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『図書』8月号【試し読み】村上陽一郎/小池昌代

◇目次◇
 
マスク 村上陽一郎 
抱擁 小池昌代
玉露とパイプとコロッケと みやこうせい 
知識と社会の過去と未来(1) 佐藤俊樹 
虚言の文学者 四方田犬彦 
ロシアヘイトの根源 亀山郁夫 
アリスのいないお茶会(前編) 吉田篤弘 
古楽はいつだって新しい 須藤岳史 
ゴッホの《ひまわり》―― パリ編(上) 正田倫顕 
空即是色 時枝正 
ネタバレなしの世界 斉藤倫 
「やさしみ」のあった場所 斎藤真理子 
こぼれるということ 藤原辰史 
李成愛のCDを探す 片岡義男 
奇想の花 橋本麻里 
善と悪の不条理 長谷川櫂
 
こぼればなし 
八月の新刊案内
(表紙=司修) 
(カット=佐々木ひとみ) 
 
 
◇読む人・書く人・作る人◇
 
マスク   村上陽一郎
 
 昔学んだ生物学では、ヴィルスは「濾過性病原体」と呼ばれていた。彼らは、細菌類をきちんと掬い上げる濾紙を、平気ですり抜ける。その点を刷り込まれた頭では、今回起こったマスク騒ぎは、当初私の理解を越えていた。医療従事者が使う特殊なマスクならいざしらず、ガーゼの一枚や二枚を重ねたマスク程度では、ヴィルスが伝わってくるのを防げるわけがないからだ。医療関係者も、感染予防のために、マスクの着用はあまり重要ではない、と言う。しかし、途中で私は考えを変えた。今では、外出の際は必ずマスクを着用する。理由は簡単である。
 COVID-19は、非常に強い感染力と、ほどほどの致死性を備えていることが、だんだん判ってきたからだ。この二つの特性は、不顕性の患者が多数に及ぶということを導く。つまりは、私も自覚なしにサイレント・スプレダーになっている可能性を、常に心にとめなければならないのだ。ならば、少なくとも感染力のある飛沫を自分がまき散らさない用心のために、マスクを着用する義務がある、と思い当たったのだ。
 欧米人は元来マスクが嫌い。無粋極まりないものらしい。いや彼らも、目の周りを隠す、例のゾロが着けている奴、あるいは、仮面舞踏会で紳士淑女が装う奴なら、好ましいと思うようだ。でもあれはCOVID-19には、まるで役立たない。彼らもやむを得ず無粋なマスクに頼り始めた。
 因みに、岩波新書で、数多くの識者のヴィルス禍についてのご意見を集めた緊急出版が刊行されたところだ。ご参考までに。
(むらかみ よういちろう・科学史) 
 
 ◇試し読み◇
 
抱擁   小池昌代
 
 連休のさなか、女性による人工音声で、町にアナウンスが流れた。「緊急事態宣言が出されています。不要不急の外出はお控えください」。近隣の学校から、スピーカーを通して流されているらしい。天から降って来た公共の声は、その内容とはうらはらに、間延びしていて、のどかに聞こえる。
 買い物のために外へ出た。降り注ぐ太陽の光。マスクをつけたヒトが歩いている。地上は虚無的で、不思議なよそよそしさに満ちている。これが「緊急事態」というものの素顔なのか。ヒトとの接触が断たれてしまうと、日常は抽象的で曖昧なものになった。日頃から、部屋にこもって読んだり書いたりをしてきたわたしは、同じような生活を続ければいいとも言えた。実際、生活は何も変わっていないように見える。けれど、芯のところが以前と違う。
 わたしたちは、外見も匂いもその重さも、一見、いつもと変わらない、同じ箱を持ち運んでいるのだが、その中身が、まるで違ってしまった。そのことに気づいてもなお、いつもどおりの作法で、いつもどおりに見える箱を、いつもより慎重に持ち運ばなければならない。
 ふと、想像が戦時中に移る。空襲警報を告げるアナウンスがあったはずだ。その声はどんな感じだったのだろう。男性の声か、あるいは女性の声? 緊迫した声だったのか、それとも冷静な? 想像しさえすれば、その声に到達できるとでもいうように、わたしは聞いたこともないその声に思いを巡らし、そんなことをしているうちには、その声を、まるで聞いたことがあるような気がしてくるのだ。
 むかし、吉田一穂(いっすい)という詩人が、「母」という詩の冒頭で、「あゝ麗はしい距離(デスタンス)/つねに遠のいてゆく風景」と書いた。すべて詩に連想が飛ぶのは、悪癖だが、ウィルス対策で、ヒトとの距離を開ける必要があると聞いたとき、思いだしたのは、あの一行だった。
 母もふるさとも、幼い頃は、自分と一体化したものだった。長じるにつれ、故郷を出、母のもとを離れ一人で立つ。そこに初めて距離が生まれる。思慕や郷愁、懐かしさや憎しみ。あらゆる感情も、そのなかに湧いてくる。距離とはすなわち、場所や人を対象化するまでの、時間の膨らみを言うのだろう。
 ウィルス対策における、ヒトとヒトとの距離に、そういう情緒はない。最初から、開けることが要請されている物理的・社会的な距離だ。「距離」を詠嘆調で歌ったあの一行を、わたしは前世ほどに遠く無力なものに感じた。吉田一穂には何の罪もない。改めて、道ゆく人々を眺めやった。情緒が押しつぶされ、偽善の入り込む余地もない距離には、むしろ即物的な清々しさがある。気づくと、わたしのなかには、怖れがあった。すでに充分、一人だったのに、わたしはさらに、一人になりたいと思った。
 新型コロナウィルスをうまく乗り越えられたとき、その象徴的な風景は、ヒトとヒトとの抱擁であるという気がした。そしてクリムトの、同名の絵画を思い出したりした。向こうから、わーっと大きく手を広げながらやって来るヒト。迎え入れるヒト。背中に回された手。肩の上からのぞく顔。一対の人々。閉じられたまぶた。がっしりと組み合わせられた静かな抱擁。
 以前、長い欧米生活を終え、帰国した友人から、そんな抱擁を受けたわたしは最初、戸惑ったものだったけれど、あっという間に距離が縮まり、相手の肉体を通して、確かにじわじわと、あたたかい物質が流れ込んだ。人間は、そんな挨拶をして、距離を押しつぶさなければならないほど、寂しく孤独な存在なのだと思う。
 新型コロナウィルスの脅威が、「見えないものに対する恐怖」という文脈で語られ始めたとき、不謹慎なことだが、何か知っているものにつきあたった気がしていた。もちろん、わたしは、このウィルスについて、巷に流れる情報以外のことは何も知らない。ただ、わたしのアンテナは、「見えないもの」という言葉に反応したに過ぎない。詩や文章を書くなかで、わたしはいつも目には見えない何かを可視化しようとしたり、想像力を働かせて感じとろうとしてきたような気がする。それで、「見えないもの」に対する「身構え」だけは、体に覚えがあるような気がしたのである。
 もし仮に、新型コロナウィルスを、赤い染料で染めることができたら、世界はどうなるだろう。一気に新型コロナウィルスが可視化するが、それはそれでまた、怖い世界が現れる。今度は怖さの質が、違う局面になる。あそこもここも、汚染されていると気づいてしまう。わたしはきっと発狂するだろう。ウィルスは人間の視力では見えないから、人間世界はとりあえず安定しているともいえる。だからこそ、積極的にできる限りのことをして、身を守るしかないのだが、その防御が、一体全体、どの程度、有効なのかも、見えない相手では、手探りで進むしかない。わたしたちの恐れは、そうした不確定さのなかから、きりもなく湧いてくるものだ。
 しかしそもそもわたしたちは、この怖ろしいウィルスに遭遇する前から、同じように手探りで、生の不確定さのなかを手探りで歩いていたのではなかったか。そうだった。なにもかも、わかったつもりでいたが、実は中身のことなど、何も知らないで「箱」を運んでいた。
 以前、沖縄・宮古島の海で、魚と泳いだ経験がある。そのとき、わたしは四十歳を過ぎていた。もう若くはなかった。わたしは、二十メートルを無呼吸で泳ぐのが精一杯という、カナヅチだ。そんなわたしでも、なかに空気の入ったフローティングベストを着用し、シュノーケルとマスクさえあれば、海の世界へ降りていくことができる。
 そのときの衝撃は大きなものだった。水面下の世界を初めて見たのだ。鮮やかな視界が、めりめりと、頭蓋を破るほどの衝撃で現れた。
 色とりどりの海の魚たち。抜群の透明度をほこる綺麗な海に、太陽光が差し込んでくる。水は揺れ、角度を変えて、きらきらと、どこまでも無言できらめいていた。敏捷な魚たちが、するりするりとなめらかに逃げる。岩場が見えてくる。ゆらゆらとゆらめく海の草もあった。こんな世界が、この世にあった。
 そこではすべてが定まらず、揺れ動いていて、一つとして、定まったものはなかった。わたしは自分を、裏返されたと思った。海のなかに差し込んでくる光は、地上に降り注ぐそれと、同じ光でもまったく違う。海中には、言葉という言葉が存在しないが、光を受けた水のきらめきこそ、言葉を超えた言葉だった。
 そして音はなかった。かすかに泡立つ水音や流水の他には。水面上と水面下では、これほどまでに世界が違う。喧騒の世界と無音の世界。わたしは陶然とし、いつまでもこの世界にたゆたっていたいと願った。艶めかしい魔力をたたえた秘密の世界。それは水面の上で、肺呼吸をしながら生きるわたしたちには、本来、見えない世界だった。海面の上と下には、このように、世界を隔てる絶対的な一線が引かれていて、しかし人類は、こういうあらゆる境界線を、突破し侵入してきたのだとも思った。
 ふいに浦島太郎を理解した。浦島は、こんな魅惑的な世界を見てしまったのだ。帰りたくなくなるのは当然だろう。わたしの経験は、ごく浅瀬の話で、本来ダイバーたちがめざすのは、もっと深い漆黒の海の底。そして浦島が訪れた龍宮城も、海底に広がる秘密の魔宮だった。
 そこにはおそらく、哀しくなるような無時間の悦楽が、口を開いていただろう。それを知ってしまったら、もう同じ人間ではいられない。陸に生きる、肺呼吸のヒトには、本来届かない夢の世界。浦島は禁忌に触れてしまったのだ。見てはならない秘境を、見てしまった。
 だからこそ思う。よくぞ彼は浜へ戻ってこられたなあと。わたしは海の底にひきずりこまれ、ついに帰って来なかった人々を知っている。海は怖ろしい未知の世界だ。潮の流れも波の威力も、パワフルで容赦がなく予測できない。
 浦島は、浜へ帰り着いたとき、開けてはいけないと乙姫に言われたにもかかわらず、もらった玉手箱を開け、一気に年をとってしまった。帰ってきたら、百年がたっていた。知り合いも家族もみんな死んでいた。彼はなにもかもが変わってしまった世界に絶望したのだろうか。自爆テロみたいな気持ちで、玉手箱を開けてしまったのか。
 新型コロナウィルスについて書き始めたにもかかわらず、いつのまにかわたしは、浦島太郎のことを書いていて戸惑っている。どこかでつながっている話なのだろうか。
 静まり返ったこの日常と、水面下の異世界。孤独の感触が、どこか似ている。人のなかへ出て行かず、親しい誰とも話さず、家に閉じこもっていたが、誰かに会いたいと思わなかった。案外、わたしは平気だった。ただその平気さが、段々と重くなっていって、いつしか海の底にいるような気分になった。海の上にまた出られるだろうか。出られたとして、そのときには、何かが根本から変っているのではないだろうか。
 百人一首に、二条院讃岐の詠んだ、次のような歌がある。
 
 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の
   人こそ知らね乾く間もなし
 
 恋歌である。――あなたは知らないでしょう。わたしの袖は、あなたを思って涙で濡れたまま乾くことがない。ちょうど潮が引いたときも、海水をかぶってずっと濡れたままの、遠い沖に眠る石のように――。何度読んでも心震える。ここに歌われた恋に、ではない。遠い沖合の一個の石に想像力を飛ばす、人間のその営為に。
 誰にも見えない沖の石を思うとき、なぜか、気持ちが鎮まってくる。何百年も黙って濡れ続けた、求心力のある小石のイメージは、やがてわたしのなかで、海底の小さなラジオにすりかわる。そこから流れてくる微弱な電波。水圧に押し潰され、聞きとりにくいが、それは確かに人の声だ。「世界は終わったわけではない、抱擁できる日がきっとやってくる、想像せよ」。
(こいけ まさよ・詩人・作家) 
 
 
◇こぼればなし◇
 
〇新型コロナウイルスの感染拡大にともなって、多くの企業では大なり小なりの「働き方改革」が進んでいるのではないでしょうか。
〇先月号の本欄でも、ほとんどの会議がリモートで行われるようになった小社の現状をご紹介しましたが、当然のことながら、その変化は会議のあり方だけにとどまりませんでした。
〇会議がインターネットを通じて行われるようになる、ということは、当然のことながら、それぞれの参加者は離れた場所にいるということになります。それでも画面をとおして顔を確認できます、音声も聞こえます。問題になったのは、会議の資料をどうするのか。これまでのように紙に印刷したものを配布するというわけにはゆきません。こちらもネット経由での共有ということになりました。
〇すると、どうなるか。いわゆるペーパレス化が進みます。紙の使用量が減って、コピー機の使用頻度も減る。ほとんどの資料や回覧物がパソコンやタブレット端末をとおして共有され、これまでデスクに積み重ねられていた紙の配布物は急激にその姿を消してゆきました。
〇そうなってみると、目の前にファイリングされてあるむかしの資料なども、もはや不要? 保存しておく意味がどれほどあるのか、という気持ちになってくるから不思議です。
〇ペーパレス化を推進せよ、という掛け声は以前から社内にはありましたが、このような事態にむきあってみると、技術的には可能であったわけですから、進んでこなかったのは気持ちの問題だったということでしょうか。
〇試行錯誤しながらタブレットの画面とにらみあう日々のなかで、あらためて感じたことがあります。それは、紙は優しいということです。
〇タブレットには、紙に換算すれば何十枚、何百枚となる量のデータをいくつも収めることができます。おまけにネット環境さえ整っていれば、どこにいても資料にアクセスして、ダウンロードできる。おなじ量を紙で持ち運ぶことを考えるなら、タブレットは遥かにハンディでコンパクト。十全に使いこなせるならスマートなこと、このうえないでしょう。
〇たしかに活字の拡大、縮小もタブレットには御手の物ですが、長時間にわたって画面を見続けることは、目に負担が大きい。そもそも紙はめくるだけで操作のための知識は不要なうえ、全体への視認性でも紙のほうが勝るでしょう。
〇しかし、そう感じるのは習い性、といわれれば、それまでです。企業活動だけでなく、各学校や大学、塾などの教育機関でもオンライン授業が急速に普及してきました。だれもが新しい環境に対応することを求められる時代に、いま、さしかかっているということでしょう。
〇今月はふたつの連載がスタート。一本は亀山郁夫さんによる「新・ドストエフスキーとの旅」。もう一本は四方田犬彦さんによる「大泉黒石」です。偶然とはいえ、ともにロシアと結びついた対象をテーマとしています。ご期待ください。

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