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河東泰之 数学と本[『図書』2024年11月号より]

数学と本

数学者として

 私は数学者だ。実用からはかなり遠い抽象的な理論研究をしている。2024年6月に岩波書店から『数学者の思案』というエッセイをまとめた本を出した。これまで数学の専門家、学生向けの本は英語のものも含めて何冊か書いたことがあるが、こちらは数学、科学、研究、教育、大学などについて一般向けに書いた本である。「文章が読みやすい」、「おもしろい」、といった評判が多いようでたいへんありがたいことである。ネットなどで、読者がおもしろいと思ったところを引用してくれているのをいくつも見たが、ほぼ重なりがなく、みんな違うところを引用している。読者にアピールする場所がいくつもあるということだと、勝手にポジティブに解釈している。「まじめ過ぎる。あなたにはもっとおもしろいことが書けるはずだ」という感想も直接対面で言われたが、それに対しては、「岩波なのでまじめに書きました」と答えたのであった。

 数学というと典型的な理科系の学問であり、人文系とはかけ離れているように思われることが多い。確かに研究の中身は文学などとは全然違うのだが、研究生活の形はけっこう文学とも共通することが多いと私は思っている。

本が好き

 そこで本について考えてみよう。私は子供の頃からずっと本が大好きである。より正確に言えば文章を読むのが好きなのであって、新聞でも雑誌でも、さらには広告でも商品の説明書きでも字が書いてあれば何でも読む。本屋に行くと、おもしろそうな本がこんなにたくさんあるんだと幸せな気分になる。最近はネットにいくらでも読むものがあるので、気をつけていないと文字を読んでいるだけで一日が終わってしまう。

 高校生の頃は、数学や物理の次に古文、漢文が好きだったが、現代の日本の小説も好きである。一番好きなのは村上春樹で、単行本で出ている小説はすべて3回以上読んでおり、『ノルウェイの森』は30回以上読んだ。ほかには直木賞はわりと私の趣味に近いことが多く、読む本を決める際には受賞作を参考にしている。1冊読んで気に入ったら同じ作者の本を片っ端から読むという読み方だ。直木賞受賞者のリストを最近からさかのぼって20年くらい見てみると、私の好きな作家は、万城目学、米澤穂信、島本理生、恩田陸、荻原浩、辻村深月、道尾秀介、北村薫、井上荒野、桜庭一樹、三浦しをん、東野圭吾、角田光代などである。このリストを見てもわかる通り、ミステリーはかなり好きだ。別に数学者だからと言って論理的に犯人を推理するわけではなく、推理がうまくあたったことなど全然ない。ミステリーの中では島田荘司の『占星術殺人事件』は数学的なトリックに感動した。私は叙述トリック系のものが好きだが、犯人自身が仕掛けるトリックの中ではこの作品のものが一番好きである。

本を書き、本を読む

 小説のことはさておき、ここでは学者の研究業績としての本とその読み方について書いてみたい。最近は研究者の業績を客観的に評価すべきだという流れが世界的に勢いを増しており、その際に学術雑誌に載った英文査読付き論文だけが業績としてカウントされるという傾向が強い。これに対し、伝統的に書籍の出版が重要な研究成果発表の手段であった文科系、特に人文系の研究者からは、そのようなやり方は理科系の慣習を押し付けるものだという反発が出ている。最初に挙げた『数学者の思案』の中にも書いたのだが、私は学内の会議に出ていると、理学部や工学部の教員の言うことより、文学部の教員の意見の方が共感できると思うことがよくあった。この業績評価の点についても、数学者の基準では本はとても重要であり、多くの理科系の学問よりもずっと、本の重要性が高い。それに連動して、伝統的に図書館もとても大事にされている。

 学部生が読むような教科書レベルの本は別にしても、専門家の卵である大学院生や、プロの数学者が読むような本は、現代数学の分野ではたくさん書かれていてみんな読むし、そのような本を書くことも業績としてきちんと評価される。理科系の進歩の速い学問だと、最新の研究成果は学術雑誌の論文で発表するもので、本など書いていられないし、読んでもいられない、仮に書いてもすぐに陳腐化して価値が急速に下がっていくという感覚が強いのだろうが、数学ではどれだけ時間がたっても、内容の正しさには変化がないし、価値もあまり下がることがない。理科系の学問の中では、数学は古い本や論文に重きを置かれる方である。私の専門は、数学の中では比較的歴史の浅いものなのだが、それでも1970年代の本や論文はよく読むし、もっと歴史の古い専門だと100年くらい前の本や論文でもけっこう読んだりする(さすがにもっと古いものは原典ではなく新しくまとめ直したものを読むので、文学部ほど古い本を読むわけではないが)。

 数学で一番よく利用されている論文データベースはアメリカ数学会が作っているもので、論文に対する引用回数などもみんなこれを見るのだが、ここでは本に対する引用回数も同じ基準で数えていて、みんなこれをよく業績評価に使っている。それを見ると、私が自分の研究成果をまとめて英語で1998年に書いた専門書は今でもよく引用されていて、私のどの雑誌論文よりも引用回数が多いことがわかる。さらにはもっと古い本でも盛んに引用されていて今も価値を保っているものがたくさんある。私は大学生だった1980年代に、パソコンの解説書を3冊出版しているのだが、今ではその内容がまったくの時代遅れになっていて誰も読まないのとは大違いである。

 ほかの理科系の学問では、本というのは雑誌論文ですでに発表されたものをまとめ直したものと位置づけられ、だからオリジナルな研究業績として評価されないのだと思うが、数学では新しい研究成果を雑誌論文を経由しないで、最初から本として出版することはそれほど珍しくない。それは、新しい理論を基礎から展開していくとすぐに数百ページになってしまい、雑誌論文には適さなくなるからである。研究成果が長くなりがちであること、論文や著書当たりの著者の数が少なく、若い大学院生でも指導教員とは別の研究テーマで一人で書く場合が多いことなども、数学は人文系に似ている。

 また本を読む際も、時間をかけてゆっくり、1行ずつ理解することがとても重要である。日本の大学の数学科ないしそれに類する学科だと、4年生の時にセミナーという名前でこのような精読法を教えることが多い。1年かけて専門書1冊をきちんと理解できればプロの研究者になるのにも十分なペースであり、早く読むとかたくさん読むとかいったことは必要でもないし、そもそも可能ですらない。前に物理学科で数学に近い理論物理学を専攻している大学院生が、私のところの学生のセミナーを見学に来たことがあったが、その様子を見て、こんなにゆっくり丁寧に本を読んでいるとは驚いた、と言ったことを覚えている。文学部でもテキストを1行ずつ精読することは重要なのではないだろうか。ただしたくさん読むことの重要性は数学より高そうだが。

数学者と小説家の働き方

 数学者の多く、特に純粋数学の理論研究者のほぼすべては大学に勤めているので授業や会議があり、こういった仕事では決まった時間に決まった場所にいなくてはいけない。このような仕事の形は会社員と大きく違うものではない。しかし研究については、本や論文を読む、自分で考える、その内容を書く、ということの繰り返しで、その生活形態は小説家とあまり変わらないのではないかと思う。また研究についてはその評価は書いた内容のみによって決まり、何時間働いたかといったことはまったく関係がないし、実際の研究のレベルともあまり関係がない。また仕事にあたり、時間の拘束もほとんどない。任期なしのポストに就いていれば、短期的な成果について評価されることはあまりなく、長期的なアウトプットだけが評価の基準である。

 さらに考えるということについても、数学では実験や調査がないので、一人で考えることが多い、いつでもどこでも考えられる、外から見ると真剣に考えているのか単に休んでいるのか区別がつかないといった点も小説家と同様である。数学では先行研究を理解するのにはきちんとノートで計算するといったことも必要になるが、そういうことが頭に入ってしまえば、残りの多くは自分の頭の中だけで考えられる(ただし数学でも共同研究はそれなりに進んでいて、現在では学術論文のうち、著者が一人なのは半分くらいである。共同研究の場合は人と議論することも重要な研究の作業である。これに対し、小説では著者が複数ということはかなりまれであろう)。応用寄りの数学だとコンピュータを研究に使うこともあるのでその場合はコンピュータに向かって作業する必要があるが、基礎理論の研究では今でもコンピュータはワープロとしてしか使わないことが多い。

 最近働き方改革が大きな話題になっており、自分がどのくらいの時間働いているのかということに私も関心があるのだが、研究時間については数えることが不可能であると思う。机に向かってきちんとノートを取るようにして研究する人もいるのかもしれないが、私は全然そうではない。これまでの自分の論文を振り返ってみても、重要なアイディアを思いついたのは、ご飯を食べているとき、歩いているとき、シャワーを浴びているとき、布団に入っているときなどが多かった。特に考えようとしているわけではないときに、突然いいアイディアが降ってくることも少なくない。起きている時間はいつも、心のどこかで研究のことを無意識にでも考えているのだと思うし、私の労働形態も裁量労働制という、時間に拘束されない形なので、形式的な時間管理とは相性が悪いのであろう。

 しかし一つ、数学者と小説家には大きな違いがある。小説家の収入は完全に作品の売り上げに比例するというシビアな形であるのに対し、数学者の収入はほぼサラリーマンと同じ形である。小説家のような完全自由業にあこがれる気持ちもあるのだが、残念ながら数学者はそのような形でかせぐことはできないのであろう。

(かわひがし やすゆき・数学者)


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