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思想の言葉:白永瑞【『思想』2025年3月号 特集|現代中国の思想】

◇目次◇

【特集】現代中国の思想

思想の言葉 白永瑞

 

〈討議〉「中国とは何か」を共に問うために
──現代中国の思想状況
中島隆博・石井剛・鈴木将久

 

―世界から中国へ―

1980,90年代以来の「中国文化」意識の変遷と分岐
江湄/山口早苗 訳

現代中国と西洋哲学
李猛/張瀛子 訳

歴史のエンパシー
──中国文化伝統と現代社会心理状況に基づく人文的心理療法の探究
王東美/鈴木将久 訳

 

―相関する思想―

唯物弁証法と政治パラダイム
──『一を分けて二とする』序論
劉紀蕙/石井剛 訳

自由主義
──貴族のものか,平民のものか
甘陽/比護遥 訳

近代文明の構築における国家と民主
──中国文明の復興についての思考
崇明/比護遥 訳

 

―中国から世界へ―

グローバル想像の再構築
──「天下」の理想から新世界主義へ
劉擎/孔德湧 訳

多元文化時代の歴史と主体
張旭東/田中雄大 訳

文化横断的ダイナミズムにおける現代漢語哲学
ファビアン・ホイベル/朝倉智心 訳

 
◇思想の言葉◇

相互省察と自己変革の鏡としての中国

白永瑞

 不確実性の増大という時代認識が二〇二五年を迎え一層拡散している。不確実性を増幅させる現実の複合危機を打開するため抜本的な変革、すなわち文明の大転換が必要だという声もあちこちで聞こえる。その長期的な課題への道程において各々の国家や社会が直面している状況に立ち向いながら、短期・中期の課題を設定し遂行しつつ長期的な課題に向けた動力を確保することが切実な時点である。

 この連鎖的な課題を遂行するうえで「グローバル・チャイナ」と称される中国がはたしてどのような役割を果たしうるのか、こう問うてみてもあながち的外れではなかろう。新たな文明への道程において我々が獲得し蓄積してきた思惟と経験のなかで有用なものなら、いかなるものであれ再考に値するからだ。資本主義の弊害を克服するための想像と思考の動力になりうる「資源」は、我々ができる限りを尽くして探査し活用を試みるかぎりにおいてのみ発見しうるだろう。それゆえ中国史において蓄積された思想資源との「対話的な関係」を構築すること、つまり大転換という局面で各々が置かれた現場の実感に即しつつ、その意味を問いただす批評的な態度を堅持し再活性化することが喫緊の課題なのだ。

 しかし世界を見回すと中国大陸の外では排華の世論と感情が広まっているようだ。その現われが親中/反中という単純化された二分法だろう。この二分法はそれぞれの社会における政治的な状況を媒介し生産・流通されるため非常に論争的(ときには党派的)になるしかない(一例として、現在の不安的な政治情勢のなか、韓国の場合、「反中」感情は北朝鮮ヘイトの補強材として極右勢力によって拡散されている)。問題は中国というテーマをめぐる「思想上の対話」もその影響を受けるということである。このような状況のなかで我々の中国への問いがいかなる意味を持つのか深刻に悩まねばなるまい。

 一つ参考になる現象がある。中国内外で人口に膾炙されている「中国とは何か」という議論である。中国のアイデンティティを再定立させ正当化しようというものか、もしくはその問いそのものを相対化させようとするものか、判断は分かれるところだが、この問いをめぐる議論のスペクトラムにおいて注目される共通点は、中国を地理的・種族的に不変のものとして自然化させる本質主義から脱し、中国を一種の歴史的な構成物としてみなす傾向ではないだろうか。こうした流れのなかで「方法としての中国」という思考の枠組みが目立つように思われるからだ。

 

 二一世紀以降、(東)アジア論述は中国において新たに浮上した知的潮流であるが、そのなかには竹内好や溝口雄三の「方法としての中国/アジア」の影響のもと「方法としての[作為方法的]……」という思考方法が広く受け入れられている。東亜儒学や東亜共同体のように具体的なものが議論の的ではないゆえに思い描くのがむずかしいが、私はこの潮流を暫定的に「中国の相対化・歴史化」と命名する。そして社会科学においても、個別国家を対象とする研究パラダイムから離れ、こうした思考の枠組みを積極的に取り入れようという試みが現われ、分析対象を地理的な単位に制限することなく行動主体や文明要素へと拡張しうることを認識しながら、主体的な視座と自律的な知識体系を構築しようとしている。こうした態度は注目に値すると思われる。もちろん中国特融の気風[气派]を強調する様相もみられ憂慮される点もあるが、「中国(もしくは他国や他地域)の相対化・歴史化」を通じ東アジアと世界を再認識しようという本来の問題意識が堅持されることが期待されよう。

 一方、中国の外に目を向けると「方法としてのグローバル・チャイナ(Global China as method)」をめぐる議論が台頭している。中国を他者化したり本質化することなく、グローバル資本主義のなかに中国を位置づけることによって、反中/親中の二分法を避けると同時に「方法論的な民族主義」から脱しようという試みであり、グローバル資本主義のもと中国内外の日常が緊密に相互連結されている現状を明るみに出そうという知的企図である。こうしたアプローチは、中国の改革開放以降の展開が利害関係・行為者というレベルにおいて世界と中国の同調と競争の結果であることを露呈させているように見える。こうした流れを念頭におくと、「中国性(chineseness)」を「方法」として認識することによって、中国(人)というアイデンティティの形成もダイナミックな過程としてとらえられる。自己形成の当事者だけでなく、その外部者も構成の過程に参与するという視座を設けうるのだ。中国の外から中国をいかに認識するのかが重要な作用をするのはこうした知的磁場においてであろう。

 今まで述べてきた昨今の動向に目を向けるなか、私は中国の外で「外国としての中国」を研究する自らのアクチュアリティ、すなわち研究者個人の足場もしくは拠点を改めて問うてみる。私もまた世界のなかの中国へと至る過程において、中国の外部者が直接関与するか少なくとも連累しているという認識をことあるごとに強調してきた。言うなれば「構成的要素」としての外部に積極的な意義を付与したわけだ。ここで外国人研究者の立ち位置(positionality)について言及すれば、ある研究者が自分の対象地域に「参与」するということは、その地域と自分自身がどのような形であれ連動もしくは連累しているという態度を保つことから始まる。だからといって中国の変化に直接参与するということではない。むしろ、彼らの思考と実践に対する共感を育み、時には批判をもいとわず、その作業を通じて自分と己の生きる社会を省察し革新させながらより良い世界を目指すことこそが「参与」なのだ。

 こうした認識の背景には中国の内外、言い換えれば「我々」を(有無相通の空に根ざした)「関係のなかの存在」と見なす縁起論的な思考がある。二〇世紀のはじめ梁啓超は歴史現象を(科学的な因果関係ではなく)互縁の過程として認識した。これを私風に言い換えれば相互省察と自己変革の絶え間ない循環過程だといえる。現在中国大陸においては新しい普遍性もしくは新たな文明を世界に発信するため「文明互鑑」が提唱されている。異なる諸文明がお互いを鏡として相映しながら新たな普遍文明を建設しようというこの試みは、「相互省察と自己変革の絶え間ない循環過程」を随伴するときにのみ説得力を備えうる。中国の内外は長いあいだ縁起関係のなかで共に生成・変化を遂げ、今もそれは現在進行中である。ならばいま中国の外において、我々にとっての中国ではなく、我々が中国にとって何でありうるのかを問うべき時ではないだろうか。

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