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『思想』2020年3月号 フェミニズムⅠ

◇目次◇

思想の言葉………米山リサ

〈インタビュー〉複数的パフォーマティヴィティとあやうい身体……………ジュディス・バトラー
埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために……………清水晶子
「省略」に抗う――障害者の性の権利と交差性……………飯野由里子
反/未来主義を問い直す――クィアな対立性と動員される身体……………井芹真紀子
異端を包摂する国家――三島由紀夫と東郷健にみる天皇とホモエロティックな欲望……………川坂和義
政治的なことは映画的なこと――1970年代の「フェミニスト映画運動」……………菅野優香
フェミニズムと科学技術――理論的背景とその展望……………飯田麻結
依存者の詩学,あるいは耐え忍ぶ者の透視図……………新田啓子
女の戦争とフェミニズム――三枝和子の敗戦三部作を読む……………木村朗子

 

◇思想の言葉◇

ネオリベラリズムを生き抜くために
米山リサ

 近代レイシズムとは、生かされるに値する人間か否かの線引きである。

 生かされる価値のある人間とは、生産的で再生産的な生を営む人々である。国家、企業、人類、公共の福祉に貢献するだけでなく、有益な社会の構成員を産み、正しく育てることのできる人々である。他方、そうでない側に属するとみなされた人間は、法によらずともいわば監禁の状態に置かれる。何人も侵されてはならないはずの自由と権利を奪われ、生物学上は生きている状態にあっても、絶え間ない監視のもとで社会的な死へと追いやられる。その死は弔われることも、贖われることもない。

 ミシェル・フーコーやジョルジョ・アガンベンらがこのように図式化した厳密な意味でのレイシズムは、近代国家による管理の道具となってきた。この線引きの決定は恣意的なものではありえない。そこでは歴史が大きく作用するからだ。それぞれの国や地域を構成してきた要素(宗教、私有財産、セクシュアリティ、生殖、労働倫理、家族形態、年齢、肌の色、国籍、ジェンダー、言語、嗜好、障害、能力など)が輻輳し、組織的に動員され、レイシズムを制度化してきた。そのため白人が歴史的に優位とされた地域では、白人中産階級の対蹠的存在とみなされてきた有色の人々が、今もより多く社会的死に追いやられる。異なる出自に対して排外的な成り立ちをもつ国家では、生き延びるための恩恵にあずかれるのは異民族や外国人ではなく、同質的で伝統を共有するとされる国民である。いっぽう、資本のグローバル化が加速した今日の自由市場社会では、境界線はさらに流動化している。レイシズムによる線引きは、資本と国家の求めに応じ、時と空間によって変異する。そのため、たとえばあるジェンダーに属するすべての人々や、ある民族性に印づけられたすべての人々が、必ずしも境界線の同じ側に置かれるとは限らない。

 今日、ネオリベラリズムと呼ばれる権力の様態は、このような根本的な意味での近代レイシズムの差異化と価値の力学によって支えられている。私たちは生かされるにふさわしい人間となることを欲望し、自ら選択する。たとえその欲望が、別の誰かの価値を貶め、生を阻むことにつながっていたとしても。自己を啓発し、保全し、生かされる価値のある人間となるよう自らをケアすることが、私たちに課された自己責任であるからだ。私たちのあいだに存在するさまざまな違いは、生かされるに値する人間と、そうでない人間を差別するために管理され、資本と国家のために動員されている。

 自由と民主主義を掲げる党が支配する場所で、空気を読んでしまう人々や、自死を急ぐ若者は、もしかするとネオリベラリズムによる人間の値踏みの仕組みを誰よりも鋭敏に感じ取っているのかもしれない。生きるに値することが、自分と異なる他の誰かの生を阻むことにつなげられてしまうという暴力は、同調性のもとで社会的死を生きつづけるか、物理的な死を選び取るか、二者択一を迫るほどに凄まじいものかもしれない。自らすすんで権利や自由のない状況を選び取ることで、自分の価値が他人の社会的・身体的な死につながるゼロサムゲームの罠から逃れたがっている。他人と違っていることが人間の価値の違いに直結する社会を生きねばならないのは、他者の痛みに敏感な人々にとってはとりわけ、辛く切ないことにちがいない。心優しいファシズムはこうして支持されてゆく。

 このような事態から脱け出すためにまず考えねばならないのは、レイシズムの線引きに利用されてきた様々な差異そのものと、どう向き合うかである。

 クウィア・オヴ・カラー批評(Queer of Color Critique)を提唱したグレイス・キョンウォン・ホンは、トニ・モリスンやヒサエ・ヤマモトをはじめとする北米英語圏の有色の女性のフェミニズム(Women of Color Feminism)の言葉と作品を「差異の思想」として読み解いてきた。クウィア・オヴ・カラー批評はこの一五年にわたり、人種とセクシュアリティを先鋭な分析レンズとすることで北米の文化研究に介入している。二一世紀のネオリベラリズムの暴力を耐え抜くためのもっとも切実な思想として、ホンが近年あらためて照射するのは、オードリー・ロードの以下の言葉である。「反貧困のための立法措置、ゲイをねらった乱射、シナゴーグの焼き討ち、路上でのハラスメント、女性に対する暴力、そして荒れ狂う黒人への暴力。これらの問題はつながっているのであり、ここにいる私たちの一人ひとりがその結び目なのだ」(Audre Lorde, “Learning from the Sixties” [1982])。

 政治や暴力は、私たちの間にある違いを個別に抽出し、標的とする。アカデミズムも同様である。これに対し、自分と他者とを隔てるものとしてではなく、密接にからまりあった「結び目」として差異を理論化したロードの思想は、四〇年近くを経た北米の「いま、ここ」で発せられるBlack Lives Matter、先住民による殖民/植民地主義批判、能力主義批判、トランスジェンダー思想などの共有と広がりの深遠な系譜的錨点であり続けている。一九七九年ニューヨーク大学で、当時の女性学を批判した講演はあまりにも有名だ。ロードは、「シングル・イシュー」を生きる者などいないと断言する。そして「社会の定めるちゃんとした女性の輪から外れた者」の一人として、次のように訴えた。「差異の坩堝で鍛え上げられた私たちは知っている。生き抜くことは、アカデミックに習得できるものではない。それは女性どうしの違いをどう受け止め、強みとするか、それを学ぶことにかかっている。主の道具で主の家を打ち壊すことはけっしてできないのだから」(“The Master's Tools Will Never Dismantle the Master's House” [1979])。ネオリベラリズムの暴力を生き抜くには、異質なものを抑圧したり排除したりする同一性と同質性に拠り所をみいだすのではなく、差異を「受け止め、強みとする」ことが何よりも求められている。「違っていること」は「結び目」として、私たちを広く、強く、繋げてくれる。

 詩人として、ブラック・フェミニズムの思想家として、大西洋を越え、癌とも闘いながら熱い言葉を届け続けたロードは、一九九二年にこの世を去った。昨年二月、日本では加納実紀代が逝った。やはり女性どうしの違いに向き合ってきた加納は、男性との優劣のみにおいて女性を考えることから距離を置き、女性がレイシストであり、帝国主義者であり、環境破壊者でもあったことを教えてくれた。八月には、ロードとほぼ同時代を生きたトニ・モリスンも亡くなった。訃報を受け、ある友人はこうツイートした。「何と大切な時に逝ってしまったのか。モリスンは私たちに作品を遺してくれた。私たちはそれにふさわしい働きをしなければ」。

 私たちの手には、彼女たちのフェミニズムの力強い思想が託されている。他者との違いが価値を産み、その価値が真の豊さではなく、命の値踏みにのみ動員されている「いま、ここ」の歴史に立ち向かうために。

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