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原田宗典 読書ということ[『図書』2024年9月号より]

読書ということ

 

 日曜日、高校時代からの友人、HとNと三人で、久しぶりに会った。

 待ち合わせ場所は、Hの会社のロビーだった。会社は、銀座三越のすぐ裏手にある。四時に、三人は顔を揃えた。

 「新橋の方に煙草が吸える喫茶店があるんだが、そこへ行かんか?」

 Hにそう誘われて、彼の後について歩き出す。

 二月初旬だが、あたたかい日だった。通りは歩行者天国とあって、大勢の人々が歩いている。

 「いいねえ! 日曜日の銀座の歩行者天国! 幸せだあ!」

 Nが歩きながら、おどけた口調で言った。確かに。気持のいい日だった。私たち三人はへらず口をきき合いながら、歩行者天国の銀座通りを歩いた。博品館の前まできて、高速のガードをくぐる。ここから、急に新橋である。

 「ここだ」

 Hは左手の角にある喫茶店に入っていった。後に続く。

 「喫煙席はお二階になります。只今満席ですので、しばらくお待ちいただくことになりますが、いかがいたします?」

 「待ちます」

 二階へ上がり、通路に置いた丸イスで、席が空くのを待つ。三人のお喋りは、もう歩いているうちから始まっていて、これはもう止められない。

 やがて思ったよりも早く、席が空いたらしい。四人掛けのテーブルに案内された。美人のウエイトレスがやってきて、注文をとる。三人とも、ブレンドコーヒーを頼んだ。テーブルの上に、「どうぞ吸って下さい」と言いたげに、円い灰皿が置いてあるのが嬉しい。

 「煙草、売ってるんだよね?」

 「はい。今、お持ちします」

 ウエイトレスは一旦引っ込んで、すぐに煙草を山積みにしたカゴを持ってきた。馴じみのある銘柄から、見たこともない洋モクまで、バラエティに富んでいて、わくわくする。色々迷った末、Nはメンソールのハイライトを、Hと私はリニューアルしたばかりのピースを選んだ。

 私以外の二人は、普段煙草を吸わない。Hは四十代の頃。Nは五十代から時々吸ったり、吸わなくなったりしていたが、昨年夏に「もう煙草やめた!」と言って、今は禁煙が続いている様子だった。しかし二人とも、私と会うと、煙草を吸う。それも大量に吸う。

 昔、芥川龍之介という人は、やたらと煙草を吸う人だったらしい。一本吸い終えかけると、その火を継ぎ火にして次の一本を吸うほどの、チェーンスモーカーだったという。あんまり次から次へとひっきりなしに吸うものだから、見かねた佐藤春夫が、

 「君、煙草はそんな無闇に吸うもんじゃないよ」

 とたしなめたという逸話もある。

 当時の大正時代から昭和にかけて、作家と煙草というのは、切っても切りはなせないものだった。「作家の肖像」みたいな写真集を見ても、煙草を吸っている肖像写真が、圧倒的に多い。

 こんな逸話もある。

 横光利一のところに出入りしている、作家志望の学生の中に、どうも煙草を吸う作法がなってない奴がいた。途中までしか吸わなかったり、せかせかして火をつけたり、消したり、また、消すのを忘れたり。とにかく落ち着きがない。横光はその学生を呼んで、とくとくと説いた。

 「君ね、そんな煙草の吸い方をしてたんじゃあ、作家になんて、なれないよ。作家にはねえ、作家らしい煙草の吸い方があるのだ。例えば川端君は、こうだ」

 そう言ってマッチを擦り、煙草に火をつける。ゆっくりと、静かに一服。煙は細く吐き出す。そして宙を見る。次の一服までは、ずいぶん間がある。

 「という具合に、だ。煙とたわむれるくらいの余裕がなくちゃ、作家になるなんて、とてもとても」

 そんなことを本気で、横光利一は語っていたという。

 笑い話に聞こえるかもしれないが、私はこの話に、ちょっとした真実が含まれているように思うのだ。

 文学と煙草は似ている、と私は思っている。どこが似ているのか? まず、どちらも嗜好の賜であること。そして、どちらにも毒であり薬でもある何かが含まれていること。それから、時代に取り残されているという点も共通している。

 いや、文学に毒はないだろう、と言う人がいるかもしれない。果たしてそうだろうか。もしここに、何の毒もない、健康的で、前向きな、正しいことだけが書いてある小説があったとして、それは面白いのか? 読者の胸を打つのか? 毒のない文学なんて、そんなもの、私は興味がない。

 喫茶店で、私はそんな話をした。

 すると耳を傾けていたNが、思い出したようにこう言った。

 「そういえば最近さあ、電車の中で本を読んでる人、増えたと思わない?」

 Nが言うには、仕事場への行き帰りの京王線の中で、本を読んでいる人の姿を見かけることが、最近増えたように感じるというのである。

 「そういえば今日、半蔵門線の中で、七人掛けの席に座っている人のうち、三人が本を読んでいたなあ」

 私は言った。三人が本、二人がスマホ、残りの二人は目をつぶっているという光景だ。本がスマホに勝った、という気がして、何だか嬉しかった。

 電車内での読書、ということについては、こんな話がある。

 もう二十年も前の話だが、早稲田のカルチャー講座で、三カ月だけ講師をつとめたことがある。当時、私は小林秀雄の講演をCDで聴くことにハマっていて、講座でも小林秀雄の話ばかりしていた。すると何回めかに、生徒の一人が私のところへ来て、こんな話をしてくれた。

 「今日、ここへ来る時、地下鉄の中で小林秀雄の文庫本を読んでいたんです。そしたら、僕の目の前に座っていた老紳士が『君、小林先生の本を読むなら、座って読みたまえ』と言って、席を譲ってくれたんです」

 この話に私は驚き、感心した。さすが小林秀雄。そういう真摯な読者を持つ作家は、他にはそういないだろう。

 「最近おれはな、二十歳の頃に読んだ本をまた再読してるんだ」

 Hはそう言って、鞄の中からトインビーの歴史学の本を取り出して見せてくれた。巻末に、読了の年月日が記してある。

 「この年になって読むと、また全然趣きが違うんだよなあ」

 「分かる。おれも最近、大江健三郎の『性的人間』を四十年ぶりに読んだよ」

 Nが言った。

 「まったく何も覚えてなくて、こんな話だったのか、と驚いたよ」

 「そうか。そうだろうなあ。おれは最近、緑内障がひどくて、読むのも書くのも、ものすごく辛い。だから朗読されたものを耳で聴くことにしているよ」

 私は愚知をこぼした。ユーチューブで朗読されるのは、ほとんどが著作権の切れたもの、つまり昔読んだ小説やエッセイばかりだ。漱石、鴎外、荷風、芥川龍之介、太宰治、梶井基次郎、山本周五郎、江戸川乱歩……。

 「色々聴いてみたけど、やはり感心したのは芥川龍之介だな。とび抜けて文章がいい。何ていうかこう、エッジが立ってる。あんなふうには書けない。中でも感心したのは『蜜柑』だ。『蜜柑』、覚えてるだろ?」

 「あの、汽車の窓から蜜柑を放る話だな」

 「そう。それ、どうして覚えてるんだと思う? ものすごく鮮やかだからだよ。あれ、一人称で書かれてるんだけど、主人公の『私』が憂鬱を気取った嫌な奴でね。物語は最初からずうっとモノクロームの世界なんだ。それが、乗り合わせた田舎娘が、踏切で手を振る弟たちに向かって蜜柑を投げる。そこだけ急にカラーになって、オレンジ色が目にも記憶にも焼きつくんだな」

 「なるほどねえ」

 三人でそんな話をしているうちに、私の脳裏には、読書とは何か、という素朴な疑問が浮かんできた。同時に、それに対する答えらしきものも彷彿とする。

 名文家として知られる英文学者福原麟太郎の随筆で、こんなことが書いてあった。今、手元にその本がないので、うろ覚えで恐縮だが、大体こんな内容である。

 自分の元には毎日、毎週、毎月沢山の本や雑誌が送られてくる。とてもじゃないけどそのすべてを真剣に読む時間はない。だから自分は、一応読み始めて、面白くなくなったらすぐに放り出して、別の一冊を読むことにしている。一冊の本を読み終えることが読書ではない。本を読んでいる時間を指して、読書というのだ。

 けだし名言である。世の中には、一冊の本を読み切ることが読書であると誤解している人が、何と多いことか。これはおそらく、小学校の時からの国語教育に問題があるのだと思う。特にいけないのは、読書感想文だ。感想文を書かなければならないとなると、どうしてもその課題図書を最後まで読み切らなければ、という意識が働く。つまらない本なのに、無理をして読むものだから、そこに苦手意識が生じる。そして「自分は読書が苦手だ」と思い込んでしまう。

 もう一度言う。

 読書とは、一冊の本を読み切ることではない。読んでいる時間を指して、読書というのである。

(はらだ むねのり・作家)


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