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森田義之 チェンニーノ・チェンニーニとその『絵画術の書』をめぐって(下)[『図書』2025年3月号より]

チェンニーノ・チェンニーニとその『絵画術の書』をめぐって(下)

 

 『チェンニーノ・チェンニーニ 絵画術の書』(辻茂編訳、石原靖夫・望月一史訳)がこのたび岩波文庫に入ることになった。本書はイタリアのみならず西欧で最初の本格的な画家工房の実技指南書である。本論の前半(前号掲載)では、こうした指南書が書かれた中世末―ルネサンス初期のフィレンツェの画家工房とはどのようなものだったのか、その社会的・文化的背景とともに述べたが、後半では著者チェンニーニに視線を戻し、彼が師アーニョロ・ガッディの工房を離れて独立した以降の足跡と活動をたどってみたい。

画家チェンニーニの足跡と作品

図1 アーニョロ・ガッディ⾃画像(ガッディ 《ヘラクリウス帝のエルサレム凱旋》 部分、フィレンツェ、サンタ・クローチェ聖堂主祭室壁画[Sailko: Wikimedia Commons, CC BY 3.0])

図1 アーニョロ・ガッディ⾃画像(ガッディ 《ヘラクリウス帝のエルサレム凱旋》 部分、フィレンツェ、サンタ・クローチェ聖堂主祭室壁画[Sailko: Wikimedia Commons, CC BY 3.0])

 チェンニーニが12年間の修業時代(1380―92年頃か)を送ったというアーニョロ(図1)の工房は、1375頃―90年代前半にかけて、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂とプラート大聖堂の3つの礼拝堂にジョッテスキ芸術の最後を飾る大規模なフレスコ画連作を次々に完成して全盛期を迎えていた。そのなかでチェンニーニも、師の工房の中堅的な助手として不可欠な役割を果すようになっていたにちがいない。

 アーニョロ工房から独立する前後の活動についてはこれまでほとんど知られていなかったが、1859年のガエターノ&カルロ・ミラネージによる『絵画術の書』の公刊に伴うチェンニーニの伝記的研究や、故郷コッレ・ディ・ヴァルデルサとポッジボンシに残る作品に関する地方史家の研究によって、またそれらを総括した1973年のM・ボスコヴィッツの画期的な論文によって、画家チェンニーニの全体像の認識は大きく進むことになった(M. Boskovits, Cennino Cennini - pittore nonconformista, Mitteilungen des Kunsthistorischen Instituts in Florenz, XII Band, 1973 Heft 2-3)。

 年代順にその足跡をたどると、チェンニーニの最初の作品は、故郷コッレに近いポッジボンシのサン・ルッケーゼ聖堂の礼拝堂に描かれた、師アーニョロの作風を色濃く残すフレスコ画「聖ステパノ伝」3面と、付柱の3つの聖人像《洗礼者聖ヨハネ》《聖アウグスティヌス》《聖カタリナ》他で、1388年1月23日―12月21日に礼拝堂の寄進者ジョヴァンニ・ディ・セル・セーニャの遺族の依頼で「コッレ出身の画家」によって制作されたという銘文が残っている。また故郷コッレの中心部のカステッロ通りに現存する礼拝壇(タベルナーコロ)のフレスコ画《玉座の聖母子》も同時期のチェンニーニの作品と見なされている。いずれも細長く尖った鼻の類型表現などに師アーニョロの影響が強く見られ、全体にやや生硬で鄙びた調子が目立っている。

 ボスコヴィッツが綿密かつ周到に分析・検討して、パドヴァ移住以前の1390年代のチェンニーニの作品と認定した2点のテンペラ板絵《聖アウグスティヌス》《教皇グレゴリウス》(多翼祭壇画の一部、ベルリン国立美術館蔵、図2)も、修復の手が少なからず入っているが、この時期の作品と見なされている。おそらくチェンニーニは、1390年代初めまでアーニョロ工房に留まりながら、半ば独立した画家としても活動を始めていたのではないかと思われる。

図2 チェンニーニ、(左)《聖アウグスティヌス(?)》(右)《教皇グレゴリウス》、どちらも部分、ベルリン国⽴美術館[Sailko: Wikimedia Com­mons, CC BY 3.0]

図2 チェンニーニ、(左)《聖アウグスティヌス(?)》(右)《教皇グレゴリウス》、どちらも部分、ベルリン国⽴美術館[Sailko: Wikimedia Com­mons, CC BY 3.0]

 その後、チェンニーニは、いかなる経緯によるのかは不明だが、北イタリアのパドヴァに移り住み、そこで1398年8月に同市のサン・ピエトロ地区にドンナ・リッカ・デッラ・リッカ・ディ・チッタデッラなる(おそらく地元の良家出身の)女性と結婚して住んでいたこと、また同居していた弟の喇叭手マッテオと共に、パドヴァ領主フランチェスコ二世・ダ・カッラーラの庇護を受けていたことが記録されている。

 この『絵画術の書』が執筆されたのも、フィレンツェでのガッディ工房の記憶が鮮明に残っていたこのパドヴァ時代であったと推測される(1400年前後)。本書冒頭の諸聖人への献辞に、この都市の守護聖人聖アントニオ・ダ・パドヴァの名が記されていることや、生粋のトスカーナ人チェンニーニ著のこの本にヴェネト方言やパドヴァ方言の工房用語が頻出することも、そのことを裏付けている。

 しかし、この平穏な時期も長くは続かなかったらしい。その少し後の1403年に彼は再び故郷コッレに戻り、同地のサン・フランチェスコ聖堂の主祭壇上方のヴォールト天井などに壁画を描いている(天井画には〈Opus Cennini Andreae deColle MCCCCⅢ〉の署名と年記があったが、18世紀にすべて漆喰で塗り潰されてしまった)。この再帰郷の直後の1405―06年にパドヴァでは政変が起こり、領主のカッラーラ家が追放されたため、突然彼は庇護者を失うことになったのである。

チェンニーニの死とその後の運命

 チェンニーニが死去したのはパドヴァにおいてだったのか、それとも故郷コッレにおいてだったのか──1420年のパドヴァ市の大火で文書館が焼失したためこの都市での記録は残っていない。しかし、1427年にフィレンツェ領になっていたコッレで実施されたカタスト(土地台帳記録)には、チェンニーニがパドヴァで生まれた一人息子とともに故郷の町に戻り、そこで亡くなっていたと記録されている。カタストには「〔アン〕ドレア・デル・フ・チェンニーニ」なる人物(当時26歳で妻帯)が、従弟と共同で近郊に農地を所有していたことが記載されている。この「故(フ)チェンニーニ」が我々のチェンニーノ・チェンニーニだとしたら、彼は1427年以前に故郷コッレで死去していたことになるだろう。このアンドレア(チェンニーノの父つまり祖父と同名)が、1401年頃にパドヴァで妻ドンナ・リッカとの間に生まれた一人息子であることはおそらく間違いなく、年代的にもぴったりと符合する。

 チェンニーニが生きた時代から約150年後、ジョルジョ・ヴァザーリはその『美術家列伝』(1568年)の「アーニョロ・ガッディ伝」で、チェンニーニについて初めて言及している。

 ヴァザーリは、チェンニーニが師ガッディとともにフィレンツェのボニファツィオ・ルーピ施療院の開廊(ロッジア)に聖母子と聖人たち(消失)を描いたと述べ、また彼の技法書の写本をシエナの金細工師ジュリアーノの工房で見たとして、その概要に触れながら、すこぶる辛辣で冷淡な調子で次のように書いている。

 「この書物の冒頭で彼は、師アーニョロから学んだ天然に採掘される鉱物顔料の性質を論じているものの、おそらくは絵画術を完璧に習得できなかったために、テンペラ、膠や漆喰などと用いる顔料の特性を知るにとどま〔っている。〕……それ以外の記述はさほど論ずるに足らないものばかりで、当時は大いなる秘密とされ珍しかったが、今では誰もが知っていることばかりである」(高梨光正訳)。

 ヴァザーリの記述は、この書の写本が16世紀の美術家工房に出回っていた時期の美術界の反応を正直に伝えている。

 15世紀初めに万能の芸術家ブルネッレスキによって遠近法が発明され、それを理論化した人文学者・建築家アルベルティの『絵画論(デ・ピクトゥラ)』(1435年)が出現すると、フィレンツェの先進的な美術家たちの関心は急速に変化した。彼らの最大の関心事は、物質としての画材や材料をどう使いこなして「物」=図像としての作品を造り出すのかという職人的な美術観から、自然や人間の観察を創意ゆたかな想像力とどう結びつけて、美的なイメージ=「物」としての作品を創造するのかという新しい美術観へ変化していった。中世的な「機械技芸(アルテス・メカニカエ)」としての美術観からルネサンス的な「自由学芸(アルテス・リベラリス)」としての美術観への転換である。

 しかし、そうした時代の芸術観や美的趣味の大きな変化のなかでも、チェンニーニや多くの工房の美術家たちがこだわり続け、保守し続けようとした堅牢な「物」=構造としての美術作品の概念は──15世紀後半のフランドル絵画の油彩技法の実験的導入、16世紀のヴェネツィア派の画家たち(ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ)による油彩技法のラディカルな革新、テンペラ板絵の衰退と支持体としてのカンヴァスの登場、建築物から独立した「額画(タブロー)」の普及など、いくつもの重要な変化を経験しながらも──19世紀の印象派あたりまでは基本的に継承されていったことを忘れるわけにはいかない。

 その一方、中世以来の技法の伝統主義者チェンニーニの中には、古典古代以来の「絵は詩のごとく(ウト・ピクトゥラ・ポエシス)」の思想の流れをひくルネサンス的な絵画観の断片が見出されることも見落とせない。たとえば第一章で彼は、絵という術(アルテ)には知恵=知識(シェンツア)が必要であり、また目に見えないものをとらえて自然物としての外観を与える想像力(ファンタジア)が必要である。画家には、詩人(ポエタ)と同じように〔事物を〕想像力のおもむくままに組み立てる自由が与えられている……と述べている。

 また、こうも言っている。

 「板絵の制作というのは、まさしく、貴人の仕事(ダ・ジェンティーレ・ウォーモ)である……。そのわけは、ビロードを身に着けたまま、望みのことができるからである」(第145章)。これは、一世紀ほど後にレオナルド・ダ・ヴィンチがその『手記』で、画家を優雅な服装で画架に向かう紳士として語っていることとほとんど同じである。

チェンニーニ・リヴァイヴァル

 チェンニーニの『絵画術の書』は、前述のようにヴァザーリによって時代遅れの書物として扱われた後、フィレンツェの文人ラファエーレ・ボルギーニの『休息荘(イル・リポーゾ)』(1584年)の絵画技法に関する対話の中でその一部が紹介されたのを最後に、印刷本として人々の目に触れることもなく、長いあいだ忘れ去られることになった。

 再び日の目を見るようになったのは、19世紀初めにG・タンブローニによって一部欠落のあるヴァティカン図書館蔵の写本が出版され(ローマ、1821年)、次いでミラネージ兄弟によってフィレンツェのラウレンツィアーナ図書館とリッカルディアーナ図書館蔵の2つの原写本に基づく完全校訂版が出版されてからのことであった(Il Libro dell’arte o Trattato della pittura di Cennino Cennini da Colle Valdelsa, Firenze, 1859)。

 それを皮切りに、19世紀半ばから20世紀前半にかけて、欧米各国では次々に翻訳版が出版されるようになった──英語版(1844)、フランス語版Ⅰ(1858)、ドイツ語版(1871)、英語版Ⅱ(1899)、フランス語版Ⅱ(画家ルノワールの序文付き、1911)、ドイツ語版Ⅱ(1916)、米国語版(1932)、その他ロシア語版(1932)、ポーランド語版(1934)など──、またイタリアでも、R・シーミ(1933)、F・ブルネッロ(1971)、F・テンペスティ(1975)、M・セルキ(1991)などによって新しい研究成果を踏まえた原典の出版が重ねられてきた。

 日本では、大正期に活躍した夭折の洋画家中村彝(1887―1924)によって本書のフランス語版Ⅱからの翻訳が試みられ、その死の40年後に別の訳者の協力を得て完成、出版された(C・チェンニーニ『芸術の書 絵画技法論』中央公論美術出版、1964年)。その後、1991年にイタリア語原典からの初めての日本語訳として辻編訳の岩波版が刊行されたわけだが、大局的に見れば、この岩波版はこうした一世紀半以上にわたる「チェンニーニ・リヴァイヴァル」の文脈のなかで誕生したと言えるのである。

 チェンニーニの『絵画術の書』の各国語への翻訳と復刊の静かなブームは、中世・ルネサンス期の絵画研究における技法史研究の重要性を改めて認識させることになっただけでなく、19―20世紀の西欧でテンペラ画の復興を志す画家たちにも大きな刺激を与えることになった。

 さらには、現代の美術館・博物館の活動において「物」としての作品の保存と修復の重要性がますます強く認識されるなかで、このチェンニーニの古典的技法書は、大学教育における学芸員養成のための基本文献の一つとして、また近代以前の西洋絵画の技法伝統を本格的に学び直そうとする美術家志望者にとっての不可欠な必読書として見直されることになるだろう。

(もりた よしゆき・イタリア美術史)


<『絵画術の書』関連イベント情報>
中世の華・黄金テンペラ画──石原靖夫の復元模写
チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』を巡る旅
会期|2025年2月15日(土)~2025年3月23日(日)
会場|目黒区美術館
東京都目黒区目黒2-4-36 目黒区民センター敷地内

詳細は下記サイトよりご覧ください。
https://mmat.jp/exhibition/archive/2025/20250215-450.html


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