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『図書』7月号【試し読み】ヤマザキマリ/岡村幸宣/金平茂紀

◇目次◇
 
今だからこそ読む、安部公房    ヤマザキマリ
静かな春と「作業日誌」      岡村幸宣
古本屋は、無限の世界とつながっている 切通理作
『孤塁』からバトンを受け取る   金平茂紀
英雄の生涯  亀淵 迪
ディストピアの向こう側  佐藤アヤ子
言の端・言の葉  時枝 正
テリー・ジョーンズの死を悼んで  髙宮利行
「ロリータ」の夏  山崎まどか
それでも希望を持てるのだろうか  高橋三千綱
杏の枝と七夕の夜  斎藤真理子
見えない政治に抗うために  赤坂憲雄
六〇年代のガール・グループ  片岡義男
ガラスの剛毅  橋本麻里
悪のテーマパーク  長谷川 櫂
こぼればなし

七月の新刊案内

(表紙=司修) 
(カット=西沢貴子) 
 
 
◇読む人・書く人・作る人◇
 

今だからこそ読む、安部公房
ヤマザキ マリ


 安部公房は人間の生きるありさま、そして人間の作り出した社会という現象を、まるで昆虫の生態記録を綴っているかのように俯瞰で表現し続けた作家だが、「けものたちは故郷をめざす」はまさに情緒性や感傷を嫌う安部公房のぶれない意識が明確に象られた作品のひとつだ。乾いた空気と殺伐とした光景が広がる満州は、人間にとって生き延びる絶望感を容赦無く突きつけられる場所であり、そんな土地が舞台となった作品に、読み手に湿り気をもたらすような描写はむしろ不自然さをもたらすだろう。この小説が安部公房の文学作品の中でも特に生き生きとしているように感じられるのは、舞台となった環境と、そこで培われた自身の余分な湿度を帯びない感性が同化しているからかもしれない。
 悲惨ではあるが悲愴ではない。むしろ、この物語の凄まじき展開と向き合う登場人物たちや、無法地帯の社会のありさまには、やる瀬ない可笑しさすら覚えてしまう。なぜ人間という生き物はどんな過酷な目に遭おうとも、懲りずに希望や理想という凶暴性を孕んだイデオロギーを繰り返し抱きたがるのか。
 どんな時にどんな読み方をしてもこの作品の面白さはかわらない。しかし、戦後の満州と、何もかも失った中で故郷という希望のゴール目指して乾いた荒野を彷徨い歩く、健気で痛々しく滑稽な久木久三のこの物語は、漠然とした不安で覆われた、まさに今という時代に読むことでこそ覚醒する、質感のある感慨に満ちている。
(やまざき まり・漫画家・文筆家)
 
◇試し読み⓵◇
 

静かな春と「作業日誌」
岡村幸宣

 
 埼玉県東松山市、原爆の図丸木美術館のある都幾川のほとりは、春になると匂いが変わる。太陽の光の強さが変わる。大地から、樹々から、いっせいにいのちが芽吹いてくる。
 しかし今年は静かな春だ。
 未知の脅威にどう対処するか。芸術文化は「不要不急」か。そう逡巡しつつ、九年前の東日本大震災・東京電力福島第一原発事故を思い出す。目黒区美術館「原爆を視る」展の開催自粛をはじめ、首都圏各館の閉鎖が広がるなか、あのときも丸木美術館は、ひっそりと開館を続けていた。計画停電の影響で電車は走らず、ガソリンも不足していたので車の交通量も少なかった。誰もいない展示室で、丸木位里、丸木俊の描いた「原爆の図」だけが、天窓から差し込む自然光に照らされていた。
 そして今年もまた、静かな春。
 丸木美術館は、行政や企業の支援もなく、大勢の人びとの寄付と入館料収入によって自主独立の運営を続けてきた。有事の際、どこからも「自粛要請」は来ない。美術館を開けるか閉めるかという判断は、自分たち次第。もちろん自由には責任がともなう。誰からも指示されない代わりに、野垂れ死ぬのも自由。
 そんな美術館で、かれこれ二〇年、学芸員の仕事を続けている。
 
 丸木位里と丸木俊が最初の「原爆の図」を発表したのは、原爆投下から五年後の一九五〇年。まだ占領下で、原爆被害の情報や写真が公開できなかった時代だった。ふたりの画家は絵を背負って全国を巡回し、人びとに原爆の惨禍を伝えた。やがて展覧会は国外へ広がり、一〇年ほど世界各地をまわって帰国した。
 これからは、自分たちの手もとに置いて、誰でもいつでも、一日にひとりでもいいから、「原爆の図」を観たいと思う人が観ることのできる美術館をつくりたい。そう考えて、画家みずから一九六七年に開設したのが、「原爆の図丸木美術館」である。
 画家や創設者の名前を冠した美術館は各地にあるが、絵の題名がついた美術館は、ほかに聞かない。四度の増改築を経た建物は、天井の高さも壁の長さも「原爆の図」の寸法に合わせてつくられている。当たり前のようだが、世のなか、当たり前のことがそうでない場合も珍しくない。
 まだ学生だった一九九〇年代なかば、学芸員資格を取得するための実習先として、はじめてこの美術館を訪れた。大学ではもっぱら、先端表現である現代美術の勉強をしていた。けれども、だからこそ異なる時間軸にある美術の現場を体験してみたいと考えた。

 丸木美術館に学芸員はいなかった。最初に頼まれた仕事は、裏の林の竹の子掘り。生まれて初めて鍬を持った。授業で学んだことは役に立たないと覚悟していたが、想像以上の違いの大きさに、むしろ清々しい気分になった。
 誰が職員か、ボランティアか、一般の来館者なのか。何もわからないまま、離れの古民家で酒を酌み交わし、夜更けまで芸術や文学や社会問題を語る人たちに巻き込まれて、畳の上に雑魚寝した。位里はすでに世を去り、俊もほとんど人前に出なくなっていたが、ふたりが育んだ「場」は生きていた。
 間近で観た「原爆の図」は凄まじい絵画だった。しかし、彼らがつくりあげた「作品」は、それだけではない。そこに絵があること。ものを考えること。人と出会うこと。生きるということ。文化の根源的なかたちが、この美術館に存在するのだと、少しずつ見えてきた。

 はじめは今にも吹き飛んでしまいそうに見えた美術館が、案外粘り強く持続する力をもっていることもわかってきた。バブル経済崩壊後、閉館する美術館・博物館は少なくない。しかし、丸木美術館を支援する友の会の会員は、今も一五〇〇人を超える。大きな資金源に頼らない分、好不況の影響は小さかった。慢性的に運営難ではあるけれども、土地と建物は自前だし、光熱費も最小限なので、不相応な経費はかからない。人件費に限りはあるが、数名の職員を支えるボランティアの方々は、展示替えやニュース発送作業、イベントのたびに各地から参集する。みんなが大事だと思うものを、みんなで守り、手渡していく。そんなシンプルな在り方が半世紀も続いてきたのは、小さな奇跡のようにも感じられる。
 芸術の歴史をさかのぼれば、太平の世の爛熟だけでなく、乱世にあっても人は表現を手放さなかったことがわかる。人間の心をえぐるような痛みや、辛辣な社会批判を通して世界の本質に近づき、記憶することもまた、文化の厚みと言えるだろう。

 位里と俊は、原爆投下後の広島に駆けつけ、被爆の惨状を見たことから、「原爆の図」を描きはじめた。三〇年以上の歳月をかけて一五部連作となった共同制作は、それだけで終わらず、「南京大虐殺の図」、「アウシュビッツの図」、「水俣の図」、「沖縄戦の図」、「足尾鉱毒の図」、「大逆事件」などの絵画へと続いていった。主題が変化したからと言って、別個の絵画だとは思わない。二〇世紀に急変した科学技術や文明の荒波に呑みこまれ、力をもった者たちに虐げられ、いのちを奪われた人びとの姿に変わりはない。ふたりの画家は、死者たちの側から世界を見るまなざしを選びとった。すべての共同制作は、一九四五年八月の広島の焼け跡へとつながっていく。
 最後の「原爆の図」が描かれたのは一九八二年。位里は一九九五年、俊は二〇〇〇年に亡くなった。しかし、世界の歪みと亀裂は今も存在する。

 もし、ふたりが生きていたら、今、どんな絵を描くと思いますか。
 仕事柄、そう質問されることも珍しくない。けれども、その問いには答えないことにしている。位里も俊も、もういない。死者は新しい絵を描いて発表することはできない。では誰が描くのか。誰が現在進行形の世界と向き合うのか。
 近年、丸木美術館は、若い世代の表現者による企画展が増えている。二〇一一年の東日本大震災・東京電力福島第一原発事故の後、芸術の論理の内側に閉ざされることなく、外の世界にもまなざしを向け、時代に呼応しつつ新しい表現を拓く若い美術家たちの仕事が目に留まるようになった。しかし、「公共」の展示施設では、なかなか社会的な問題提起をする表現を発表しにくい。昨夏に注目された「あいちトリエンナーレ」事件だけでなく、この国における「公共」は、しばしば権力を行使する者や多数派の意見に振り回され、萎縮する。
 上から縛られるのではなく、下から積み上げていく「公共」。丸木美術館ならば、そんな空間が作り出せるのではないか。それはもしかすると、位里と俊がつくりあげ、残していった「場」の、今日的な解釈になるのかもしれない。
 
 二〇一八年四月、風間サチコの《ディスリンピック2680》という幅六メートルを超える大作の絵画が、丸木美術館で発表された。
 「ディスリンピック」とは、ディストピアとオリンピックを掛けた、風間の造語である。西暦一九四〇年/皇紀二六〇〇年は、幻となった東京オリンピックの年。健康至上主義の祝祭の準備が進められた一方、この年には人間の淘汰を象徴する「国民優生法」が制定された。延期が発表された西暦二〇二〇年の東京オリンピックは、それから八〇年後に開催される予定だった。風間は、すべて手彫り手刷りの木版で、架空都市・ディスリンピアを舞台に、虚実入り乱れた祭典「ディスリンピック2680」の壮大な開幕式の様子を描き出した。

 二〇一一年暮れに美術家集団 Chim Pom(チン・ポム)の展覧会を開催した際、彼女は丸木美術館を訪れ、「原爆の図」を観て、「自分が直感的に酷いと思ったそのままの姿を描きとめておくことも、ひとつの方法なのだと素直に思った」(「ARTIST INTERVIEW」『美術手帖』二〇一八年八月号)と語っている。その体験をきっかけとして、開催が実現した丸木美術館での個展。鋭い社会批評を潜ませた主題といい、必要な空間の広さといい、この作品を展示できる場所は限られるという事情もあった。
 丸木美術館での展示の翌年、風間は東京都が新設した現代美術賞Tokyo Contemporary Art Awardの第一回受賞者となった。二〇一九年度のタカシマヤ美術賞にも選ばれた。《ディスリンピック2680》はニューヨーク近代美術館に買い上げられることが決まった。
 予算が限定された丸木美術館では、作家にじゅうぶんな謝礼を差し上げることができない。それはいつも気になっているから、展覧会が反響を呼び、作品が評価されると、自分のことのように嬉しくなる。美術家のキャリアに少しでも役立つことができたとすれば、本当によろこばしい。

 それだけではない。丸木美術館で意欲的かつ新鮮な作品が発表されるたびに「原爆の図」にも新しい命が吹き込まれていく気がする。歴史は過ぎ去った時代の物語ではなく、今を生きる私たちと地続きの現実である。時間は未来という一方向のみに開かれたものではなく、過去の記憶にも開かれている。その道標として、世代を超えた作家たちの仕事がつながっていく。「場」の意味を最大限に引き出す仕事は、学芸員冥利に尽きる。
 
 今春、『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌 2011―2016』と題する本を、新宿書房から刊行した。本の副題は、ベルトルト・ブレヒトの『作業日誌(Arbeits Journal)』を少しだけ意識している。ブレヒトは第二次世界大戦前後を生き抜いた思考と実践の記録だが、こちらは東日本大震災からはじまり、「戦後/被爆七〇年」に向かう日々の仕事をまとめた。
 震災や原発事故を経て、「原爆の図」の見え方がどう変わっていったのか。若い世代の美術家たちが、なぜ丸木美術館で展示をするようになったのか。「原爆の図」とともにアメリカやドイツを旅する過程で、どんな人たちと出会い、何を語りあったのか。この小さな美術館で過ごす日々から、命がどのように見えるのか。些細な日常のなかの、書き留めておかなければ消えていってしまいそうな言葉や現実のできごとを、なかば物語のように語り伝えたいと思った。編集者が数えてくれたところによると、書中に登場した実名の人物は四〇〇人を超えるそうだ。しかし、そのなかには数えられていない、名も知らない人たちのことも語り残したかった。

 長岡の平和像の前で、問わず語りに空襲の記憶を伝えてくれた女性。ワシントンDCで展示した「原爆の図」の前で、崩れるように座り込んだ退役軍人。江戸川の被爆者追悼碑に手を合わせ、軽やかに走り去っていった少女。亡き女子高生と、娘の幻影を絵の前に見た母親。彼ら彼女らとの出会いも、日々の仕事の糧になっている。
 そうした語りの試みが、どこまで成功しているかどうかはわからない。難しいことをやろうとしている気もするが、ともあれ「未来へ」向けて、本を世に放ってしまった。
 
 五月五日は丸木美術館の開館記念日だ。毎年、開館を祝う横断幕や鯉のぼりを飾る。講演やコンサートも開かれるので、大勢の来館者でにぎわう。庭には有機農家などの出店がならび、ボランティア・スタッフがイベントを支えてくれる。イベント後の打ち上げも、みんなの大切な楽しみだ。
 しかし、今年は新型ウィルス感染症拡大の影響で、早々に催事の中止が決まった。四月九日からは臨時休館となった。一時とはいえ、扉を閉ざす決断は重いと知った。

 誰もいない開館記念日。ひとり「原爆の図」を見つめた。いまだ続く原発事故の影響はもちろん、台風や猛暑、疫病など、近年、災害のない年はない。天災と人災の区別も、分かりにくい時代。
 休館中、美術館の収入は途絶えたが、国内外から予想を超える寄付が相次いだ。六月九日には美術館の扉が開いた。
 丸木美術館の歴史は続く。世界が変わっても、人はこの絵の前に立ち続ける。
(おかむら ゆきのり・美術館学芸員)
 
◇試し読み②◇
 

『孤塁』からバトンを受け取る
金平茂紀

 
 本を読み終えると同時に、噴き出すように涙が流れだすという経験はそう頻繁にあるものではない。『孤塁――双葉郡消防士たちの3・11』の末尾の二行に行き着いて、不覚にもそうなった。
 〈ここまで、私は、「バトンを渡す」という思いで書き続けてきた。どうか、このバトンを、あなたも受け取ってくださることを願う〉
 二〇一一年三月一一日の東日本大震災と、それにともなって起きた東京電力福島第一原発の炉心溶融事故。マスメディアの仕事に携わっている人間の端くれとして、僕自身も東北地方沿岸部の大津波被害や、とりわけ原発事故による住民退避や放射線による汚染被害などの一端を取材してきたつもりだった。だが事故から一〇年目の今にして、このように濃密な「知られざる事実」があったとは。驚愕させられるとともに、自身の無知と怠惰を恥じいりたい気持ちになった。
 巨大地震と原発過酷事故に見舞われた際、福島県の原発の地元にあった双葉消防本部の消防士たちが、何を命じられ、どこに行き、何をみて、どのような任務を全うすることになったのか、そして消防士たちの家族も含めてその後どのような運命を甘受せざるを得なかったのか。著者のフリーライター吉田千亜さんは、七〇名近い消防士たちに直接取材、話を聞いた。そして、浮かび上がってきた事実を丁寧にすくいとって、歴史の記録としてまとめあげた所産が本書である。読み進むうちに、その事実の重みに圧倒され、厳粛な心持ちになる。強烈なビンタを喰らったような衝撃。ルポルタージュの金字塔と書いてしまおう。

 私事になるが、今年も〈3・11〉をめぐって取材を進めるなか、宮城県丸森(まるもり)町の筆甫(ひっぽ)地区で、ある人物と出会った。丸森町は二〇一九年の台風豪雨で酷(ひど)い被害を被った場所だ。その町で、原発事故の教訓を忘れまいと再生可能エネルギーの地産地消をめざしている人物が金上(かながみ)孝さんだ。金上さんは地元の消防団員でもあった。それで消防士という仕事がどんなものなのかで話が盛り上がった。
 金上さん自身も、原発事故のあと、汚染調査活動の補佐として福島県双葉郡の大熊町や富岡町に向かった。福島第一原発構内にも何度か入ったことがあった。筆甫地区は福島県飯舘(いいたて)村と近接している。金上さんによれば、地元消防団の団員は地域住民の一員であるとともに準公務員(非常勤の特別職地方公務員)であって、奉仕精神で郷土を助けたいという思いがとても強い。招集がかかると結束してついつい無理をしてしまうのだという。「自分らが行かないで誰が行くんだよ」と。一方、行政の末端にいるので、彼らの処遇を顧みる配慮は決して手厚いとは言えない現実もある。そんな中で「自分の命をまず守れ」という考え方が再確認されるきっかけとなった出来事があった。
 金上さんが話してくれたのは、雲仙普賢岳(ふげんだけ)の火砕流発生(一九九一年六月)で、地元消防団員らが死亡したケースである。一九八五年の御巣鷹山(おすたかやま)日航ジャンボ機墜落事故では、自衛隊や警察の捜索隊のことはクローズアップされた。墜落現場の捜索は難航を極めたが、土地勘のある地元の上野村消防団員らの道案内で自衛隊や警察が現場へと行き着けたという事実はあまり語られない。
 双葉消防本部の消防士たちにも同様のことが起きていたことを僕は本書で知った。誰も、彼ら消防士の活動、任務、その過酷な処遇を顧みた者はいなかった。

 二〇一一年三月一一日一四時四六分、あの巨大地震が発生した。総勢一二五名の双葉消防本部の消防士のうち、発生わずか一時間後には一〇七名の職員が参集し、救助・救急活動が始動した。電話回線は途切れたが、消防無線は何とかつながっていた。住民から救助要請がひっきりなしに入り、現場へと急行する。道路が至る所で寸断され、思うように現場に行きつけない。津波来襲のさなかの病院搬送は読んでいてつらくなる。
 そこに原発事故という未曽有の事態が出現する。地震発生一時間後には、基準以上の放射線検出を知らせる「一〇条通報」(原子力災害対策特別措置法による)が、さらに一時間後には原発が制御不能になった旨の「一五条通報」が東京電力から伝えられた。消防士たちにとって、知識では知ってはいても、おそらく現実感を持ち得ない成り行きだっただろう。
 一二日に東京で行われていた東電の会見では、一号機の格納容器の圧力が高くなっていること、それに対して「ベントを行う予定である」ことが述べられ、地元自治体・住民への広報についても「すすめている」と回答されていた。しかし、そんなことは、地元自治体を含め、消防も住民も、誰も知らなった。そもそも「ベント」とは何かを知る人もほとんどいなかったのだという。
 一二日一五時三六分、一号機が爆発する。消防士たちは間近でそれを経験した。僕は個人的には次の証言に強く引き込まれた。なぜならば、爆発映像の放送を控えたテレビ局の判断が大きな誤りだったと今でも思っているからだ。
 〈傷病者を乗せ、ちょうど搬送先の「ゆふね」に到着した時に、原発が吹っ飛ぶテレビ映像を目にし、絶句した。福島中央テレビ(日本テレビ系列)の無人カメラが撮影していたものを、爆発四分後に同局でのみ流したものだ。「うそだろう」何もかもが信じられないことだらけだった。ちなみに、この一号機爆発の映像が全国放送されるのは、爆発から一時間一四分も経った一六時五〇分である〉。
 現場を動き回る消防士たちは被ばくした。測定するとサーベイメーターの針が振り切れるほどの被ばく量だった。
 本書のなかで最も心を揺さぶられたエピソードは、一三日、事故を起こした原子炉の冷却のため、五名の消防士が原発構内に淡水を運搬するために入ったことだ。東京電力から要請があったのだ。本来、自衛隊が担うべき任務が突然、地元の消防士に振られた。五人は正門から原発構内へと入り、二号機と三号機の間へと向かった。以下、個々の消防士が吉田千亜さんに語った証言。何度読んでも怒りがこみあげてくる。
 〈前日に爆発した一号機の建物の上部は崩壊し、あたり一面に瓦礫が散乱していた。その瓦礫が、どの残骸の塊が、どれくらい放射線量の高いものなのか、わからない。岡本は「とんでもないところに来た」と感じた。そもそも、いつ、どの原子炉が爆発するか、生きて帰れるかすら、わからない。……遠藤らが到着した一三時半頃、三号機原子炉建屋の二重扉の内側は、毎時三〇〇ミリシーベルトにも線量が上がり、……三号機も危険な状況ではあったが、そもそも一号機が爆発したあとの構内での活動にもかかわらず、放射線量も、ベントの可能性も、必要な情報は何も知らされていなかった〉。
 さらに連絡の不行き届きから、現場には東電の自衛消防隊のポンプ車が待機していて、それを使うのだといきなり通告される。消防士たちは、そのポンプ車の操作方法も知らない。三〇分ほども無駄な時間をそこで過ごし被ばくを強いられた。〈遠藤は、この時に、三号機・四号機の排気筒から白い煙が上がっていたのを覚えている。「なんだろう?」と思っていたが、のちに、ベントを試みている頃だったと知り、「ふざけるな」と思った。ベントの可能性など、何一つ知らされていなかった〉。
 このような理不尽があっていいものなのか。しかも消防士と一緒に作業していた東電作業員らが突如姿を消していた。彼らは二回目の給水作業を放棄して退避していたのだった。消防士は、たまたま通りかかった別の東電社員から、現場から緊急退避するように命じられたのだという。急いでオフサイトセンターに引き上げた。〈現地対策本部として情報が集まるはずのオフサイトセンターにも、遠藤や岡本が東電社員から告げられた緊急退避命令の情報は入っていなかった〉。
 この証言は、実は深い意味がある。この日の一五時五九分、福島第一原発・吉田昌郎所長(当時)は、東電本店に「このエリア(三号機周辺)は危ないんで人間は全員引き上げてこさせてます」と報告していた。消防士の証言は、吉田所長の意思決定が現場の最末端にどこまで正確に伝わっていたかを推認する有力な傍証にもなっているのだ。いわゆる朝日新聞社の「吉田調書」事件にも通じてくる。
 双葉消防本部から原発構内に給水補助のために入った五人は、ポケット線量計は身に着けていたが、東電からは個人線量計を借りていなかった。だから当時の被ばく線量の記録はまったく残っていない。また東電作業員らには、安定ヨウ素剤が配布されていたが、双葉消防本部の消防士たちには配布はなく、服用された事実は皆無だった。
 三月一四日には三号機の爆発が起きた。消防士たちは、地響きとともに原発方向にキノコ雲が立ちのぼったのを目撃した。こうした状況下で、爆発による怪我人の救急搬送という極限的なケースも出てきた。重い、重い証言のひとつ。
 〈(原発構内に)出動する三名の防護装備を手伝った。誰も、一言も発しなかった。いざ出発というとき、車に乗り込んだ松野が、「今まで、ありがとうね」と言い、渡部に手を差し出した。もう戻れないと覚悟していたのだろう。「あの時は、そういう言葉が自然に出てきてしまう、そんな現場だったんですよ」と渡部は思い返す。「つまり、特攻、ですよね」〉

 新型コロナウイルス禍のさなか、本書がまったく色褪せないどころか、逆に意味を帯びていることを述べておきたい。それは、活動にあたった消防士たちが、被ばくし汚染されたことをもって、一部住民や社会から差別されたエピソードが記されていることだ。「我々は汚物ですから」と言った消防士もいたという。
 汚染と感染。たった一字の違いだが、排除の論理が働くこの社会。いったいあの惨事から僕らは何を学んだというのだ。双葉郡から大量の住民が避難していた郡山市内の大施設では、避難が長期化するとともに、避難民の中から感染症が拡がり、傷病者の救急搬送が増えたという事実が本書には記されていた。
 今年、この国では、福島第一原発の事故現場で緊急対応に必死にあたっていた東電の所長や作業員らを『Fukushima50』と呼んでヒーロー視する映画が公開された。そういった試みを否定するつもりなど僕にはない。だが、まったく顧みられることもなかった消防士たちの活動はどうしたら報われるのだろうか。新型コロナウイルス禍の中で、僕らが知ったことのひとつは、ヒーローにも愚者にも、悪党にも善人にも、ウイルスは無差別に襲いかかるという冷徹な事実だ。ヒーローではなく、無名のまま、無私のまま、医療現場で黙々と人の命を救おうと仕事を続ける人々のように、消防士たちは物語を要求しなかった。吉田千亜さんが書きつけた文章を最後に記してバトンをあなたにお渡しする。
 〈過酷な活動を続けながら、「ヒーローになる必要はない」とそれらが報じられることもないまま、淡々と孤塁を守り続けた彼らがしばしば口にするのは、「忘れないでほしい」という言葉だ〉
(かねひら しげのり・ジャーナリスト)
 
◇こぼればなし◇

◎ 新型コロナウイルスの急速な感染拡大を受けて発令された緊急事態宣言。当初の期限は五月六日でしたが、五月四日に期限の延長が決定。その後、一四日に三九県で、二一日には近畿3府県で解除される一方、残された北海道や関東4都県の解除は二五日までずれ込みました。

◎ 本号がお手許に届くころ、事態がどのように推移しているか予測はできませんが、残念ながら以前と同じ日常をとりもどしているとは考え難いでしょう。諸外国の例をみるまでもなく、再び新規感染者が急増する第二波、第三波が招来する危険性と隣り合わせの日々が続いていくことと思われます。

◎ 山本太郎さんの『感染症と文明――共生への道』(岩波新書)が教えるように、心地よいとはいえなくても、辛抱強く我慢しながら、このCOVID-19と共に生きる術を探ってゆかなくてはならないのでしょう。

◎ その共生のあり方も様々な場面で、かつては想像もできなかったようなかたちで進んでいるように思われます。

◎ 技術的には以前から可能であったことですが、たとえばリモート会議。インターネットのもたらした成果といっていいでしょう。離れた場所の複数の相手と画面や音声に加え、種々の資料なども共有しながら議論を進めることができます。

◎ 最初は抵抗がありましたが、感染回避のために時差出勤や在宅勤務を勧め、三密を避けながら企業活動を継続してゆくためには、背に腹はかえられません。まだまだ慣れませんし、十全に使いこなせてもいませんが、こうしたあり方が今後は主流となってゆくのでしょう。

◎ 現在では小社でも、編集会をはじめとして、ほぼすべての会議がリモートで行われています。外的な環境の変化にいかに即応できるかということは、いろいろな局面で問われますが、ネットのなかった時代に同様の事態に見舞われていたならば、会議などはほぼ不可能。いまあるような対処はできなかったはずです。

◎ 感染拡大以前に比較すれば、不充分ではあっても、いろいろな場面である程度の対応ができる範囲が広がったのは、ネットが生みだした恩恵でしょう。しかしながら、ネットですべてが解決するというわけではないのも、また事実です。

◎ かたちある書籍に仕上げるには、そしてその書籍を広く届けるためには、実際に人の手が必要なのです。製作者や営業担当者の努力なくして、出版活動はかないません。印刷や製本、流通、販売を担っている方々の尽力も同様です。ネットでは代替できない、このような営みが出版文化を支えていることを、今回の事態はあらためて示したように思います。

◎ 小社の製作部員や営業部員も感染リスクを避けるため、残念ながら通常の活動ができておりません。刊行日の変更のほか、諸々ご迷惑をおかけすることがあるかと思います。なにとぞご理解いただきたく、よろしくお願いいたします。

◎ 本号から、時枝正さんの連載「あかちゃんトキメキ言行録」が始まりました。ご期待ください。

 

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