web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

森田義之 チェンニーノ・チェンニーニとその『絵画術の書』をめぐって(上)[『図書』2025年2月号より]

チェンニーノ・チェンニーニとその『絵画術の書』をめぐって(上)

 

 一九九一年に岩波書店より出版された『チェンニーノ・チェンニーニ 絵画術の書』(辻茂編訳、石原靖夫・望月一史訳)が岩波文庫として再刊されるのを機に(二〇二五年一月刊)、著者チェンニーニについて、また本書が書かれた時代のフィレンツェの文化と社会の状況について、知られていることを述べておこう。

俗語で書かれた最初の絵画技法書

 西洋における絵画・彫刻の材料や技法についての記述としては、古代ローマ時代の建築家ウィトルウィウス・ポリオ(前一世紀)の『建築書(建築十書)』や、博物誌家大プリニウス(二三/二四―七九年)の『博物誌』(第三四巻、第三五巻)、中世ではドイツのベネディクト会修道士テオフィルスの『さまざまの技能について(諸技芸提要)』(一二世紀前半)などが、代表的なものとして知られる。

 しかし、この『絵画術の書』は、古代や中世の大知識人やラテン語を共通語とする聖職者ではなく、ルネサンス黎明期のイタリアで無名にちかい画家として仕事していた人物が市井の俗語で──当時の画家や職人たちの工房用語をふんだんに用いながら──書いたものであり、中世以来の伝統を強く引き継ぐこの時代の絵画制作の実態をあますところなく伝える百科全書的(エンサイクロペディック)な指南書=手引書として、比類のない独自性と歴史的重要性をもっている。

 著者チェンニーノ・チェンニーニ(一三七〇頃―一四二七以前)については、彼自身が本書の第一章で、誇らしげな調子で自己紹介し、その執筆意図を明確に語っている。

 「コッレ・ディ・ヴァル・デルサ出身のアンドレア・チェンニーニを父として生まれたこの私、チェンニーノは、フィレンツェのタッデーオ〔・ガッディ、一三〇〇頃―六六〕の子息であるわが師アーニョロ〔・ガッディ、一三三三頃―九六〕から、このわざについて一二年間にわたり教えを受けたのである。アーニョロは、その絵画のわざを彼の父タッデーオから学んでおり、そして、この父のタッデーオという人は、洗礼をジョット〔・ディ・ボンドーネ、一二六七頃―一三三七〕の立ち会いのもとに受けており、その人の弟子であること二四年間にも及んだのであった。」

 ここに書かれている簡単な自伝的記述のほかにチェンニーニの生涯について知られることはごく限られ、しかも謎の部分が多い。それについては後半で述べることとして、まずこの『絵画術の書』に書かれている内容について、概要を紹介しておこう。

 

『絵画術の書』の概要

 本書は、長短一八九章からなり、五つの部分に分かれている。

 I部(第五章―第三四章)では、絵画の基本である素描とそれに用いる練習板、尖筆とペン、そして基底材としての羊皮紙や各種の着彩紙/バンバジーナ紙について説明がなされ、加えて素描の心得と仕上げ方が述べられる。

 II部(第三五章―第六六章)では、絵画の彩色に用いる六種の顔料──黒色、赤色、黄色、緑色、白色、青色(ドイツ青/オルトレマリーノ青)―の特性とさまざまな混合色のつくり方が説明され、最後に絵筆(銀栗鼠毛と豚毛)のつくり方が述べられる。

 本書の中心をなすIII部(第六七章―第一〇三章)とIV部(第一〇四章―第一五六章)では、この時代の二大画法である壁画と板絵についての詳細な説明がなされる。

 最後のV部では、前半(第一五七章―第一八〇章)で写本彩色画、布に描く法、聖俗の各種工芸品や立体物の塗装と装飾などが、後半(第一八一章―第一八九章)では人体の型取り法など、古代・中世以来行なわれてきた工房での様々な作業が解説されている。

 この書で懇切丁寧に語られている当時の画家工房での制作活動を理解するには、巻末に付された詳細な「用語解説」を参照しながら、少しずつ吟味しつつ読み進めるほかないが、ひとつだけ補足しておく必要があるだろう。

 それはこの時代に板絵(大小の祭壇画)の花形技法として開花を遂げた「テンペラ画」という訳語が本書には登場せず、〈tempera(名詞)〉〈temperare(動詞)〉は、それぞれの原義に立ち戻って「結合剤(テンペラ)」「顔料を結合剤で溶くこと(テンペラーレ)」と訳されていることである。元来、ラテン語の〈temperare〉(「調合する」「混ぜ合わせる」の意)に由来するこの言葉は、美術用語としては、膠、カゼイン、ゴムや各種の樹脂、卵(全卵、卵黄、卵白)など、顔料を溶き支持体に固着させるあらゆる結合剤やそれで溶いた絵具を指していた。それが一三―一四世紀に、チェンニーニが述べているように(第一四五章)、発色と固着力の両面で「卵黄」が最良の結合剤であることが判ると、テンペラで描いた絵とは実質的に「卵テンペラ画」を指すようになったのである。

 

フレスコ画とテンペラ画の制作場景

 チェンニーニの書に述べられている板絵や壁画を制作中の様子は、当時の図像資料を見ると理解しやすいだろう。

図1 一五〇〇年頃、フィレンツェの木版画
図1 一五〇〇年頃、フィレンツェの木版画

 図1は、建物の壁面にフレスコ画を制作中の画家が高い足場から転落しそうになったとき(悪魔が画家の手をつかんで落下させようとしている)、画家が描いていた絵から聖母マリアが出現して画家の命を救ったという奇跡を表している。こうした制作中の事故は珍しくなかったらしく、ミケランジェロも《最後の審判》(システィーナ礼拝堂)を制作中に足場から落ち、重傷を負っている。足場の上には、大きな定規のほか、大小の絵具壺や絵筆、顔料の練り板などが置かれている。

図2 聖母子画を制作中の聖ルカ、一五一三年の木版画
図2 聖母子画を制作中の聖ルカ、一五一三年の木版画

 図2は、画家の守護聖人である聖ルカが、工房で天上から出現する聖母マリアを仰ぎ見ながら、画架の上に置かれた聖母子像の板絵を仕上げている場面。彼は右手に画杖と絵筆を持ち、左手に多角形の小型のパレットを持っている。左隅の台の上には鉱物顔料を砕くための大きな花崗岩の練り板と重そうな太い練り棒が置かれ、台の下段には数個の小さな絵具鉢が置かれている。

 

都市フィレンツェの繁栄と工房の文化

 こうした、中世末―ルネサンス初期のフィレンツェの画家工房の社会的・文化的背景はどのようなものだったのか、ここで一瞥しておこう。

 一〇―一一世紀にかけてヨーロッパ中で「商業の復活」が顕著になると、イタリアでも中北部のロンバルディアやトスカーナの諸都市を中心に国際的な交易活動と商工業が急速な発展を遂げ、それにともなって都市建設が大々的に進められた。フィレンツェでは、一二―一四世紀に市壁が三度にわたって拡張され、改築が進行中の巨大な大聖堂(ドゥオーモ)や政庁館、主要な托鉢修道会の聖堂と広場を中心に、有力な都市貴族や商人たちの館が立ち並び、それらの館の一階にはあらゆる職種の製造業の工房=店舗(ボッテーガ)がひしめいて、活気あふれる都市の景観をつくりだしていた。

 商人やものづくりの職人たちは、都市の政治・経済活動の中核を担う三大組合──カリマーラ組合(貿易商組合)、羊毛組合、銀行組合(両替商組合)──を中心に大小の同業組合(アルテ)を組織し、その数は一三世紀末には二一に達した。

 画家たちは、稀少な顔料や媒材を扱うという理由で医師・薬種商組合の末席に組み入れられ(一四〇五年にはこれとは別に聖ルカ信心会(コンパニア・ディ・サン・ルーカ)という名の画家組合を結成)、彼らの工房の多くは現在のカルツァイウオーリ通りの一部に当たる画家通り(コルソ・ディ・ピットーリ)に置かれた。彫刻家たちは石工・木工師組合や金細工師組合に属し、前者の工房の多くは旧市場(メルカート・ヴェッキオ)の周辺に、後者の工房はオラフィ通り(現フェデリーギ通り)や旧市場、ポンテ・ヴェッキオなどに分散して置かれた(アルノ川に架かるこの最古の橋の上には現在でも貴金属の店舗=工房が所狭しと建ち並んでいる)。

 美術家たちの工房は、他の業種の工房と同様、組合に登録された一人の工房主と少人数の助手や徒弟からなり、契約書を交わして賃金が支払われ、寝食を共にしながら、パトロンや顧客から注文された作品を分業方式で制作した(小型の礼拝画や金銀細工のような作品は注文によらない既製品として店頭などで販売されることも多かった)。

 チェンニーニによれば、師匠の工房に入門した少年は、最初の一年間は師匠の作品を手本にして素描の勉強に励み、次の六年間は諸種の顔料や媒材の準備、石膏による板絵の下地作り、金箔置きなど、描画に先立つ準備工程に習熟する。そして最後の六年間は、師匠の指導下に板絵や壁画の実際の制作に参加しながら、一人前の画家になるべく腕を磨くというものだった。

 しかし、これはチェンニーニが自分の経験に即して立てた理想的なプランであり、実際には、入門時の年齢も修業期間も工房ごとにまちまちであったらしい。

 一五世紀の「医師・薬種商組合規約」では、徒弟や助手の数には特に制限はなく、年齢は一四―二五歳と定められ、契約期間は三年以上となっていた。しかし実際には、この修業期間をまっとうする者は少なく、ごく短期間で逃げ出したり転職する徒弟も少なくなかった(望月一史「ネーリ・ディ・ビッチの工房──ルネサンス期フィレンツェの一画家工房」『日伊文化研究』第二二号、一九八四年)。

 中世からルネサンス期にかけて、従来は修道院に拠点を置いていた各種の美術家の工房は都市に進出し、都市の聖俗公私のパトロンの需要に応じて活動の規模を拡大していったが、それとともに工房の規模や構造も多様化していった。

 当時のフィレンツェの都市工房の様相を、歴史家ジーン・A・ブラッカーは次のように描写している。

 「ルネサンス期フィレンツェの顕著な特徴は、それぞれの地区や街区における社会的・経済的な異種混交性であった。都市のなかに富裕層だけが居住する地区は存在しなかったし、貧民しか住んでいない地区もなかった。どの地区でも大きな邸館と小さな家、織物工房と小売店、教区聖堂と修道院が入り交じっていた。当時も今と同じく、優美な館の一階は商人や職人に貸し出され、富裕な銀行家や工房主が、靴屋や石工、貧しい織工、そして娼婦の住む同じ通りに住んでいた。」(『ルネサンス都市フィレンツェ』森田義之・松本典昭訳、岩波書店、二〇一一年)

(もりたよしゆき・イタリア美術史)


<『絵画術の書』関連イベント情報>
中世の華・黄金テンペラ画──石原靖夫の復元模写
チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』を巡る旅
会期|2025年2月15日(土)~2025年3月23日(日)
会場|目黒区美術館
東京都目黒区目黒2-4-36 目黒区民センター敷地内

詳細は下記サイトよりご覧ください。
https://mmat.jp/exhibition/archive/2025/20250215-450.html


『図書』年間購読のお申込みはこちら

タグ

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる