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『思想』10月号

◇目次◇
分配とヒエラルキー ――平等/不平等をつくりだすもの……松村圭一郎
アフリカ文学が紡ぐ「いま」 ――第1回 アフリカ文学とはなにか―50年後の始まり― ……粟飯原文子 
ケベックのヴェール論争――争点の移動と対決の構図……伊達聖伸
プルードンの集合理性論――自律,社会,コミュニケーション……金山 準
多元主義的〈闘争の技法〉としてのプラグマティズム――ウィリアム・ジェイムズからジャン・ヴァール/ドゥルーズへ……ティボー・トゥロシュー
グローバル・ヒストリーのなかの啓蒙(下)……ゼバスティアン・コンラート
〈研究動向〉異文化間の対話と共生を考える――中国ムスリム研究の近年の動向……中西竜也
〈書評〉ベトナム戦争の形而上学的背景――ファム・コン・ティエン『深淵の沈黙』……真島一郎
〈資料〉『文芸と哲学における新しい意識』緒言に代えての手紙(2) ……ファム・コン・ティエン
 
◇思想の言葉◇

「南」の多文化共生   峯 陽一

 
 多文化主義は地に墜ちた.これまで,多くの欧米諸国が社会工学的な多文化主義政策を実施してきたが,転機となったのは二〇〇一年の九・一一事件である.この前後から,「リベラル」な多文化主義が偏狭な原理主義者を育て,増長させたと声高に主張されるようになった.その大部分は理論的な批判ではなく,恐怖に訴える煽動だった.それでも,多文化主義の社会規範としての力が一気に弱まったことは間違いない.
 
 多文化主義の考え方を最も体系的に唱道してきたのは,カナダの政治学者ウィル・キムリッカである.ジョン・ロールズのリベラリズムの枠組みを承認しつつ,キムリッカは個人が文化的な文脈のもとで選択権を行使することに注目し,文化的集団と市民権にかかわる課題を正面から考察しようとした.
 
 だが,多文化主義の処方箋がそれほど「リベラル」だったわけではない.キムリッカにとって,エスニックな少数派集団の文化的な権利は暫定的なものだった.移民の大部分は,自発的に国を出て移住してきたはずである.であれば,かれらは移住先の文化に徐々に統合されていくべきであり,民族語での公教育を制度的に要求したりする資格はないというのである.自治権の主張が正当化されるのは,国家の内部で民族性をより強く主張できる集団,たとえばカナダのフランス語圏コミュニティなどの場合に限られる.
 
 理屈はわからなくもないが,いささか柔軟性に欠ける気がする.統合を求めない多文化主義,あるいは,規模の大小を問わず文化的な集団が互いに尊重して共存する「状態」としての多文化共生を構想することはできないだろうか.そういう思いもあって,アジアとアフリカを往復する移民に関する書物を編集してみた(Scarlett Cornelissen and Yoichi Mine eds. Migration and Agency in a Globalizing World: Afro-Asian Encounters, Palgrave Macmillan, 2018).キーワードは「よそよそしい共存」(aloof co-existence)である.
 
 この着想を得たのは,東京の下町で過ごしていたときの感覚だった.耳に入る言葉で判断すると,商店街を歩くのは日本人が多数派だと思われるが,フィリピン人,ネパール人,パキスタン人,中国人,韓国人,欧米人などの定住者の姿も目につく.買い物での小銭のやりとりを除いて,地元の人々と移民たちが積極的に交わっている様子はない.移民たち同士もそうだ.しかし,敵意は感じられないし,互いにまったく関心がないわけでもない.イギリスの植民地官吏J・S・ファーニバルが東南アジアの複合社会を観察し,「かれらは混じり合うが,結びつかない」と記したことを思い出す.お祭りでサンバの山車が商店街を練り歩くと,少し離れたところから,皆が好奇心たっぷりに眺めている.距離を保ちながら響くような感覚は,意外に心地よい.
 
 移民問題といえば,まずは,「貧しい南」から「豊かな北」を目指す経済移民や難民たちが話題になる.欧州での暮らしを夢見て,嵐の地中海を船で北上する家族のイメージである.その一方で,「南と南」をつなぐ水平的な移民の動き―その規模はますます拡大している―については,語られることが少ない.アフリカに渡った中国人移民は百万人に達すると言われることがある.地元のアフリカ人も中国人移民も,内輪では相手の悪口を言うけれども,暴力的な対立に発展することはあまりないし,中国人の商店には常に地元の顧客がいる.他方,広州などの中国都市に商品を買い付けに来るアフリカ人商人も目立つ.アフリカ人の滞在者は中国人の人種差別的な振る舞いに怒るが,自分が中国人になりたいと思うわけではない.
 
 人々は移動し,共存し,立ち去る.それは,インド系マレーシア人としての出自をもつ哲学者チャンドラン・クカサスが,著書『リベラルな列島』において描いてみせた世界である.クカサスによれば,自由主義社会は権威の複数性と相互的な寛容によって特徴づけられ,その核心には結社の自由という価値がある.人間は一人では生きられない.だから他者とともに組織をつくる自由があるし,そこから脱退する自由がある.正当な理由がない限り,国家は,このプロセスに介入してはならない.クカサスによれば,国際社会は「列島である.つまり,幾多の島がある海である」.住民たちには「島を離れる自由があり,海には船が点在している.既存のルートにそって動く船もあるし,海図がない場所に迷い込む船もある」.
 
 こうした自由が,今ここで支配的であると主張することは危ういだろう.いくらでも反証を挙げることができるからだ.潜行する人身売買は国際関係の地下茎を形成している.ロヒンギャの人々は,生まれ育った村に住み続けることができない.ガザの人々は,イスラエルからの砲撃を逃れて国境を越えることができない.東京の「よそよそしい共存」の裏面には,新大久保の共存を破壊しようとする右翼の街宣行動があった.そして,複数政党制が認められていない国家は地球のかなりの部分を覆っている.動きようがない者が追い出され,動きたい者が閉じ込められる.
 
 しかし,特定の権利が否定される事態は,その権利の大切さを浮き彫りにしているとも言える.A・O・ハーシュマンの退出・告発論の用語を使うならば,自らが所属する組織の改善のために「告発」する権利とともに,組織から「退出」して別の組織と関係を結ぶ権利もまた,万人に保障されるべきである.
 
 抽象的な個人の社会契約にもとづいて制度を設計するガバナンスの伝統は,西洋的なものである.ひるがえって,非西洋世界の国民国家には,良かれ悪しかれ,移民政策のグランドセオリーは存在しない.恭順しない者は追い出そうと威嚇することもある.ただし,本当に追い出すとは限らない.そこで生まれる「よそよそしい共存」は,壊れやすい均衡だとも言える.そのうえで,非西洋世界には,多様な文化的背景をもつ人々の共存を目指す経験知や規範が豊かに存在することも事実である.アフリカ大陸に目を向けると,タンザニアの大統領は,一九六四年の連合共和国の成立から現在まで,キリスト教徒とイスラム教徒が交替でつとめることが慣行になっている.一九八〇年代,アパルトヘイト時代の南アフリカでは,ユダヤ教徒,キリスト教徒,イスラム教徒が肩を組んで街頭に出て,人種差別に抗議して警官隊と衝突したものだった.
 
 西洋世界の多文化主義の実験は破産したかもしれないが,諦めるのは早すぎる.西洋世界に向けるのと同じだけの実践的,思想的な好奇心をもって,非西洋世界における共存の実験に目を向けてみようではないか.

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