『科学』2026年4月号 特集「音楽の科学はどこまできたか」|巻頭言『音楽はなぜ科学の対象になるのか』岡ノ谷一夫
◇目次◇
【特集】音楽の科学はどこまできたか
音楽と舞踊の起源──ヒトの脳・身体が生み出す時間の秩序性……藤井進也
グルーヴィーなリズムを生む神経回路モデルの探求……河合祐司
ラットはリズムに乗れるのか──脳に「響く」音楽を探る……高橋宏知
動物には音楽があるか──比較認知研究から探る音楽の起源……岡ノ谷一夫
脳は音楽と言語をどのように聞き分けているのか……貞方マキ子
音楽の「快」がもたらす報酬脳活動……森 数馬
ダイナフォーミックスによる演奏技能の限界突破……古屋晋一・塩木ももこ・黒宮可織
人はなぜコンサートに足を運ぶのか──心理・生理反応の研究から……本田一暁
音楽療法の現在と未来……佐藤正之
音楽情報処理が切り拓く音楽体験の未来……後藤真孝
[巻頭言]
音楽はなぜ科学の対象になるのか……岡ノ谷一夫
[解説]
人間の血を吸う「都市型の蚊」はいつどこで進化した?──国際ゲノム研究が進化の通説を覆す……羽場優紀
[新連載]
科博のお宝コレクション1 国立科学博物館の成り立ちと歴史……篠田謙一
[連載]
カミオカンデはいかに生まれたのか──基礎科学の曲がり角に立って7 縁の下で支えた腕利きノンキャリ官僚……古川雅子
ウイルス学130年の歩み10 ノロウイルス,パルボウイルスB19,ヒト免疫不全ウイルス……山内一也
17〜18世紀英国の数学愛好家たち10 『レイディーズ・ダイアリー』の寄稿者たち……三浦伸夫
野球の認知脳科学11 「緩急」はなぜ効果的なのか……柏野牧夫
因果をめぐる7の視点4 因果は複数ある──多元主義的観点から……浅川芳直
[フォーラム]
大陸棚下の淡水性地下水を船上から探る──IODP³-NSF第501次研究航海……林 武司
次号予告
表紙画像=河合祐司:「グルーヴィーなリズムを生む神経回路モデルの探求」図2, 4より
表紙デザイン=佐藤篤司
音楽は,言語と並んで人間特有の行動である(動物との断絶)。しかし,音楽も進化の産物であるはずだ(動物との連続)。音楽はこの断絶と連続の上に発生した興味深い現象である。20世紀に音楽の科学があったとすれば,それは音楽構造の物理的な分析であった*1。現代科学は人間自身を対象にしつつある。音楽の科学もまた,音楽構造の研究から,人間がどのように音楽を生み出し,どのように味わうのかの研究に移行しつつある*2。
人間の科学は,物理的に特定可能な刺激が,いかにして主観的体験を生み出すのかを中心的な課題にしている。音楽は物理刺激として厳密な記述が可能であると同時に,それが生み出す主観的体験の普遍性と個別性に特徴がある。ある人にとって美しい音楽は,他の人にとって耳を塞ぎたくなる代物なのはなぜだろう。
本号の特集目次をみると,文化,生物,脳,治療,技術,人工知能など,人間の営みとしての音楽を対象に,あらゆる方向から科学研究がなされていることがわかる。言語学の共時態と通時態に分けて無理やり整理すると,脳はどのように音楽を処理するか,音楽が治療や感動をもたらすのはなぜか,グルーヴの正体,音楽と言語の脳機能といった共時態の科学から,音楽の起源と進化,種を超えた音楽,文化に根付くリズム,人と音楽が編む歴史といった通時態の科学まで,音楽の科学の深化と広がりを感じる。これらを通して,音楽の普遍性と特殊性がどのように理解されるのか,楽しみに読み進めてほしい。
生成AI騒ぎがかまびすしい。音楽にとって生成AIは恐怖であり,希望である。物まねの上手な生成AIは,著名作曲家の音楽と区別がつかない代物を秒速で生産している。これらは動画やゲームの背景音楽としてどんどん消費されている。このような悲観的な見方がある一方,生成AIによって新たな音楽的美が発見される可能性もあるだろう。それは,ジョン・ケージが既存の音楽の否定の上にすべて休符で記された音楽「4分33秒」*3を発表したのとは異なるものとなろう。なぜなら,生成AIにとって既存の音楽は,否定の対象ではないのだから。そのような音楽があらわれた時,われわれ人間は,それを鑑賞する能力を持ち得るだろうか。
スティーブン・ピンカーは「音楽は聴覚的チーズケーキだ」と述べた*4。これが示すのは,音楽は何らかの適応の産物ではなく,言語や聴覚など他の形質の副産物として生じたものだという見解である。栄養ではなく嗜好品であるということだ。私自身はこの意見に反対である。もし音楽が単なる嗜好品にすぎないのなら,人類はこれほど長い時間を音楽に費やしてこなかっただろう。音楽は,さまざまな認知機能の組み合わせとして生じたであろうが,チーズケーキではなく,人間性の本質をなすものである。だとすれば,生成AIが作った全く新しい音楽でさえも,人間は鑑賞してしまうに違いない。そしてその時,われわれは自らの「人間らしさ」の定義を,もう一度書き換えることになるのかもしれない。
*1―ホアン・G.ローダラー著/髙野光司・安藤四一訳:『新版 音楽の科学 ── 音楽の物理学,精神物理学入門』.音楽之友社(2014)
*2―S. ケルシュ著/佐藤正之編訳:『音楽と脳科学 ── 音楽の脳内過程の理解をめざして』.北大路書房(2016)
*3―J. Cage: 4l33m. Edition Peters (1952)
*4―スティーブン・ピンカー著/椋田直子訳:『心の仕組み: 人間関係にどう関わるか』.日本放送出版協会(1998)




