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『思想』2020年5月号

◇目次◇

 
思想の言葉………鈴木雅雄

『子供百科』で成長すること………J. M.クッツェー
岡義武と明仁皇太子………松浦正孝
清水幾太郎と「危機」の20世紀――「流言蜚語」から「電子計算機」まで………趙星銀
ベンヤミンの「雲の故郷」――『1900年ごろのベルリンの幼年時代』をめぐって………田邉恵子
〈インタビュー〉アメリカ批判理論の発展と今日の課題――マーティン・ジェイに聞く………マーティン・ジェイ 聞き手=日暮雅夫
アメリカのセント・クリストファー,グアドループ,マルチニックなどの島々の博物誌(前編)――ジャン=バティスト・デュ・テルトル
ヨーロッパの鏡像,カリブとカニバル――17世紀フランス人宣教師テルトル神父の博物誌をめぐって………冨田 晃
 
 

◇思想の言葉◇

 

Something inside of me
鈴木雅雄

 言語化できないが感じ取れる差異というものに、私たちはしばしば出会う。典型的なのは人間の顔である。言語情報による顔の同定の困難さは、それをはっきり証明するだろう。ましてある一つの顔に、とりわけしつこくつきまとわれてしまうとき(簡単にいえば、要するにその顔を愛してしまったとき)、それがなぜであるかをいうことは決してできない。その顔が美しいかどうかということと、これはまったく異なった問題である。私たちはある顔を美しいと「評価」できるとき、愛しているとはいわない。評価とは相対的なものだが、ここで問題なのはその顔が私にとって完全に代替不可能な何かであるという、絶対的な体験だからだ。たしかにあらゆる同一性は謎であり、決して記述の束に還元できないのではあろうが、顔の体験はこの不可能性といかにつきあうべきかという問いを、何にもまして鋭く突きつけるのである。

 この不思議さは、現実の人間の顔だけのものではない。あるマンガ家のキャラクターを、別の数人のマンガ家がなるべく似せて描くとする。すると私たちは多くの場合、その複数の図像のなかから、はじめのマンガ家が描いた図像がどれであるか、見抜くことができる。もし私がそのキャラクターのファンであるとするなら、私の愛の対象は、やはり最初のマンガ家が描いた図像であるはずだ。だが他のマンガ家の描いたキャラクターが偽物だというわけでもなく、だからこそ二次創作という領域が可能になる。まして私自身がそのキャラクターを描いてしまうかもしれない。私の描いたそのキャラクターが私にとって、オリジナルと同じ価値を持つことはないが、それが本物か偽物かといった問いを問うよりも先に、私はそれを描かずにはいられない、そんな事態がしばしば生じる。まして顔という謎とのそうしたつきあいの果てに、私の手がそのキャラクターとは異なった、しかし私にとってやはり特別な意味を持つ、別のキャラクターを生み出すことさえありうるだろう。

 あるいは何らかの音楽形態、とりわけブルースのような、一定のパターンの反復を本質とする音楽形態を考えることもできる。ダッダダッダというウォーキングベースを聞くだけで、ブルースファンの多くは弾いているのがジミー・ロジャースやエディ・テイラーであることを聞き取ってしまう。もちろんどんな音楽分野であれ、名プレーヤーとは人と同じフレーズを奏でても名演であるからこその名プレーヤーではあろう。だがブルースにはどことなく、いかに簡単なフレーズで代替不可能な単位を作れるかの実験のようなものがあるのではないか。たしかに簡単というのには語弊もある。ブルース・アーティストにはゲイトマウス・ブラウンのような超絶的なテクニシャンも少なくない(ゲイトマウス本人はブルースというカテゴライズを好まなかったにしても)。だがたとえばスヌークス・イーグリンのような常人離れしたギタリストでも、その技巧にはどこかいわゆる手癖の延長のような側面がある。記譜をしてみれば誰にでもすぐに演奏できそうに見えるフレーズが、あるプレーヤーが演奏するときにだけまとってしまう何か、ブルースの出発点にはそうしたものがありそうに思えるし、複雑なフレーズもその延長線上から根本的には逸脱しないのではないか。マンガ家の描くキャラクターと同じく、技術的には一定の練習を経れば身に着けることができるはずであるにもかかわらず、ある主体にだけ属するものになってしまった何か。そうした不可思議な単位が、その全体を支えているのである。

 こうした言語化できない差異について展開された哲学として、クラーゲスの『リズムの本質』を挙げられるかもしれない。よく知られているように、それは単純な反復である「拍子」とは異なった、常に更新される「リズム」をめぐる思索である。自らとのずれを作り出しながらそれ自身であり続けるゲシュタルトが問題になっているという意味で、それはまるで「ブラック・ミュージック」の原論のようにさえ見える。だがクラーゲスが(生の哲学である以上当然ではあるが)、リズムを「生命」という力に還元してしまうとき、あるプレーヤーのリズムが「私」にとって特別なものとして現れる体験は置き去りにされてしまう。ではどうすればよいか。伊藤亜紗の明晰な思考が、クラーゲスと対比しつつヴァレリーのリズム論から取り出してみせた論理がヒントを与えてくれる(『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』水声社、二〇一三年)。

 一斉射撃にリズムを感じ取れないのは、「ある銃声が鳴った時点で、次の銃声までの間隙を正しく「予期」できないからである」(一七五頁)。逆にリズムが生まれるのは、「主体が「間隙」を予期し、それを挿入することができるとき」(一七六頁)に他ならない。リズムとは等間隔で刻まれる音の反復ではなく、それを予期することで私が私のなかに作り出す現象であるというこの発想は、リズムを外的な力としてではなく、外からやって来るものと私との出会いとして捉えようとするものだ。さてこんなふうに考えてみてほしい。私は間隙を予期し、それを挿入するのだが、そのとき聞いているのがすでにすぐれて差異化された「名プレーヤー」のリズムだとしてみよう。私は何において差異化されているのか言語化できないその間隙を、自分自身のものにしたいと願う。その願いがかなうことは決してないのだが、私はその間隙を作り出そうとするのをやめることもできない。するとあるとき、オリジナルの間隙とは異なるにもかかわらず、やはり一つのゲシュタルトをなした、言語化できない別の間隙が生まれてしまうようなことがあるのではなかろうか。

 生み出される新たなゲシュタルトは、もとのものと似ている場合もあるし、そうでない場合もあるだろう。ハウンド・ドッグ・テイラーやJ・B・ハットーはエルモア・ジェイムズに「似ている」し、B・B・キングはTボーン・ウォーカーにもエルモアにも「似ていない」。さらにそのゲシュタルトの成立は、私自身が気づかないうちに成し遂げられてしまっているといったケースもありうるし(プロデューサーがアーティストを発見するとは、多かれ少なかれそうした事態だろう)、一定の地域のなかでだけ成立していたゲシュタルトが、突然広く認知されるというケースもブルースには多い(二〇世紀が終わりに近づいた時期でさえ、ヒルカントリー・ブルースが発見されたりする)。それはまったくもって捉えどころのない出来事であり、その捉えどころのなさは、なぜそのゲシュタルトがそのとき可能となったかを「説明」しようとすれば、的外れの神秘化を招き寄せてしまうだろう。だがこの危うい可能性に賭けるという選択もまたそれ固有の歴史を持つのであり、あるいは近代の文化現象全般にとって、一つの伏流として機能し続けてきたのではなかろうか。

 近代とは主体がオリジナルであろうとした時代であり、同時に複製技術の進歩によって、オリジナルなものがまたたくまにオリジナリティを失っていく時代でもあった。だがそこでオリジナルである方法は、ある理論に従っていまだ実現されていない何事かを実現しようとすること、いわば前に進もうとすること(つまり「前衛」であること)だけではなかった。私に取りついてしまう何かを反復し、しかし決して成功しないその反復のなかで、別の何ものかを生み出してしまうことに賭ける選択もまたありうる。これはつまり、自分にできないことをできるようになろうとすることではなくて、すでにできてしまっていることに価値を見出す態度である。とてつもないオプティミズムに見えるかもしれないが、私たちは常にすでに何かができてしまっているという確信にもまた、それなりの真実があるように思われる。私は私が望むことを成し遂げることは決してないが、常にすでに私が望みもしなかった何かを成し遂げてしまっているのではなかろうか。

 これらはどこまでも近代的な体験である。理論的に新しいものを作り出そうとすることが「前衛」であるとするなら、理論化できないものの反復によって創造するという選択は近代のもう一つの可能性であった。この盲目的な反復は、必然的にいわゆる大衆的な芸術分野において前面化しやすいだろう。成功したものを真似ることで成功できるかどうかは、結局のところ偶然としかいいようがないし、だからこそ語る価値のない出来事のように見えるかもしれない。だがそれに立ち会った主体の振る舞いを記述し、その振る舞いが主体に何をもたらしたかを考えることに、意味がないとはいい切れないはずだ。近代的な意味での「キャラクター」に襲われてしまったとき、テプフェールやマッケイやエルジェがどう反応したか、エルモアやライトニンが自らの見出してしまった「スタイル」とどのようにつきあおうとしたか、そうした問いがどこにつながっているのかを私たちはまだ知らない。「私」と、「私」のなかの言葉にできない何かとのつきあい方の歴史は、おそらく近代についてのいまだ書かれざる最大の物語なのである。

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