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【文庫解説】ライプニッツ『形而上学叙説 他五篇』

バロックの天才ライプニッツ(1646-1716)が、実体の概念には「それ自身に起きるすべての出来事が含まれている」と説いた中期の代表作『形而上学叙説』。岩波文庫では、1950年の河野与一訳から75年ぶりの新訳を刊行しました。今回は、アルノー宛書簡、デカルト哲学と対峙した「デカルト『哲学原理』評釈」など5篇とともにお送りします。以下は、訳者の佐々木能章先生による解説からの抜粋です。


 本書に収めたのは、ライプニッツの中期から後期に至る手前まで、年号で言うと一六八六年から一六九九年までに書かれた作品で、ここには「モナド」も「予定調和」も用語としては登場しない。しかしその内実は十分に成熟しつつあった。残すはその内実を表す符牒としての用語を待つだけである。とはいえその思想は完成したものではなく常に熟成しつつあるものだった。

(1)『形而上学叙説』と「アルノー宛書簡」

 1 成立経緯 ライプニッツは一六八六年一月初めから四月初めまで、ドイツのハルツ山地のツェラーフェルトに滞在していた(ハルツについては後述)。ここから二月一日/一一日、後にアルノーと往復書簡を交わす仲介者となるエルンスト・フォン・ヘセン― ラインフェルス方伯(Landgraf Ernst von Hessen-Rheinfels 1658―1693.「方伯」はドイツの爵位)宛に書いている。方伯とは以前から書物のやり取りなどを通じて知己を得ていた。「私は近頃(某地で数日間何もすることがなかったので)形而上学についての小さな叙説を書きました。」(A II, 2, N. 1, S. 3)これが後に『形而上学叙説』(以下『叙説』)と呼ばれることになる作品である。冬の山地では手元に資料があるはずもない。このような環境の中で執筆されていた。しかし方伯宛の書簡からはそのような境遇も、またそれを苦に思っている様子も感じられない。小編とはいえ数日で一気に書き上げたとは信じられないが、方伯を通じてアルノーに見解を質したいとの思いから急いで書いていたことは間違いない。
 アルノーに対してライプニッツは若い頃に一度書簡を送ったことがある(一六七一年一一月初めA II, 1, S. 274―287. K II, 1, 132―158)が、この時には返信は得られなかった。再度接触を試みたのは、自分の哲学的立場を表明するはずの『叙説』について、アルノーからの評価を得たかったのであろう。そこには、高名な相手との論争が自身の知名度を高めることに役立つであろうという抜け目のない思惑もあったかもしれないが、純粋な哲学的動機に発したものだと理解しておきたい。仲介に選んだ方伯の立場が功を奏したのか、書簡のやり取りは無事に開始された。ところが胸を借りる筈の肝心の『叙説』が完成しない。止むを得ずライプニッツは『叙説』の草稿の各節の欄外に「概要」を記し、アルノーには大胆にもその「概要」だけを清書して送り意見を求めることにした。初めの頃は方伯を介していたが、やがて直接の交信となった。しかしこの文通の最中に『叙説』が完成することはなく、文通は最後まで「概要」に対して行われたのである。
 一六八六年二月一日/一一日にライプニッツから方伯へ送られた手紙を皮切りに、ライプニッツから方伯(を介してアルノー)へは六通、ライプニッツから直接アルノーへ送られた書簡は八通(最初の手紙は本書【一】の一六八六年七月四日/一四日のもの、最後の書簡は一六九〇年三月二三日)。アルノーから方伯(を介してライプニッツ)へ送られた書簡は四通、アルノーから直接ライプニッツへ送られた書簡は四通(最後の書簡は一六八七年八月二日)。方伯からライプニッツへの書簡が三通。また、以上の下書きが何通かあり(編者によって数が異なる)、ゲルハルト版では下書きを加えて全二六通の書簡集としてまとめられている。
 本書では、ライプニッツがアルノーへ送った書簡から五通を選んで訳出した。往復書簡であれば相手の主張も見るべきだが、ライプニッツは議論の際に相手の主張を再掲する場合が多く(他の往復書簡でも同様)、議論の流れは理解できるので、ライプニッツからの書簡に限った。
 ライプニッツが急いで送った「概要」ではあったが、さすがアルノーはそれだけからでも重要な論点を引き出し、辛辣な批判を浴びせる。ライプニッツは大物相手に怯ひるむことなく自説の正当性を提示する。しかし終始攻勢に立っていた、というか立とうとしていたライプニッツに対し、論争の終盤でアルノーは腰が引けた感じになる。一六八七年八月二日の書簡を最後にアルノーは論争から手を引く。ライプニッツはその後も数通送ってから、南ヨーロッパへの主として歴史調査への旅に出た。ハノーファーに帰るのは一六九〇年の六月であった。その帰途のヴェネチアからアルノーへ最後の書簡【五】を送っている。それはこの論争から得られた自分なりの結論を要約したものだと言える。
 
 2 何が問題か 肝心のアルノーには「概要」を送ることしかできなかったライプニッツであったが、『叙説』は、細部への彫琢が続くものの、ほぼ「完成」した形で残された。しかしそれは、ライプニッツの多くの著作がそうであるように、生存中に日の目を見ることがなかった。
 その構成は、晩年の『モナドロジー』がモナドに始まり神で完結するのとは異なり、神に始まり神で終わるものである。テーマは幾つかにまとめられる。①神は完全であり、善の秩序に従っている。奇蹟も秩序を外れてはいない。したがってその作品である世界は完全である。②被造物としての個体的実体は、その概念に属するすべての述語が内属し、それぞれが全宇宙を表出している。③各人の個体概念はその人に生じることのすべてを一遍に含んでいる。しかしこの真理は、どれほど確実であっても偶然的である。それは神もしくは被造物の自由意志に基礎付けられているからである。選択には常に理由があるが、その理由は傾かせるが強いることがない。④実体同士が直接作用し合うことはないが、互いに一致するように造られている。⑤自然法則の例としての力の保存則。自然の探究における目的因の効用。自然の説明の仕方として作用因と目的因とを調停する。⑥人間の知性のあり方。認識の段階。観念の役割。⑦神の恩寵と人間の自由との関係。⑧魂と身体の関係。精神の卓越性。⑨神はすべての精神からなる国家の君主であり、キリストは神の国と思考の幸福とを人々に示した。
 以上の「概要」に対してアルノーが先ず嚙み付いたのは「各人の個体概念はその人に生じることのすべてを一遍に含んでいる」という点についてであった。これではすべての被造物の出来事はすべて決まっていることになり、人間に自由がないばかりではなく、神にも自由がないことになってしまう。だがこの論点は、本質的一般的な述語と現実的個別的な述語を区別すること、そして世界の中にあるものはすべてが互いに連関しているというライプニッツからの説明を受けてアルノーは納得することになる。この頃、まだ「可能世界」の概念は成熟していないが、その一歩手前まで来ている。
 もう一つの問題は、「身体・物体」の存在論的身分をめぐるものである。別の言い方をすれば、魂と身体との関係である。ここでライプニッツは、後に「予定調和」と呼ぶことになる、相互一致の仮説を提起する。動物は、持続する魂(人間の場合には「精神」)と流動的な身体から構成される複合実体として存在している。この「複合実体」あるいは「物体的実体」は、後々にもライプニッツの哲学の重要なテーマとして論じられることになるが、アルノーとのやり取りの中では着地点を見出せないままに終わってしまう。
 ライプニッツの推敲癖は、『叙説』とアルノーとの論争を見ても明らかである。原稿の訂正跡の指摘については最小限にとどめたが、例えば『叙説』では、当初「機会原因説」に寄り添うような表現だったのを書き改めていることや、アルノーとの論争の中で、当初「実体的形相」という表現だったのを「エンテレケイア」と書き換えていることがわかる。ライプニッツが自分自身の哲学的ポジションを見定めるために試行錯誤していることが窺われる。
 
 3 再発見 『叙説』もアルノー宛書簡も日の目を見ることなくハノーファーの書庫に眠っていた。再び世に出たのは、グローテフェント(C. E. Grotefend)によって刊行された一八四六年のことであった。そして両者に大きな光が当てられたのは、ラッセル(Bertrand Russel 1872―1970)によるところが大きい。初期の著作『ライプニッツの哲学 Philosophy of Leibniz』(London, 1900)において、それまで『モナドロジー』を、筋は通っていても気ままな御伽噺のようだと思っていたが、『叙説』とアルノー書簡を読んだとたん、光の洪水がライプニッツの哲学の殿堂の最奥部にまで達した、とラッセルらしい言い回しで表現した(p. xiii)。これがライプニッツの哲学の論理学的な解釈の出発点でもあり、その影響力は極めて大きなものであった。
 ラッセルの目が個体的実体を巡る論点に集中するのに対し、物体的実体の意味に目を向けたのが、ドゥルーズ(Gilles Deleuze 1925―1995)であった。その著書『襞 Le pli』(Paris, 1988. 宇野邦一訳、河出書房新社 一九九八年)は、幾重にも折り畳まれた内実が織りなす存在の全体を、物体的な階とその上にある精神的な階の二階構造によって理解しようとする。これがライプニッツの形而上学の理解の軸となる。
 ここでは二人の評価は控えておくが、『叙説』とアルノー書簡がライプニッツの哲学の理解にとって重要であることを示すとともに、この内実が単なる解釈にとどまらず新たな哲学を生み出す力になっていることも示していると言えよう。異なる角度からの理解や解釈を受け入れることができるというのは、掘り下げるに値する内実を含んでいるということである。
 とりわけ、二〇世紀の哲学を牽引したドゥルーズが「形而上学」という古典的な学問に積極的な意味を見出そうとしていることは特筆に値する。アリストテレスに起源を有し西洋哲学の歴史の中で王道の地位を有していたこの学問は、二〇世紀にはその思弁的性格から忌避される傾向にあった。特に分析哲学の台頭はその傾向に拍車をかけた。ところが二一世紀に入ると、その分析哲学が形而上学と正面切って向き合うことになり、「現代形而上学」として哲学の主要な役割を担うようにさえなってきた。そしてその内実は、「存在」「原因」「自由意志」「可能性」など、伝統的な形而上学が扱っていた主題を論じている。ここでライプニッツに立ち返ってみるなら、こうした基本概念について、ライプニッツは既に随所で語っていたし、しかも語り口は「現代」形而上学が説くところと遜色がないように思われる。例えば、『叙説』第一四節の最後に、草稿段階では書かれていたが最終的に削除されたやや長い箇所がある(注73)。ここには時代に固有な用語も固有名詞もない。したがって、これをそのまま「現代形而上学」の論述に忍び込ませても恐らくほとんど違和感はなく、それなりに説得力のある主張と見られることであろう。

(全文は、本書『形而上学叙説 他五篇』をお読みください)

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