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【文庫解説】伊藤左千夫『野菊の墓 他七篇』より

アララギ派の基礎をつくった歌人・伊藤左千夫が、淡い初恋を農村の景色と共に鮮やかに描写した名作『野菊の墓』。この度岩波文庫で生まれ変わった新刊では、生きるための積極的避難の思考を繊細に描く「廃める」、迫りくる水の恐怖を克明に記録した「水害雑録」など、左千夫の多彩な小説世界を味わえる7篇も合わせて収録しました。以下は、塩野加織先生による解説からの抜粋です。


 一

 文学作品には、「死後の生」という考え方がある。たとえば一つの小説が、作者の死後も読み継がれ、新たな作品集や翻訳が出たり舞台化や映像化されるなど、のちの人々がさまざまなかたちで受容し新たな価値を見出すことによって、作品が生き延びるさまを指して言う。伊藤左千夫の小説「野菊の墓」は、まさにそうした「死後の生」によって多くの読者を獲得してきた作品である。
 本作は、これまでに多数の書籍に収録されただけでなく、映画や舞台、漫画やアニメーションなども制作されてきた。なかでも一九七〇年代から八〇年代にかけてのリバイバルブームのような現象は、「野菊の墓」=「純愛物語」というイメージを普及させていった。たとえば、当時のトップアイドルだった山口百恵と松田聖子が、テレビドラマと映画でそれぞれ主演をつとめ(山口百恵主演ドラマ「野菊の墓」一九七七年、松田聖子主演映画「野菊の墓」一九八一年)話題となったほか、宝塚の舞台作品(「野菊の詩」一九八三年)や児童向けアニメーション(「青春アニメ全集 野菊の墓」一九八六年)等が相次いで公開されている。「元祖純愛物語」や「悲しく美しい純愛物語」などと謳ったこれら作品の登場によって、原作もまた、幅広い読者層を取り込むことになった。伊藤左千夫は明治期の歌人として多くの業績を残したが、おそらくそれ以上に小説「野菊の墓」が広く知られているのは、作品の「死後の生」によるところが大きい。伊藤の出世作でもあったこの小説は、一方で、「純愛物語」という枠組みの中に長らく留め置かれてきたと言えるかもしれない。
 本書には、この「野菊の墓」を含む全八篇を収録した。それぞれの初出を発表順に並べると以下のとおりである。
  「野菊の墓」  一九〇六(明治三九)年一月
  「浜菊」    一九〇八(明治四一)年九月
  「紅黄録」   一九〇八(明治四一)年一〇月
  「廃める」   一九〇九(明治四二)年一月
  「奈々子」   一九〇九(明治四二)年九月
  「水害雑録」  一九一〇(明治四三)年一一月
  「守の家」   一九一二(明治四五)年二月
  「落穂」    一九一三(大正二)年五月
 右に示した「野菊の墓」から「落穂」発表までの一九〇六年から一九一三年は、実のところ、そのまま伊藤左千夫の小説家としての活動期間にほぼ重なる。改めて作家の略歴をおおまかに辿っておくと、伊藤は一八六四年に、現在の千葉県山武市成東で代々農業を営む旧家の四男として生まれた。十代で政治家を志し、東京の明治法律学校(明治大学の前身)に進むも、持病によりその道を諦めざるを得なくなり一旦帰郷する。失意の中、身を立てるため再び上京した彼は、複数の牧舎で寸暇を惜しむように働き、わずか数年後には独力で搾乳業を営むまでになる。自ら起こした事業で家族を養う一方、周囲の影響で万葉集に関心を持ち始め、その後三十代後半からは正岡子規に師事して本格的な作歌活動に入る。やがて、子規のもとで同輩たちと競うように研鑽を積み、師亡きあとは写生の教えを継承し発展させ、短歌雑誌『馬あしび酔木』や『アララギ』の創刊に関わった。その間、斎藤茂吉・土屋文明・島木赤彦らの後進を育ててもいる。こうした活動の傍らで写生文や身辺雑記を徐々に書き始めるようになり、一九〇六年に自身初の小説を発表する。それが「野菊の墓」で、小説家としては四十代に入ってからのデビューであった。
 歌人だった伊藤が、小説を書き始めるに至った背景には複合的な要因があったようで、彼の周囲で歌から写生文・小説へと進む者が増え触発されたことや、雑誌『ホトトギス』を主宰する高浜虚子に小説執筆を勧められ意を強くしたこと(「野菊の墓」はこの雑誌に発表された)、歌壇の新しい潮流に不満を抱き方向性を模索していたことなどが挙げられる。そして「野菊の墓」発表以降は、一九一三年に四八歳で亡くなるまで、歌人の活動と並行して小説を書き続けた。伊藤の小説家としてのキャリアは約七年と決して長いわけではなく、必ずしも世評に恵まれた作品ばかりではない。しかし、この時期の著作を見渡してみると、小説の執筆が新たな主題の発見につながるなど、作歌とはまた別様に自身の文学を駆動させていたようだ。
 それでは、小説家としての伊藤はどのような方法で物語を構築し、いかなる作品を世に送り出していたのだろうか。ここからは「野菊の墓」を中心に、他の収録作と併せて読むことで、その特色を粗描してみたい。「野菊の墓」一作に集約されがちな伊藤左千夫の小説作品を捉えなおす手がかりとして、まずは、作品ごとの具体的な表現を探っていくことにしよう。

 二

 伊藤にとって最初の小説である「野菊の墓」は、活字で発表される前に、山会という文学仲間の朗読会でまず披露された。そこに参加した人々によれば、「野菊の墓」朗読の際、伊藤は自作の物語に感情を込めるあまり涙したそうで、どうやら本作は、作家本人も請け合う悲劇の物語であったようだ。そのヒロインである民子は、伊藤の縁者であった女性がモデルとされるため、自伝的小説と言われることもある。しかし、ここではあえて作家個人の実体験や来歴とは一旦距離を置いた上で本文を読み直し、作品の特質を改めて探ってみたい。
 「野菊の墓」が「純愛物語」としてこれまで盛んに意味づけられてきたのは先に述べたとおりだが、果たしてその「純愛」なるものは、作中ではどのように成立しているだろうか。まずはこれを、小説本文の中から検討していこう。
 主人公である政夫(一五歳)と民子(一七歳)は、農村地帯に育った幼馴染みの従姉弟同士で、互いに淡い恋心を抱くようになる。だが、家のしきたりや村の慣習を重んじる周囲の大人たちは二人が添うことを許さず、政夫の中学進学に合わせて民子を他家に嫁がせた結果、ほどなくして民子は病で亡くなってしまう。この一連の経緯が、主に政夫の視点を通して綴られる。純朴な若者の恋物語は、作中随所に織り込まれた自然豊かで美しい情景描写と相俟って、発表当初から「野趣」や「可憐」という言葉で高く評価されたが、作中の設定にはもう一つ顕著な特徴がある。
 「野菊の墓」が発表されたのは雑誌『ホトトギス』の一九〇六年一月号で、この前年まで日本は日露戦争下にあった。語り手の政夫が「十年余も過ぎ去った昔」と述べるように、物語は「今」を起点にして「十年余」の時間の経過を含んでいる。つまり、作中の時間は日清戦争(一八九四―一八九五年)と日露戦争(一九〇四―一九〇五年)という二つの大戦を挟んだ時期にほぼ重なることがわかる。周知のとおり、両大戦は、日本が近代国民国家として臨んだ初の対外戦争で、帝国主義へと突き進む契機となり、同時代の政治経済をはじめ思想や文化にも大きな影響を及ぼした。新聞雑誌各社の戦争報道が初めて本格化し、戦場通信や従軍記が出てくるのもこの頃である。また、日清戦争を上回る規模の総力戦となった日露戦争では死傷者が大幅に増え、戦争がより身近な、人の生に直結する問題としてジャーナリズムや文学作品にも取り上げられるようになる。たとえば、与謝野晶子が出征中の弟を詠んだ詩「君死にたまふことなかれ」(一九〇四年)はこの時期の作品としてよく知られる。伊藤左千夫自身もまた、戦時に対する覚悟や感慨を複数の歌に記していた。
 しかし、「野菊の墓」に限って言えば、戦争の影はきわめて薄い。唯一言及があるのは、政夫の家の奉公人であるお増を「国家の為に死んだ人の娘」と説明するくだりだが、ストーリー自体に影響はなく、前後の文脈にもほぼ関わらない。現実の日露戦争下の社会では、戦争遺族の生活の問題やそれが農村経済に与える影響なども報じられていたのだが、それらに関連する叙述は見当たらない。つまり本作の舞台は、時代を象徴する二つの大戦の影響がほとんどない別天地の、前近代的な世界なのである。
 政治情勢を極力排することで際立つ牧歌的な農村地帯と、そこで育った若い二人の悲劇的な初恋という物語構成は、悲恋の行方にスポットライトをあてることになる。それゆえ、美しい景色を活かしながら特定の配役を引き立てて魅せるアイドル主演映画や宝塚舞台ときわめて親和性が高いのは言うまでもない。後年にリバイバル作品が多く生まれた要因も、おそらくこの辺りに求められるだろう。まずもって作中の「純愛」は、時局性を取り除いた一種の桃源郷的な舞台設定によって支えられていたのである。

(続きは、本書伊藤左千夫『野菊の墓 他七篇』をお読みください)

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