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梯久美子 天涯の声 ブロニスワフ・ピウスツキへの旅   

天涯の声 ブロニスワフ・ピウスツキへの旅

サハリンの地図

 あらゆる列車は歴史の上を走る。
 バラストが砕けて砂になり、枕木がコンクリートに替わり、レールが敷き直されても、それらを支える地面は変わらずそこにある。そして、自分の上を通っていった者たちの物語を記憶するのだ。
 生きかわり死にかわりしながら、軌道の上に見えない層をなす人々。そこをまた別の人生が駆けてゆく。
 小学生のころ、母親くらいの年齢の知らない女の人と、汽車に乗り合わせる夢を見た。その人はむかしこの汽車に乗っていて、いまはもう死んでいるのだということを、夢の中の私は知っている。だが私は怖くなかった。少し離れたボックスシートに座り、車窓の景色を眺めていた。
 10歳かそこらだった私が、鉄道で旅をすることの本質をすでに体験していたことに、いまになって驚く。死者とは「むかし生きていた人」のことだ。その彼/彼女たちと、時空をこえて、つかのま、同じ軌道をゆく。身体がここではないどこかへ運ばれている間、魂は過去といまを往還する。水平の旅と垂直の旅が、線路の上で重なりあう。
 2017年初冬、私はサハリンを縦断する列車の中にいた。窓の外は真夜中のオホーツク海。乗り合わせたのは、1934年の樺太を旅していた林芙美子である。
 芙美子にみちびかれて、私は100年前に死んだひとりの男に出会うことになる。革命を夢見た流刑囚にして、アイヌを愛した人類学者。移動と越境の宿命を生きた、ブロニスワフ・ピウスツキという名のポーランド人である。

ユジノサハリンスク駅のホームで、寝台急行サハリン号に乗り込む人たち
ユジノサハリンスク駅のホームで、寝台急行サハリン号に乗り込む人たち。

旧国境をこえる寝台急行

 私は寝台車に乗っている。白いカバーのかかった薄い枕に頭を乗せると、耳の下から、車輪がレールの継ぎ目を乗りこえる音がする。コットン、カタタン。コットン、カタタン。思ったより軽く、濁りのない音だ。振動もそれほどではなく、快適な乗り心地に気持ちがなごむ。昼間、雪まじりの強風が海から吹き上げるホルムスクの丘──大砲を載せたソ連軍の巨大な戦勝記念碑が日本の方を向いて建っている──で、日本軍のトーチカ跡を探して歩きまわったので、コンパートメントの暖かさに全身がとけそうだ。
 うとうとして目がさめる。腕時計を見ると午前0時少し前。発車してから1時間ほどたっている。ちょっと横になるだけのつもりが寝てしまったようだ。いまどのへんを走っているのかと思い、時刻表を見る。ドーリンスク駅を過ぎたあたりのようだ。ドーリンスクは樺太時代の落合である。ちなみにソ連軍の戦勝記念碑があったホルムスクは、そこで戦いがあった当時は真岡といった。

1945年8月、国境線をこえて侵攻してきたソ連軍と日本軍が戦った真岡(ホルムスク)の丘の上にある戦勝記念碑。
1945年8月、国境線をこえて侵攻してきたソ連軍と日本軍が戦った真岡(ホルムスク)の丘の上にある戦勝記念碑。

 私が乗っているのは、サハリン最大の都市ユジノサハリンスクから北上し、かつての国境である北緯50度線をこえてノグリキに至る寝台急行だ。ユジノサハリンスクは樺太時代の豊原である。
 現在サハリンを走る鉄道のうち、50度線より南は樺太時代に日本が敷設したもので、総延長は724キロに及んだ。これは一般鉄道だけの数字で、そのほかに木材や石炭を運ぶ軽便鉄道もあった。そのすべてが第二次大戦後にソ連軍に接収され、主要路線はその後、ソ連の国鉄に編入された。現在はロシア鉄道(Российские железные дороги)が99パーセント出資するサハリン旅客会社(Пассажирская компания Сахалин)によって運行されている。時刻表は、この会社のホームページからプリントアウトして持ってきたものだ。
 私の乗る寝台急行は、ノグリキ駅に着くまでに、樺太庁が敷設した部分、日本の製紙会社の私鉄だった部分、第二次大戦中に日本軍が突貫工事で国境の南側に敷いた部分、同じくソ連軍が国境の北側に敷いた部分、戦後にソ連が敷設した部分を、順番に通っていくことになる。
 ユジノサハリンスク駅を発車したのは午後10時42分。ノグリキ駅には翌朝の10時16分に到着する。所要時間11時間34分、距離にして613キロ。中間駅は32あるが、急行が停まるのは、マカロフ(知取)、ヴァフルシェフ(泊岸)、ポロナイスク(敷香)、スミルヌィフ(気屯)、ティモフスク、ヌィシの6駅のみだ。ティモフスク、ヌィシ、そしてノグリキは50度線の北側にあるので、日本時代の駅名はない。
 サハリンの地図を開く。乗車前にユジノサハリンスク駅の近くで買ったものだ。出発前に旅行会社から渡された日程表の冊子に、日本で発行されている地図を持ち込まないようにという注意書きがあった。「北方領土が日本領土として記載されているため」だそうだ。
 それを読んだのは成田から飛行機に乗りこんだあとのことだったが、どちらにせよ、現地で役に立つレベルのサハリン全島の地図を日本で入手するのはむずかしいようで、探してみたが見つけられなかった。
 樺太時代の地図なら、古書店で比較的容易に入手できる。いくつか買った中で一番詳しいもの(1930年発行の『日本地理大系10 北海道・樺太篇』の付録で縮尺120万分の1の地形図)を持ってきていた。この時代のものなら、万一どこかで見とがめられても(どこだろう? 税関?)たぶん問題になることはないだろう。
 ユジノサハリンスクで買った地図はB4サイズの地図帳形式で、縮尺はユジノサハリンスク市内が1万分の1、そのほかの地域は10万分の1。等高線や各種の地図記号も入っているちゃんとした地形図だ。いま走っている区間のあたりを見ると、海にずり落ちそうなくらい海岸線に近いところを線路が通っている。オホーツク海が見えるだろうかと思い、引き戸を開けて通路に出た。

宮沢賢治とシベリア鉄道

 サハリンは北海道の北に位置する、南北に細長い島である。私の乗っている列車は、サハリン島の東岸、つまりオホーツク海に面した側を南から北へ走っている。進行方向に向かって左側に客室、右側に通路があるので、通路の窓は海の方を向いていることになる。
 2段になった寝台ふたつに挟まれているコンパートメントの窓は1メートルほどの幅しかないが、通路には大きな窓がある。厚手のカーテン(色は真紅だ)がかかっているのは断熱のためだろうか。いまは11月中旬だが、外気温は0度を下回っている。
 窓がある側の壁にそって、車両の端から端まで、腰の上くらいの高さの手すりが渡してある。発車前に車掌が窓と手すりの間にカーテンの裾を手際よくはさんでいくのを見たが、なるほどこうすれば人が通ってもひらひらしない。
 隣のコンパートメントから灰色の髪をうしろで束ねた年配の男性が出てきてカーテンを開ける。外は真っ暗で、窓ガラスが車内の様子を映し出す。男性は腕組みをして、窓に映った自分の顔を見ている。あるいはその向こうの闇を見ているのかもしれない。彼が半袖のTシャツ姿であることに一瞬驚くが、気がつくと車両内は強力な暖房で暑いくらいになっている。
 私も自分の目の前のカーテンを開けてみる。窓の外は闇が続くばかりで、そこが海岸なのかどうかもわからない。
 コンパートメントに戻り、ペットボトルのぬるい水をのむ。お茶がのみたいと思い、乗車してまもなく車掌が紅茶の注文を取りに来たことを思い出す。
 サハリンの寝台急行では車掌が紅茶の注文を取りにくるとガイドブックに書いてあったから、メモ帳のようなものを手にした女性車掌が戸口に立って何か言ったとき、紅茶のことを聞いているのだとわかったが、曖昧に首を振ってやり過ごしてしまった。私はロシア語ができないし、サハリンの鉄道は駅でも車内でも英語はまったく通じない。それでも頷いてオネガイシマスとでも言えばわかってもらえただろうにと後悔する。ロシアの鉄道といえば、なんといっても紅茶なのに。
 気弱なタイプではないはずなのに、見知らぬ土地での最初の何日かはきまって、なんでもない場面で気後れしてしまう。今回の旅もまた、小さな自己嫌悪を積み重ねながら始まるようだ。
 帰りの列車ではかならず紅茶を頼もうと決心したが、復路の車掌は注文を取りに来てくれなかった。

 「紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか」
 白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに大股にやつて来ました。
 「おい、紅茶をおくれ」イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。
 そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。
 窓は月のあかりでまるで螺鈿(らでん)のやうに青びかりみんなの顔も俄(にはか)に淋しく見えました。
 「まつくらでござんすなおばけが出さう」ボーイは少し屈(かが)んであの若い船乗りののぞいてゐる窓からちよつと外を見ながら云ひました。
 「おや、変な火が見えるぞ。誰(たれ)かかがりを焚(た)いてるな。をかしい」
 この時電燈がまたすつとつきボーイは又
 「紅茶はいかがですか」と云ひながら大股にそして恭しく向ふへ行きました。

(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」より)

 「氷河鼠の毛皮」は、イーハトヴからベーリングに向かう夜行列車の中で起こる出来事を描いている。イーハトヴはよく知られた宮沢賢治の造語で、理想郷としての岩手県のこと。ベーリングは北方にある架空の都市の名で、おそらくベーリング海からとったのだろう。
 季節は冬。氷河鼠を450匹も使った毛皮の上着を着こんだタイチという男が、北極の近くまで行って黒狐の毛皮を900枚とってくると豪語する。
 北方を走り、紅茶を供する列車といえば、昔もいまもシベリア鉄道だ。白服のボーイが「紅茶はいかがですか」と各車両を回るこの童話にも、シベリア鉄道の雰囲気がある。
 ロシアの鉄道といえば紅茶、という私のイメージは、シベリア鉄道を題材にした古今のさまざまな紀行文や小説からきている(かの宮脇俊三氏の『シベリア鉄道9400キロ』にも女性車掌が紅茶の注文を取りにくる場面がある)が、賢治もきっとそうだったのだろう。
 シベリア鉄道の全線開通は1904(明治37)年。与謝野晶子をはじめ、多くの作家や著名人がこの鉄道でヨーロッパへ向かった。1912(明治45)年、日本が初めて参加したストックホルムオリンピックの選手団も、シベリア鉄道で渡欧している。新聞や雑誌で著名人のシベリア鉄道の旅が記事になることも多く、鉄道好きだった賢治に、この鉄道への憧れがあったとしてもおかしくない。

賢治、チェーホフ、ピウスツキ

  「氷河鼠の毛皮」は1923(大正12)年4月15日の「岩手毎日新聞」に掲載された。それから3か月半後の7月31日から8月7日まで、賢治は樺太を訪れ、鉄道の旅をしている。
 当時の樺太は、日露戦争の勝利によってロシアから割譲されて18年しかたっていなかった。シベリア鉄道はあまりに遠く、かつ長大だが、樺太を走る鉄道なら、学校の夏休み(賢治はこの頃、花巻農学校の教師をしていた)を使って行けないことはない。
 シベリアは無理でも樺太なら、と賢治は考えたのではないかと私は推測するのだが、その理由のひとつに、賢治の樺太行きの3か月前(1923年5月1日)、稚内と樺太南部の港・大泊の間に、鉄道省による連絡船(稚泊連絡船)の就航が始まったことがある。それまで樺太に渡るには小樽から民間の船に乗るしかなく、時間も費用もかかったが、稚泊連絡船は狭いところで42キロしかない宗谷海峡を渡る最短の航路である。
 注目すべきは、すでに就航していた青函連絡船と同様、これが鉄道省の連絡船である点で、これで内地と樺太が鉄道で1本につながり、どの駅からも──もちろん賢治の住む花巻からも──切符1枚で行くことができるようになった。荷物についても、乗車した駅で預ければ、樺太の降車駅までそのまま運んでくれたのである。「氷河鼠の毛皮」が、シベリア鉄道を思わせるイメージを持ちながら、乗車駅がイーハトヴ=岩手であるのは、最寄駅から北方へ直行できるようになったことを反映しているのかもしれない。賢治は実際に、樺太への旅を花巻駅から始めている。
 当時の賢治は26歳。全集の年譜は、この旅は樺太の大泊にあった王子製紙の工場に勤める旧友、細越健氏に教え子の就職を頼みに行くためだったとしている。たしかに賢治は樺太で細越氏に会っているが、本当の目的は、鉄道で旅をすることそのものだったのではないかと私は思っている。
 樺太旅行の旅程は複数の研究者によってほぼ判明しているが、それによると、連絡船が大泊港に着いたのが8月3日午前7時37分、細越氏との面談をはさんで、午前9時30分に大泊駅を出発する汽車に乗っている。
 大泊の滞在はわずか2時間足らず。港での艀の乗り降りの時間などを考えると、9時30分発には間に合わず、次の午後1時10分発の汽車に乗ったとする研究者もいるが、その場合でも4時間半ほどしか滞在していない。しかも賢治は、事前の連絡なしに細越氏を訪ねたという。樺太行きの主目的が教え子の就職依頼だったかどうか、ちょっとあやしいではないか。

宗谷海峡をこえて樺太に着いた日、宮沢賢治が訪ねた大泊の王子製紙工場。廃墟になりかけている。
宗谷海峡をこえて樺太に着いた日、宮沢賢治が訪ねた大泊の王子製紙工場。廃墟になりかけている。

 早々に用事をすませた賢治は、初めて樺太の鉄道に乗る。大泊駅から1時間ほどで豊原駅だ。豊原は官公庁、新聞社、ホテル、官幣大社、博物館、学校、カフェーに料理屋と、あらゆるものがある樺太の中心都市である。だが賢治はここで降車せず、そのまま終点の栄浜駅まで行く。栄浜はオホーツク海に面した港町で、栄浜駅は当時の樺太の最北端、すなわち日本最北端の駅だった。
 下車した後、賢治は栄浜の海岸を夜通し歩いている。そこで何を見たのか、そして樺太を走る汽車の車窓から見た景色はどんなものだったのかについては、のちに書く機会があるだろう。いまは、この旅が『銀河鉄道の夜』の執筆につながったこと、そして、アントン・チェーホフとブロニスワフ・ピウスツキもまた、かつてそれぞれに栄浜と、その先にある白鳥湖を訪れていたことを記しておくにとどめる。
 チェーホフとピウスツキが栄浜(当時はドブキと呼ばれていた)にやってきたのは、この島全体がロシアの領土で、流刑地として利用されていた時代だ。チェーホフは、のちに大部のルポルタージュ『サハリン島』に結実する囚人たちの聞き取り調査を行い、膨大な数の記録カードを残したが、政治犯と面会することは禁止されていた。
 もしそれが許されていたら、彼はピウスツキと対面していたかもしれない。ロシア皇帝暗殺未遂事件に連座して21歳でサハリンに送られ、青年時代のほぼすべてをこの地で暮らしたポーランド人について、何か書き残していたかもしれない。
 ふたりは同時代人である。チェーホフがサハリンにやって来たのは1890年、30歳のとき。チェーホフより6歳下のピウスツキは当時、流刑囚としてこの島で暮らしはじめて4年目だった。ふたりの足跡をたどると、あちこちで同じ土地を踏んでいることがわかる。
 それはまだこの島に鉄道のない時代だった。チェーホフやピウスツキが馬車で、あるいは徒歩で通った道にやがてレールが敷かれ、その上を賢治が旅することになる。チェーホフから数えて33年後のことだ。そして賢治の94年後、私も同じレールを走る列車の中にいるのである。

時間の遠近が狂った風景

 私がサハリンに来たのは、日本がかつてこの地に敷設した鉄道の跡をたどるためだ。いまも存続している路線には乗り、使われなくなった路線は、古い地図を見ながら痕跡を探す。
 もともと鉄道好きである私は、10年ほど前から廃線探索の面白さにとりつかれ、国内では60以上の廃線跡を訪れている。そのうちに、台湾や樺太、旧満州などで日本が敷設した鉄道の跡を訪ねてみたいと思うようになった。まずサハリンを目指したのは、北海道育ちの私にとって身近な島でありながら、その歴史について無知であることが、齢を重ねるにつれて気になってきたからだ。
 私は島にひかれる人間であるらしく、若い頃から東南アジアのさまざまな島を旅してきた。ノンフィクションの仕事でも、戦争に巻き込まれた国内外の島を取材し、とくに小笠原諸島の硫黄島と奄美群島の加計呂麻島には、繰り返し通っている。だが、このふたつの島と同様に、近現代史の中で特異な運命をたどった島であるサハリン/樺太には、まったく目を向けてこなかった。
 人生の残り時間を意識すると、人はそれまで取りこぼしてきたこと、見ないふりをして通り過ぎてきたことに心が向くのだろう。私が札幌で暮らしたのは22歳までだが、周囲には、戦後、樺太から引き揚げてきた人々やその家族がいたし、写真で見る戦前から戦中にかけての樺太は、自然や風物も、人々の暮らしの様子も、家のつくりや衣服までが、私が子供だった頃の北海道とほとんど変わらなかった。
 私は戦後16年たって生まれたが、いまあらためて資料を見ると、時代が進んでも、北方の人々の暮らしのおおもとは、それほど変わらないのではないかという気がする。かつての樺太の写真の中にいるのは、私と同じようなものを食べ、同じような服装をして同じような遊びをし、同じような家に住む子供たちだ。同じだからこそ、彼らのたどった運命を直視できずにきたのかもしれない。
 現在のサハリンを写真や映像で見て、独特の風景にひかれたことも大きい。あるいは朽ちかけ、あるいは用途を変えて使われている日本時代の遺構──海岸 にぽつんと残る鳥居や風化した奉安殿、廃墟と化す途上にある工場、美術館や博物館に姿を変えた官公庁や銀行など──がある風景は、時間の遠近を狂わせたコラージュのような、一種異様ともいえる美しさと懐かしさがある。
 もうひとつの理由は、ロシアの寝台急行に乗ってみたかったことだ。実をいうと私も、賢治と同じようにシベリア鉄道に憧れていた。
 ロシアの長距離列車には等級があり、最優等のものには列車名がつく。シベリア鉄道ならロシア号、オケアン号、バイカル号などがその代表である。「名称列車」と呼ばれるこれら最優等列車の番号は、001から150と決まっている。私がサハリンで乗ったユジノサハリンスク発ノグリキ行きの寝台急行の列車番号は001で、サハリン号という名称がある。つまりはシベリア鉄道の列車と同格なのだ。シベリア鉄道は遠すぎ、また長すぎるが、サハリンなら成田から2時間と少しで行くことができるし、オホーツク海の沿岸を通って島を縦断する613キロを2泊3日で往復できる。
 そういうわけで、いくつかの出版社にサハリン紀行の企画を出し、採用してくれた社の編集者とともに、この島にやって来たのだった。
 ちなみに復路で乗車したノグリキ発ユジノサハリンスク行きの列車は列車番号604で、寝台車を連結してはいるがサハリン号ではなかった。車掌が紅茶の注文を取りに来てくれなかったのは、そのせいかもしれない。

林芙美子が見た樺太

 コンパートメントに戻った私は、寝台に寝転んで文庫本を開いた。林芙美子の紀行文を集めた『下駄で歩いた巴里』。表題作は、1931(昭和6)年のパリ滞在記である。このとき芙美子はシベリア鉄道に一人で乗り、モスクワ経由でパリに行った。その鉄道旅を描いた「巴里まで晴天」も収録されており、鉄道好きとしては、車内の様子や車窓の景色、乗り合わせた人々の姿が生き生きと描かれ、かかった費用の明細まで載っているこちらの方が、表題作よりもむしろ面白い。
 日本からこの本を持ってきたのは、「樺太への旅」と題された一篇──1934(昭和9)年6月に樺太を訪れた際の旅行記──が収録されているからだ。芙美子が樺太を旅していたことを知ったのは出発の少し前で、せっかくだからサハリンで読もうと思い、文庫本を買って鞄に入れてきたのだった。
 芙美子は賢治と同じように、稚内から連絡船に乗って大泊に着き、そこから汽車に乗っている。栄浜までは行かずに豊原で下車し、駅に近い花屋ホテルで荷をほどいた。
 豊原には数日滞在したようだ。その間、近郊の小沼という集落まで汽車に乗って日帰りで出かけ、養狐場を見学している。 
 樺太は養狐の適地と考えられていて、当時は毛皮産業が有望視されていた。この養狐場には、1925(大正14)年に樺太に行啓した皇太子(のちの昭和天皇)も視察に訪れている。
 翌日、芙美子は本格的な鉄道の旅に出発する。目指すは敷香(ポロナイスク)。ソ連との国境の手前にある町だ。当時、国境は樺太の主要な観光資源のひとつで、内地からやって来た人の多くが国境見物に出かけた。敷香はその拠点となった町で、見物客はここに宿をとり、国境標石のある北緯50度地点まで行くのだった。
 賢治の旅から11年後のこのとき、樺太の鉄道はさらに北へと伸延していたが、まだ敷香までは達していない。敷香の43キロ手前の南新問(現在のノーヴォエ)が終点で、そこからは乗合自動車かハイヤーを利用するしかなかった。敷香まで開通するのは、2年後の1936(昭和11)年である。
 芙美子は豊原駅から早朝の汽車に乗った。

 窓外は蕭々たる山火の跡ばかりで、この陰惨な木の墓場は写生するにも困難です。戦場の跡のような木の根株ばかりの林の上を烏が餌をあさって低く飛んでいます。(中略)
 私の眼に写った、大泊から豊原に至る間、豊原から、北豊原、草野、小沼、富岡、深雪、大谷、小谿、落合の沿線に見える一望の山野に、私は樹らしい木を見ませんでした。文字通り焼野原であったり、伐材した生々しいままだったり、これがもし人間であったならば、夜になって鬼火でも燃えあがる事でしょう。
 私は車中で、一王子製紙の社員に、何故植林をしないのですかとたずねると、「まァ無尽蔵ですからねえ。」と云う応えでした。植林もしているのでしょうが、伐る方も忙しいのでしょう。樺太はこの樹木のお蔭で、王子製紙工場が、殆ど全島に勢力を持っています。列車の中も、鉄道員と王子製紙の役員でにぎわっています。
 或人は、樺太島ではなくて、王子島だと云った方が早いと云っていました。どの駅へ着いても、木材が山のようです。

(林芙美子「樺太への旅」より)

 樺太の主たる資源のひとつだった森林は、1910年代から開発が進み、王子製紙などの大手だけでなく、内地や北海道の中小の木材業者も続々と参入した。文中で王子製紙の社員が「無尽蔵」という言葉を使っているが、このころすでに乱伐採のため、森林資源は枯渇の危機に瀕していた。山はますます荒れ、盗伐の跡を隠すための放火が横行する。自然発火も多かったことから、山火事は樺太の名物とまで言われていた。
 山火事の跡、伐採したまま放置された切り株だらけの山、資源は無尽蔵だと言い放つ製紙会社の社員。植林はなされないまま、どの駅にも木材が大量に積まれている。車窓の景色を芙美子は実によく観察しており、その目は厳しい。樺太に到着した日にすでに、大泊-豊原間の車中から樹木のない山々を見て憤慨し、こう書いている。

 名刺一枚で広大な土地を貰って、切りたいだけの樹木を切りたおして売ってしまった不在地主が、何拾年となく、樺太の山野を墓場にしておくのではないでしょうか。(中略)
 汽車の中は私には様子の知れない洋服の紳士諸君が多い。どのひとの顔も樹を切りに行く人の顔に見えて仕方がありません。私は左翼でも右翼でもありませんが、此様な樹のない荒寥とした山野を眼にしますと、誰にともなく腹が立ってならない。樺太の知識階級の夫人たちは、ストーブのそばで景色も見ないで編物ばかりしているのでしょうか。女が、平気でこの切株だらけな朽ちた山野を看過しているとするならば、それはもはや、植民地ずれがしているとしか云えません。

(同前)

 植民地行政を統括していた拓務省、樺太庁、そして、樺太を単なる資源の供給地としてしか見ていない資本家や知識階級への痛烈な批判である。この「樺太への旅」は、1935(昭和10)年に改造社の雑誌『文藝』に掲載された。こうした内容の文章を発表することは、当時、かなり勇気のいることだった。

芙美子が買ったロシアパン

 豊原駅を発って2時間ほどで、芙美子を乗せた汽車は落合駅に着いた。当時は落合駅までが公営の樺太庁鉄道で、その先は王子製紙系の私鉄である樺太鉄道の区間だった。
 落合駅で芙美子は弁当を買い、樺太鉄道の車両に乗り換えた。落合は現在のドーリンスク。私が乗っている寝台急行がさっき通過してきた駅だ。
 ああそうか、と、2017年の車中で文庫本を読んでいる私は気づく。83年前の芙美子と同じ線路の上を、私はいま走っているのだ。

 落合を出て六ツ目の白浦と云う町へ着くと、露西亜人のパン屋が、「パンにぐうぬう。パンにぐうぬう」とホームを呼売りしている。このパン屋は、なかなか金持ちだそうです。美味しいパンだと聞いておりましたが、あまり美味しいパンとは思いませんでした。味は子供の好きそうな甘さで、内地で日本人の焼いたパンの方がよっぽど美味しい。野天のホームには電話室のような蕎麦屋も出ています。樺太の土地は馬鈴薯や蕎麦を植えるに大変いいらしい。だからでしょう、時々ホームで蕎麦を売っているのを見かけます。── 女の人たちは着ぶくれしているように着込んで、ここでは季節が何時(いつ)も冬らしい。そろそろオホーツクの海が見えます。雨もよいのせいか、髪洗粉を流したような灰色の海です。

(同前)

 食べものと女性の服装の描写が多いのが芙美子の紀行文の特徴である。雨の降り出しそうなオホーツクの海の色を髪洗粉にたとえているのも芙美子らしいな……と思いながら、この白浦という駅はどこだろうと、樺太時代の地図を取り出す。白浦駅の場所を探し、ユジノサハリンスクで買った地図と照合したところ、白浦は現在のヴズモーリエ駅だとわかった。
 時刻表を見ると、私が乗っている列車は、ちょうどそのあたりを通っているではないか。初めての土地でこういう偶然があるとうれしくなる。
 83年前の芙美子と一緒に旅をしている気分になった私は、彼女が白浦駅で買ったというパンが気になった。売っていたのはロシア人だという。日露戦争のあと、樺太に残留したロシア人なのだろうか。芙美子が評判を聞いていたということは、内地でも有名だったということか。
「樺太への旅」の続きを読みながら、頭の隅で、それがどんなパンだったのかと想像をめぐらせた。あまり美味しくなかったというそのパンが、私をピウスツキという人物に出会わせ、やがて長い旅にいざなうことになるとは思いもせずに。

サハリンを縦断する東部本線。宮沢賢治も林芙美子も、この線路を走る列車に乗って旅をした。
サハリンを縦断する東部本線。宮沢賢治も林芙美子も、この線路を走る列車に乗って旅をした。

 【写真はすべて筆者撮影】

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著者略歴

  1. 梯 久美子

    ノンフィクション作家。1961(昭和36)年、熊本市生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て文筆業に。2005年のデビュー作『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同書は米、英、仏、伊など世界8か国で翻訳出版されている。著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』、『昭和の遺書 55人の魂の記録』、『百年の手紙 日本人が遺したことば』、『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞受賞)、『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(新書大賞2019 第5位)などがある。

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