原田宗典 私よ 母の車椅子を押せ[『図書』2024年11月号より]
私よ 母の車椅子を押せ
二月、まだ寒い時期のことである。
ある朝、目覚めてみると、母の右足に違和感があるという。冗談みたいに何枚もはいている靴下を脱がせる。ようやく最後の一枚を剥くと、肌が出てきた。観察してみると、右足のくるぶしの下あたりに、火傷の水疱がある。大きさは、正月の黒豆くらいだろうか。思ったよりも大きい。
「あちゃあ」
原因は、電気アンカだ。いわゆる低温火傷というやつである。
「痛い?」
と訊くと、母は「痛くはない」と答える。これは、とてもじゃないけど、素人の手には負えない。そう判断した私は、一番近所のK病院の皮膚科に電話を入れ、母を連れていくことにした。
車椅子に母を乗せ、表へ出て、タクシーを拾う。自宅からK病院までは、歩いても十分ほどの距離である。だからタクシーに乗る際には、行先を告げる前に、
「近くてすみません」
と必ず一言添えるようにしている。
さてK病院に着いて、待つこと一時間。診察を終えると、看てくれた女医が、意外なことを提案してきた。
「これは、入院なさった方がいいですね」
私はびっくりした。薬を塗って、ばんそうこうでも貼れば、それで済むだろうと高をくくっていたのだ。
「入院? ひどいんですか?」
慌ててそう尋ねると、女医は丁寧に説明してくれた。火傷の傷はかなり深い。しかし傷よりも問題なのは、母が長らく糖尿病を患っていることだという。糖尿病の患者は傷が治りにくく、悪化する可能性も高いらしい。これくらいの傷、と甘く見ないで、ここは大事をとって、一旦入院した方がいい、と言うのである。
「糖尿病は、どちらの病院ですか?」
「上野のE病院です」
「では連絡をとってみます。紹介状も書きますので、入院はそちらへ」
あれよあれよという展開で、母は翌日からE病院に入院することになった。
「すまないねえ。すまないねえ」
母は申し訳なさそうに詫びるのだった。
「別におふくろが悪いわけじゃないよ」
そう言ってなだめたが、母は入院先のべッドの上で、ちぢこまっているように見えるのだった。
母は今年九三歳になる。もういつ逝ってもおかしくない年齢だ。母のいない部屋にぽつんと一人座っていると、そうか、あの人がいなくなったら、自分はこういう感じで暮らすことになるのか、などと考えてみる。淋しい、というか、何か張り合いがない。咳をしても一人、という感じだ。
ところが、これも意外だったのだが、約一週間で母は退院することになった。火傷の傷は一向に良くなってはいなかったが、あとは週に一度、K病院に通院すればいい、と言われた。
「ただし、傷口の洗浄は毎日行ってくださいね」
「え? 誰がやるんです?」
「そりゃ、あなたですよ」
「げー」
驚いている私をよそに、看護師は傷口の洗浄と処置の方法を教えてくれた。
まず小ぶりのペットボトルのキャップにキリで穴をあけ、ぬるま湯をためる。傷口に泡石鹸をつけて、滅菌ガーゼでがしがし洗う。実に痛そうだが、母は別に痛くはないと言う。看護師の話では、医者によっては歯ブラシで洗う人もいるという。これでもか、というくらい擦って洗ったら、ペットボトルのぬるま湯で存分に流す。そしてよく乾かしてから、薬を塗り、大きめのばんそうこうを貼る。保護用のピンク色のスポンジを踵に装着し、網包帯をはかせる。この一連の作業が、慣れないうちは大変だった。傷口を洗うのに、そこらじゅう水びたしにしてしまったり、ばんそうこうを貼りそこねたりしたのも、二度や三度では済まなかった。
「すまないねえ」
その度に母は詫びては、ちぢこまってしまうのだった。そしてその度に私は何故か腹が立って、
「あやまらなくてもいいんだってば!」
と声を荒らげてしまうのだった。
三月、四月、五月、六月になっても、母の足の傷は良くならなかった。
そんなある週の金曜日。午後一時にK病院の皮膚科に予約が入っていた。私は母の車椅子を押して、十二時四十分に部屋を後にした。と、突然のゲリラ豪雨である。私は母をロビーに残して、表へ出た。傘をさして、雨の当たらない駐車場で、タクシーアプリを起動させた。
〈近くに十二台の車がいます〉
それならすぐに来るだろう。と思いきや、待てど暮らせどタクシーは来ない。おそらくこの雨のせいで、客が殺倒しているのだろう。結局四十分待ったが、タクシーは来ないし、雨も止まなかった。私はあきらめて、母の車椅子を押して部屋に戻った。K病院に電話を入れると、翌週の水曜日に来てくれとのことだった。私は、何が何だか腹が立った。ゲリラ豪雨もタクシーも、母の足の傷にも腹が立った。
そんな私の怒りが天に届いたのか、翌週の水曜日は朝から好天に恵まれた。まさに車椅子日和である。
「よおし、車椅子押していくぞ!」
私は意気込んで部屋を出た。
「あなた、大丈夫なの? 疲れない?」
「いいからいいから」
私は上機嫌で車椅子を押して、K病院を目指した。多分、十五分もかからないだろう。私は日陰を選んで、車椅子を押した。この数ヶ月の間の出来事が、次々と脳裏に浮かんでは消える。その時、何の拍子だろう、ある詩句が、ふと頭に浮かんだ。
〈母よ 私の乳母車を押せ〉
一旦浮かぶと、この詩句が頭について離れなかった。誰の詩だったろう? 読んだのはおそらく高校生の時だ。強烈な印象があったのを覚えている。草野心平? それとも三好達治だったか? 定かではない。
K病院に辿りつき、母を診察室へ送り出した後、待合室で私はスマートフォンを取り出した。〈三好達治〉と検索すると、すぐに〈三好達治 乳母車〉と出てきた。胸がどきどきする。まるで五十年ぶりに親友と出会ったような気分だ。それは、こんな詩だった。
母よ──
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨(ビロード)の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
読んでいる間、私は自分が誰で、今どこにいるのかを忘れていた。ほんの数分、詩の世界に入っていたと言っていい。
解説によると、この詩「乳母車」は、三好達治二十五歳の時の作品なのだそうだ。なるほどその若さが、詩に輝くような力を与えている。これはすごい。私は、心底感心してしまった。
K病院からの帰り道、私は母の車椅子を押しながら、心の中で、
「私よ 母の車椅子を押せ」
と何度も繰り返し呟いていた。空の、ずっと高い所から、母の車椅子を押す私の姿を、誰かが見下ろしているような気がした。
さて、ここからは宣伝です。
六年ぶりに長編小説を書きました。タイトルは「おきざりにした悲しみは」。岩波書店より、十一月八日発売です。年配の方なら心当たりがあろうかと存じますが、この小説は吉田拓郎の歌「おきざりにした悲しみは」をテーマソングに据えてあります。発売にあたり、作者からの短いコメントが欲しい、との要望がありましたので、その一文をここに転載したいと思います。
〈16歳の頃から、小説を書いてきました。いつの日か、水のような文体を手に入れたい。その文章で、生きているものを書いてみたい。それは、きっと励ましに満ちた物語で、読み終えた人の胸を一杯にするものになるはずだ。そんな小説を、いつか書き上げてみたい。それから50年、ようやくその夢が叶いました。「おきざりにした悲しみは」は、僕にとって夢の小説です。どうぞ読んでみてください。〉
母はこの小説を三日かけて読んでくれました。読み終えたかな、というタイミングで様子を見にいったら、母は号泣していて、
「あんた、やったねえ! 本を読んで、こんなに感動したのは初めてだよ。いいものを書いたねえ」
と褒めてくれました。ありがたいことです。皆様もぜひ、ご一読のほどを。面白さは、この作者が保証します。
(はらだ むねのり・作家)