うちもうちも」、「うちにだって」という発想が気持ち悪いのです。

 カリブもアフリカもアジアも、異質なものの集合性を便宜的に表す言葉です。奴隷制も含めて植民地経験のある場所の混淆性と雑種性は、宗主国の圧倒的な力によってきっかけを与えられてしまった。押し付けられたという側面を否定してはいけないのですが、C・L・R・ジェームズの言葉を借りれば、奴隷の着物も食い物も全てが輸入品だったわけで、つまり「ニグロ(奴隷)こそ本質的に近代的生活を生きていた」のです。そこから遡って、「~である私たちにだって〇×はある」とか「私たち~の△□も西洋と同等なのだ」と言ってしまうと、他者からの、それも圧倒的に力の差があった他者からの承認を求めているのと同じになってしまうのではないでしょうか。それはどうかと思うのです。植民地支配の非対称性を逆説的に後付け、裏付けてしまうだけではないか。支配的な地政学をそのまま受け入れて「ネイティヴ」に回帰する傾向はやめたほうがいい。そうしないとこれは言わば、「羨望の政治学」にしかならないからです。

 「羨望の政治学」は、資源や機会を奪い返したり再分配を求める階級闘争とは異なります。むしろその否定と言っていい。奪うべき思想や哲学をあくまでも解釈共同体の「内部」から発生させることに拘泥しているからです。徹底的に関係主義を貫き、人種もジェンダーもセクシュアリティも、人間の多様なカテゴリーの純理化を批判し続けた(黒人大衆文化の「黒」とは何か?!)あなたは、その思考の源泉を雑種性でしか考えられないカリブの歴史に遡って理論化しようとしていました。地政学的単位に固有性などあるのでしょうか? それぞれがそれぞれの固有性を普遍だと主張している限り、どこにいても居心地の悪さしか感じないことこそが普遍になるしかないでしょう。

 拝啓、スチュアート・ホール、あなたはそれを選んだ。真理や純理をあらかじめどこかに存在するが未だ知ることのない対象として求める姿勢は、世俗的なものと相性がよくありません。解体できない、否定しようのない真理を聖なるものとして措定してしまうからです。だから科学と宗教は、二一世紀も四分の一を過ぎようとする今も矛盾せずお互いの存在感を増し合っているのです。揺らぎの中で生きたあなたは、徹底して世俗の人でした。そして理論的にも物理的にも多くの旅をし続けることで、世界に居心地の悪い場所を作り続けました。その動きの中から練り上げられたカルチュラル・スタディーズですから、拳を振り上げての逆襲など必要ありません。光も影も場所も時間も、瑣末な世事を政治と歴史へと目一杯分節化──区別しつつ接続し、接続しつつ区別すること──させ続けながら、そんな態度で世界のなかにまぎれていたい。ハイゲート墓地のマルクス像と目と鼻の先にあるあなたの墓石が、訪れるたびに少しずつ旅を始めていないかなあと想像しながら、こんなことを言葉に紡いでみました。その旅は、はたしてマルクスに近づいているのでしょうか、遠ざかっているのでしょうか。

敬具

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