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奥本大三郎 花盛りの庭[『図書』2025年2月号より]

花盛りの庭

 

 『断腸亭日乗』の書きはじめは、大正六年九月十六日となっている。したがって、初めのうち、そこに記録されているのは主に、関東大震災や第二次世界大戦の空襲によって焼き払われる以前の東京ということになる。

 その頃の東京は、木造家屋が密集した住宅地がだだっ広く野放図に広がり始めた町であった。江戸時代には、武家の屋敷の地区、町人の地区などと、はっきりした区分けがあったけれど、明治維新でそれがなくなり、都市開発に制約がなくなった。それまでは「本郷も「兼康」までは江戸の内」などと言われたそうだが、江戸の内の範囲が広まり、元々の畑でも何でも潰されて宅地に変わっていった。

 日清、日露の戦争で勲功のあった軍人が、恩給で農地を買って家を建てるというようなこともあった。それは佐々木邦のユーモア小説「ゴンドラ村」に、多少戯画化して描かれているとおりであろう。郊外の家を出れば、周りは田んぼに畑ばかり。肥溜めの臭いがあたりに漂うような環境である。

 都市部では江戸と同じ、結構大きな火事が、それも、しょっちゅうあったようで、その点ではまさに江戸時代の続きのようなところもある。

 一方で、数千坪、数万坪という大邸宅に住む華族、富豪の屋敷には広大な庭園があった。特に華族の場合、代々鳥の飼育に関わる専門の技術をもった人まで抱えていて、飼い鳥に芸をしこんだり、場合によっては庭に来る鳥を捕まえたり、池に来る水鳥を慣らしたりしているから、幼時からそれを間近に見て鳥に親しみ、のちには鳥類学者になった身分の高い人が多かったようである。山階芳麿、鷹司信輔、黒田長禮、蜂須賀正氏、坊城俊良、清棲幸保……と名を挙げることができる。

 一般の民家となると、自然がないようにも思えるが、長屋は別として、ちょっとした家には必ず庭があった。前栽、裏庭、そして隣家との境界など、人工物と緑とがモザイクのように混じっていた。

 現代の住宅地と比べれば、土地に余裕というか隙間がある。庶民の家にも洗濯物を干す場所や家庭菜園などというものもあり、鳥瞰図的にはどこもかしこも、現在のいわゆる里山とは言わぬまでも、ちょっとそれに近い状態である、大型鳥獣には無理でも、小鳥などにすれば、餌を漁るにはいいところと言える。

 それというのも、当時の成功者は、たいていが田舎育ちで、自分の家屋敷を造る時には、必ず庭を拵え、植物を植えたからである。当時の東京は、都市というよりは、人間が都合の良いように手を入れた、自然と人間の生活の場とがないまぜになった状態の町である。

 『断腸亭日乗』は、あえて言えば日本の人と世に対する“失望の記”であり、バルザックの小説ではないが、『幻滅』とでも名付くべき記録だけれど、その実、密かな喜びに満ちてもいる。さまざまな人々との交流、世相風俗の実態が記されていることはもちろんであるが、都会の中の自然についてもまた、かなり詳しく記録されていることに気が付く。

 『断腸亭日乗』の記述を信じると、荷風という人は、実に思うがままに独身男性の生活を享受したかのようである。彼は一時銀行に勤めて、お金の威力というものを知っているから、その辺は油断がない。父親から相当の遺産を受け継ぎ、働かなくていいような身分で、金がある上に暇がある。それに世間体などというものもはじめから振り捨ててしまっているから、当時の芸妓、待合などというシステムを利用して、あたかも、鹿やオットセイの強い雄のように、事実上のハーレムを作り、性的には思うままの生活ができたようである。もっとも、荷風には自分の子孫を残すというような本能はない。それどころか、妻子のいる家庭生活などというものは大嫌いなのである。

 そういう荷風の自由気ままな女性関係について詮索するのも面白いだろうけれど、それより、戦前の東京の都市の中の自然の記録として読めば、『断腸亭日乗』は実に優れた日記となる。四季の庭にどんな鳥が来るかがよく分かるし、庭木を中心とする当時の日本人の好みなども分かるようである。もちろん、危険を冒して社会を改良するなどということにも興味がない、というより醒めている一人の知的なエゴイストが、移りゆく世相にどんな反応を示したかについても、知ることができる。

 『断腸亭日乗』を、花や鳥の四季の暦として見れば、大正六年十月だけでもざっとこんな具合である。

 

十月四日   モズ初めて鳴く。

十月八日   ウグイス庭に来る。

十月十一日  モズしきりに鳴く。

十月十二日  アカトンボ飛ぶ。野ギク盛りとなる。

十月十四日  ヤツデを植え替える。

十月十五日  ヒヨドリ鳴く。

十月十六日  ツワブキ咲く。その葉裏に毛虫を見つける。

十月十七日  セキレイ来る。

 

 大正六年九月。つまり、この日記を書き出した頃、初めは手帳に鉛筆で、メモのように書き付けたのだが、やがて本格的に罫紙に筆で書くようになる。あとで製本し、和綴の冊子にするのである。

 荷風は、しきりに成島柳北の日記などを筆写しているが、現代のインテリとは違って彼は、手で書き写すことに意義を認めていたようである。

 ついでに言えば、原稿用紙は、市販のものを買ったりすることもあったであろうが、専用の枠を用い、陰干しにした梔子の実から取った染料や臙脂を煮た染料で桝目を染めたようである。紙はもちろん和紙。

 いい墨をいい硯で磨るとその香りが立ちのぼり、紙の繊維に墨色が染み込んでいくのが快い。そして和紙に字を書くと、書き損じても捨てるのはもったいないと感じる。ただし、梔子の染料は時間が経つと色が褪せてしまうようである。十一月三日の項に、

 

快晴。南伝馬町太刀伊勢屋に往き石州半紙一〆を購ひ帰途米刃堂を訪ふ。

 

とある。石州半紙とは、島根県浜田市や津和野町などで作られる、艶のある和紙で、繊維が太く長いために強靭である。滲みが少ない。一〆は二千枚。これは、原稿用紙の材料を買ったのであろう。

 荷風の世代の人は子供の時からの習慣で、墨を磨り、筆を持つと、背筋がぴんと伸び、気分が改まった感じになったらしい。ペンをインク壺に突っ込んで、規則正しく斜めに傾いたアルファベットを書くのとはまた違う。そして、自然に文語調の文章になったに違いない。だから、文人たるもの、文房四宝(すなわち筆墨硯紙)を愛玩するわけである。戦争中の荷風は、いち早く関西に疎開していた谷崎潤一郎から、牛肉などと共に、原稿執筆用の細筆をもらい、感謝している。その点、独り者でその日その日を思いつきで暮らしている荷風と違い、谷崎は何があっても大丈夫なように、生活の用意そのものを日頃から整えていたようである。

 とはいえ、それはまだずっと先の話。春ともなれば、独身の荷風の家の庭は花盛りになろうとする。みんな主人たる荷風が、種子を撒いておいたのである。

 

(大正七年)五月十三日。八ツ手の若芽舒ぶ。秋海棠の芽出づ。四月中種まきたる草花皆芽を発す。無花果の実鳩の卵ほどの大さになれり。枇杷も亦熟す。菖蒲花開かむとし錦木花をつく。松の花風に従つて飛ぶこと烟の如し。貝母枯れ、芍薬の蕾漸く綻びむとす。虎耳草未花なし。

 

 まさに花盛りの庭園である。こうしてこそ、季節感というものが感じられる。花の名前、植物の種類を和名、漢名で知っているだけでも、世界が深い気がする。松の花が煙のように、風に乗って飛ぶのに気がついたり、貝母(アミガサユリ)の枯れたのを見たり。さすがによく観察している。虎耳草は、ユキノシタである。

 そういえば、荷風の崇拝する森鴎外も、小品「田楽豆腐」にあるように、江戸時代からの薬草園である、小石川の植物園を訪れたりして植物を愛玩しているし、荷風も後園に、ゲンノショウコのような薬草まで栽培していて、自分も飲み、胃腸の弱い来客にも分けてやっている。

 

(大正七年)六月十三日。晴天。梅もどきの花開く。香気烈しく虻集り来ることおびたゞし。

 

 この頃、花が咲けば、今の東京の街中よりずっと、虫が数多く集まってきたのである。ウメモドキは、赤い小粒の実をびっしりつける植木の一種で、庭の彩りによく使われた。モチノキ科モチノキ属の落葉低木。

 「虻」と言われているものが本当は何であるかは判らない。ハナアブかもしれないし、マルハナバチの類かもしれない。

 九月になると、毎日雨が降る。小説「雨瀟瀟」なども、雨漏りの話から始まるところを見ると、荷風はどうやら雨がそんなに嫌いではないらしい。

 

(大正六年)九月十七日。また雨。一昨日四谷通夜店にて買ひたる梅もどき一株を窓外に植う。此頃の天気模様なれば枯るゝ憂なし。燈下反故紙にて手箱を張る。蟋蟀頻に縁側に上りて啼く。寝に就かむとする時机に凭り小説二三枚ほどかき得たり。

 

 女を連れて箱根の温泉に逗留していて、父親の死に間に合わなかったというような荷風のことであるから、毎日家にいるわけではない。水やりを忘れて植木を枯らすこともあっただろう。植え替えたウメモドキに花が咲き、実が熟すると、「チーヨ、チーヨ」と喧しく鳴き交わしながら鵯の群れが来る。

 

(大正六年)十一月十六日。鵯毎朝窓外の梅もどきに群り来る。余起出ること晩ければこれを追うこと能はず今は赤き実一粒もなくなりたり。

 

 ヒヨドリの群れが来て、実を全部食べ尽くしてしまったのである。勝手気ままな生活の荷風が起き出してくる頃にはヒヨドリの饗宴はすぎてしまっている。

 植物に関しては、いわゆる「草花」「庭木」や「鉢物」にしか、値打ちを認めないようである。勤めもなく、好きなだけ寝ているからこうなる。雑草は抜く、枯葉は掃く。いや、園丁にそうさせる。しかし、荷風の写真を見ると、その箒の持ち方は実に手なれたものである。

 ウメモドキなどは、野外に勝手に生えたものと違い、中国文化や日本文化の中で一定の価値を認められた、いわゆる庭木に属する。

 野外で採集するものは、山野草と称している。植木は庭の主人が採集するものではなく、植木屋に金を払って扱わせるもの。枯れたらまた植え替えさせる。

 実は、女性相手の場合にも同じシステムを採用している。素人女には結婚で懲りている。待合などを通して金を払い、芸妓か何か、玄人に世話させる。トラブルがあっても、金を払ってあるから、いまさら男の方に責任は降りかからない。ちゃんと間に入ったプロに責任を取らせることになっている。

 

 当時は、夕食の後、ラジオ、テレビがあるわけでなし、家にいても退屈であるから、腹ごなしと称してちょっと歩きに行く。場合によっては活動写真か寄席をのぞいてみる。もちろん、浴衣掛けに下駄。夏ならカンカン帽にステッキで、散歩がてら夜店をひやかす。古道具屋、骨董屋もあれば植木屋もある。

 ムシロを広げて、品物を並べただけの店も多い。子供相手のほとんど香具師のような店もある。しかし、その口上が達者で面白い。

 かく言う筆者は、神社の境内などにまだそういう夜店の出た戦争直後、ムシロの上に配置した石が飛ぶというのをすっかり信じて、今飛ぶか今飛ぶかと、固唾を飲んで見守ったことがある。

 石はなかなか飛ばない、父はすたすた先に行ってしまう。香具師は、「危ない、はいそこ、後ろに下がった」と、持っている竹の棒で僕を指す。どきりとした。

 父に追いついて、「あの石、ほんまに飛ぶん?」と訊くと、父は笑って、「飛ばへん。ああやってしまいに、あそこにあった薬売るんや」と言った。

 荷風の場合は家にいても一人だから、何をしようと勝手である。夜になって、糊を煮て、箱を張る。和紙は繊維が強いし、書き損じの反故も丸めて捨てたりはしない。取っておけば、ちゃんと下張りになる。これも文人の楽しみの一つ。

 大正六年十月の『断腸亭日乗』を改めて引いてみたい。

 

十月四日。百舌始めて鳴く。

 

 百舌鳥は秋の象徴である。テリトリーを宣言するように、木の枝先などに止まってキ、キーツ!と鋭い声で鳴く。その声がけたたましいので、「百舌鳥」というし、また外国人の喋り方を蔑んで、「南蛮鴃舌」などともいう。「鴃」の字はモズをさす。

 

十月八日。……薮鶯早くも庭に来れり。

 

 薮鶯は、早春に鳴き始める。この頃は、鳴き方もおぼつかない。根岸の里に近い鶯谷は、京都から来た皇族、公弁法親王が「この地の鶯には鳴き声に訛りがある」と、尾形乾山に京都から鶯を運ばせて放鳥したという。「鳥の鳴く東」などと京都の人間は関東の人間を馬鹿にした。

 

十月十一日。……百舌頻に啼く。

 

 今年初めて、百舌鳥の声を聞いてから、その声を聞くことが多くなった。晴れた秋空によく響く。

 

十月十二日。赤蜻蛉とびめぐり野菊の花さかりとなる。

 

 庭の野菊などに静止していて、獲物を見つけると飛び立って捕獲し、また同じところに舞い戻ってくる赤いトンボはアキアカネであろう。

 アキアカネはいわゆるアカトンボの一種で、夏の暑い頃は山地で過ごし、秋になってトウガラシのように紅色に成熟したものが、大挙して低地に降りてくる。もっと大きくて、羽の広いのは、ウスバキトンボ(薄羽黄とんぼ)、またの名を「精霊蜻蛉」という。このトンボは毎年、春先に南方で育って、お盆の頃現れたのち、何代もかかって北東へ、北東へと飛び、北海道で寒さのために全滅する。

(おくもと だいさぶろう・フランス文学)


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【文庫解説】総解説 『断腸亭日乗』について

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