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結城円 Lost in Translation[『図書』2025年3月号より]

日本と写真(下)

Lost in Translation

外から見た日本

 ずいぶん昔の話になるが、ソフィア・コッポラ監督(1971年生)の映画『Lost in Translation』(2003年)が世界的に公開された。この映画は、中年の危機を抱えたハリウッドスターと、写真家のパートナーの付き添いで来日した新婚アメリカ人女性が、東京で偶然出会うことから始まる。この出会いと別れを通して、相互理解の難しさをテーマとしている。題名のとおり、「翻訳不可能」な状態──ものごとを理解したり解釈したりするときにある視点や意味が失われてしまう状態──が、異国での日常的な出来事として断続的に描かれる。私はちょうどドイツでの留学生活が始まったころに、ライプツィヒの映画館でこの作品を鑑賞した。当時まだドイツ語も不自由で、ドイツの生活にも慣れていなかったので、私は常に翻訳不可能におちいり、相互理解の難しさを実感していた。そんな自分の状況と、撮影場所が日本だということが相俟って、初見からとても印象的な作品となった。

 この映画の主題は、日本と日本国外での作品の受け入れられ方の違いをも表しているように思う。アカデミー賞(脚本賞)、ゴールデングローブ賞(作品賞、主演男優賞、脚本賞)、英国アカデミー賞(主演男優賞、主演女優賞、編集賞)を受賞するなど、国外では高い評価を得ている。それに対して日本では、受賞が判明した後での公開だったにも関わらず、宣伝はウェブ上のトレイラー広告のみ、東京での単館上映で終わったそうだ。日本を扱った作品であり、1990年代のガーリー文化でのコッポラ監督の人気から考えると、大きく広告が打たれずにひっそりと公開されたのが不思議でならない。その背景には、外国人の目線で見た日本に対する、日本側からの違和感があるように思う。バカ丁寧すぎるホテルスタッフの接客態度、白人男性にとっては低すぎるホテルのシャワー、RとLが区別できない日本人の英語の発音など、コメディ映画のユーモアとして描かれている部分について、日本人をバカにするような描き方だとして批判がおよんだ。また、寺院や生け花、漫画やパチンコなどが本題とは直接関係なく映されていることから、日本をステレオタイプ化した海外の監督が描く典型例という評価が下された。

「日本らしさ」とは何なのか? 映像で映すとき、どこを「日本」として切り取るのか? 切り取られた「日本」はどのように受け止められるのか? この映画はこんな疑問を湧き上がらせる。

エキゾチックな日本と写真

 日本が最初に映像として撮られたのは開国直後の19世紀中頃、外国人によってだった。日本に輸入されたばかりの写真術を使って、イギリス人写真家フェリチェ・ベアト(1832―1909年)が日本を撮影し、お土産写真として販売した。顧客は主に欧米からの旅行者やアームチェアトラベラーだった。日本のイメージは最初から、外国人により外国人のために作られていた。

 1867年にベアトが発売した2巻本の写真アルバムは、日本のお土産写真の原点だと言われている。『Photographic Views of Japan with Historical and Descriptive Notes, Compiled from Authentic Sources, and Personal Observations During a Residence of Several Years(写真で見る日本 歴史的・記述的注釈付き 真正資料と数年間の滞在中の個人的観察から編集)』というタイトルが付けられ、正真正銘日本の記録映像である点が強調されている。写真がもつと思われている客観性を利用して、日本の現実をそのまま写しているという印象を書名から与えているのだ。その上で芸者、侍、富士山など、現在まで続くステレオタイプな日本のイメージが写されている。このモチーフの選定に重要だったのは、欧米の顧客が期待する、自分たちとは全く異なるエキゾチック・・・・・・) な日本だった。すべてが当時の現実かといえば、そうとも言えない。例えば、芸者や侍はモデルを使い、写真スタジオのセットの中で撮影されている。このように全てが事実を写しているわけではないが、いわゆる「客観性」という、写真メディアの特性を利用して、写されたものが現実として受け入れられていた。その上でエキゾチックな日本のイメージを、マーケティング戦略として作り上げていた。

現代写真における桜と日本像

 19世紀の異国へのまなざしは現在も消えることなく、日本像のメインストリームとしてあることは間違いない。だが、19世紀に作られたステレオタイプなイメージとの対峙の仕方が徐々に変わってきているようにも思う。

 例えば桜は、外国側からは無論日本からしても、日本のシンボルとして異論はないだろう。19世紀のお土産写真でも、桜のある風景は人気モチーフだった。当時のお土産写真の特徴の一つである手彩色がほどこされ、花の部分だけ桜色に彩られている華やかな写真も多く残されている。そこでは春という季節の始まりを感じさせるポジティブなイメージが作られていた。

 現代の写真家にも桜は魅力的な被写体だ。アメリカ人写真家リー・フリードランダー(1934年生)は、1977年から1984年にかけて日本に何度か滞在し、東京、京都、奈良などで桜を撮影した。その後1986年に、写真集『Cherry Blossom Time in Japan』を50部限定で出版した(図1、サイズ510× 380ミリ、出典:アーティストが設立した個人出版社Haywire Pressウェブページ)。本のデザインが特徴的で、微細な濃淡が表現できる高品質のグラビア印刷で制作された25枚のモノクロ写真から構成され、表紙は桜色のシルクの布張りで「桜狩」という文字が型押しされている。19世紀のお土産写真を彷彿とさせる、モノクロに桜色という組み合わせである。19世紀と異なるのは、散る花のはかない美しさにフォーカスするかのように、水に浮かぶ花びらや地面に散り広がる花びらのカットも収められている点だ。

図1 リー・フリードランダー写真集『Cherry Blossom Time in Japan』(Special Edition), Fraenkel Gallery, San Francisco, 1986年、表紙).

図1 リー・フリードランダー写真集『Cherry Blossom Time in Japan』(Special Edition), Fraenkel Gallery, San Francisco, 1986年、表紙).

図2 マーティン・パー写真集『Cherry Blossom Time in Tokyo』, Eyestorm.com, London, 2001年、表紙).

図2 マーティン・パー写真集『Cherry Blossom Time in Tokyo』, Eyestorm.com, London, 2001年、表紙).

 このような桜の美しさを強調するようなイメージを揶揄するように作られたのが、イギリス人写真家マーティン・パー(1952年生)の写真集『Cherry Blossom Time in Tokyo』(図2、サイズ360×270ミリ、出典:アーティストウェブページ)だ。写真集コレクターでもあるパーが、フリードランダーの写真集を下敷きにして本書を作ったことは、タイトル、ピンク色のシルク布で手作りされた本の表紙、30部限定という販売方法からも明らかだろう。この写真集は20点のオリジナルカラープリントから構成されているが、本物の桜は、背景にフォーカスが合わない状態で写っている1枚目だけだ。それ以外でパーが写しているのは造花、桜の時期になると街のあちこちに装飾として現れる桜もどき・・・・) だ。フリードランダーの視線が主に桜の美しさに向けられていたのに対し、パーは花見どきの日本のお祭り騒ぎに彼らしい皮肉な視線を投げかけている。

 桜がはかなく散るさまに、エキゾチックな美しさではなく、政治的・社会的な背景を読み込む(あるいは読み込まれる)作品もある。イギリス在住のイスラエル人アーティスト、オリ・ゲルシュト(1967年生)は、2010年に桜をモチーフとした〈Chasing Good Fortune〉を発表している。一見すると、桜色が美しいカラーの風景写真にもみえる。しかし撮影場所は、靖国神社、皇居、広島など、日本の帝国主義や第二次世界大戦の記憶を想起させるところばかりだ。単に桜を写しているのではなく、撮影場所の歴史に対する鑑賞者の解釈が問われる作品となっている。そのため例えば、東日本大震災直後の2011年5月に開催された米国サンタバーバラ美術館での個展『Ori Gersht: Lost in Time』の展評では、広島の原爆投下と福島第一原子力発電所の事故が関連付けられている。東日本大震災が3月11日という桜の時期に起こったことから、桜のはかなさに大震災における命のはかなさを読み込んでいるのだ。ドイツ人写真家ザッシャ・ヴァイドナー(1974―2015年)の〈Hanami〉(2013年)も同じような見方ができる。彼は日本の「花見」を死と共に人生を祝うものと捉え、繊細で力強く官能的に夜桜をカメラに収めた。ベルリンのドロテ・ニルソン・ギャラリーでの『Sascha Weidner and Japan』展(2017年)でこのシリーズが展示された際の広報によるテキストでは、原発事故と結び付けられた解説がなされた。このような桜と震災の接続は、日本側からすると受け入れられないかもしれない。だが、海外では確実に新しい日本のイメージとして機能しているといえる。

日本とは何か?

 「日本とは何なのか?」私のこの疑問は、映画『Lost in Translation』を見たころの実体験からもスタートしている。日本出身のアジア人であることから、ドイツでは日本人の代表のように扱われ、常に日本とは何かと質問され続けた。当時、日本で育った私にとっての日本のイメージは多様で、かつ、とても個人的なものだった。だから「日本とは」と訊かれても何をどのように表現していいのかさっぱりわからなかった。その意味で、外国人の目線から日本を追うことは、日本とは何なのかの答えを探すのに大きく役立った。

 桜ひとつを取ってみても、アーティストが作り出すイメージ、鑑賞者が読み解く意味はさまざまであることが看て取れる。作品ごとに、モチーフの解釈において視点や意味が抜け落ちたり、反対に拾われたりを繰り返していることがわかるだろう。歴史的・政治的に国境線が常に引き直されている国々と比べると、島国日本の地理的な定義は比較的簡単だ。しかし「日本」とは何かと問われれば、明確な答えは返ってこない。写真に写された場合、写真であるがゆえに、見る人は実際にそうであると受け取ってしまうかもしれない。だが、どの視点から見るかで、同じモチーフでも見え方が変わってくる。それが写真で日本を写すこと、写真に写された日本を見ることの難しさであり、面白さでもあるように思う。

(ゆうき まどか・写真史、写真論)

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