思想の言葉:中澤達哉【『思想』2024年7月号 特集|帝国論再考】
【特集】帝国論再考
〈討議〉帝国論の新展開
池田嘉郎・杉山清彦・中澤達哉
「脱植民地化」とロシア帝国論
──ウクライナ史とロシア史の展望
青島陽子
共和制の帝国としてのソ連・現代ロシア
池田嘉郎
帝国を語り直す
──「諸国民の揺籃」としてのハプスブルク帝国
篠原琢
近世/近代イスラーム帝国論
──『第二のオスマン帝国』の拓く地平
前田弘毅+佐々木紳
大清帝国論
──ユーラシアの帝国から中国の「清朝」へ
杉山清彦
イギリス帝国と法
稲垣春樹
アメリカ独立革命史研究における帝国論
石川敬史
ナポレオン期フランスについての帝国的解釈
──研究の動向と課題,展望
堺太智
近世ヨーロッパの「帝国」を考える
──「バルト海帝国」を例に
古谷大輔
帝国の叙法
はじめに──問題の所在
そろそろ歴史家、とりわけ西洋史家たちが帝国について総合的に語るべき時なのだろう。そのように認識するのは、ロシアの大統領がまるで皇帝のようにウクライナ侵攻を謀り、続いてイスラエルが帝国主義国家さながらにパレスチナを制圧しようとしている事態を、現代に生きる歴史家がその目で観てしまっているからである。意外かもしれないが、歴史学ほど、現在の出来事に敏感な学問はない。とはいえ、いま帝国を語らねばならない理由を、この現状を深く憂慮していることだけに帰すことはできない。
前世紀初頭のレーニンやホブソンは別格として、ホブズボーム、ウォーラーステイン、ヘクター、ネグリとハート……。一九七〇、八〇年代から活躍してきた歴史家に限っても、これだけの碩学が帝国を、特に帝国主義を雄弁に論じてきた。これらの帝国史研究はつまるところ、二〇世紀の総力戦や独占資本主義に関わる帝国主義の展開とその人類への余波ならびにオールタナティブにこそ主たる関心があった。これに対して、九〇年代末以降の帝国史研究は、(帝国主義以前を対象とする)近世帝国史研究と(帝国主義論とは異なる文脈の)近代帝国史研究とで別個に驚くべき発展を遂げていた。前者には、リーベン、アーミテイジ、ロバートソンがいよう。後者には、マッケンジー、カペレル、ジャドソンがいる。
なにより重要なのは、二〇一〇年代の歴史家たちの認識が九〇年代の視座と明らかに異なりはじめていることである。つまり、これまで交わることのなかった近世と近代の帝国史研究を複眼的に捉えつつ常にそれらの課題を炙り出し、自己の実証研究の結論と対照させながら、両者の架橋を試みているのである。たとえば、テズジャンのオスマン第二帝国論、パールフィやトレンチェーニの近世帝国・ネイション論、最近ではクマーの帝国三区分論も現れている。日本からは篠原琢・中澤達哉編の正統性継承論も挙げられよう。これらは、二〇二〇年代の歴史家が関心を向ける「帝国の叙法」の一つといえる。なお、西洋近代史学において、後述するイギリスのマッケンジーやロシアのカペレルの議論は「帝国論的転回」という語で形容されることがあるが、本稿が展開する「帝国の(新たな)叙法」とは、近世帝国を起点に近代帝国への架橋を含意するものである。近現代に限定された従来の帝国論的転回のナラティブとは一線を画すものであることを付言しておきたい。
近世帝国の叙法──普遍君主と複合君主
帝国とは本来、皇帝の命令権=帝権(impeirum)の及ぶ圏域を指す。近世史研究では、二〇世紀末に、ケーニヒスバーガの複合国家論、エリオットの複合君主政論、グスタフソンの礫岩国家論が提起され、従来の絶対主義的な近世主権国家像が批判の俎上に載せられた。つまり、君主が複数の国家や地域の合従連衡の上に緩やかに君臨していたとする近世国家像が提示されたのである(近藤 二〇一六、岩井・竹澤 二〇二一)。こうして、旧来の強固な近世の主権国家認識を前提に近世帝国を把握してきた研究は根本的な修正を迫られることになった。ただし、この指摘は、領邦が半独立国家としてひしめきあう神聖ローマ帝国史家には至極当然のことであった。むしろ、神聖ローマ帝国以外の君主国も実はこれと似たような緩やかな国家連合体だったのではないか、との問いを各国歴史学に投げかけたことのほうが重要であった。
ここで注目すべきは、既述のロバートソンである。彼は、往年の近世政治思想史学が強固な主権論に関心を寄せる余り、実証史学のエリオットが解明した複合君主政という事態に照応するような概念の研究を怠ってきたことを認めた。その内省の上に彼は、一七〇七年のイングランド王国とスコットランド王国との同君連合によるグレートブリテン連合王国の成立を「帝国」の成立と捉え、「帝国」と「連合」という二つの概念を同時代的文脈に即して理解する必要性を唱えた。その際、神聖ローマ帝国との相応の中で、より広範な領域の統治を含意する「普遍帝国」理念がブリテンでも精緻化された事実を明らかにした。つまり「帝国」が個々の王国の自治を示して使用されるという、一見相反する別の意味で使われ続けていたことを指摘したのである(Robertson 1995)。これは、アメリカ建国史の石川敬史の議論とも共振する(石川二〇二二)。近代帝国のいわゆる一元性とは異なる近世帝国の複合性が示されたのである。リーベンも同様の見解を示している(リーベン 二〇〇二)。
さて、ロバートソンが「帝国」と「連合」の基層と見做し、近世帝国の多元性や複合性の核心と仮定したのが、「一人の君主の下への(社団としての)編入(incorporate)」という、近世特有の政治的結合の方法であった。私見によれば、その好例は、帝国ないし帝権(imperium)概念とこれに随伴して発展した王冠(corona)概念を有する君主政である。とりわけ、ロバートソンも言及する本家本元の神聖ローマ皇帝のほかに、ハンガリー王冠領やボヘミア王冠領の国王をも兼任したハプスブルク朝の諸概念への言及は不可欠であろう。
同朝初期の政体論・帝国論の支柱となったのが、アドモント修道院長エンゲルベルトゥスの『諸君主統治論』(一二九八)と『ローマ帝国の興隆・終焉論』(一三一二~一三)である。アルブレヒト一世が混乱を収拾して皇帝に即位した際に執筆された前者によれば、権力は君主と人民との契約に由来する。帝権は本来、直接神授されるのではなく、人民の委託を根拠とする。この理念を実現した理想政体こそ、君主政・貴族政・門閥政・民衆政の四つの混合による選挙帝政であった。ゆえにそれは「(君主のいる)共和政」の様相を呈したのである。以上の主張は、アリストテレスの『倫理学』とキケロの『義務論』を基盤とした。
さらにエンゲルベルトゥスは後者において、この議論を自然法と宇宙論に布置することで帝国論へと発展させた。国家の目的は共通善の実現である。したがって国家は、幸福を追求する正しい政府を有し、選挙を通じて正しく支配権を鼎立しているだけでなく、以上が広く実現される大帝国でなければならない。さらに彼は、『ダニエル書』に倣い、歴史上の四つの大帝国の帝権移転(バビロニア→ペルシア→ギリシア→ローマ)の中に神意を見出した。最後のローマ帝国において帝権はゲルマン人に委託され、ハインリヒ七世に至るまで九七名の東フランク・ドイツ王がこれを継承した。その使命は常に、神の摂理の下でローマ教会を保護することであった。なにより彼にとって、神聖ローマ帝国こそ、既述の四政体混合の選挙帝政の実現体であり、永続させねばならない最後の「普遍帝国」に他ならなかった。
なお、エンゲルベルトゥスと同時代を生き、同時期に『帝政論』(一三一〇~一二頃)を著したダンテは、教皇権と皇帝権の併存の正統性を主張しつつ、後者の最良を元首政期と認識していた。同じく同時代人であるオッカムのウィリアムは『教皇権力に関する八提題』(一三四一、四七)において教皇権と皇帝権の分離を主張しつつ、後者については選挙帝政を最高にして安定的な政体であるがゆえに「普遍帝国」と捉えた。レクス・レギアの人民主権解釈の点でみれば、エンゲルベルトゥスは両者の中間に位置し、元首政と共和政の双方を評価している。まさに、ラコキウスをはじめとする一六世紀の政治的人文主義に引き継がれる、神聖ローマ・ハプスブルク帝権の骨格と言えよう。
さて、そのレクス・レギアの人民主権解釈は、近世では中・東欧のハンガリーやボヘミアの国王選挙制、そしてポーランドの国王自由選挙制を通じて、「王冠」概念となって体系化された。特にハンガリーではヴェルベーツィ著の『ハンガリー国家慣習法の三部書』(一五一四)により、選挙王を頭、選挙権をもつ特権諸身分を四肢とする「聖王冠」理念が成立した。単独社団たる王が特権諸身分社団とともに構成する聖王冠は国制上の最大の公法社団であり法人であった。神聖ローマの選挙皇帝たるハプスブルクの君主がハンガリー王冠領やボヘミア王冠領の選挙王を恒常的に兼任しはじめたのが、一五二六年である。まさにこのとき、近世大陸帝国史においてきわめて重要な概念シフトが起こった。近世に特有の二つの帝権・帝国像が出現したのである。
一つは、帝権移転論に基づく単一不可分の帝権・帝国像である。帝権は上述のようにバビロニア→ペルシア→ギリシア→ローマと移転し四つ目のローマで世界史は終わると信じられた人文主義の時代に、ローマ帝権の継承権を主張する神聖ローマ(第一ローマ)のハプスブルク朝がヨーロッパ大陸に君臨した。興味深いのは、ローマの継承権主張者はほかにもいたことである。コンスタンチノープルを占有するオスマン朝(第二ローマ)、そして、やや遅れてロマノフ朝(第三ローマ)がそれぞれ帝政を名乗り普遍君主を称し、正統主義の下で帝国を統治した。以上がローマ由来の単一不可分の帝権をもつ普遍君主像であった。
二つ目は、レクス・レギアの人民主権解釈に基づく諸王冠領の複合たる帝権・帝国像である。既述のように、ハプスブルク家が神聖ローマ外のハンガリーで一五二六年から選挙により恒常的に王位に就いた。神聖ローマとかかわらないハンガリー王を兼務するという事態が、「諸王の王」(rex regum)としての皇帝、すなわち、複合君主としての皇帝像を並行的に生み出したのである。
つまり、ハプスブルク朝では、特にハプスブルク朝ハンガリーにおいては、一人の君主の政治的身体に普遍君主と複合君主という二重の政治的身体が併存することになった。これが近世大陸帝国に特有の普遍君主=複合君主像である。これは、「王は自らの支配域内において皇帝である」という王のマイェスタース(至高権)を系譜とする皇帝像ではなく、インペリウムとコローナ論から組み立てられた君主像であった。ハンガリー宮廷官房書記のラコキウスによってハプスブルク朝君主マクシミリアン二世に献呈された『政治権力について』(一五七四)と題する帝国論からは、両君主像が併存する様を明確に読み取ることができる(Rakocius 1574)。
さて、そうした近世君主の管理下への社団としての編入には、「対等な合同」と「従属的な合同」があったことは、すでにエリオットが指摘するところである。これを前述のラコキウスの議論に適用すると、マクシミリアンが神聖ローマ皇帝就任(一五六四)以前に即位したドイツ王(一五六二)、ボヘミア王(同)、ハンガリー王(一五六三)が治める王国は「対等な合同」の下で連合したのに対して、皇帝就任以後のトランシルヴァニア侯国の集塊(一五七〇)は「従属的な合同」に該当した。普遍君主ないし複合君主(あるいは両者)への「従属的な合同」が集中的に現れた帝国内の周縁領域や諸帝国が衝突しあう「破砕帯」をいかに描くかが、後述するように、近世帝国史と近代帝国史に共通する歴史叙述の鍵となろう。
近代帝国の叙法──従属的な合同か? 併合か?
複数の国家ないし地域を帝国に社団化して編入するという近世的法体系は、「対等な合同」と「従属的な合同」のいずれかの形式を踏んで、アウスグライヒにみるように、基本的に十九世紀末まで存続した。上述の破砕帯は多くが「従属的な合同」を経験してきた地域である。この事態は、近年の近代史研究における「帝国論的転回」へといかに関連させられるのだろうか。
まずその近代史研究における帝国論的転回を促したジャドソンとカペレルの帝国論に着目してみよう。ハプスブルク帝国史家ジャドソンは、同帝国を「諸民族の牢獄」と理解してきた従来の帝国主義論や国民形成論を批判して、帝国下の諸ネイション構築と帝国統治システムの近代化とが双方向的な依存関係にあったと論証した(Judson 2016)。一方、カペレルによれば、ロシア帝国は宗教的・文化的多様性に寛容で、非ロシア人のエリートによる「統治者と王朝への忠誠」を統合の原則としていた。つまり、同帝国には政治権力と諸民族との間に明確な支配・被支配関係が存在したというよりも、むしろ多様な住民に対して権力がアドホックに作用していたというのである(Kappeler 2001)。
これらの事態が、「対等な合同」の要素をもつのか、「従属的な合同」の要素が強いのか、緻密に実証する必要があろう。特に近代ハプスブルクの場合、①ボヘミア王冠領はチェコ人の、ハンガリー王冠領はマジャール人の国民統合体として国民主義的に翻案され、既存の国制上の領邦はネイションの領域として読み替えられていた(篠原二〇一二、中澤二〇〇九)。また、②そのいずれからも零れ落ちた北部ハンガリーのスラヴ人は社団の枠組みを自らに適用することで王冠や帝権を新たに構成する国制上の社団として、つまり、自己をスロヴァキア国民法人として正当化しようとした(中澤二〇〇九)。概して、上記①は近世史の文脈では「対等な合同」(公定ナショナリズム)、②は「従属的な合同」(民衆ナショナリズム)に類するものである。重要なのは、両者はともに、帝政と対立するどころか合同を求め協調路線を採ったということである。ここに近世型の政治的結合方法の継続を垣間見ることができるとともに、等級付きの合同の実態が明らかとなる。ゆえに、近代史研究には、帝国内周縁領域の従属的合同の綿密な検証が近世史研究から求められる一方で、近代ネイションにおける社団性や法人性の残存を見極めることもまた要請されることになる。いずれにせよ、「諸民族の牢獄」などの内国植民地論に代表される大陸帝国の古典的な帝国主義像も、「帝国から国民国家へ」という単線的発展を下支えする民族自決論も、一時鳴りを潜めたかのようにみえるのである。
では、海の近代帝国の帝国論的転回はどうであろうか。イギリス帝国を例にすれば、陸の帝国史研究との相違はまず、本国の面積以上の海外植民地を有し、常にコロニアリズムの問題に直面してきたことであろう。サイードのポストコロニアル的転回への対応としてマッケンジーやキャナダインがさらなる転回を進めたが、その特性は、サイードが植民地言説を含む「知」を西洋帝国支配の構築物とみるのに対して(サイード二〇〇一)、これを支配と被支配双方による構築物と捉える点にある(マッケンジー 二〇〇一)。
誤解を恐れずに言えば、近代帝国の支配・被支配の多層性、被支配者の主体性(agency)に着目するマッケンジーの問題意識は、既述のハプスブルク帝国史家ジャドソンの帝国論と見事に共振する。両者ともに、帝国との関係性の中でこそ、帝国内の諸民族の帰属意識は維持・強化されたと認識しているからである。また、被支配者たる貧民や女性そしてサバルタンが、帝国秩序から零れ落ちつつ形成されるという構築主義的視点は、ハプスブルクにおける流民や棄民などの「歴史なき民」への視点とも符合し、近代帝国の語りの共通性として注目に値する。
だが、近世からみると、近代の陸・海の帝国論は明らかに分断されている。環境条件の違い以上に大きいのは認識の相違である。『ダニエル書』に倣い、古来のインペリウムを継承する正統主義の原則から「ローマ」や「第三ローマ」を名乗る既述の大陸帝国は、逸脱するものには「従属的合同」で応えた。これに対して、イギリス帝国は宗教改革後のプロテスタンティズムの「自称」帝国であり、議会や裁判所を開設する自由を両立させた帝国であった(アーミテイジ 二〇〇五)。この「自称」帝国は、逸脱するものには「文明化の使命」という名の「併合」で応じた。確かに陸・海ともに古代ローマに淵源を求めるが、自由の展開の始原を古代ローマに定める点で、アーミテイジのナラティブは「民主主義の帝国」かのような海洋帝国の特異性を感得させる。その分、先述のロバートソンの近世社団論との乖離を際立たせるのである。
おわりに──展望
近世帝国から近代帝国への架橋に、陸・海の帝国間の架橋をも加味して考慮した場合、君主の管理下への「従属的な合同」をいっそう分節化し、さらにその「併合」への実態的・概念的変化のプロセスを自覚的に実証する必要があろう。近世帝国論と近代帝国論の連携が必要なのはまさにここである。そして、これは、ヨーロッパのみならず世界を席巻したインペリウムという怪物の輪郭を通時的かつ総体的に浮き彫りにするための視座になると考える。そのときこそ、陸の帝国史には脱植民地化論(ケネディ二〇二三)や破砕帯論(Bartov and Weitz 2013)、ナショナル・インディファレンス論(Zahra 2010)、そして、海の帝国史には人種資本主義論(Jenkins and Leroy 2021)ならびに先述の脱植民化論がより深淵なる意味をもってわれわれの眼前に現れるのであろう。この文脈において、帝国における構造的暴力の問題を検証する余地は多々残されている。一方でそれは、帝国と国民国家の相互浸潤プロセスの緻密な実証を求めており、国民帝国論にみられる帝国と国民国家をアプリオリに等価のものとする一面的把握が招く帰結にも警鐘を鳴らしている。
アメリカで同時多発テロが起こった二〇〇一年、哲学者のネグリとハートは『〈帝国〉―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』を上梓した。グローバル資本主義の拡大による国民国家の衰退を説き、現代帝国は国民国家を通じてではなく不可視のネットワークを通じて強かに浸透しているのだと警告した(ネグリ、ハート 二〇〇一)。それ以来、この四半世紀の帝国論は、本稿が論じた歴史学だけでなく、各分野で活況を呈することになった。いま改めて強調したいのは、歴史学であれば歴史学という個別の学問分野のなかに閉じこもることなく、他分野と連携して帝国を総合的に論じる必要性である。近世帝国と近代帝国を架橋して考えることは特に重要となるであろう。近世の帝権の分析を起点に帝国と連合、そして、主権概念を改めて検討することは、近現代の帝国秩序や超国家的秩序と、近代に「主権者」として現れた国民社会との今後の関係性を見定めていくのに不可欠な、基礎作業になると考えるからである。
以下に続く諸論考は、各国帝国論の成果を踏まえてその問題点を炙り出し、帝国論の長期的な課題をまず歴史学の観点から提示するものである。人文・社会科学全体への問題提起となることを期待したい。
主要文献
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Kappeler, A., The Russian Empire: A Multiethnic History, Abingdon, Oxon, 2001.
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D・アリギエーリ著/小林公訳『帝政論』中公文庫、二〇一八年。
E・H・カントーロヴィチ著/小林公訳『王の二つの身体―中世政治神学研究』平凡社、一九九二年。
K・クマー著/立石博高・竹下亮訳『帝国―その世界史的省察』岩波書店、二〇二四年。
D・ケネディ著/長田紀之訳『脱植民地化―帝国・暴力・国民国家の世界史』白水社、二〇二三年。
E・サイード著/今沢紀子訳『オリエンタリズム 上下』平凡社、一九九三年。
D・テズジャン著/前田弘毅・佐々木紳訳『第二のオスマン帝国―近世政治進化論』山川出版社、二〇二四年。
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青島陽子「帝政ロシア史研究における「帝国論的転回」―ロシア帝国西部境界地域を中心に」『史学雑誌』第一三一編第七号、二〇二二年、六〇―八六頁。
池田嘉郎「帝国、国民国家、そして共和制の帝国」『Quadrante: クァドランテ』第一四号、二〇一二年、八一―九九頁。
石川敬史「アメリカ合衆国はエンパイアの夢を見るか──一七〇年の自由の歴史から始まった国」『中央公論』第一六六四号、二〇二二年、五二―五九頁。
岩井淳・竹澤祐丈編『ヨーロッパ複合国家論の可能性―歴史学と思想史の対話』ミネルヴァ書房、二〇二一年。
近藤和彦「礫岩のような近世ヨーロッパの秩序問題」古谷大輔・近藤和彦編『礫岩のようなヨーロッパ』山川出版社、二〇一六年、三―二四頁。
篠原琢「国民が自らの手で!―チェコ国民劇場の建設運動」篠原琢・中澤達哉編『ハプスブルク帝国政治文化史―継承される正統性』昭和堂、二〇一二年、一八三―二四〇頁。
同「「名前のないくに」―「小さな帝国」チェコスロヴァキアの辺境支配」大津留厚編『民族自決」という幻影―ハプスブルク帝国の崩壊と新生諸国家の成立』昭和堂、二〇二〇年、一〇九―一四五頁。
杉山清彦「複合国家としての大清帝国―マンジュ(満州)による集塊とその構造」『歴史学研究』第一〇〇七号、二〇二一年、一四八―一五六頁。
中澤達哉『近代スロヴァキア国民形成思想史研究―「歴史なき民」の近代国民法人説』刀水書房、二〇〇九
同「二重制の帝国から「二重制の共和国」と「王冠を戴く共和国」へ」池田嘉郎編『第一次世界大戦と帝国の遺産』山川出版社、二〇一四年、一三五―一六五頁。
同「ハプスブルク君主政の礫岩のような編成と集塊の理論―非常事態へのハンガリー王国の対応」古谷大輔・近藤和彦編上掲書、一一八―一三五頁。
同「帝国と国民国家の相互浸潤」『歴史学研究』第一〇一五号、二〇二〇年、一七五―一七八頁。
同編『王のいる共和政―ジャコバン再考』岩波書店、二〇二二年。
同「複合君主号「皇帝にして国王」と主権の分有―ハプスブルク・ハンガリーの選挙王政と世襲王政」佐川栄治編『君主号と歴史世界』山川出版社、二〇二三年、一九一―二一四頁。
同「ロシア・ウクライナ戦争と現代歴史学の課題―帝国・主権・ナショナリズム」『歴史学研究』第一〇三七号、二〇二三年、二五―三四頁。
黛秋津『三つの世界の狭間で―西欧・ロシア・オスマンとワラキア・モルドヴァ問題』名古屋大学出版会、二〇一三年。
山本有造編『帝国の研究―原理・類型・関係』名古屋大学出版会、二〇〇三年。