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『図書』3月号【試し読み】樋口陽一/大島幹雄/黒木亮

◇目次◇ 

〈一九八九―二〇一九〉の意味を問う  樋口陽一
石巻と石巻学             大島幹雄
若き鈴木大拙とスウェーデンボルグ   高橋和夫
はじまりの小三治           小林聡美
アパレルという名の戦場を旅する    黒木 亮
物書き出世せず            原田國男
父の襲撃               町田哲也
太平洋でプラスチックごみ拾い     中嶋亮太
漱石全集の読み方 (中)        赤木昭夫
異形の場所からモノへ         赤坂憲雄
人生のサウンドトラック        片岡義男
見ることも書くことも叶わぬかざり   橋本麻里
「武満徹は声を出して泣いた」     片山杜秀
三十分の死              長谷川 櫂
エロとグロの後にくるもの(1)     山室信一
こぼればなし
三月の新刊案内

(表紙=司修) 
(カット=佐々木ひとみ) 

 

◇読む人・書く人・作る人◇

〈1989-2019〉の意味を問う
 樋口陽一
 
 三〇年を区切って一つの世代という。それなら〈一九八九―二〇一九〉の意味はどうか。
 
 一九八九年七月、大革命二〇〇周年記念の国際学会で報告するため私はパリにいた。その開会式の前日、所も同じソルボンヌ大講堂をゴルバチョフの講演が魅了していた。もとより彼の存在は確かに大きかったが、それにしても七〇年代後半からの地下水脈の流れがあった。私の小体験だけでも、「〝人権〟は困るが〝基本権〟のテーマなら」と言うソ連の学者(閣僚でもあった)を含め、「国際憲法学会」を発足させたのが八一年、西と東、北と南の対話の十字路だったベオグラードでのことだった。
 
 他ならぬそのバルカン半島での九〇年代に入っての暗転を見て、選挙による民主主義が「イリベラル」という「ウィルス」を拡散させることを警告した論者がいた(ザカリア、一九九七)。ウィルスは今、近代デモクラシーの周辺から本丸までを窺う気配で、歯止めなき「ネオリベラル」の奔流にあえぐデモスの怨嗟に支えられ、リベラルデモクラシーとのつば迫り合いが続く。七九年からほぼ一〇年刻みで出してきた新書の四冊目『リベラル・デモクラシーの現在』(二〇一九)の主題である。
 
 一方、一九八九年六月天安門に始まったアジアの三〇年史は、この地域の抜群の経済成長と大国・準大国化をもたらしている。そうした〈現在〉に対面して、近〈過去〉史の自己認識を定めかねたままの日本国が漂流している。その立ち位置が問われているのは、私たち一人ひとりなのだ。
(ひぐち よういち・憲法学) 
 

◇試し読み⓵◇

石巻と石巻学
大島幹雄
 
 石巻は私の生まれ故郷である。父は牡鹿半島の鯨の町鮎川で育ち、大洋漁業(現マルハニチロ)の捕鯨船に乗っていた。母は石巻市内の大工の娘だった。一歳八カ月の時、父の親戚が暮らしていた仙台に引っ越し、高校三年までここで暮らした。そういうこともあり石巻で生まれてはいるが、故郷はという問いには、仙台と答えていた。小学生の頃は毎年夏休みに、石巻最大の祭り「北上川川開き」がある八月一日に合わせて、母方の親戚の家に一週間ほど預けられた。石巻駅に降り立つと、どこからともなく流れてくる魚の匂いに鼻をつまみ、それだけでも帰りたくなった。親戚の子どもたちとも馬があわず、石巻の思い出はあまり楽しいものではなかった。中学に入るとこの行事は自然消滅し、訪ねる理由もなくなり、石巻から足が遠のいた。

 縁が切れて三〇年近く経って石巻がまた私の前に立ち現れた。ふと入った古本屋で『環海異聞』に出会ったのだ。江戸時代、石巻湊から船出した千石船「若宮丸」は福島県沖で遭難、アリューシャン列島まで流された。当時日本との貿易を望んでいたロシア政府の意向で、乗組員はシベリアを横断してイルクーツクに連れられ、ここで七年ほど暮らしたあと、帝都サンクトペテルブルグに呼ばれ国王と謁見、帰国を希望した四名は帆船「ナジェージダ号」に乗せられ西回りで世界一周し、帰国する。初めて世界一周した日本人となったこの四名の見聞を江戸の蘭学者大槻玄沢がまとめた書が、『環海異聞』だった。当時ロシア相手の仕事をし、父も捕鯨船に乗っていたということもあり、ロシアと石巻を結びつけるこの話に俄然興味がわき、若宮丸のことを調べはじめた。調べていく過程で漂流民たちが世界一周の航海中に、長崎で幕府と通商交渉をする遣日使節ニコライ・レザーノフと共につくった露日辞典をサンクトペテルブルグのアルヒーフで発見したり、地元の放送局で若宮丸漂流民の足跡を追ったラジオドキュメンタリーの制作に関わるなどしながら、二〇〇一年石巻で〈石巻若宮丸漂流民の会〉を立ち上げることになった。石巻に行く機会も増えた。

 あの東日本大震災が東北各地を襲い、石巻も甚大な被害を蒙ったことで、私は石巻と向き合うこととなり、そして石巻はほんとうの故郷になった。

 あの日私は出張のため愛知県にいた。だから東京にいれば感じた揺れも停電も知らないまま、焼けただれた門脇小学校や瓦礫と化した石巻の無惨な姿を映し出すテレビの画面をただ呆然と見つめるだけだった。仕事もありボランティアとして現地に向かうこともできず、被災した友人や会員の消息を尋ね、連絡がついた人に救援物資を送るぐらいしかできなかった。仙台で暮らす父母や友人たちとはまもなく連絡がとれたのだが、石巻や東松島にいる人たちとは連絡がとれない状態が続いた。石巻若宮丸漂流民の会の会員はおよそ九〇名、大きな被害を受けた石巻と東松島に三〇名の会員が住んでいた。全員の消息がはっきりしたのは三カ月ほど経ってからだった。会員の一人が亡くなり、無事な人もほとんどは被災し、なかには家を失い、家族や友人知人を亡くした人もいた。会員の消息を尋ね、一喜一憂していたとき、会員のひとりから来たメールのことはいまでも忘れられない。

 「皆様には大変ご心配をおかけしましたが、当方は何とか無事です。家の方は、津波で床上二メートルほども浸水し、大切な資料やデータが全て文字通り水泡に帰してしまいました。蔵書は全部水浸しなので、今後の扱いが大変です。これから、復興に向けてのプログラムがスタートするとは思いますが、自宅で過ごせるようになるにはまだまだ日数がかかりそうです。まずは、仮住まいの発見と自宅の修復・書庫の再建、生活の再建が最優先。それからようやく歴史への挑戦と言うことで、活動は数年も先のことになります。それまでは、生活最優先でいきたいと思いますが、再生の折には、どうぞまたよろしくお願い申し上げます」
 これを読んでから、石巻のために、被災した人たちのために、自分に何ができるのかを問いかけることになった。被災し、一時山形に避難していた仙台の出版社荒蝦夷は、震災から一カ月半後に『仙台学』11号「東北大震災」を発行した。赤坂憲雄や伊坂幸太郎、熊谷達也などがこの地震と津波についての思いを綴った。私も「地震・サーカス・漂流民」と題したエッセイを書き、こう結んだ。
 「私はいままで好きなように生きてきた。東京の大学に入るとき故郷を去ってから、自分のためだけに一生懸命になってきた。東北がいま直面している未曽有の危機のなか、自分のことなんかどうでもいいではないか、これからは被災に遭った仲間たちの生活再建のため、そして故郷の復興のため生きていくべきではないか。何ができるか、いまはわからない、いっときだけの思いなのかもしれない、でも残された人生の全てとはいわなくても、少なくても半分以上は被災した人たちの生活再建のため、そして故郷復興のために捧げなくてはならない。これだけは決めている」
 いま読み返すと気恥ずかしくなる感情が高ぶったままの文章だが、ひとつの決意表明だったことは間違いない。

 石巻を訪れたのは、震災から二カ月経った五月の連休のときだった。ほとんどの家屋が流された門脇地区に住む会員の本間英一氏をまず訪ねた。家族は全員無事だったが、自宅は全壊流失していた。その中で自宅の庭にあった明治三〇年(一八九七)に建築された土蔵だけが、津波や流失家屋の激突に耐え、倒れそうになりながらなんとか建ち残っていた。その姿は痛々しかったが、神々しく見えた。三陸沖大地震と津波があった翌年に建てられたこの土蔵には、二万人以上の犠牲者を出した未曽有の天災から得た知恵が生かされているのではないか、さらに瓦礫の荒野のなかでけなげに、でもしっかりと建ち残ったこの土蔵のたくましさを、被災地石巻の復興の礎にできないか、そのためにこの土蔵を保存すべきではないかという思いに駆られた。もし可能なら修理して保存したいという本間氏の気持ちを確認し、修理保存のための募金活動を始めた。反響は大きくマスコミでも報じられ、全国各地から集まった三〇〇万円以上の寄付金で修理が可能となり、一年後に修復の発注をし、二〇一三年一一月に工事が完了した。現在この土蔵は本間氏によって震災の資料が展示され、また辛うじて残った歴史資料を保管する施設となり、希望者は本間さんの案内で観覧できるようになっている。

 最初の石巻訪問から帰宅したあと、横浜の日本新聞博物館で特別展示されていた石巻日日新聞の壁新聞を見に行った。震災後一週間にわたって輪転機が使えない中、なんとかして住民に情報を伝えたいと記者たちは手書きの新聞をつくり、避難所などに張り出していた。津波の生々しい被害を伝え、そして少しずつ復旧する姿を伝えようとするマジックで書き留められた文字のひとつひとつが胸に突き刺さってきた。テレビも新聞も見ることができなかった地元の住民のために情報と勇気を発信していたジャーナリストがいたのである。
  壁新聞を見て、この新聞社のためになにかしたい、しなくてはならないという思いに駆り立てられた。そして新聞社の近江弘一社長に私も手伝わせてくれと手紙を出していた。ぶしつけな手紙にもかかわらず石巻に来ることがあったら寄ってくださいという返事をいただき、石巻に行ったとき、何度かお目にかかることになった。
 
 いろいろ話をするなかで生まれたのが、若宮丸漂流民の数奇な運命を連載小説として書くことだった。震災の翌年創刊一〇〇周年を迎え、地域と共に歩んできた新聞で、いまから二二〇年前に艱難辛苦を乗り越えた郷土の先達たちの足跡を伝えることは、被災した市民に少しだけかもしれないが勇気を与えられるのではないだろうかという思いがあった。
 タイトルは『我にナジェージダあり』とした。漂流民を乗せ、ロシアから日本に向けて出航した船の名前が、ロシア語で「希望」を意味する「ナジェージダ」だった。漂流、仲間の死、異国での慣れない生活と苦難の日々をじっと耐えていた漂流民たちが「希望」を失わずに、困難に立ち向かって、力強く生きていたことを、苦境に面している故郷の人々に伝えたかった。そのためにはいままで自分が書いてきたノンフィクションでは無理だと思った。子供でも老人でも読めるような、読み物にしなければならない、私は初めて小説を書くことに挑戦することになった。
 初小説が新聞連載というのもかなり無茶な話だと思うが、とにかく二〇一二年四月から連載が始まった。このとき石巻日日新聞の窓口となったのが、当時常務取締役でのちに石巻ニューゼの館長となる武内宏之氏だった。壁新聞つくりの先頭に立っていた人である。仕事をしながらほぼ毎日掲載される小説を執筆するのは、かなりしんどい作業だった。武内氏のアドバイスと応援もあり、二〇一三年八月に無事連載を終えることができた。

 石巻に月に一度行こうと決めたのは、この連載が終わってからだ。石巻のため自分ができることは何か、まずは用事がなくても定期的に石巻を訪ねることで、わかるかもしれないと思ったのだ。
 本間氏がコンビニもない門脇につくった生活用品を販売するまねきショップや石巻日日新聞が震災を伝える活動と、石巻の歴史、文化を紹介し、壁新聞の実物を展示し、武内氏が館長をつとめていたニューゼを拠点に、いろいろな人と出会った。郷土史家、カメラマン、アーティスト、ボランティアとしてやって来て、そのまま住みついた人たち、震災後に故郷に舞い戻ってきた人たちなど、さまざまな人たちがここに集まっていた。その人たちと語り合うなかで、石巻が豊かな文化を抱えた奥の深い街であることが次第にわかってきた。ここから雑誌をつくるというアィデアが生まれる。
 「空襲に遭った町はその町の歴史を焼かれるけれど、津波はもっと根こそぎ奪い、土地の記憶をみんな持ち去った」と『石巻学』第一号座談会でこのようなことを発言したのは赤坂憲雄氏であったが、それは人々が長年築き上げてきた共同体が土台から崩れ去るということを意味する。それを守るためにも雑誌をつくりたいと思ったのだ。
 歴史や文化を掘り起こし、そしていまを語ることを、単行本にまとめるような作業ではなく、あくまでもバラバラの状態で、いろいろな切り口で、いろいろな人たちと一緒に考えていく、それは雑誌をつくることで実現できるのではないかと思った。問題は資金だったが、たまたま自分の著作が文庫化され、予定していなかった印税が入ってきたので、天からの恵みということで、これを資金にして雑誌『石巻学』をつくることになった。『仙台学』を長年出してきた荒蝦夷の全面的な協力のもと『石巻学』が、二〇一五年一二月に創刊された。

 この時私は、こんなマニフェストのような一文を書いた。
 「『石巻学』という雑誌を通じて、石巻の過去・現在・未来をつないでいきたいと思っています。そしてこの雑誌を読んでいただく人たちの輪を広げるなかで、地域のコミュニティーの場をつくりたいのです。
 大地震と津波のために被害を受けた地域が、共同体としてどう残っていくか、いま石巻は大きな岐路に立たされています。そうした中で、地域に根ざし、そこで生きてきた人たちや地域の歴史を広く、深く掘り下げていくこと、さらにそこからいまを、そして未来をみつめる一里塚にしていきたいのです。
 具体的には石巻(周辺の女川や東松島もふくむ)の歴史文化をさまざまな角度から掘り下げていきます。歴史文化をふり返ることは、あの津波と地震で失われたものを掘り起こし、さらにそれを後世に伝えるという意味ももっているはずです。それがこの雑誌の軸になっています。
 もうひとつは未来への目線を大事にしていきたいと思っています。女川中学の生徒たちが後世に残すために自分たちで考えて、つくっていった〈命の碑プロジェクト〉に象徴されるように、いまここで生まれ、育っている少年や青年が復興のためにスクラムを組んで進もうとするその姿は、復興の大きな灯台になっています。そうした未来への視線を大事にしていきたいのです。
 『石巻学』は、過去・現在・未来が交錯する雑誌、なによりも失われようとしている、そして一番守らなくてはならない地域のコミュニティーの場をつくるための拠点となる雑誌となります。『石巻学』を復興のための小さな一歩にしたいと思っています。」(デラシネ通信より)
 
 創刊号では修復された本間邸の土蔵の中で、赤坂憲雄、高成田享、本間英一の三氏と私が、石巻について語り合った座談会をはじめ、児童七四名と教職員一〇名が犠牲になった大川小学校があった石巻釜谷地区の集落で行われていた祭りの風景を二〇〇二年から翌年にかけて撮影した秘蔵の写真がグラビアを飾った。
 津波で大きな被害に遭いながら、再開を待ち望んでいた市民が店に押しかけ、本を買い求めるのを見て勇気を得、復興の道を歩みはじめた地元の本屋の話、出来上がったばかりの劇場が目の前で流されるのに立ち会うばかりか、自分も流されて九死に一生を得て助かった興行会社の社長の生々しい証言、さらには石巻の各分野で活躍する人たちの聞き書きなど、石巻のいまと過去が詰まった一冊となった。
 震災後石巻で生まれた地域誌ということで、全国紙でも大きくとりあげられ、この号は完売した。
 
 二年後の二〇一六年に発行された第二号は「港町シネマパラダイス」と題し、映画を切り口に石巻を見ることになった。石巻で数々の名画を上映してきた映画館主と映画をこよなく愛していた元教育長が石巻と映画について徹底的に語り合った座談会や、石巻出身の映画人の足跡をたどるルポ、石巻で見た映画の思い出の聞き書きなどを通じて、石巻の人たちにとって映画、そして映画館が大きな意味をもっていたことが明らかになった。
 この特集を組むきっかけになったのは、津波で流された岡田劇場の存在が大きかった。あるテレビ番組で、津波で消えた街並みの復元模型に、住民たちの記憶をプロットしていく取り組みが紹介されていたが、その時圧倒的に多くの人がプロットしたのが岡田劇場だった。ここで石巻の人は子どもの頃は家族や友だちと一緒にアニメを見て、若い頃はデートをしていた。映画館は人生の忘れられない一こまを演出した出会いの場でもあったのだ。
 この号から岡田劇場でレビューショーを見て、役者になろうと思ったと語る石巻出身のコメディアン由利徹を、「花王名人劇場」をプロデュースし、お笑いブームをつくり、笑いや喜劇について多くの著作をもつ澤田隆治氏が連載でとりあげることになった。
 
 第三号は「牡鹿とクジラ」を特集した、鯨で栄えた牡鹿の浜は津波の被害により軒並み壊滅的な打撃をうけていた。この浜で生きた人たちの思い出、震災後ここに住みついた若者たちの聞き書きを中心に、鯨の専門家である小泉武夫氏や大隅清治氏には捕鯨の意義や鯨を食べることの意味について語ってもらった。
 インディ・ジョーンズのモデルと言われているロイ・チャップマン・アンドリュースが鮎川を訪れ、撮影した珍しい一〇〇年前の牡鹿の風景や捕鯨の写真もグラビアとして掲載された。
 
 二〇一九年に発行された第四号は、「石巻にはいつも音楽があった」と題し、石巻が音楽の街でもあったことをさまざまな視点からとりあげた。かつてはレゲエの街と言われた石巻にある三軒のライブハウスを取材しながら、ジャズやロック、ブルースなど自分流に楽しむ人たちをとりあげたルポや、震災を機に結成された子どもたちのジャズバンドの活動を追ったエッセイ、さらには一〇年に一度演奏されるカンタータ「大いなる故郷石巻」をつくった人たちを掘り起こしたルポを通じて、クラッシックの世界でも石巻が多くの逸材を生み出していることも浮かび上がった。

 『石巻学』が出来て四年、関わってくれる人の輪がどんどん広がっている。書きたいという人が次々に手をあげ、またこうしたことをとりあげたらどうだという情報も数多く寄せられている。書きたいという人がいるということは、それだけこの街はいろいろなテーマに満ちあふれているということなのだと思う。

 こうしたひろがりを持つ中から『鯨と斗う男』上映プロジェクトが生まれた。第二号の映画特集の座談会で岡田劇場の菅原会長が石巻の人たちにぜひ見せたいと力説していたのが一九五七年に上映された『鯨と斗う男』という映画だった。主演二作目の高倉健が、鯨の町鮎川を舞台に、捕鯨船の砲手に扮した海洋活劇の映画は、全編鮎川と石巻でロケされていた。津波が奪った牡鹿の浜辺、鮎川の港や町並み、石巻の街角など、故郷の原像がここに刻み込まれているのである。
 映画をつくった東映に問い合わせると、辛うじて原盤は残っているが、映画館で上映するためには、DCPデータにする必要があり、そのために制作費一〇〇万円かかることがわかった。さまざまな団体や個人からの寄付を募りDCPデータを制作、そして石巻と鮎川でこの映画を上映しようというプロジェクトを二〇一八年六月に立ち上げ、募金を開始した。
 あてにしていた助成金がとれず一時はどうなるかと心配したときもあったが、地元のマスコミで何度となく記事が流れ、一年後に目標金額に達し、二〇一九年六月一三日にDCPデータにすることができた。
 そしてこの年の八月に石巻、一一月に鮎川でたくさんの人たちを集めて上映会がおこなわれた。集まった地元の人たちは今はない、鮎川や石巻の失われた風景がスクリーンに出てくると、隣同士で「あそこだ、誰々だと」と歓声をあげ時には笑いながら、映画に見入り、エンドマークが出ると、大きな拍手がまきおこった。津波のために家を失い、いまは故郷を離れて住んでいる住民も引っ越し先からやって来た。
 みんなが住んでいた場所はなくなり、人々もバラバラになったが、こうして集まって、仲間たちと往時の思い出を語り、さらにこれを知らない世代に伝えることで、いまなくなろうとしている共同体の根っこを残すことができるのではないだろうか。そうした場が『鯨と斗う男』を見ることで生まれていった。DCPデータになったので、いつでも映画は見ることができる。一年に一回川開きや鯨祭りという地域の祭りの時などに上映会をすれば、心の共同体を持つことができるのではないだろうか。

 今年の夏ごろに発行を予定している『石巻学』第五号は文学を特集することになった。石巻を訪れ、石巻を書いた小説や短歌などの文学作品を紹介するほか、石巻を舞台に書き下ろし小説を作家ドリアン助川氏に書いてもらうことになっている。震災直後俳句をつくることで、精神的な苦境を乗り越えていった女川中学の俳句づくりは『女川一中生の句あの日から』(小野智美、羽鳥書店、二〇一二年)として本にまとめられ、大きな話題となったが、成人になった彼らに九年後のいまへの思いをまた俳句にしてもらうことになった。若い人たちが中心になって結成された短歌サークルのメンバーにも作品を発表してもらうなど、文芸誌の要素も取り入れた一冊となるはずだ。またいろいろな人たちが集う場ができるだろう。

 『石巻学』という雑誌を通じ、今後もさまざまな場をつくっていきたいと思っている。郷土史家が「石巻は何度もいろいろなものを失くしながら、それを乗り越えてきた、クラッシュ&ビルドの街だった」と語っていたが、未曽有の被害を蒙った石巻に、今回はさまざまな場をつくることで乗り越えられないだろうかと思っている。その手伝いを『石巻学』を通してやっていきたい。それが私なりの故郷の復興のために生きていくという現段階の答えだと思っている。
(おおしまみきお・石巻学プロジェクト代表)
 

◇試し読み②◇

アパレルという名の戦場を旅する
黒木 亮
 
 経済小説の場合、取材を始めてから本になるまで、三~五年を要する。今般上梓した『アパレル興亡』も本格的に取材を始めたのは五年前で、また一つ長い旅を終えたという感じである。
 テーマに興味を持ったきっかけは、二〇〇二年に勃発した村上ファンドと大手婦人服メーカーのプロキシーファイト(株主総会の委任状争奪戦)だ。村上ファンドは「モノ言う株主」として華々しくデビューし、簿価(解散価値)が株式の時価総額を上回っている(すなわち、含み益があるが、経営が上手く行っていない)企業を次々と狙い撃ちしていった。婦人服メーカーとの抗争は「会社は誰のものか」という問題を投げかけ、日本中を巻き込む騒動に発展した。当時、私は村上世彰氏に会ったり、対決の場になった株主総会に出席したりして、取材をした。
 その後、村上氏は逮捕され、プロキシーファイトに勝って意気揚々だった婦人服メーカーのワンマン社長はがんで急死し、会社は別のアパレル・メーカーと合併したが、翌年、経営権を完全に奪われてしまった。
 いったいこれは、なんというドラマかと思い、二〇一五年から本格的な取材を開始した。この一冊を読めば、戦前からの日本のアパレル産業史が多角的に分かるよう、アパレル・メーカーだけでなく、織物メーカー、百貨店、商社、銀行など、関連産業も訪ね歩いて話を聴いた。
 取材の面白さというのは、自分の常識が覆されたり、未知の世界を垣間見られたりすることだ。婦人服売り場を担当したことがあるベテランの百貨店マンからは、販売がバーコードではなく、値札の半券(商品の種類が記載されている)で管理されていた昭和の時代、仕事が終わったあと、居酒屋のテーブルにその日の売上げの半券を並べて、なぜ今、これが売れているのか、そして次のシーズンではなにが売れるのか、半券を睨みながら懸命に考えたこと、季節やテーマごとに、売り場の模様替えをするとき、アパレル・メーカー各社の営業マンが勢ぞろいして、少しでも広く、少しでもエレベーターに近い場所を確保しようと、ハンガーラックを担いで陣取り合戦を繰り広げること、アパレル・メーカーによって社風はまちまちで、全員地味なスーツにネクタイで、軍隊のように規律が厳しく、毎日終電間際まで残業している会社があるかと思えば、営業マンがファッション・モデルのように恰好よく、残業はほとんどしない会社があることなどを教えてもらった。
 地方の百貨店の婦人服売り場の担当者だった人からは、売れ筋商品をアパレル・メーカーがなかなか回してくれないので、東京の営業部まで直談判に行き、倉庫を見せてもらったら、最重要顧客である伊勢丹新宿店に納める商品だけが白いテープを張られ、大量に別保管されていて、悔しい思いをしたと聞かされた。
 業界の黒子である総合商社が、どのようなことをやっているのかを知ることができたのも面白かった。一九六〇~七〇年代の商社の繊維部門の花形は、羊毛や綿花のバイヤーで、相場の動向に神経を尖らせながら、海外の支店や顧客とテレックスでやり取りし、大きな商売をやっていた。その一方で、日本製の生地の見本をスーツケースに詰め、灼熱の太陽の下、中近東のスーク(市場)にある衣料品店を一軒一軒回り、生地を売って歩く商売もあった。私がエジプトのカイロでアラビア語を勉強していたとき、同じ大学にいた大手総合商社の社員も、研修が終わると、行商で中近東に出かけるようになり、出張でカタールに行ったとき、ホテルでばったり遇ったりした。現地のホテルで、東レや帝人など、メーカーの人たちを麻雀で接待したり、しばらく酒や遊びともお別れなので、経由地のパリでメーカーの人たちと飲み歩く商社マンもいた。大手総合商社がそんな行商でペイするのかと思ったが、日本製の布地は汗を吸収しないのでべとつかず、アラブの民族衣装用に人気があり、利幅も五割くらいあって、非常に儲かったという。
 一九八〇年代になって、日本がバブル景気に入ると、海外のブランド品がよく売れるようになり、総合商社は「ブランド・ビジネス」を拡大していった。日本のアパレル・メーカーの人たちを海外の生地の見本市に連れて行き、そこで成約した輸入を取り扱い、口銭を稼ぐ。バブルの頃はイタリアの高級毛織物がよく売れたという。製品であれば、海外のファッション・メーカーを日本市場に紹介し、全量の輸入を取り扱って、口銭を稼ぐ。イタリアのサルヴァトーレ・フェラガモなどは、長年の付き合いがある日本の商社を大切にしてくれるが、争奪戦も激しいので、別の商社に誘惑されたり、あるいは自分たちだけでやればもっと儲かると思って、提携を解消しようとしたりする海外ブランドもあるという。そういうときは、話し合い、懇願、脅しなど、様々な手で提携の維持を試みる。
 バブル崩壊後、商社の繊維部門で主流になったのは「プロダクション・ビジネス」だ。これはアパレル・メーカーに委託されて商品の生産を請け負う商売である。アパレル・メーカーから商品の仕様書(生地やボタンなども細かく指定される)と数量、納期などをもらい、見積書を作って、先方と交渉する。例えば、商品を千枚(千着)作るのに生地は何メートル必要で、ボタンは何個だから、全部でコストは一枚一万円、マージンを二割乗せて一万二千円で引き受けますと見積もりを出す。相手が「高いじゃないか。もう少し安くしてよ」と言い、「生地は安くなりませんよ。何メートル必要ですから」と答えると「これをこうやってパターンの中に落とし込んで、三メートル要るところを二メートル六〇センチにするのが、きみの腕だろう」と言われる。受注すると生地メーカーに電話をして「この生地を何メートル、いついつまでに、鳥取のこの縫製工場に送って下さい」と発注し、ボタン屋にも「何番のボタンを、何月何日までに、何個鳥取の縫製工場に送って下さい」と発注する。
 この委託生産を積極的に活用しているのがユニクロだ。ユニクロは自社工場は持たず、商社がユニクロと中国や東南アジアの工場の間に入って、工場の発掘、工場の管理、生産などのほか、工場に延払いで原材料を供給してファイナンスを付け、日本への輸出も取り扱う。ある商社マンは「ユニクロさんは厳しくて、日本で三千円で売る商品なら、八百円くらいで納めないといけない」と言っていた。
 織物メーカー(機屋(はたや))の取材では、愛知県と岐阜県にまたがる尾州、新潟県長岡市の栃尾、群馬県の桐生などを訪れた。尾州では天皇陛下(現上皇陛下)が着るスーツの生地をションヘル織機という古い機械で織っている毛織メーカーや、英国の故ダイアナ妃が着るためのカシミヤのコートを作った織物メーカーなどを取材した(コートを着る直前に、ダイアナ妃が自動車事故で亡くなったので、残念な思いをしたという)。
 日本のアパレル・メーカーが戦後間もない頃からバブル崩壊までの約半世紀にわたり、高度成長を謳歌したのとは対照的に、織物メーカーは韓国や東南アジアが生産力をつけてきた一九六五年頃から、バブル景気の一時期を除いて、衰退の一途を辿った。数少ない生き残り組の一社が前述の「天皇陛下の機屋」で、「こういう人たちもスーツにうちの生地を使ってくれています」と、スマートフォンで撮影した男性グループアイドル、有名俳優、著名実業家などのテレビ出演の写真を見せてくれた。若い専務さんは親切な人で、連載中もメールで何度か質問させてもらった。
 アパレル・メーカーの人たちの取材では、経営者、デザイナー、マーチャンダイザー、営業マン、人事、IT部門など、様々な職種の人たちに会った。
 戦後の日本人の服装の西洋化という社会的変化にともなって発展した日本の大手アパレル・メーカーは、デザイン部門より、営業部門が会社の中心である。各社がシェア拡大を目指してしのぎを削る群雄割拠の戦国市場において、営業マンたちの武勇伝は事欠かず、取材は驚きの連続だった。
 そういうエピソードは『アパレル興亡』の中にたくさん盛り込んだが、ここでは一つだけご紹介したい。一九八〇年代に、婦人服売り場では国内最高峰と言われる伊勢丹新宿店を担当したある営業マンの話だ。当時、社会人一年生だったが、前任者が違法カジノにはまって、自社の高級コートを質屋に横流しして懲戒免職になったため、急遽伊勢丹を担当することになった。最初に「鬼」の異名をとる伊勢丹の辣腕バイヤーに挨拶に行くと、何度名刺を渡しても「商品を横流しするような腐った会社の名刺は要らん」と床に放り投げられた。師走近くになって、前任者が数千万円のコートの注文を受けていたのを鬼バイヤーから「あれどうなった? 早く納品しろ」と知らされ、何の引き継ぎも受けていなかったので、本社に問い合わせると、生地不良で少し前に生産中止になったと告げられ、顔面蒼白になった。鬼バイヤーからは毎日「早く納品しろ」と急かされ、「生産中止になりました」と言えずごまかしていたが、ついに打ち明けざるを得なくなった。バイヤーは激怒し、その営業マンを殴る代わりに、そばにいた自分の部下のアシスタント・バイヤーを思い切り蹴り飛ばした。さすがに他社の人間には手を出せないと思ったようだ。「お前の会社は冬物が終わり次第、口座抹消、取引停止!」と宣告され、上司に辞表を提出し、二月末まで針の筵の上で仕事をした。しかし、懸命に知恵を絞った末、ある方法で数千万円の売り上げを穴埋めし(どんな方法かは本で読んで頂きたい)、鬼バイヤーの信頼を取り戻し、二月の終わりに退職の挨拶に行くと、「なんで辞めるんだ? 辞めるなよ。これやるから、お前の好きに書いて、春物立ち上げろ」と、印鑑だけが捺してある白地の注文書を一冊くれたという。この場面は、ゲラなどで何度も読んだが、書いた本人も胸が熱くなる。
 なおアパレル産業は衰退したと言われるが、そうではなく主役が交代したのであることを最後に付け加えておきたい。バブル崩壊後の人々の嗜好とライフスタイルの変化とともに、服装のカジュアル化が進み、業界の主役が、かつてのレナウン、オンワード樫山、ワールド、三陽商会などから、ファーストリテイリング(ユニクロ)、しまむら、青山商事といったカテゴリーキラーに代わっただけだ。アパレル業界は不滅で、人々の暮らしや社会の変化とともに、生々流転を繰り返す産業なのである。
 五年間にわたったアパレルという名の戦場をめぐる旅は、人の営みのドラマに満ちた、思い出深い旅であった。
(くろき りょう・作家) 
 

◇こぼればなし◇

◎ 二〇一一年三月から九年の歳月が流れました。しかし、この長い年月をもってしても、東日本大震災がもたらした傷跡は癒えぬままあることを感じます。

◎ 大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な事故を引き起こした、東京電力福島第一原子力発電所の現状を収束させる目途は未だに立っておりません。また、飯舘村や富岡町など、避難指示区域の解除はこの間も進んではいますが、双葉町、大熊町を中心とする帰還困難区域については、解除の見通しは二〇二二年春と、まだまだ先のことになりそうです。

◎ 昨年一二月二七日に発表された「住民意向調査速報版(双葉町)」(復興庁)によりますと、将来的な希望をふくめて戻りたいと考えていらっしゃる方が、一〇・五パーセント。まだ判断がつかないとお考えの方が、二四・四パーセント。戻らないと決めていらっしゃる方が、六三・八パーセントとなっています。

◎ ふるさとへの帰還を断念された方々が六割を越えているということに、九年という歳月の重さを感じずにはいられません。いま、まだ判断がつかないとお考えの方々も、帰還が先延ばしになることで断念に傾くということがあるのではないでしょうか。はたして、帰還困難区域の指定が解除されたとして、かつてのようにそこにコミュニティが再生するのか。とても困難な課題がここにはあります。

◎ JR東日本は、原発事故の影響で不通となっていた常磐線の全線での運行を三月一四日に再開する方向で調整中とのこと。最後まで不通となっていた富岡―浪江間(二〇・八キロメートル)の大半は帰還困難区域に位置しており、沿線の夜ノ森(富岡町)、大野(大熊町)、双葉(双葉町)の各駅周辺は、特定復興再生拠点区域に指定され、再生にむけた取り組みが進んでいます。(福島民友新聞、二〇二〇年一月一日)

◎ JR双葉駅が営業を再開することに加え、七月ごろには同町中野地区に産業交流センター・アーカイブ拠点施設や、復興祈念公園の一部がオープンする予定となっています。こうした試みが新しいコミュニティの立ち上げという困難な課題に答えるものになるのかどうか、見守ってゆくことが求められるでしょう。

◎ 他方で、この九年という時間を経ることによって、やっと語ることができるようになった事実、明らかになってきたこともあります。

◎ 津波によって七〇人の児童が亡くなり、四人が行方不明、一〇名の教職員が犠牲となった石巻市大川小学校。昨年刊行された『止まった刻 検証・大川小事故』(河北新報社報道部)などは、遺された方々の思いを深く受け止めることがなければかたちにならなかったものであると感じます。また、一月に刊行された『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(吉田千亜著)では、震災と原発事故に立ちむかった、ふつうの人々の不安や葛藤にふれ、目頭が熱くなります。

◎ あの日がもたらしたものに、どうむきあうのか――九年を経ても現在進行形の問いとして眼前にあります。
 
 

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