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【特別寄稿】星川淳 ベイトソン再訪──『天使のおそれ』復刊に寄せて

 グレゴリー・ベイトソン&メアリー・キャサリン・ベイトソン/星川淳訳『天使のおそれ──聖なるもののエピステモロジー』(青土社、1992年)を小社文庫より復刊すべく企画が進行中です。刊行に先立ち、訳者の星川淳さんよりベイトソン思想の現代的魅力を伝える特別エッセイを寄せていただきました。

『天使のおそれ』原書書影


 みなさんは「自分」というものをどう感じているだろうか。いや、もう少し意味を明確化するために「自己(self)」と表記したほうがいいかもしれない。つまり古今東西、多くの人があれこれ定義づけようとし、また哲学的・宗教的な蘊蓄(うんちく)を傾け、中には「こうあるべき」というイメージに合わせて修行したり、そのための教えを垂れたり、そんな教えを求めたりしてきた難題だ。

 筆者自身、20代はいわゆる「自分探し」にかなり入れ込んで、インドや米国にも暮らしながら、世の中に出回っている「自己のトリセツ」的なものはおおよそ試したと思う。いま振り返ると、それほど内発的かつ切実なニーズがあったわけではなく、当時の英語圏で揶揄された“スピリチュアル・スーパーマーケット”のつまみ食いに近い。とにかく、各種の瞑想法やセラピー類から昨今のマインドフルネスに通じる手法までひと通り体験し、「自己」の扱いについてはそれなりに得心できたつもりだった。

 ところが、思わぬ角度から自己像の解体的見直しを促され、その結果がしだいにしっくりと肚落ちして現在に至る。ごく簡単なことなので、説明してみたい。

「自己」の関係性モデル

 たいていの人は、海辺に立って夕日を眺めた経験があるだろう(昇る朝日でもかまわない)。海が平穏なら、沈む太陽から自分に向かってキラキラと輝く光の道が通じる。「自己」とはこの光の道みたいなものではないか。

Photo: Ray Bilcliff

 注意してほしいのは、「光」とか「キラキラ」は本題と無関係なこと。ただ、はるか水平線のむこうに太陽という光源があり、それを海辺から遠望する自分がいて、そのあいだの海面に光の道という認知現象が立ち現われる。もう一つの重要な注意点は、見る場所を左右に移動しても、微妙に異なる光の道ができるし、また同じ海辺に立つ他の人たちのだれにでも、それぞれにとっての光の道が見えることだ。

 この光の道は否定しても消えず、逆にしがみつこうとしても実体はない。べつに錯覚や幻覚ではない反面、「自分だけのもの」と自慢できるわけでもない。「自己」という感覚も、現在のような脳神経系を持つヒトの個体が、宇宙内に存在するという“関係性”によって必然的に立ち現われるものだが、それ以上でも以下でもない(最小限の要素で考えた一つのたとえだから、自己の場合、光源は何かとか、海面の意味は何かとか、野暮な詮索は勘弁願いたい)。

 筆者はこれを「自己の関係性モデル」と名づける。最初にヒントを得たのは、実体より関係性こそが本質だとするグレゴリー・ベイトソンの思索だった。前述したスピリチュアル・スーパーマーケットめぐりの傍ら、共感とともに愛読・参照していた『ホールアース・カタログ(Whole Earth Catalog)』の編集陣が取り上げたのに触発され、2冊の主著『精神の生態学へ(Steps to An Ecology of Mind(佐藤良明訳、思索社、のち岩波文庫)と『精神と自然(Mind and Nature(佐藤良明訳、思索社、のち岩波文庫)を読んだり、1980年の没後、遺稿を元に娘のメアリー・キャサリン・ベイトソンがまとめた父との共著『天使のおそれ(Angels Fear)』(拙訳、青土社)を訳出したりするうちに、自分なりのささやかな応用を試みたのが「自己の関係性モデル」である。

読み直して足がすくんだ件

 とはいえ、こんな短文でベイトソンの解説を買って出るつもりはない。じつは、岩波文庫で上記の拙訳『天使のおそれ』が復刊予定となっており、青土社版に基づく訳文チェックの準備に、昨年あたりから他の著作も含む散発的読み直しを試みてきた。ところが、同書の邦訳初版(旧版)から37年、原書初版からは38年経ち、訳出当時の記憶も理解も怪しくなっているのと、そもそもベイトソンの著作全体が普通の考え方では難解なのとで、いささか自信喪失気味なのだ。

 もちろん、断片的にはベイトソンの極めて独創的な認識論に触れ直すことはスリリングかつエキサイティングだし、歯が立たないながらも読み進めるうちに、暗闇に目が慣れるように自分なりの理解の輪郭が浮かび上がってくる。20世紀後半の人類社会に現われた最も先駆的な思索者の一人であることは間違いないだろう。

 しかし教職にない筆者は、もう一人のベイトソン邦訳者であり、優れた解説者でもある佐藤良明さんと違って、常日頃ベイトソンへの理解を更新する機会がない上に、ここ数十年で次のような分野においてベイトソンの認識を超える、あるいは真っ向から否定するような進展がないか確かめる術(すべ)を持たない(そうした進展を筆者が無条件に受け入れているという意味ではない)。すなわち、一つは合成生物学という新領域さえ産み出した分子生物学、もう一つは生成AIの著しい勃興に表われた人工知能研究や認知科学の最前線、そして三つめはゲノム解析の急速な発展と普及に伴うエピジェネティクスの新たな知見――悲しいかな、いずれの分野に関しても文系の門外漢でしかない筆者には、それらの新展開をベイトソンの思索体系と批判的に照合する力がない(もしくは、ベイトソンの思索と対照すべき分野や領域の括り出し方そのものが的外れかもしれない)。

 時代の何歩も先を行っていたとはいえ、ベイトソンが独自の思索を進めたのはサイバネティクスとシステム論の黎明期である。そのハンディをどこまで割り引いて読むのが妥当か、筆者には判断がつかないのだ。

本音はandかinか

 こうした負い目を抱えつつ、筆者から見ていまなお変わらぬベイトソンの価値や魅力と思われるものを3つ例示することで、改めて注目を促したい。

 第一に、「自己の関係性モデル」にも応用させてもらった“実体”から“関係”への大胆な視点移動(ゲシュタルト転換)。ベイトソンの目に、個別の“実体”は存在しないに等しく、働き(作用)において意味を持つのは、あくまでも情報の伝わるフィードバック・ループがつなぐ“関係”のほうだ。たしかに、この視点移動を習い覚えると、世界がまったく違って見えてくるし、何より物事の理解に驚くほどのパラダイムシフトが起こる。

 筆者の例では、自己認識をめぐって思い悩むことは一切なくなった。免疫細胞の役割を引くまでもなく、世界内存在としての自己認知は自然で必要な働きである(そこそこ成熟した自我がなければ社会人として生計も立てられない!)。一方、それにこだわったり、飾り立てたり、逆の極端に走って必死に消し去ろうとしたりするのは愚かしい。光の道はただ「そう見える」と認知して、その美しさを愛(め)でれば十分だろう。ベイトソンいわく、「人間の唯一真実の自己とは、人プラス社会プラス環境からなる全サイバネティック・ネットワークである」(出典失念)

 第二に、ベイトソンの最大の飛躍は、生命世界に満ちあふれる大小さまざまで複雑度も千差万別のフィードバック・ループ(昨今、これらは“系=システム”と呼ばれる場合が多い)を、あえて「精神(マインド)」と定義づけることだ。当然、われわれヒトの「精神=心」もその中に含まれるが、ベイトソンは次のように踏み込む。「わたしは様々な生命体の内部およびそれら相互のあいだで起こるそれより下位のあらゆる情報と指令の交換、つまりわれわれが〈生命〉と呼ぶものの全体を『精神過程』に含めて考える……説明の本質が〈情報〉ないし〈比較〉にあるようなところにはかならず精神過程があるとみる。情報とは『差異(ちがい)を生む差異(ちがい)』として定義できる」(『天使のおそれ』)。つまり、胚発生も生物種の進化も、「心(マインド)」の働き=精神過程だというのである。

 こう聞いて、「やっぱり生命進化は宇宙的知性のなせる業(わざ)だよな」などと早合点するのは禁物。ベイトソンは独自の厳密な推論に基づいて、生命世界をつなぎ合わせる精神過程の一様態がヒトの心だと認めるにすぎず、人間の考えや気持ちを宇宙に投影しているのではない。その意味で、ベイトソンの特殊用法ともいえる英語のmindをどの日本語に置き換えるのが最適か、いまだに名案が見つからない(おそらく佐藤良明さんも悩み続けているのではないか)。文字には残っていないのだが、晩年の一時期をすごした米国西海岸のエサレン研究所における内輪のレクチャーで、代表作のタイトルと同じく「Mind and Nature」と言うべきところを、はからずも「Mind in Nature」と口を滑らせたことがある(単なる言い間違いか、テープ録音のバグかもしれない)。

メタローグという宝箱

 第三の特徴は、言葉や思考で取り上げる事象の位相(概念レベル)に注意を払うこと。ベイトソンはもっぱらバートランド・ラッセルの「論理階型(ロジカルタイプ)」をモデルにしているが、筆者なりに平易な読み解きを試みたい。

 ベイトソンがよく例に挙げるのは学習だ。たとえば、子犬の花子が飼い主との「お手」を覚えるのを最も初歩的な学習レベル(学習Ⅰ)としよう。グルグルまわりでもチンチンでも、飼い主とのあいだで粗相なくできるようになったら、同じく学習Ⅰとみなせる。次に、飼い主の友人家族が訪れて、それら観客の前でも花子が得意の芸を披露できたら、1対1とは異なる“衆目お披露目”のコンテクストが吞み込めたという意味で一歩進んだ学習レベル(学習Ⅱ)と考えられる。さらに飼い主がハードルを上げて、花子が既存のレパートリーをこなすだけではご褒美の餌を出し渋り、これまでにない新しい芸を編み出させようとしたらどうか。花子は最初、不満や当惑を見せるだろうが、やがて「ピンポーン!」と閃くかもしれない。そこでまったく新しい芸をやって見せたら、第三レベルの学習(学習Ⅲ)達成である。

 ベイトソンが学習Ⅲを思いつくきっかけとなったイルカ(飼育されショーに出演する境遇だった)は、学習Ⅱから学習Ⅲへの飛躍が閃いたとき、ありありと興奮した様子を示し、次のショーに登場するや、その種のイルカでは観察されたことのない新しい4つの芸を含む8つの演技を立て続けに披露したという(『精神と自然』)。ちなみに、学習ⅡからⅢへ跳ぶ前の花子やイルカが追い込まれた“位相の谷間”ともいうべき板挟み状態を、同じくベイトソンの洞察と造語に基づいて「ダブルバインド(二重拘束)」と呼び、人間の場合ここでこじれると心の病を発症することさえある。

 位相(レベル)ないし論理階型(ロジカルタイプ)を踏み上がると、そこは前の位相より「メタ」なレベルとされる。ただし、この場合の上下に優劣や善悪の含意はない。私たちは日々、こうした位相の登り降りを融通無碍にやってのけており、先人たちが「落ち」という言葉で見抜いたとおり、冗談やナゾナゾや物語の多くは概念レベルの意外な飛躍(踏み外し!?)がミソだったりする。

 ベイトソンのすべての著作には、娘(人類学者マーガレット・ミードを母とし、長じて同じく人類学者となったメアリー・キャサリン・ベイトソン=MCB)とのあいだで交わす気楽なおしゃべりを模した「メタローグ(matalogue)」(monologueやdialogueに対置した造語)が織り込まれている。遺作にして共著の『天使のおそれ』を除く前2作は、まだ幼い娘に託してベイトソン自身が語らせた形だが、3作目はMCB本人が乗り出して亡き父と語らうため、全編の4分の1近くをメタローグが占める。この「メタローグ」のおかげでずいぶん理解が助けられる(気がするだけ?)と感じるのは、筆者だけではないだろう。ベイトソンという重厚にして複雑なマインドが残した“幕間のメタ余談”は、一番の本音を詰め込んだ宝箱かもしれない。

地球人の自画像

 結びにもう一つ、ベイトソン流のささやかな応用を試みてみよう。筆者が移り住んで43年になる屋久島でも年々、影響が激化する気候変動への対応などを考える上で参考になれば幸いだ。

 私たちが生きて考えたり行動したりする位相(レベル)は、ざっくりと次のように段階的な設定が可能だろう。1)個人、2)家族や親しい仲間、3)地域(町内会や学校区程度?)、4)自治圏(市町村から都道府県)、5)国民国家、6)リージョナルな国家連合(EUなど)、7)グローバルな国家連合(国連など)。これらは課題解決の「抽象度」と言い換えることもでき、いまのところ地球上ではレベル7が最も高い(「メタ」と同様、ここでもレベルの高低に善悪や優劣の含意はない)。各レベルには、それにふさわしい課題や解決の取り扱い(ハンドリング)があり、あるレベルに適した取り扱い方が、他のレベルでもうまくいくとは限らない。

 さて、レベル7を代表する国際連合は、20世紀における2つの世界大戦の反省から、国家間の戦争を集団的に抑止することが設立趣旨だった。しかし、80年にわたる試行錯誤を重ねても当初期待されたほどの成果が上げられず、つとに機能不全を指摘されるのは、レベル5や6のモチベーションと、レベル7の意図とがなかなか嚙み合わないからだろう(ただし、筆者は国連不要論には与しない)。別の例を挙げれば、気候変動への対応はレベル7か、もしかするとレベル8(人類社会全体として、つまり国籍にかかわらず“地球人”として切迫した課題に向き合う)の課題なのに、レベル5か、せいぜいレベル6でしか合意形成できないために、いくら国際会議で二酸化炭素の削減目標を決めても事態の進行に追いつかない。

 しかし、私たちは特定のレベルに縛りつけられているわけではなく、レベル1から7や8まで自由に行き来できる。その典型が科学者で、本物であればあるほど7以上のレベルで仕事をしている(もちろん個人としては1~8まで出入り自由)。さまざまなアートを含め、他の分野でも本物は同類だと思う。
(※このあたりの記述について編集担当者から、「たとえば国際赤十字や国境なき医師団のような、特定の政府や国家的なものと一応は距離を置いている国際団体はどう見るのか」という突っ込みをいただいた。自分でNGOを運営したりしながら不覚だったが、国境に縛られずに全地球的な活動を展開する非政府主体もレベル7か7.5、場合によってはレベル8に分類できるかもしれない。)

 1972年、月へ向かうアポロ17号から送られてきた丸い地球の写真で、人類は初めて自分たちが生きる惑星の全体像を目の当たりにした。それ以来、その写真は多くの人びとにとって 一種の“自画像”となり、レベル7か8のモードで考える鍵の役割を果たすようになった。ここへ来て、「アメリカ・ファースト」だの「日本人ファースト」だのとレベル5以下の先祖返り的なスローガンが耳につくが、そんな後退か逆走は靖国神社を賑わわせる軍国コスプレに似て、いずれ歴史の袋小路だろう。

アポロ17号から撮影された「ブルー・マーブル」オリジナル画像。
撮影時は南(南極)が上だったが、公開時に天地が逆さまにされた。

 地球人の自覚を促したこの“自画像”とて、ベイトソン流にいえば軍事と地続きのロケット技術などに支えられた両義性を持つ。21世紀の人類を含む生命世界の「精神(マインド)」に多大な影響を及ぼしているであろう電脳神経系、別名インターネットもしかり(ベイトソンの時代はインターネット前夜でもあった!)。そうしたあれこれを織り込みながら、筆者が日々心がけるメタなマインドフルネスは、想念の生起を静観するにとどまらず、パレスチナやウクライナの惨状と向き合い、気候カオスをはじめ地球生態系の異変を自分ごととする、なかなか手ごわい営みだ。

 

著者略歴
星川 淳(ほしかわ じゅん)
1952年、東京生まれ。作家・翻訳家。1982年より屋久島在住。国際環境NGOグリーンピース・ジャパン事務局長(2005-10年)、2010年末より市民活動助成基金アクト・ビヨンド・トラスト代表理事を務める。著書に『ベーリンジアの記憶』(幻冬社文庫、電子版復刊)、『魂の民主主義』(築地書館)、『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』(幻冬社新書)、共著に坂本龍一監修『非戦』(幻冬舎)、訳書にR・ライト『暴走する文明』(NHK出版)、B・ジョハンセン他『アメリカ建国とイロコイ民主制』(みすず書房)、P・アンダーウッド『一万年の旅路』(翔泳社)、監訳にA・ヤブロコフ他『調査報告 チェルノブイリ被害の全貌』(岩波書店)など多数。TUP(平和をめざす翻訳者たち)監修『世界は変えられる』(七つ森書館)で日本ジャーナリスト会議より市民メディア賞受賞(2004年)。

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