思想の言葉:〈ポスト・トゥルース〉とアイダ・B・ウェルズの「重い責務」 土屋和代【『思想』2026年5月号 特集|歴史学の現在】
【特集】歴史学の現在
〈討議〉歴史学の現在/歴史家の役割
成田龍一・長谷川貴彦・岩崎 稔訳
転回と主体
──現代歴史学の形象
長谷川貴彦
民芸運動を歴史化するために必要なこと
──沖縄との関係再考を経由して
戸邉秀明
歴史家の「作業工程」と「歴史叙述」をめぐっての試論
成田龍一
歴史教育と遅塚忠躬『史学概論』のもつれた糸をほぐす
小川幸司
歴史の叙述と読者,そして対話
──フランスの一事例から
高澤紀恵
歴史叙述の「客観性」のゆくえ
──「歴史の物語論」の可能性を探る
橋爪大輝
ホロコーストの記憶とコロニアリズムの記憶
岩崎 稔
記憶Ⅰと記憶Ⅱ
──グローバル時代におけるドイツの過去政策
S.コンラート/岩崎 稔訳
〈ポスト・トゥルース〉とアイダ・B・ウェルズの「重い責務」
「私は、真実をほのめかしたために、自分が発行する新聞を失い、命を狙われ、故郷から追放されました。自由に語れるようになったいま、自分のためにも、黒人のためにも、真実のすべてを語る責任を感じているのです。」
アイダ・B・ウェルズ(Wells-Barnett 2020)
テネシー州メンフィスで発行された週刊新聞『フリー・スピーチ・アンド・ヘッドライト』の編集者兼共同発行人を務めていたアイダ・B・ウェルズ(一八六二―一九三一)は、リンチ(暴力的制裁)撲滅のための国際的な運動を牽引した黒人女性である。南北戦争で荒廃したミシシッピ州ホリースプリングス市で生まれたウェルズは、奴隷解放宣言を経て自由を勝ちとったのち、新聞記者として、公民権活動家として黒人に対するリンチの実態を白日の下に晒した。「白人によって収集・保管され、それゆえに信憑性に疑義が呈されてこなかった」統計史料をもとに、黒人たちが、法的手続きを経ないまま殺害されてきたことを告発した(Wells-Barnett 2002)。
冒頭の発言は、黒人に対するリンチのほとんどが、南部の白人が「黒人男性が白人女性をレイプするという古くからある噓」にもとづいたものだと社説で述べた結果、殺害予告を受け、地元を離れることを余儀なくされたとき──新聞社が襲撃に遭い、印刷機が破壊され、廃刊に追い込まれたときを振り返った言葉である(Wells-Barnett 2020)。ウェルズは、南部各地で起きたリンチ事件の真相究明のため現地に赴き、新聞記事を集め、その結果を小冊子『南部の恐怖──リンチのすべて』にまとめ、さらにその三年後にはリンチに関するより詳細なパンフレット『鮮血の記録──統計一覧とアメリカ合衆国におけるリンチの理由と疑われるもの』を刊行した。リンチが行われた日時、場所、殺害の口実を克明に記録しながら、黒人たちがいかに公正な裁判や法手続きを経ずに冷酷に殺されたのかをウェルズは示した(Wells-Barnett 2002)。「収集した事実を世に伝えることは、自分に課された重い責務のように思われた」とウェルズは綴っている(Wells-Barnett 2020, chap. 9)。
現代は、歴史的真実について「深い懸念が示される時代」と言われる(ハント 二〇一九、一頁)。〈ポスト・トゥルース〉という言葉は、一九九二年一月の『ネイション』誌に寄稿した劇作家で脚本家のスティーヴ・テシックによって編み出された、とされる(Tesich 1992)。しかし〈ポスト・トゥルース〉が人口に膾炙したのは、二〇一六年である。国民投票の結果、英国の欧州連合からの離脱が決まり、ドナルド・トランプが大統領に選出された同年、オックスフォード英語辞典は、二〇一六年を象徴する「今年の単語」に〈ポスト・トゥルース〉を選んだ。辞典が定義するその意味は、「世論形成において、客観的事実が、感情や個人的信念への訴えよりも影響力を持たない」状況である。
「時の言葉」となった〈ポスト・トゥルース〉をテーマとする文献、論文、ブログが次々と現れ、メディア・リテラシーの必要性が叫ばれた。噓で溢れんばかりの言説が飛び交い、反論する間もないまま次の噓が「現実」を攪乱するアメリカの状況を〈ポスト・トゥルース〉はまさに言い当てた言葉となった。トランプ政権下で有色の人びとや性的マイノリティについての歴史書が次々と「禁書」となり、「アメリカの歴史に真実と正気を取り戻す」大統領令が成立し(二〇二五年三月)、「我が国がいかにひどいか、奴隷制がいかに悪いか、虐げられた人びとがいかに成果をあげてこなかったか」ばかりを強調しているとの理由で博物館や研究施設を運営するスミソニアン協会に対して大規模な調査が始められるなど(二〇二五年八月)、愛国教育が推し進められる状況を前にすれば、現代アメリカにおいて〈ポスト・トゥルース〉の時代は加速しているように思える。
しかし、〈ポスト・トゥルース〉が混迷の時代を象徴する言葉となる一方で、多くのマイノリティにとって、「事実」が隠蔽され、捻じ曲げられることは何ら新しいことではない。二〇一六年を〈ポスト・トゥルース〉の幕開けとすることは、黒人や他の有色の人びとが経験させられてきた噓と、その噓による暴力の歴史を、覆い隠してしまうのではないか。ロバート・メヒアらは〈ポスト・トゥルース〉を皮肉を込めて「記憶喪失と発見の神話」と呼び、人種的ノスタルジアの物語の再演に過ぎないと喝破する(Mejia et al. 2018, 119)。
噓によって塗り固められた歴史は、ジェンダー史家にとっても少しも新しくない。ジェンダーにもとづく暴力を正当化するためにさまざまな神話がつくられてきたことを指摘し、アラナ・パイパーとアナ・スティーヴンソンは、フェミニストの歴史家にとっても〈ポスト・トゥルース〉は日常の一部であったと語る(Piper and Stevenson 2020)。
そして、有色女性の知識人たちは──たとえ「インターセクショナリティ」というキンバリー・クレンショーが編み出した言葉を用いないとしても──「黒人の真実」からも「女性の真実」からもこぼれ落ちる経験に光をあててきた。ベル・フックスが黒人男性指導者のセクシズムを批判したように(フックス 二〇一〇)。あるいはチェラ・サンドヴァルがアメリカの「覇権主義的フェミニズム」に対する「第三世界のフェミニズム」を描いたように(Sandoval 2000)。
〈ポスト・トゥルース〉という断絶史観が覆い隠すのは、ウェルズのような〈トゥルース〉を否定されてきた人びとによる、長い闘争の歴史である。リン・ハントは、「歴史的真実」は二層構造になっていると指摘する。第一の段階では「事実」が問題となり、第二の段階では「解釈」が問題となる。そして現実の歴史実践では、このふたつは不可分である。なぜなら、「事実というものは、意味を与える解釈に組み込まれなければ、動き出すものではない」からだ。「事実」は史料に依拠しており、歴史家は探偵や法律家、捜査ジャーナリストのように「あらゆる可能な手続きを利用して、件の事実、つまり真実」に到達しようともがく。一方、「解釈」は物語──「文学的な再構築」──である。歴史家は自身の問題意識にもとづき「山のような歴史的事実」のなかから、「ある特定の時点でのごく僅かな数の事実」を選び出し、歴史を再構築する。そのため、同じ出来事に対しても、異なる事実を持ち出すことで、異なる物語が生み出される(ハント 二〇一九、三四頁)。この不協和音と、絶え間ないせめぎあいこそ、民衆史と社会史研究を経た歴史学という学知が明らかにしてきたことではなかったか。〈ポスト・トゥルース〉という言説が不可視化するのは、〈トゥルース〉をめぐる、長い、苛烈な抗争の歴史である。
ポストモダニズムによる「客観的な歴史的真実」への疑念も、「感情や個人的信念」によって「事実」の受け止め方が変わることもふまえたうえで──さらに史料から得る「事実」は広大で手の届かない「大海原を自由に泳いでいる魚」(カー 二〇二二、三二頁)に過ぎないことを理解したうえで──それでもその「魚」を追い求め、抗争の〈場〉に足を踏み入れる。その「重い責務」を、ウェルズの自伝は教えてくれる。
参考文献
E・H・カー(近藤和彦訳)二〇二二『歴史とは何か 新版』岩波書店。
ベル・フックス(大類久恵監訳、柳沢圭子訳)二〇一〇『アメリカ黒人女性とフェミニズム──ベル・フックスの「私は女ではないの?」』明石書店。
リン・ハント(長谷川貴彦訳)二〇一九『なぜ歴史を学ぶのか』岩波書店。
Mejia, Robert, Kay Beckermann, and Curtis Sullivan. 2018. “White Lies: A Racial History of the (Post) Truth.” Communication and Critical/Cultural Studies 15, no. 2: 109―26.
Piper, Alana, and Ana Stevenson. 2020. “Business as Usual: Feminist History in a Post-Truth World.” In History in a Post-Truth World: Theory and Praxis, edited by Marius Gudonis, Benjamin T. Jones, 183―98. Routledge.
Sandoval, Chela. 2000. Methodology of the Oppressed. Foreword by Angela Y. Davis. University of Minnesota Press.
Tesich, Steve. 1992. “The Watergate Syndrome: A Government of Lies.” The Nation, January 13.
Wells-Barnett, Ida B. 2002. On Lynchings: Southern Horrors, A Red Record Mob Rule in New Orleans. Introduction by Patricia Hill Collins. Humanity Books.
Wells-Barnett, Ida B. 2020. Crusade for Justice: The Autobiography of Ida B. Wells. 2nd ed. Edited by Alfreda M. Duster. New foreword by Eve L. Ewing. New afterword by Michelle Duster. University of Chicago Press. Kindle.




