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梯久美子 天涯の声 ブロニスワフ・ピウスツキへの旅   

第2回 天涯の声 ブロニスワフ・ピウスツキへの旅

サハリンの地図

ヴォルガ河と知取川

 芙美子を乗せた汽車は、午後3時ごろ知取(しるとる)駅に着いた。現在のマカロフである。
 マカロフは、私が乗っている寝台急行サハリン号の最初の停車駅だ。時刻表を見ると、到着するのは午前2時46分。外の景色は見えない時間だ。私は芙美子に訊く。あなたの見た知取は?

知取の町は豊原よりにぎやかかも知れません。それに第一活気があって、まるでヴォルガ河口の工場地帯のようでした。灰色の工場の建物はやや立派です。煙が林立した煙突から墨を吐き出しているようなのです。ここでは新聞紙やマニラボール、模造紙、乾燥パルプをつくっています。

(林芙美子「樺太への旅」より)

 ヴォルガ河とはずいぶん壮大なたとえに思えたが、芙美子は想像で言っているわけではない。大陸を横断してパリへ行ったとき、シベリア鉄道の車窓から実際にヴォルガ河を見ているのだ。樺太への旅の3年前、1931(昭和6)年11月20日のことである。

──二十日は晴天。夕方ヴォルガの鉄橋を二ツも越しました。汽車の窓から見ると、ちょっと安東にも似ていますし、川崎あたりにも似ています。霧がいっぱいこめていました。工場の煙突から白い煙がムクムク上(あが)っていて、鉄橋の下には筏(いかだ)や小船が背を寄せ集めて、河幅は海のように広いのです。ここでも女工夫が鉄道を造っていました。

(林芙美子「巴里まで晴天」より)

 ここに引いた「巴里まで晴天」は、「樺太への旅」と同じく『下駄で歩いた巴里』に収録されている。サハリン号の中でこれを読んだときは、芙美子が旅した1934(昭和9)年当時の知取が、ヴォルガ河口の工場地帯に比される規模だったとは思えなかったが、サハリンから東京に戻り、付録の地図が欲しくて古書店で買った『日本地理大系10 北海道・樺太篇』で知取の写真を見て驚いた。

昭和初年代の知取。奥に製紙工場が見える(『日本地理大系 北海道、樺太篇』改造社、1930年)
昭和初年代の知取。奥に製紙工場が見える(『日本地理大系10 北海道、樺太篇』改造社、1930年)
昭和初年代の知取の製紙工場内部(『日本地理大系 北海道、樺太篇』改造社、1930年)
昭和初年代の知取の製紙工場内部(『日本地理大系10 北海道、樺太篇』改造社、1930年)

 そこに写っていたのは知取川の河口に広大な敷地を持つ製紙工場で、上流から運ばれてきた丸太を陸揚げする機械や、パルプの巨大な蒸釜、煙を吐く煙突群などが、この町の製紙工業のスケールの大きさを示していた。この本は1930(昭和5)年の刊行だから、芙美子が見た知取は、写真のころよりさらに発展していただろう。
 樺太といえば、石炭や木材、魚介類といった資源を産出するところというイメージをもっていたが、早くから工業化も推し進められていた。『日本地理大系』をめくっていると、知取だけでなく、樺太のあちこちに大規模な製紙工場がつくられたことがわかる。三木理史『国境の植民地・樺太』によれば、1920(大正9)年の時点ですでに、産業別生産額の1位は工業製品で、全産業のおよそ3分の2を占めている。
 芙美子が旅した当時、知取は樺太で3番目に大きな町だった。『樺太の地名』(1930年刊)によれば、サハリン全島がロシア領だった時代の名はシリウトル(アイヌ語で「山と山との間」の意)、またはシロトロナイポ(同「村と村との間の澤」)である。当時は海辺の寒村で、「アイヌと漁夫の家が十数軒、潮風くさい海ばたに陣どつてゐた」と『日本地理大系』の解説にある。
 1924(大正13)年に富士製紙がパルプ工場を建設したことから工業都市として発展し、1927(昭和2)年には新工場が操業を開始。人口は一気に増え、1930年にはおよそ1万6000人に達している。
 富士製紙は、芙美子がこの町を訪れる前年に王子製紙に吸収されているので、「樺太への旅」で描写されている「灰色の工場の建物」は王子製紙知取工場である。
 では、マカロフとなった現在の知取はどんな町なのか。サハリン号がマカロフ駅に到着したとき、私はまだ眠らずに起きていた。

崩れ落ちることを許されないものたち

 車内アナウンスはなく、車両は静かに減速してホームに停車した。窓から外を見ると、平屋の小さな駅舎から洩れる灯りが、薄く積もった雪を照らしている。5、6人の乗客が降りていき、こんな時間に駅からの交通手段はあるのだろうかと心配になった。
 このときはホームと駅舎しか見えず、町の様子はわからなかったが、のちに私はマカロフをあらためて訪れることになる。最初のサハリン行きの2年後のことで、ユジノサハリンスクから鉄道ではなく自動車で北上した。
 旧国境である北緯50度線より南側の東海岸は、線路と幹線道路がほぼ並行して走っている。マカロフの町を通ったのは昼すぎで、朝8時半にユジノサハリンスクを出発して4時間ほどたっていた。
 オホーツク海を右手に見ながら車を走らせていたら、まばらな町並みがはじまり、やがて小さな広場に出た。広場に面している2軒のカフェのうち、リュクスという名の店で昼食をとった。サラダ、きのこのクリームスープ、白身魚のムニエルに黒パン。サハリンはきのこ類が豊富で美味しい。
 そこが駅前広場であることに気がついたのは、食事を終えて外に出たときだ。道の向こうにある緑の屋根の建物が駅舎だった。
 駅前には商店もバス停もなく、人の姿もほとんどない。時刻表を見たら、11月から4月までの冬期、この駅に停まる列車は上下合わせて6本だけだった。
 背の低い町、というのがマカロフの第一印象で、規則的に並ぶ団地風のアパートのほかに目立った建物はない。河口があるのは駅から少し北に行ったところで、昔の写真で見たような工業地帯の雰囲気はいまはない。川を渡った先には、雑草が生い茂る広大な土地が広がっていた。
 砂埃の立つ坂道を川に沿って上っていくと、風化しかけた建物があらわれた。がっしりした箱型のフォルムと分厚いコンクリートの壁。カメラを取り出してファインダーをのぞき、ピントを合わせていたら、以前にもこんな感じの建物の写真を撮ったことがあるような気がしてきた。何枚かシャッターを切るうちに、ああ、あれだと気づく。弾薬庫に似ているのだ。
 これまで旧日本軍の基地だった場所をいくつか訪れたが、残っていることが多い建物のひとつに弾薬庫がある。普通の建物より頑丈に作られていること、ほかの用途に転用しやすいので戦後も撤去されなかったことなどが理由だろう。
 南洋群島のテニアン島、奄美群島の加計呂麻島、最近では熊本県の菊池飛行場跡でも弾薬庫を見たが、目の前の建物はそれを巨大にしたような感じだ。違っているのは、高い煙突があることと、建物の上部に窓が並んでいることだ。両方とも弾薬庫には必要ないものである。
 後方に目をやると、高台になったところに、ずんぐりした煙突を持つ、西洋の古城か要塞のように見える建物があった。どちらもかつての製紙工場の建物なのだろう。この広い空き地のすべてが王子製紙知取工場の敷地だったのだ。
 四角い建物を見て弾薬庫を連想したのは、私がかつてそれを見た場所がみな、ここと同じように巨大な何かが失われ、堅牢すぎて崩れ落ちることを許されなかったものだけが残る土地だったからだろう。
 この日、川も海も暗い色をしていたが、空は澄んだ水色だった。マカロフの人口は樺太時代の半分に満たない。海からの風に均されたように平坦な町は、背後に迫る丘陵の緑に侵食されつつあるように見えた。

現在の知取(マカロフ)製紙工場(筆者撮影)
現在の知取(マカロフ)製紙工場(筆者撮影)

賢治の海、芙美子の国境

 芙美子の乗った汽車は、長雨による崖崩れの影響で、知取を出てから徐行を続けた。「新問には四時頃着きました」と芙美子は書いているが、当時は新問という名の駅は存在せず、実際に下車したのは南新問駅である(1936年に敷香[現在のポロナイスク]まで鉄道が開通したとき、南新問駅の1.2キロ北に新問駅がつくられた。その後、1943年にこの新問駅は廃止され、南新問駅が新問駅に改称されたという経緯がある)。
 南新問駅(1943年以降の新問駅)は現在のノーヴォエ駅である。私の乗った寝台急行はこの駅には停まらない。通過した時刻は午前3時半前後のはずだが、そのころ私は、寝台の枕もとの灯りをつけたまま眠りについていた。
 芙美子が知取に着いたのは午後3時頃だったというから、知取から南新問までの所要時間は1時間ほどだ。現在の各駅停車の時刻表を見ると、マカロフからノーヴォエまで47分。中間駅は、当時が3つ、現在は1つである。中間駅が少ないほうがスピードを出しやすいはずだし、鉄道にかかわる諸技術の発達を考えても、現在はもっと速くなっていてもよさそうだが、それほどでもない。貨車を連結しているかどうかでも条件は変わってくるが、樺太時代の鉄道はかなり優秀だったといっていいのではないだろうか。
 宮沢賢治が、彼の時代に日本最北の駅だった栄浜まで行ったように、芙美子も当時の終着駅、南新問に降り立った。「そきへの極み(「そきへ〈そきえ〉」は遠く離れたところの意)」という言葉が和歌の世界にあるが、北へ向かう旅人は、果ての果てまで行ってみたいという思いに駆られるようだ。
 栄浜駅の場合、線路が途切れた先は海で、どこにも繋がりようのない行き止まりである。浜辺に立った賢治は、行き着くことの叶わない海と空の果てに、前年の秋に亡くした妹トシの存在を感じる。

わびしい草穂やひかりのもや
緑青(ろくしょう)は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

(宮沢賢治「オホーツク挽歌」より)

 この詩にある「青いところのはて」が、賢治がその生涯で見た「そきへの極み」の景色である。 芙美子の場合、南新問は終着駅ではあったが、「果て」ではなかった。その先には敷香という町があり、さらに北には国境がある。芙美子はそこまで ── 国境という行き止まりまで ── 行くつもりだった。それにはまず、南新問から敷香までたどりつかねばならない。

新問の駅はバラック建で、台所のように小さい改札口を出ると、乗合自動車やハイヤが四、五台並んでいて、もう蟻のような人だかりです。 「荷物! わしの荷物誰持って行ったァ」と叫んでいる漁師の神(かみ)さんや、「姐(ねえ)さんハイヤにしべよ」と、水色の鹿の子をひらひらさせた酌婦(しゃくふ)連れが、三味線袋をかかえて自分たちの乗って行く自動車を探していたり、私たちは、早々と鰊臭い乗合自動車に乗りました。寿司づめの満員です。

(林芙美子「樺太への旅」より)

 駅は「バラック建」で、「台所のように小さい改札口」だったという。当時このあたりは、新問川を使って運ばれる木材の集積地だったものの、山林に囲まれた寂しい場所だったようだ。だが駅は「蟻のような人だかり」である。乗り合わせた人たちの描写からは、当時の樺太独特の活気が伝わってくる。

リュックサックにしょうちゅうを買いこんで来たと自慢している土木工夫や、林務署の役人、漁師、こう云った人たちが、肩と肩をつきあわせて乗っているのですけれど、豊原のあの不快な思い出から、私は早や段々愉(たの)しくなり始めています。この乗合自動車はまるで荷物船で、私の脚の横には野菜籠が同居しているし、魚臭い爺さんが一寸ほど私のひざに腰をかけていて、内路と云うところまで身動きが出来ませんでした。

(同前)

 漁師の神さん(おかみさんの意か)、三味線を持った酌婦、土木工夫、林務署の役人、漁師 ── 新しくひらけつつあった国境の町・敷香でひと稼ぎしようとしていたのがどのような人たちだったかがわかる。
 市井の人々の姿を、クロッキーのようにひと筆でさっと描いてみせるのが芙美子の本領だ。まだ樺太に着く前、稚内から大泊に渡る連絡船に乗り込む場面でも、一緒になった人たちの姿を活写している。
 そこで乗り合わせたのは、まず「ウテナクリームのマネキンの女たち」。たまたま札幌の宿で泊まり合わせた彼女たちは「戦線へ乗り出して行くような元気な姿」で乗船を待つ行列に入ってきた。都会風の服装をしている女たちは、いまでいう化粧品会社の美容部員といったところか。
 「初めて働きに行く漁場について心配そうに親方に相談している家族たち」や、「三等室の円窓から海をのぞいている小さい女学生」(樺太の両親のもとへでも帰って行くところなのでしょう、と芙美子は書いている)もいる。乗船前の待合室では、熱い牛乳を飲んでいる「露西亜人の太ったきたないお婆さん」や、「ゲートルを巻いた材木商人」、「袖丈(そでたけ)の長い白抜きの紋付を着た色の黒い芸者」の姿も見た。そして、船の中の喫煙室では「樺太新聞の記者」、「軍人」と三人で、三日遅れの新聞(東郷平八郎の葬儀の様子が載っている)を読むのである。もうこれだけで、当時の樺太がどんなところだったのか、その輪郭がおぼろげに見えてくるではないか。

闇の中の国境

 敷香に向かう乗合自動車の中の描写は楽しげだが、気になるのは「豊原のあの不快な思い出」という部分である。豊原で何があったのか。それは「樺太への旅」の前半に書かれている。芙美子が豊原に着いた翌日の早朝、地元の警察から宿に電話があったのだ。

「何時(いつ)来たのかね」
「昨夜参りました。何か御用事ですか?」
「ちょっと来いよ」
「貴方はどなたですか?」
「もと中野×にいたものだよ」
「はあ、そうですか、何の用事でしょう?」
「まァやって来いよ。見物位させてやるよ。アーン」
「そんなところはこわいからまっぴらですよ」
「何かこわいことをしているのかね。こわいことをしていると……ハッハッ……」

(同前)

 呼び出しに応じるつもりはなかった芙美子だが、樺太の概要が書かれたパンフレットをもらいに樺太庁に行き、警察部の役人と話していると、「やァ、こんなところにいたのか」と、電話の主の男がやってくる。そして横柄な口調で「中野に何日位いたかね?」と訊いてきた。
 芙美子はこの前年、共産党に資金提供を約束した疑いをかけられ、中野警察署に10日間勾留されていた。男は一介の巡査だが、中野署にいたことがあるといい、俺は全部知っているぞ、というようななれなれしい態度を取る。
 「私は貴方の顔に少しも記憶がないのですが、人まちがいではないでしょうか?」
 「俺はよく知っているよ。君はシンパで這入って来たじゃないか」
 侮蔑的な態度と暴言に芙美子はついに泣き出し、こんなところにはいたくないと、早々に北海道に戻ることまで考える。このときの不愉快さを引きずっていた芙美子は、敷香に向かう鰊臭い乗合自動車でようやく元気を取り戻すのだ。
 荒野の中を走ること3時間、車は敷香に着いた。だがその後、芙美子が国境へ行くことはなかった。国境を目の前にして断念した理由を、芙美子は書いていない。
 一方、83年後の私は、暖房の効いた寝台急行で、あっさりと旧国境を越えた。当然ながら何時に50度線を通過するかが時刻表に書いてあるはずもなく、前後の停車駅の発着時刻と駅間距離からおおよその時刻を割り出した。私の計算によれば、それは午前6時半から7時の間のはずだった。その時間帯はずっと窓の外を眺めていたが、まだ夜は明けず、旧国境地帯は闇の中だった。
 芙美子のリベンジというわけではないが、この翌々年、私はサハリンでかつての国境地帯を訪ねた。敷香から国境への道は、芙美子の時代と同じである。もともとは軍用道路として切り拓かれた真っすぐな道を車で走りながら、芙美子はなぜ国境へ行かなかったのだろうと、私はあらためて考えていた。

ソ連側からみた国境標石(『日本地理大系 北海道、樺太篇』改造社、1930年)
ソ連側からみた国境標石(『日本地理大系10 北海道、樺太篇』改造社、1930年)
日本側からみた国境標石(『日本地理大系 北海道、樺太篇』改造社、1930年)
日本側からみた国境標石(『日本地理大系10 北海道、樺太篇』改造社、1930年)

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著者略歴

  1. 梯 久美子

    ノンフィクション作家。1961(昭和36)年、熊本市生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て文筆業に。2005年のデビュー作『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同書は米、英、仏、伊など世界8か国で翻訳出版されている。著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』、『昭和の遺書 55人の魂の記録』、『百年の手紙 日本人が遺したことば』、『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞受賞)、『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(新書大賞2019 第5位)などがある。

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