『図書』9月号 【試し読み】小池昌代
◆目次◆
本当はバージョンが二つ作れたらいい 宮下志朗
私にとっての加藤周一 伊東光晴
別離 小池昌代
秋田の異端、レジェンドの酒造り 小坂佳子
フランス法の痕跡を辿る旅(上) 大村敦志
科学技術ジャーナリズムの役割 山本義隆
秋の蝉 朽木 祥
漱石俳句の典拠 徳田 武
深い海の底から 赤坂憲雄
目にはさやかに見えねども 辰巳芳子
秀野・安見子・蝉時雨 さだまさし
九月、秋は気が付けばそこにある 円満字二郎
菅生事件 片山杜秀
鬼の話、二題 三浦佑之
モダンの波頭を切る 山室信一
こぼればなし
九月の新刊案内
(表紙=司修)
(カット=佐々木ひとみ)
◆試し読み◆
とはいえ、わたしはアルコールに弱く、梅酒の梅一個でまっかになる。梅酒など、どうしても飲みたいものではない。そもそも生家を出てから長く、庭の梅の木にも梅の実にも、思い入れなどはまるでなかった。
ところがある日、木の下に、ごろりと横たわる黄金のブツを発見。落ちた梅だ。一個拾うと、翌朝、また一個。増えていくにつれ、それらがまるで、梅自身の「催促」と感じられた。そして見上げれば木の枝には、ここにもあそこにも、青梅が陽に、輝いている。脚立を用意し、一個をもぐと、こちらもまた、一個、また一個と、もぐ手が止まらない。わたしは強欲だ。
「あーやってくれる人が現れた、夢のようだわ」。母が言った。このひとは、実を摘まずに、習慣を途切れさせることを、罪と感じていたらしい。台所には、未だ飲みきっていない、去年の梅酒がわずかに残っていた。
自転車で酒屋へ走る。梅酒用のブランデーと氷砂糖を買うためだ。収穫した梅は十キロほど。それに見合う量となると、ブランデーだけで湖ができそうだし、砂糖だってちょっとした山になる。
自転車の荷台にそれらを積むと、あまりの重さに走ることもできない。よろよろと手で押すことになり、まあ、こんなことなら配達を頼めばよかった、それにしても、梅酒を作ろうという人は、材料を揃える段階からこんな難儀なことをやっているのだなと、初めてすることには、驚きの種が絶えない。
梅は洗ったのち、よく乾かし、へたのところを抉り取って始末をする。この部分から雑菌が入ってカビが生じるのを防ぐためだ。瓶はもちろん、熱湯消毒する。
仕込み終わった大瓶が、今、実家の台所に並んでいる。わずかに差しこむ光を吸い取って、そこだけどんよりと鈍く光っている。簡単には滅びそうもない重量感だ。梅というより時間そのものが、いよいよ熟成の準備に入ったようだ。
瓶の底に敷きつめられているのは、いまだ形を残した氷砂糖だ。これから長い時間をかけ、形をほどき、ゆらゆらと液体に溶け出していく。瓶全体は、どっしりとして微動だにしない。ところが中身の果実の方は、黄金色の液体に自らの充実を受け渡し、安心し切ってプカプカと浮いている。
瓶のなかで、こうして引力と浮力という、真逆の方向に向かう力が調和していた。
それにしても、わたしはいったい誰のために今年の梅酒を作ったのだろうか。梅の収穫が、つい面白くなって、次々もぎとってしまったのは確かだけれど、そこから先は否応のない流れに乗っただけ。自分のためでないことははっきりしている。母のため、というのも少し違う。母もまた、自分だけでなく、誰かも飲むから梅酒を作っていた。だがこの家にはもう、かつてのように、おおぜいの人々が出入りするわけでもない。今年の梅酒は、年をまたいで、だいぶ先まで残り続けるような気がする。
さて、作業が終わっても、庭の土のうえには、一個、また一個と、収穫の際に見落とした残りの梅が落下してきた。石にぶつかったか、鳥にでもつつかれたか、皮が破れ、傷ついたものもある。天然の産毛が汚れをはらうのだろう、土の上に落ちても汚れた感じはしない。
梅が落ちる瞬間を、わたしは見たことがない。ぜひ見たいが、梅の木の前にじっと陣取っているわけにもいかず、奇跡的な偶然はそう簡単にはやってこない。
正確にいえば、わたしは落ちてくる梅を見たいのではなく、梅が枝から別れるところを見たい。どのように別れるのかを見たい。そして梅が、地面に落下する音を聴きたい。
最近、試写で観た、ジョージア(グルジア)の映画「聖なる泉の少女」が思い出された。舞台はグルジア南西部の山奥の村。そこには人々を癒やす泉の神話が息づいていて、ともに「癒し手」を持つ父娘が暮らしている。父は娘が結婚することを望まず、生涯独身の身で泉を守って欲しいと思う。だが娘には好きな人ができる――。わたしは式子内親王を思い出した。この孤高のおひめさまは、賀茂神社の斎院として祭祀に奉仕し、生涯独身のまま、すばらしい御歌を詠んだ。
映画の画面には、自然の物音と沈黙が満ち、セリフはごくわずか。ザザ・ハルヴァシ監督は、早朝、遠くの木の梢から雪が落ちる音を聴き、その「絶対的な静寂を映像言語で表現することができないか」と思ったのだそうだ。それを知っていよいよ式子内親王の代表歌――山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水――が重なった。
落ちる雪の音なら、わたしも冬の公園で聴いたことがある。誰もいないのに、背後で、いきなりどさりと音がして、驚き振り返ると、枝が揺れていた。枝の上に積もった雪が落ちたのだった。厳密にいえば、この経験も、雪の落ちた瞬間を見たわけではなく、落ちた後を確認しただけだ。不思議なことに何かが生成する瞬間というのは、なかなか目撃することができなくて、せいぜい、その前後を確認できるだけだ。
梅の落ちる瞬間にも、わたしは立ちあったことがない。梅の実には、産毛がびっしりと生えていて、それをベルベットの布地に例える人もいる。そんな柔らかな表皮を持った実は、落ちても土に衝撃を吸収され、木琴のような素朴な音があがるくらいだろう。
わたしは昔からそんなことが気になるたちで、落葉を見ても、葉っぱが枝から離れる瞬間を、拡大鏡で見てみたいと思う。
梅の実についても同じだ。枝がある決意をもって梅を離すのか、あるいは梅の意志、梅の成熟をもって、枝から自然に実が落ちるのか。主体はどちらにあるのか。そんなことが気になる。決意とか意志とか言っても、もちろん、植物界のそれは、人間の世界にあるような感情とは無縁で、植物が生きる上で「時が満ちた」という納得が、枝と葉、枝と実の両者にやって来るのだと思う。
落葉の仕組みが気になって調べてみると、光の不足などで枯れ始めた葉っぱには、枝と葉の間に、「離層」と呼ばれる細胞層が形成されることがわかった。落葉は、植物の老化現象だが、この離層が形成されることにより、枝と葉が切断されるのだそうだ。
果実の実が落ちることを落果というが、落果の場合も落葉と同様で、果柄(木の幹から出て実を支える枝)と果台(実の付け根)とのあいだに、離層が形成されるという。離層とは、スムーズな離別を促す装置なのだ。
落葉や落果という植物の部分的な死は、一つの生命体が成長し生き延びるために必要なもので、植物を見ていると、生命というものが、そのように常時、死を抱え込んでいることがわかる。
ところで、倹約家の母は、落ちている梅を見つけると、かならず拾ってきて、追加で入れろと言う。わたしは一応、受け取っても、実際は入れたり入れなかったりする。追加、追加は、きりがないことである。それに一旦、閉じた蓋は、時が満ちるまで簡単には開けたくない。仮に追加で入れるにしても、傷のある梅はよけておきたい。だいたい落ちている梅は、半ば成熟し、黄色くなっていて、それはジャムなどには適するけれども、梅酒に漬けるならやはり青梅がよろしいと、梅酒の作り方には書いてある。成熟した梅だと、漬けてから崩れたり破れたりして、液が濁ることがあるらしい。
製造を命じるだけの者(母)と、実際の労働者(わたし)のきもちは、このように乖離している。しかしどんな時も、現場を知り、労働する者が一番偉い。そう思うわたしは、結局、自分が思うようにしてしまう。
そうして、落ち梅のいくつかを瓶には入れず、台所の片隅に置き、眺めているうちに、梅の、枝から分かれてきた部分、つまり、へたの部分に目がとまった。
すでに述べたとおり、手でもいだ梅は、いわば強制力によって、枝からひきはがしたため、その部分の処理が必要である。竹串を使ってきれいに始末をするのだが、慣れないわたしは、最初、手こずった。
ところが、自然の重力によって落下した梅には、その必要がまったくない。へたが最初から取れているのだ。枝から別れてきたどんな痕跡も見当たらず、最初からそうして生まれてきたかのように、ごく自然に、自らを巻き込んでいる。へた取りに苦労したものだからなおのこと、余分なものを一切脱ぎ捨てた、美しいくぼみに惹きつけられた。
落下した梅だけで梅酒作りができれば、こんなに楽なことはないが、これも前述のとおり、梅酒に最適なのは青梅である。人間世界に食べ物として提供される場合、落ちた実は二級品の扱いを受けている。
しかしその存在そのものに注目するならば、割れていようと汚れていようと、落ちた梅は見事な梅の完成形だ。そこには「落ちた」という事実に対する、枝(本体)と梅(分離体)双方の納得が感じられる。合点がある。合意がある。無理がない。だから別れの痕跡もない。
木を離れ、一個の存在となり、そのまま放置されれば、落ちた場所で腐っていくだけだ。果物にとっては、そこが死に場所となる。
とても若い頃、わたしには、初めて将来を約束した人がいた。すっかりその気になって浮かれていたら、ある日、その相手が別の人と結婚するという噂が聞こえてきた。ええっ、どういうこと? 約束が継続中だと思っていたわたしは非常に驚いた。わたしたちの認識はどこでずれたのか。親にも言えず、一人悩んだが、自分にも何か非があるような気がして、相手を責められなかった。
最後と思って電話をかけた。電話の向こうにいる人に、ひとこと、結婚するの? と聞いた。その人は黙っていた。吸い込まれそうな闇だった。黙っているということの中に、何もかもがあった。自分がしたことの意味を、そのひとは十分わかっているようだった。
あの時、世界は崩壊した。
約束というものは、はかないものだ。何の保証もないそんな危ういものをかわし、わたしたちは平気な顔で断崖を生きている。
あの時、はっきりとした破棄の言葉があれば、別れの言葉があれば、わたしは前に進めただろう。長く、この衝撃を引きずったけれど、歳月は流れ、わたしはその後を生き、今も生きていて、この顛末も忘れた。けれど落下した梅について書くうち、なぜかあの時の記憶が蘇ってきた。
もっとも今、わたしのどこを見ても、あの時の傷は見当たらないだろう。長い年月にさらされたせいだろうか。嵐は吹いたが、あれもまた、自然の摂理の中で起こった落果だったのだと今は思える。
時が満ち、全ての細胞が納得し、梅は落ちる。枝から地面へ。その数秒間を思ってみよう。
例えば詩の行も、次々と落下する梅のごときものであったら、改行は、限りなく自然な切断となるだろう。それ自体の重みで自然に言葉が切れ、次へ渡る。言葉の別れ、切断こそが、詩のリズムを作る。
例えばわたしも落下している途中の梅なのだと、想像してみるのも面白い。いつ、どこへ落ちるのかわからない。その時はいきなりくる。それを思うと、木になる梅の一個一個に、覚悟というものが見えてくる。
地面に落ちた時、誰にも聞こえないほどの柔らかな音が立ち、そこから先のことは、もう誰にもわからない。実っていた時より、少しだけ遠い空。その時が来たら、もはや誰にも拾われたくはない。落ちた場所で、一人静かに朽ち果てていくことにしよう。
◎ かつては広告媒体も新聞や雑誌とかぎられていましたし,そのメディアの多くの読者が書籍の読者と重なっていましたから,それほどアタマを悩ませる必要もありませんでした.
◎ それがいまでは,広告を掲載するメディアの読者も減少し,宣伝効果も昔日の面影がありやなしや.他方で,SNSで発信された,ある個人の「つぶやき」がベストセラーをもたらすということも,もはや特別な風景ではなくなりつつあります.
◎ こういう時代状況では,PR誌のあり方も変化していくのが趨勢ということでしょうか.KADOKAWAのPR誌『本の旅人』が七月号をもって休刊するとの報に接することになりました.95年の創刊からほぼ四半世紀,23年にわたる刊行でした.
◎ 休刊に伴い,『本の旅人』が担っていたPR機能は文芸情報サイト「カドブン」へ,連載媒体としての機能は『小説野性時代』と,新たにスタートした電子雑誌『カドブンノベル』へと,それぞれ移行するのだそうです.
◎ 「本の旅人」編集長の小林順さんは「休刊に寄せて」で,このように記しています.
◎ 「かつては「紙 vs デジタル」といった構造で語られることもありましたが,それぞれの長所を生かした出版の方法がさまざまに模索され,いまではそのような対立の構図を正しいと考える人も少なくなりました.本誌の休刊および別媒体への移行も,そうした試みのひとつと捉えていただけると幸いです」
◎ 小林さんの指摘するように,紙媒体と電子媒体が単純に対立するものではないでしょう.電子書籍が紙媒体を近いうちに駆逐すると思われていた米国でも,紙の本への回帰ともみられる現象があるようです.
◎ 米国では2015年を分水嶺として,二年連続で電子書籍の販売が減少する一方,紙の本の売上が持ち直しています.08年の48億ドル台から14年には35億ドル台にまで落ち込んだ販売額が,15年以降は文庫本に相当するペーパーバックが好調で,16年には38億ドル近くにまで回復したそうです.
◎ 本邦では紙の本の売上は減少の一途をたどり,電子書籍の販売は拡大をつづけていますが,それがこのまま進んでゆくのでしょうか.紙には紙に最適の,電子には電子に最適の役割があり,それにふさわしいかたちが模索されてゆく.それとおなじように,PR誌のあり方も,PRの方法にあわせた最適なものが考えられてゆくことになるのでしょう.
◎ 辰巳芳子さんの「お肴歳時記」が本号で終了となります.ご愛読,ありがとうございました.