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岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

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『思想』2月号

◇目次◇

思想の言葉……………間宮陽介

アメリカの「格差社会の震源」コネチカットを歩く――ある工業都市が収奪され,貧困都市に転落した構図を読む……………矢作 弘
ビールによって生きること――1844年ミュンヒェンのビール騒擾……………東風谷太一
世界への導入としての教育――反自然主義の教育思想・序説……………今井康雄
オットー・ブルンナーとナチズム――「時代を巧みにくぐり抜けて来ました」(中)……………ハンス=ヘニング・コーテューム (68)
幸福の経済原理――自生的な善き生(ウェルビイング)の理論(中)……………橋本 努
和算の成立……………佐々木力
霊性論――第6章 山崎弁栄と霊性の哲学……………若松英輔

 

◇思想の言葉◇

額縁の空間論
間宮陽介

 ある土地に囲いをして「これは俺のものだ」ということを思いつき,人々がそれを信ずるほど単純なのを見出した最初の人間が,政治社会の真の創立者であった(ルソー『人間不平等起源論』).土地への囲いは他者の侵入を防ぐ防壁であり,この防壁を築くことは,この土地の支配者は自分だと宣言するにひとしい.ルソーによれば,私有の観念は自然状態の最後の段階に生まれ,次の社会状態の創設を不可避とした.

 土地に限らず,何かに囲いをすることは,囲われた領域を外部の領域から峻別することを意味する.国の観念は国境線を引くことと不可分であり,家を建てることは壁と屋根によって,酷薄な自然と見知らぬ他者を遮断して家族だけのマイ・ホームを創ることにほかならない.土地にしろ国にしろ,何かを囲うということは切断の道具を用いて,無限定の空間から一片の領域を切り取り,なにほどか自己完結的な領域を創ることである.

 しかし,囲いは領域を密閉し自閉させるとは限らない.国が国境線で囲われていても,人や物の行き来はあるし,国境をめぐる紛争も国が開かれているから起こる.もしもすべての国が一国に自閉しておれば,国家間の紛争は決して起こりえないだろう.人間には結合するとともに分離する能力が与えられている,とジンメルは述べたが(「橋と扉」),国がまとう国境線という外皮,家屋の出入り口としての扉といったものはたしかに内外を分離するとともに結合する働きをしている.

 では,絵画を囲う額縁はどうだろう.木材や金属で作られたこの堅固な囲いは絵画を安置する枠組みフレーム,絵画の世界を聖別するための象徴的な仕掛けであるように見える.このため,額縁は,聖を俗から,非日常を日常から分離して自己完結させる囲いとして表象されることがしばしばであった.たとえば『ホモ・ルーデンス』を書いたホイジンガによれば,時間と空間によって限定された非日常的な遊びの領域は額縁によって囲われた絵画世界に対応する.同じ伝で,彼は額縁とかつらを等価と見なし,その分離機能に言及している.鬘は「顔を周囲から引き離し,顔貌に高貴さを与え,気品を高める」.

 同じ観点から,オルテガ・イ・ガセットは額縁について周到な考察をめぐらせている.ホイジンガの絵画に相当するのはオルテガにとっては都市,厳密にいえば,私的生活とは区別された公共生活の場としての都市である.このような意味での都市を純粋に表すのは広場であり,彼の都市は広場と置き換えてもいい.では,このような都市(広場)を囲うものは何か.彼によれば,大砲が鋼材に取り巻かれた孔として定義されるように,都市(広場)は,建造物のファサードに取り囲まれた空間として定義される.ひるがえって,私的生活が営まれる建物の内部はなんら都市の本質をなすものではない.額縁も同様である.額縁と絵の関係は,建物のファサードと広場の関係に照応する.額縁によって仕切られた壁と絵は交わることのない二つの世界,額縁は一方の他方への浸潤を防ぐ絶縁体の役目を果たすのである.

 自然界は分離と結合の両面から見ることができ,人間には分離するとともに結合する能力があると説くジンメルもまた,額縁論を書いている.基本はホイジンガやオルテガらの分離派と同じである.額縁は鑑賞者を含むあらゆる環境を絵の世界から締め出す.しかしその彼がこうもいっている.額縁はふつう外から内に向かって傾斜しているが,当世風の額縁には逆傾斜しているものがある.これでは視線が絵画の内側から外側へと誘導され,絵画のまとまりは遠心分離器にかけられたように拡散してしまう,と.だが額縁の中の絵に視線を投げる人は額縁の外にある環境の一部をなしているはずである.前言にかかわらず,ジンメルは,額縁は分離とともに結合する役割を果たしていることを認めているのである.

 額縁が登場したのは古いことではない.一六世紀に現れ,一七世紀になってようやく市民階級の居間に進出するにいたった(クラウス・グリム『額縁の歴史』).もしも額縁が聖俗を分離するだけなら,絵画は壁に掛けるのではなく,いっそのこと御神体として,人目につかない場所に安置しておくがいい.しかるに額縁の歴史が示しているように,額縁は絵画を日常的な場に請じ入れ,居間の壁に掛けるために登場した.その壁を「灰色の壁」,功利的なものと貶めても始まらない.額縁の内部と外部は交わることのない水と油の関係ではなく,額縁は両者の間を取りもつ働きをしていると見るべきである.現にグリム自身はそのような見解をとっている.他にも,テディ・ブリュニウスのように,額縁は絵画を環境から取り去るとともに,絵と環境との統一を創り出す,と論じる人がいる(Teddy Brunius “Inside and Outside the Frame of a Work of Art”).

 絵画をそれ自体として鑑賞することはもちろん可能である.画集に収められた絵を見るとき,われわれは,外部の環境に拘泥することなく絵そのものを見ている.額縁を付加する場合でも,カントのように額縁を絵画の本体に付着する付加物(パレルゴン)と見る限りでは事情は変わらない.額縁は絵=主に対する従の関係にあり,額縁に絵本体の絵模様を描き込めば(点描画のスーラはそうした),額縁は文字通り絵の一部となり,絵に吸収されてしまう.

 だが,市井の人々が額縁付きの絵画を居間や階段の壁に掛けるときには,額縁とその外部は絵と同様の資格で絵画空間を構成する要素となる.絵本体をA,壁や鑑賞者を含む外部の環境をB,額縁をCとすれば,絵画空間はA,B,Cの三つの要素によって構成される空間となる.ここにおいては,額縁は絵本体を囲う枠であるとともに,その内外を分離しかつ結びつける「境界」となる.

 境界のもつ魅力は,それが踵▽きびす△を接する領域に反作用して,逆に領域そのものを変容させる力をもつところにある.パリの旧市を囲う城壁は,要所要所に開けられた市門の外にフォブールと呼ばれる賑わいの場所を生み出した.人間の内的世界と外的世界の境界はたぶん活動だろう.マルクスが,労働は人間の外なる自然を変化させると同時に彼自身の自然をも変化させるといったとき(『資本論』),彼は,活動=境界の働きに言及していたといえる.してみると,境界としての額縁もまた内外二つの世界を創り上げるとはいえないだろうか

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