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『思想』2020年6月号

◇目次◇

思想の言葉………高田珠樹
〈対談〉ロゴスと道――世界哲学のために………中島隆博・納富信留
誰も寝てはならぬ!――夜のギリシア………アンゲロス・ハニオティス
ドストエフスキーの「信仰告白」からみた『カラマーゾフの兄弟』………パーヴェル・フォーキン
ヴェーバーからアドルノへ――アメリカ体験をめぐって………徳永 恂
野獣化し食人する女――18・19世紀移行期ドイツ語圏のアマゾネス………速水淑子
アメリカのセント・クリストファー,グアドループ,マルチニックなどの島々の博物誌(後編)………ジャン=バティスト・デュ・テルトル
ジェイムズの「モザイク」哲学――アメリカ哲学のバロック ――続・バロックの哲学(2)………檜垣立哉
書物シャーマニズム――『メディア論』再訪(2)………吉田朋正
 

◇思想の言葉◇

さまよえる水晶宮
 高田珠樹
 
 終息が見えない新型肺炎だが、この数カ月間のことを想い起こすと、むしろ事態の急な展開に驚かされる。連日、世界のメディアが現場中継をまじえて報道した、横浜の埠頭に停泊する大型クルーズ船のことさえ遥か以前のことのような気がする。今回の新型肺炎はその特性が不明なうえに、検査をしても感染の有無や治療の完了などについて断定が容易ではなく、そのため取るべき対策も判然としない。検査や検疫、移動の制限を徹底することで封じ込めるほかないと主張する人もいれば、地域住民の過半数が感染し免疫を獲得しないかぎり終息しないと言う専門家もいる。判断が分かれるせいか、日本では、原則や方針が打ち出されても、あまり徹底されず、抜け駆けや目こぼしが黙認されていたふしもある。事態の進展がいくらか緩慢だったこともあり、緊急事態宣言の発出には政府も及び腰で、ようやく出されたものも何か中途半端だった。
 
 一方、状況が一気に深刻化した国々では、かなり早い段階で厳しい罰則を伴う非常事態宣言や外出禁止令が発令されている。こうなるとただ事ではない。例外状態である。カール・シュミットの『政治神学』冒頭の「主権者とは例外状態について決断する者である」という言葉を想い出した人も少なくあるまい。この文言は、必ずしも戒厳令のような事態を語るものではないのだが、文言だけを切り離して考えると、安定したかに見える日常の平穏が例外状態の宣言によって断ち切られ、日常の背後に潜んでいた権力の暴力性が剥き出しになる、と読むこともできる。権力とは、通常と非常、法と無法のあいだに線を引く力だと言ってよい。何もなかったところでも、そこに一本の規制線が引かれれば、その先は境界の彼方であり、線を越えるのには危険が伴う。線の両端が繋がれば円となる。円に囲まれた部分は内部となり、その向こうは外部である。私たちは、普段から様々に引かれた線に沿って生きている。空間的な線、時間的な線に限らない。無数の線が社会を区分けし分断する。線引きによって、私たちは何かを迫られ、求められる。と同時に、それらの線は、私たちの生活や安全の保障ともなっている。一方で、線引きは往々恣意的であり、理不尽ですらある。
 
 人間は常に線引きし、内と外とを分けてきた。線で囲まれた内部空間に生きてきた。スローターダイクが、彼の長大な三部作の表題ともなっている「球体」、あるいはむしろ「球体圏」(Sphären)という言葉で表現するのは、こういった人間の住む囲いのことである。人は、自然界の中に線を引いて囲いを巡らし、そこに囲い込まれる、ないしはそこに自らを囲い込むことで人間となってきた。「球体圏」が人間を創り出したと言ってもよい。しかし、それは単に外敵の脅威から身を守ったということではない。線引きし、囲いを巡らすことそのものに当初から暴力が伴っている。球体圏には、外部の暴力に対する暴力、あるいは内部の成員に対する暴力という性格が抜きがたく備わっている。例外状態は、私たちの日常生活の根柢にありながら、普段は隠されている強制力、潜在的な暴力性をあらためて露呈させるのである。
 
 一九九八年に刊行された『球体圏』の第一巻「泡袋(Blasen)」は、自然界に創り出される人間の住む人工の空間、一種の島の成立について語るものであり、続く第二巻「地球体(Globen)」(一九九九年)では、人間が自分の住む「球体圏」を対象化し、それを征服していく過程が描かれる。自然環境の中で、中小の群れをなして原始的な共同体としての球体圏を営んでいた人類の中から、有力な集団が出現して周辺の部族を平定し、次第に強力な権力を持つ組織が出現する。やがてそれらは、地理上の発見を通じて地球を一つの球体圏として認識し、他の地域を征服し植民地化してゆく。私たちが人類の歴史ということで考える時代は、この「地球体」で記述される時期にほぼ相当する。近代の国民国家は「地球体」期の球体圏を代表する存在であるが、現代世界は、個々人が集団や組織の頑丈な壁によって包摂され保護されていた時代から、各人が薄い被膜のような小さい球体圏に包まれて、互いに繋がりあい支えあう時代へ移行してゆく。第三巻「泡立ち(Schäume)」は、一つの巨大な球体圏が屹立する、あるいはいくつかの球体圏が並立して覇権を競いあうのではなく、無数の小さな球体圏が泡の粒となって連なり、刻一刻姿を変えてゆく現代や近未来の世界を描くものと言えるだろう。
 
 『球体圏』三部作は二〇〇四年の「泡立ち」の刊行で完結したが、翌二〇〇五年、スローターダイクは『資本の世界内部空間の中で』と題する本を刊行している。これは、『球体圏』第二巻「地球体」約千ページのうちその五分の一に当たる部分を再録した上で、それとほぼ同じ量を新たに書き足して一冊の本に編んだものである。この中に「水晶宮」と題された一節がある。一八五一年のロンドンのハイドパークで開催された万国博会場に建設された鋼鉄とガラスから成るメイン・パヴィリオンは、その外観ゆえ「水晶宮」と呼ばれた。一八六二年、やはりロンドンの、今度はサウス・ケンジントン公園で万国博が開催された際にも、同様の建造物が、規模をさらに拡大する形で建造された。建物自体に名前がなかったが、この万国博を訪れたドストエフスキーは、『地下生活者の手記』(一八六四年)の中でこれを「水晶宮」と呼び、そこに西欧の文明の象徴を見てとった。ロンドン旅行の翌年に刊行されたチェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』を読んだドストエフスキーはそれに激しい嫌悪感を覚え、これを自分が万国博を訪れた際に感じた懐疑的な印象と重ねあわせる。
 
 チェルヌイシェフスキーによると、社会問題が技術の力で解決された暁には、人類はガラスと金属でできた共同体の宮殿の中で仲間たちと共同生活を営むという。彼が描く文化宮殿は「空調を備えた豪華な邸宅として構想されており、その中では合意という永遠の春が続くことになっている。ここに善意の太陽が昼夜を問わず光輝き、万人が誰かれの区別なく皆と平和に共存するのは自明の理である。内部の空気は互いに垣根を超えた限りない感情を特徴としており、施設に満ち溢れる人間的な道徳のおかげで、必ずや誰もが自発的に皆の運命に共感することになる」(『資本の世界内部空間の中で』第三三節)。一切の対立や抗争が消え、歴史が終わった後の永遠の平和……。ドストエフスキーは、この水晶宮のヴィジョンをひどく不快に思ったのだった。
 
 透明のガラスに覆われ、内にいながら、あたかも外にいるかのように感じられる巨大なインテリア。外部が牙を抜かれた上で人工的に再現される内部空間。構造や意匠の点でこの種の建物は、西洋近代の各国の首都に建造された植物園の温室に由来する。温暖な異国に生い茂る珍しい植物を寒冷なヨーロッパの地で展示する温室は、植民地の経営と一体であり、王国の富と力を誇示するものであった。一九世紀に鉄骨の利用が進む中で、この類いの建造物はその規模を拡大させ用途も広がる。二〇世紀後半になると、それはショッピング・モールやメッセ会場、巨大ホテル、スポーツ・アリーナ、屋内体験型の遊園地、さらには各地の空港やターミナル駅のコンコースとして拡大と普及の一途を辿る。
 
 そして各地を周航する巨大なクルーズ船。様々な娯楽の設備が整い、ひとたび乗船すれば、じっとしていても自ら観光地を旅してまわっているという錯覚と満足感を与えるこの動く海上都市、人工島は水晶宮が辿り着いた一つの地点である。野生を排除し、自然界の中に温室としての「球体圏」を創り出すことで、人類は成立し、文明を築いてきた。しかし、人間の営みによって、それ自体が巨大な温室と化した自然は、人間が創り出した文明としての温室に牙を剥く。一昨年九月上旬に襲来した台風二一号で人工島としての関西空港が麻痺し、京都駅のコンコースのガラス屋根が砕け散る映像は、外部を遮断する水晶宮の平穏が仮初めのものであることをあらためて想い出させた。そして、温暖化で上昇しつつある海面を漂う巨大な水晶宮は、目に見えないウィルスを培養する温室と化す。
 
 自然を疑似的に再現し、万人に開かれた永遠の春を装う巨大な内部空間。しかし、球体圏は力による線引きを抜きにしてはありえず、排除されるのは剥き出しの自然だけではない。水晶宮は入場者を選別した上で、閉鎖された空間の中に開放感を演出する。『球体圏』を構想し始めた九〇年代前半、スローターダイクは、当初、「球体圏」を船のメタファーで語ることを試みていた。海に漕ぎ出す小さな筏としての共同体は次第に規模の大きな船による航海となり、最終的には無数の死体が浮かぶ海原を進む巨大フェリーというかたちで、人類の共生形態の変容が描かれる。構想が『球体圏』三部作へ具体化される中で、人間を創り出す人工の空間は、島や培養器、免疫、家畜化といった様々なイメージで補強されることになる。人間は野生の脅威を内に取り込んで馴致し、自ら自身をも家畜化することで人間となった。球体圏が「人間園」とも呼ばれる所以である。
 
 コロナウィルスは水晶宮から徹底的に排除するのがよいのか。それとも、かつて人間が他の野生動物や自ら自身を飼いならしたように、このウィルスも私たちの住む内部空間の中でゆっくり馴致するのが正解なのか。付き合いは始まったばかりである。

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