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岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

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『思想』6月号

◆目次◆

トクヴィルという謎――自由主義と共和主義の狭間で(1………宮代康丈
アレントの現象論的嘘論――デリダ『嘘の歴史 序説』の読解から………和田隆之介
中世ヨーロッパの霊性史における情動性………セドリック・ジロー
アフリカ文学が紡ぐ「いま」――第2回 メイド・イン・アフリカの可能性――アフリカの出版の未来………粟飯原文子
バートランド・ラッセルがみた1920年代初めの中国――ジョン・デューイにもふれて(上)………紀平英作
幸福の経済原理――自生的な善き生(ウェルビイング)の理論(下)………橋本 努
オットー・ブルンナーとナチズム――「時代を巧みにくぐり抜けて来ました」(下)………ハンス=ヘニング・コーテューム
 

◆思想の言葉◆

人間ならざるものに向けて
上野 修

 ゆえあって頭部の断層撮影をとられたことがある.見ればそれは生々しくも恐ろしいものであった.当たり前だが,二つの眼球から脳に至るまですべてがモノだったのである.かつては生きられる身体こそがリアルなのだと聞かされ,そのように思っていたこともあった.しかしよく考えると,この露呈されたモノのほうがずっとリアル,というか,むしろまさにそれこそが,ほとんど生きがたい私の恐るべきリアリティであるかのようにも思える.―だが,こんなものが私なのだろうか.

 そんなはずはない,モノが「私」と言うはずがないではないか.そんなふうに考える私はこのとき限りなくデカルト的である.自動機械を愛したデカルトの図版には脳だの眼球だの神経だのが描かれている.いかに精巧であれこんなものの集まりが「私」と言うはずがないとデカルトは考える.私は思考する実体,精神であって,モノではない.モノは思考しないのだから.今日デカルトの心身二元論をいろいろ批判するわれわれも,やはりどこかでそう思っているのではないか.

 私はモノではないという否認はかくも根深いが,それをあっさりクリアしてしまった哲学者がいる.スピノザ(Baruch de Spinoza 1632-1677)である.彼は無神論よりもさらにおぞましい学説を説く者としてしばしば排斥された.それもわからないではない.なぜならスピノザとともに人間が消えるからである.もっと正確に言えば,ある種の似姿としての「人間」が消える.そしてモノとその真理だけが残る,のである.これがどういうことを意味するのか,一度考えてみる必要がある.

 スピノザのデカルト批判は心身問題という難問に解決を与えようとする試みだったと言われることがある.結果的には間違いではない.デカルトによれば「思惟するもの」と「延長するもの」は互いに他のものなしに考えることができ,重なるところがない.それゆえ精神と身体はまったく別の独立した二つの実体である.すると困ったことにその合一がまったく理解できない.今日まで尾を引く心身問題である.スピノザはというと,彼は他のものなしにそれ自身で考えられうるというデカルトの実体の定義を字義どおりにとり,同じものが思惟と延長のそれぞれで反復的に「実体」と同定されると考える.無限にあり得るすべての属性でそのように反復されると考えればそれは他を持たない唯一かつ無限な実体となるだろう.スピノザの「神あるいは自然」である.とすれば延長実体と思惟実体は実は同じもので,それが一方で物理的な無限宇宙に様態化し,同時に他方で無限知性に様態化していると考えることができる.すなわち一方に単純な物体から始まる無数の個体の無限の複合レイヤーがあり,他方にこの秩序と同一の推論シーケンスが無限の思惟としてある.するとわれわれの身体はそうした物理的宇宙の一部としてここに生み出され,われわれの精神は無限知性の中に帰結する身体の真なる観念だということになるだろう.同じ理由ですべてのモノに精神がある.もちろんどの場合も身体と精神は同じものの反復的な二つの表現なので一致する.心身合一とはそういう一致のことである.

 『エチカ』の少々壮大過ぎる論証には面食らうが,これはこれでよくできた説明だと思う.だが一般にはまったく歓迎されなかった.スピノザの体系はデカルトを法外に激化させ,たしかになんだかわからないものになっている.こうしてスピノザは幾多の無理解と拒絶に遭遇することになるが,その棄却の対象となる核を取り出すことは難しくない.スピノザは「神の似姿」を消滅させる.これがまずいのである.

 デカルトは「我あり」から神の存在を証明するさいこの「似姿」に訴えていた.私はある意味神によってその「像と似姿」(imago & similitudo)にかたどられて造られており,自分自身を捉えるのと同じ能力でそれを捉えるのだと.第三省察のこのくだりは単なるレトリックではない.デカルトにとって似姿は,私が神と同じく「考えるもの」であってモノではない証なのである.スピノザが消滅させるのはこの「似姿」にほかならない.彼は言っていた.見たり聞いたりすることのない神など考えられないとあなたが言い張るのは不思議ではない.「もし三角形が話す能力を持つとしたら,三角形は同様に,神は優越的に三角であると言うでしょうし,また円は円で,神的本性は優越的意味において円形であると言うでしょう.こういうわけでだれであろうと自分の諸属性を神に帰し,自分を神と類似のものとし,その他のものは醜く思うでしょうから」(書簡五十六).スピノザの神は何にも似ていない実体であり,人間はその無数の様態の一つにすぎない.それらすべてに真理があり精神があるなら,どうしてわれわれだけが神に似て精神であることなどありえよう.

 こうしてわれわれは人間ならざるものの思考へと導かれる.「考える私」は消去されはしない.むしろわれわれの精神は字義どおり身体の真なる観念,すなわち恐るべきモノの真理として神という名の現実の中に存在している.だがスピノザによれば,精神は自分がそれであることを知らない.なぜならその真理を知覚しているのは,身体の産出と並行して身体観念を帰結する膨大な数の前提諸観念となった思考,人間ならざる自然の思考であって,当の真理である私ではないからである.われわれは自分を知らない真理なのかも知れない.スピノザはいつもそのことを思い出させてくれる.
しかし彼らは言うであろう.建築・絵画・その他人間の技能のみから生ずるこの種の事柄の原因を,単に物体的と見られる限りにおける自然の法則のみから導き出すことはできない,また人間身体は精神から決定され導かれるのでなくては寺院のごときものを構築することはできまい,と.しかし,私のすでに指摘したように,彼らは,身体が何をなしうるかまた身体の本性の単なる考察だけから何が導き出されうるかを全然知らないのであるし,また彼らは,精神の導きなしに起こりうるとは彼らの決して信じなかっただろうような多くのこと,例えば夢遊病者が睡眠中にしてあとで覚醒してから自分で驚くようなことが,単なる自然の法則のみによって生ずることを経験しているのである.なお私はここで,人間身体の構造そのものが人間の技能によって作り出されるすべてのものを技巧上はるかに凌駕していることを付言する.私がさきに述べたこと,すなわち自然がいかなる属性のもとで考察されようとも自然から無限に多くのものが生ずるということは,今は言わないとしても.(『エチカ』第三部定理二の備考)
 さて私がもしそうした恐るべきモノの真理であるならば,まさに真理があったところ,そこに「私」がやって来なければならない.これが『エチカ』の倫理である.そのために必要なのは認識をおいて他にない.まず,われわれはそれがどういうことなのかは知らなくても,身体に合一していることは間違いなく知っている.数ある物体のなかでなぜかこの物体だけに変状を感じ,いわばこの物体の真理であることを直に生きているからである.(それは身体の観念を経由しないと自然は身体の変状の真なる観念を帰結できないからだとスピノザは説明していた).そしてモノに共通の法則的認識.それによってわれわれは自分の身体すら物理的対象の一つとして見ることができる.こうした表象知,科学知に加えて,最後に直観知というべき第三種の認識がある.それは『エチカ』のような公理的手法を用いて私がそれでなければならない存在論的な真理を同定し,見えないその真理に証明を通じて同一化する道である.『短論文』のスピノザはそれを神との合一と考えていた.生きられた心身合一を,認識によって「神あるいは自然」との合一にシフトする.リアリティは何一つ失わずに.そうやって,まさに真理があったところ,そこに「私」がやって来なければならない.

 私は人間である前にモノであり,その真理である.こういう人間ならざるものの思考にふれるとき,私は映画「ブレードランナー2049」のラストシーンを思い出さずにはおれない.レプリカントのKは束の間自分が人間なのかも知れないと信じそうになるが,やがてその幻想は破られる.天より舞い降りる雪の中,傷ついて横たわりながらKは初めて見るかのようにじぶんのからだに触れ,眺める.それが彼であり,彼はその真理である.そのとき人間ならざるものが彼となり,Kは自分がずっとそれであったところのレプリカントに,今なる.そこで彼が死を間近にしているとしても,真理に比べれば大した意味はない.自分はやはり人間ではなかったということの,息も詰まるほどの自由.喜びも悲しみも,人間になるという一縷の希望も,決して追いつくことのできない自由.「人間」はモノとしての脳がわれわれに見させる一貫した夢かもしれない.夢の中にいてもスピノザに倣ってそう考える自由はある.

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