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『科学』2019年12月号 【特集】河川氾濫への備えを考える

◆目次◆

特集 河川氾濫への備えを考える
堤防をめぐる不都合な真実――なぜ2015年鬼怒川堤防決壊は起きたか?……石崎勝義
千曲川決壊はなぜ起きたのか……まさのあつこ
ダム治水と肱川大水害……牧田 寛
激甚災害に備えるハザードマップ――そもそも誰が何のために作るか……鈴木康弘

巻頭エッセイ 
イノベーションという言葉の歴史と現在……隠岐さや香

六ヶ所断層の評価に関する問題――原子力規制委員会による適正な審査のために(3)……渡辺満久
恩師の2019年ノーベル医学生理学賞 「酸素濃度の感知と低酸素への適応」受賞に寄せて
――弟子から見たDr. William “Bill” G. Kaelin Jr.……南嶋洋司

[連載]
葬られた津波対策をたどって〈12〉……島崎邦彦
「米」遊学〈12〉パスタの国の米料理リゾット……大村次郷
これは「復興」ですか?〈33〉 一時帰宅……豊田直巳
利他の惑星・地球[生命編]〈9〉 〈共生進化〉は〈利他〉を再起動するか……大橋 力
里山考――失われゆく「豊かさ」をみつめて〈5〉 消えた故郷の風景……永幡嘉之
3.11以後の科学リテラシー〈84〉……牧野淳一郎
手紙がひらく物理学史〈15〉(最終回)長岡半太郎,ノーベル賞に湯川秀樹を推薦する……有賀暢迪
ちびっこチンパンジーから広がる世界〈216〉 チンパンジーの平均寿命
……クリスティン・ハーバーキャンプ,綿貫宏史朗,友永雅己,松沢哲郎,平田 聡
レジ袋の中の地球 プラスチック汚染の陸上生態系と人体への影響―中……小澤祥司

[科学通信]
〈リレーエッセイ〉地球を俯瞰する自然地理学 自然地理学的思考と地域環境変化の高精度統合化の試み……森脇 広

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表紙=盛田亜耶 「ユダの接吻」2018年 54.5×78.0 cm 切り絵   
photo by Tomonori OZAWA, courtesy of gallery ART UNLIMITED
表紙デザイン=佐藤篤司 本文イラスト=山下正人 連載「利他の惑星・地球」タイトル・デザイン=木下勝弘 

 

◆巻頭エッセイ◆

イノベーションという言葉の歴史と現在

隠岐さや香(おき さやか 名古屋大学)
 

 「イノベーション」(innovation)という言葉はその昔,悪い意味で使われた時代もあったし,科学・技術にとりたてて結びついた語彙でもなかった.16〜17世紀頃の英語やフランス語の世界だと,その語は文化や芸術,法律,あるいは宗教儀礼などについても用いられた.そこで「イノベーション」とは,断絶的な変化を持ち込むこと,くらいの意味であり,しかも,大抵は好ましくない変化をもたらすものとの含意があった.
 私たちの社会が,とにかく新しいものや,断絶的な変化をよいものとみなすようになっていったのは,市民革命や産業革命を経た19世紀以降である.20世紀後半になると,イノベーションの概念は経済学の用語として(批判されながらも)定着し,とりわけ,科学・技術のもたらす「新しさ」を経済的生産性へと結びつけるような変化を示す語として認知されるようになった.


 現在,イノベーションはまるであらゆる問題に解決をもたらす魔法の杖のように使われる言葉である.そのため,ほとんど言葉の濫用に等しい状況が生じているとの批判もある.
 たとえば,環境問題や貧困問題などに「イノベーションで課題解決を」というかけ声のかかることがある.だが,この両者とも,まさに断絶的な変化を求め続けた文明のツケが回り,生じたとも言える問題である.ほとんどマッチポンプのような印象を持つのは私だけではないだろう.こういう対象に対して必要なのは,飛躍的な発想の斬新さよりも,着実な計画性にもとづく取り組みや,様々な立場の人々との対話を踏まえた意思決定といった,一見地味で,地道な営みだと考える人も少なくはない.


 20世紀末以降の政策的なイノベーションの促進が,一部の優れたものを生む一方で,全体としては持続可能性が低い,あるいは不健全な経済活動を促進してきたとの指摘もある.
 次々とバージョンが変わる情報機器市場に我々は慣れきっているが,これは大量の商品が作られては廃棄される他の産業同様,持続可能性の低い短い消費サイクルにより地球環境に負荷をかけている.また,GAFAのように,少数の情報プラットフォームが寡占的に市場を制する状態は,かつて資本主義の前提であった自由な競争市場から遠い状態を生んでいる.
 行政の枠組みに目を転じれば,近年は「科学技術政策」ではなく「科学技術イノベーション政策」の枠組みで科学に関する事柄が論じられるようになった.しかし,自然現象の謎を解明するという自然科学の営みを,そう容易に,市場化・商品化と隣り合わせの「イノベーション」概念と結びつけてよかったのだろうか.


 たかが言葉,されど言葉.20世紀以降,「イノベーション」という言葉が,人間の活動のある一側面だけを取り出して,喝采し,盲目的に進んでいくことに使われてきた歴史があるとしたら,我々は改めて,そのことにもっと敏感になるべきだろう.

 

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