志村昌司 小裂への想い[『図書』2025年1月号より]
小裂への想い
──志村ふくみ100歳を迎えて
心象風景を織る
染織家・志村ふくみは2024年9月30日で満100歳を迎えた。「人生100年時代」と言われるが、大正13年に生まれ、昭和、平成、令和を生き抜いた100年の人生は並大抵のことではなく、やはり重みがある。100歳を過ぎても、午前中に般若心経を写経し、午後にはデザインや読書、散歩など、自分で決めた日課を守って暮らしている。孫である私から見ても、ふくみは周りに流されずに、自分のペースで生活を組み立てていける人だなと感じる。
昨年から今年にかけて100歳を記念した展覧会が滋賀県立美術館と東京・大倉集古館で開催された。その際、ふくみは次のような言葉を寄せている。「私の生きた1世紀と、次の1世紀を思うとその違いに慄然といたします。地球の環境全てが大きく変わってしまいました」。確かに過去100年間で、地球の環境は大きく変わってしまった。草木染めの現場でも日本茜、紫根、近江刈安など古来の植物染料はほぼ手に入らなくなっている。このペースで地球温暖化や環境破壊が進むと22世紀の地球はどうなるだろうか。想像すると恐ろしくなる。
ふくみの作品の本質は、心象風景が植物の色彩を通して表現されている点にある。それはあたかも自然の抽象画のようである。特に故郷の琵琶湖は原風景として深く心に刻まれ、多くの作品のテーマになってきた。ふくみは2歳で東京・吉祥寺に養女に出されたので、幼い頃に琵琶湖に直接親しんだわけではない。しかし、原風景とは単なる故郷の風景というわけではなく、深く心と結びついてはじめて原風景となる。ふくみにとって、琵琶湖は離婚して東京から近江八幡へ戻ったときの自分の気持ちを受け止めてくれた「母なる湖」であり、肉親や愛する人の魂を鎮める「鎮魂の湖」であったからこそ、心の永遠の姿になったのである。
例えば、代表作《湖上夕照》(1979)は、ふくみがまだ近江八幡に住んでいたころに安土から舟に乗って、ふと振り向いたときに目に飛び込んできた、赤光につつまれた夕暮れ時の琵琶湖の光景がテーマである。この作品は非常に抽象的でありながら、見る人の想像力を喚起させ、まるで目の前に琵琶湖の風景が広がるような錯覚を起こすほどの力を持っている。まさに個人の心象風景が個を超えた美を宿している作品である。
琵琶湖に限らず、ふくみの作品の根底には「心象風景」がある。ふくみは機に向かうときは、外ではなくいつも心の内側に眼を向けている。織物を織るということは自分の心の深いところへと分け入り、自己をも超えた美に触れる行為であると言えるかもしれない。
草木染め
ふくみは染織をはじめてすぐの33歳のとき、第4回日本伝統工芸展に《方形文綴織単帯》(1957)を出品した。オランダの抽象画家ピート・モンドリアン(1872―1944)に影響を受けたという作品は、技術的にはまだ未熟であったが、すでに色彩に対するすぐれた感性が十分に感じられる。たまたま審査員の芹沢銈介(1895―1984)の目にとまり、「色がいいからいれてあげよう」と入選したそうだ。後日、芹沢に挨拶に行ったときに、「君はこれからも草木染めをするのか」「平織でいくのか」と質問され、「はい、草木染めと平織でいきます」と即答したらしい。すでにキャリアの初期の段階で草木染めと平織を仕事の中心に据える決意をしていたのだ。
草木染めは今でこそ市民権を得ているが、当時は化学染料に押されて、どんどん廃れていく一方であった。時代遅れの貧しい染めとすら見なされていた。それでもふくみは、強い情熱を持って草木染めに取り組んでいた。というのも、柳宗悦(1889―1961)の勧めで染織の道に入ったふくみは民藝の理念に共感し、自然へ畏敬の念をもつと同時に、植物の色彩からその背後にある神秘的な存在を感じていたからである。
ふくみはよく「草木の声を聞き、色をいただく」という。この言葉は、「草木の声」が聞き取れる繊細な感性、「色をいただく」という謙虚な心、こうした資質が備わっていなければ、私たちは決して植物の本来持っている色を染めることはできない、という意味が込められている。植物の色彩と私たちの心が1つになったとき、はじめて私たちは美しい色を染めることができるのである。
本来の草木染めはただ植物の色で糸を染めるということだけではなく、草木の精を移す行為でもあった。古代の人は植物には霊的な力が宿っており、その生命が捧げられることで、色彩となって人間を悪霊から守ってくれると信じていた。工藝は常に殺生を伴う。染織も例外ではなく、蚕の生命、植物の生命をいただいて織物を作る。古代の人々は自然の供犠に感謝し、供養の気持ちを持っていたが、近代に入ってからはそうした気持ちはすっかり忘れられてしまった。染織の現場にいると、今、私たちは再び自然への感謝や畏敬の念を取り戻すべきではないだろうかと強く思う。
平織
平織とは、経糸が1本ずつ交互に上下し、その間を緯糸が左右する、最もシンプルな技法である。誰でも1、2年すれば十分にマスターできる。しかし「表現」という視点に立てば、これほど難しい織物はない。平織は「鏡」のようなもので、織手の心をすべて映し出すがゆえに、あるがままの心をさらけ出す勇気がないと、なかなか織りすすめることはできない。ありのままの心で機に向かうためには、心安んじて生きていける境地、いわゆる「安心(あんじん)」の境地に到らないといけないのかもしれない。
織手は機の前で日々葛藤する。平織にすべてを委ねようとしても、なかなか実際にはそうはならない。しかし、葛藤があるからこそ織物は生き生きとした生命を宿すとも言える。
平織は織手(ひと)の心である。底深い包容力をもって織手を包もうとする。しかし、織手は平織にすべてをゆだねることができずに苦しむ、その日この相克が織物を新鮮にする、汲めども尽きないものにする。平織に宇宙と人間の深い仕組みがこめられていることをようやく知るようになる。
(「平織」『野の果て』)
葛藤を通じて織手は、機には人智が及ばない宇宙の原理が内包されている、と確かに感じてくる。ふくみが大切にしている柳の心偈のなかに「絲ノ道 法ノ道」という言葉がある。これは、法の道に従って糸の道を歩む者には、大きな他力の恵みがもたらされるという意味であるが、これほど端的に平織の本質を示した言葉はない。つまり、織手は苦労して染織の道を歩むなかで、機と一体となって経と緯とが交わる法則を覚知し、それに身を委ねることができたとき、自らを超えた美を生み出すことができるのである。
美と救済
ふくみは、病床に伏していた柳宗悦を見舞ったときに「良き織物は良き書に通じる」と言われたという。ここでの「良き書」とはただ優れた書という意味ではなく、語り得ない世界へ誘う言葉の芸術のことである。同様に「良き織物」もまた、ただ技術的に優れた織物ではなく、美醜を超えた彼方の世界へと誘うような織物のことである。当時、柳は『美の法門』(1949)『無有好醜の願』(1957) 『美の浄土』(1960)『法と美』(1961)など次々と執筆し、仏教美学の思想を築き上げた時期であった。特に美醜という二元的世界を超えた「不二の美」、美と信仰が一体となった「美信一如」、そして凡てはあるがままの状態で救われているという「美と救済」の考え方は、ふくみの生き方に大きな影響を与えた。次の柳の言葉は仏教美学の本質を表している。
美醜を超えたその本性に居れば、誰であろうと何ものであろうと、救いの中に在るのだと教えるのである。
(柳宗悦『美の法門』)
つまり、どんなものであろうとも、本来のあるがままの姿になれば美が宿るという考え方である。私たちが分別心によって物を分析し、概念化すれば、むしろ物を解体してしまい、美を失ってしまうことになる。陶芸家の河井寛次郎(1890―1966)も「美は概念でない」と述べているが、私たちは科学的に分析することによって、逆に物の本質を見失うことがあるのだ。ふくみも次のように述べている。
物を物として分析、解明してゆく方向とは逆の、物とは何か、物を物として存在させているものの領域というか、知識や努力では通れない、何か決定的な厳しい関門があるように思われた。
(「雪の湖」『野の果て』)
分析的知性では通れない「決定的な厳しい関門」があり、そこを通らなければ「不二の美」、いわば「真如の世界」に到達することができない。かつてロマン派の詩人ノヴァーリス(1772―1801)も「世界は浪漫化されねばならない」と訴えたが、私たちは近代化で失われた世界の根源的な意味をいかに回復できるのか、その課題の前に立たされている。私たちは物質的な繁栄の中で、実は非常に貧しい世界で生きているのかもしれないのだ。
柳の「美の宗教」の要諦は、信なき時代においてもなお「美」によって私たちの魂は救済されうるということである。それは、ふくみにとっては「美」が「色」になるのかもしれない。無量の植物の色彩を通して、目に見えない世界へ参入し、植物の生命と合一する法悦をふくみは何度も味わった。まさにそれこそが「美による魂の救済」ではないだろうか。
ふくみは長い作家人生のなかで織りためた小裂(こぎれ)を大切にとっておき、何冊かの小裂帖としてまとめている。今年1年間、『図書』の表紙に小裂が1点ずつ掲載される。小裂は心の断片であり、どんな小さな裂にも心が宿っている。「糸のあわいから、響いては消えてゆくかすかなさざめき」に耳を澄ませていただければ、と心から願っている。
(しむら しょうじ・アトリエシムラ代表)