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『思想』2020年9月号

◇目次◇

思想の言葉………大髙保二郎 

「フランス・ヴィールス」――ヨーロッパにおける刑事立法と記憶の政治………ニコライ・コーポソフ
アーレントは全体主義の系譜学でいかなる哲学的挑戦を行ったか………ジャック・タミニョー
正義の女神アストライアの峻険な小径――ヴィーコの『普遍法』を読む………上村忠男
『猫の大虐殺』を読みなおす――18世紀フランスにおける人と猫の関係史………貝原伴寛
トクヴィルという謎――自由主義と代表制………宮代康丈
情報社会の生成と構造――サイバネティックス運動の理路(中)………大黒岳彦
〈書評〉ラカンと生きる,ラカンから生まれる――カトリーヌ・ミーヨ『ラカンと生きる』について………立木康介

 

◇思想の言葉◇

ピカソとアポリネールーー奇妙な友愛の果てに

大髙保二郎

 「ミラボー橋のしたセーヌは流れ/わたしたちの恋も……夜は来い鐘は鳴れ/日は過ぎ去りわたしは残る」(飯島耕一訳)で有名な詩人アポリネールは、二〇世紀がまだ若かった時代、自由律の詩作やカリグラム(図形詩)の実験で知られる前衛芸術のシンボルであった。かたやピカソは同じ時代に《アヴィニョンの娘たち》とキュビスムの開拓で造形革命を樹立、それから三〇年後には《ゲルニカ》の制作により、暴力と戦争で特徴づけられる二〇世紀を自ら体現する芸術家となった。

 現代のアヴァンギャルド芸術の扉を開いた二人は、文学と美術という異なる世界に住みながら盟友として、奇蹟的とでも言おうか、奇妙な友愛を育みつつ、広い意味でのエコール・ド・パリを生き、それぞれが言葉とイメージを交換し合い、互いの芸術を鼓舞していった。ともにフランス人ではない、異邦人としての二人は独創と革新性、異端志向という芸術上の信条ばかりか、ハイブリッド的な出自や生き方、また逆境にあってのレジスタンスと超越性においても共通の意識で結ばれていた。アポリネールは一八八〇年、ピカソはその翌一八八一年に生まれている。本年はアポリネール生誕一四〇年、来年にはピカソ生誕一四〇年という記念すべき年を迎える。

 ギヨーム・アポリネールはその出生と成長からしてすでに不運である。母親のアンジェリックは東欧リトアニアをルーツとするポーランド貴族の末裔で、彼女の父ミッシェルがロシアからの独立運動に敗れてその妻と共に彼女の祖国イタリアへ亡命。この父が教皇庁の侍従となったローマで、アンジェリックはチロルの名家の出でシチリア王国の退役将校と内縁関係となる。二人の間に一八八〇年八月二六日、男児が誕生するが、戸籍上、父の名は明かされず、庶子として登記された。ギヨームもアポリネールも洗礼名で、母方の姓はコストロヴィツキーである。二年後には弟が生まれた。

 この両親は享楽的で浪費家、カジノ浸りが人生のような生活ぶりであった。アポリネールが五歳の頃、父は家を去り、アンジェリックは二児を連れてイタリアや南フランスの各地を遍歴する。その間、アポリネールは中高等教育を優れた成績で修了するが、むしろ図書館に入り浸っては文学を耽読し、語学に習熟していった。こうして一八九九年末、文無し同然でパリにたどり着く。それはピカソがパリを初訪問する一年近く前のことである。

 アンダルシアの港町マラガに生まれたパブロ・ルイス・ピカソもスペイン各地を遍歴する少年・青年時代を送った。父ホセ・ルイスはカスティーリャ地方を、母マリアのピカソ家は北イタリアをルーツとしていた。ピカソもアポリネールも、民族や文化上の異種混淆的な結合のもとに誕生した事実はもっと注目されてよい。ただし、不幸な育ち方をしたアポリネールと比較すれば、ピカソは画家としての成功を嘱望する父と、息子のすべてを信じる大らかな母親に恵まれていた。この違いは両者の人格形成や芸術創造の点でも大きな意味をもったであろう。

 ヨーロッパは北のポーランドと南のスペイン、それぞれをルーツとするアポリネールとピカソを結んだのが二〇世紀初頭のパリである。二人の運命的な邂逅は一九〇四年一〇月、サン・ラザール駅近くの英国流パブのことであった。ピカソは「青の時代」の終わりで悲愴なスペイン的スタイルを試みていたものの、芸術の都ではほとんど無名に等しかった。アポリネールも同様で、文芸各誌に投稿するも日の目を観ず、少年期から涵養した博覧強記の文学知識のもと、艶本まがいのエロ小説を匿名で書きまくり糊口を凌いでいた。二人はともに、その天賦の才が花開く直前であった。天才同士、互いの異能を直観的に洞察し合えたのだろう、詩人と画家は即刻、意気投合して無二の盟友となっていた。ピカソの親友で詩人マックス・ジャコブの言を借りれば、アポリネールは「ピエロかキリストか、青い顔色の大男で、英国製のグレイの三つ揃えを愛用していた」という。

 詩と絵画は、古代ローマの詩人ホラティウスの名句「詩は絵のごとく」のとおり、親和性があるものだ。ピカソの親友の多くは詩人であった。アポリネールとピカソは親交を深めるにつれて一層、互いが互いに不可欠な触媒として作用していく。ともにヨーロッパの辺境から来たエトランジェ! またそれゆえに伝統や規範、権威や偶像を破壊する革命家を志し、因襲的なカトリック信仰を忌避する。ニーチェやランボー、マラルメ、サド侯爵に耽溺する快楽主義者となり、無類のドン・ファン性という共通項で結ばれていた。ともにその存在が無名から有名へ、大きな転機を迎えていた時である。アポリネールが『ライン詩篇』のような純粋な抒情詩からエロスと暴力を解き放つ奇書『一万一千の鞭』(一九〇六年)に転じる頃、ピカソもいわゆる「バラ色の時代」から《アヴィニョンの娘たち》へ一大飛躍を遂げようとしていた。

 アポリネールはサーカスの芸人たちの世界を詠い、「青の時代」から「バラ色の時代」へピカソを先導し、『キュビスムの画家たち―美的省察』(一九一三年)によりキュビスムの理論的支柱たらんとする(写真参照)。ピカソが、芸術に美の理想など存在しない、絶対的な法則などあり得ない、との啓示に目覚めたのはだれよりもアポリネールの影響によるものであった。キュビスムが画期的な大転回を遂げるのは、新聞紙や壁紙の切り抜き、油布の断片をカンヴァスに直に貼り付けるパピエ・コレ(後にコラージュに発展)の手法に負うところが大きい。キュビスムの絵画、とくにパピエ・コレが刺激となって、アポリネールは言葉の視覚化、言語を絵画化した詩集『カリグラム』(一九一三―一六年、出版は一九一八年)の集成にいたる。

 ピカソとアポリネールはヨーロッパ文明に汚されていないアフリカやオセアニアの部族社会の美術、通称「アール・ネグル」への熱い思い入れを抱く点でも共通していた。ピカソは、一九〇七年の春に、アポリネールの秘書となる山師ジェリ・ピエレというベルギー人から古代イベリア彫刻の頭部を二体買い取っていた(わずか五〇フラン!)。新たな造形スタイルを模索していたピカソにとって、単純と類型を極めたこれらのフォルムは部族社会のマスクとともに《アヴィニョンの娘たち》の裸婦表現の霊感源となった。それらがルーヴル美術館から盗み出したものであるとは、当時だれも知る由がなかったとされるが、本当だろうか。その真偽はともかく、これらが盗難品として発覚、フランス中をにぎわすスキャンダルに発展するのは四年後、一九一一年八月二一日に同じくルーヴルから名画《モナ・リザ》が盗み出されたからである。ピエレがいたずらに新聞に告白した結果、パリのマスコミでは《モナ・リザ》の盗人とイベリア彫刻の件が混同され、九月七日、ピエレの雇い主であるアポリネールは逮捕され、ラ・サンテ刑務所に収監される。「独房に入る前に/裸にならねばならなかった/いまわしい声が泣き叫ぶのだ/ギヨーム おまえはどうしたのだと……」(飯島耕一訳)の詩はその時の体験を詠ったものだ。翌八日にはピカソも、アポリネールの自白から共犯者として警察に連行される。しかし、事の真相が明らかとなり、ピカソは即日釈放、アポリネールは五日間の拘留後、一二日に釈放された。

 この「彫像事件」はなにを語っているのだろうか。ピカソもアポリネールも外国人であったことに加え、両者の芸術的な活動が前衛的でスキャンダラス、官憲の気に入るものではなかったことが国外退去を怖れるまでに事態を深刻なものに変えたのであろう。特に首謀者とされ、収監されたアポリネールの場合、事件の後遺症は大きすぎた。彼が第一次大戦の勃発と同時に軍に志願し、フランスへの帰化を申請し、レジオン・ドヌール勲章に憧れたのもこの汚点をみずからの履歴から拭い去りたいがためであった。それほどにフランスを愛そうとしていた。しかし見方を変えれば、ポーランドにもイタリアにも国籍がないアポリネールにとってはフランスしかなかったのだろう。さらにこの醜聞をきっかけに、冒頭の詩のごとく、画家マリー・ローランサンとの関係も破局を迎える。一方、ピカソは内戦後、祖国がたとえフランコ独裁に転じようともスペイン国籍を誇りとして保持し続ける。ピカソにはスペイン人であることこそ、人間=芸術家としての原点であったからだ。

 この事件は二人の間にすきま風を吹かしたかもしれないが、その盟友関係は揺るぎなかった。筆不精で知られるピカソだが、一九一二年から一九一四年の友の従軍まで、さらに前線へも、挿絵を添えカリグラム(図参照)にして真心を込めた手紙を送った。

 アポリネールの兵役志願は開戦当初受理されず、ようやく一二月、ニームの三八砲兵連隊への入隊が許可された。これが不運の始まりである。一九一六年三月九日、ウィルヘルム・アポリネール・ド・コストロヴィツキーとしてフランス国籍を授与されるが、それから八日後の一七日。アポリネールは最前線の任務のためにベルギー国境に近いエーヌ県に配属されていたが、塹壕で読書中、砲弾が炸裂してその破片が鉄兜を貫き、右こめかみの上部に食い込んだのだ。半年ほど、開頭手術などを受けて入退院を繰り返した後、同年秋には文筆活動に復帰するも身体は快復しなかった。そのうち献身的な女性ジャクリーヌ・コルブ、愛称アメリーと再会して一八年五月に結婚、立会人はピカソともう一人だけだった。それから二か月後、今度はピカソがバレリーナのオルガ・コクローヴァと結婚し、アポリネールは多くの立会人の一人となった。しかし、肺気腫に冒されていたアポリネールは結婚からわずか六か月後、当時欧米でも猖獗▽しょうけつ△をきわめた悪名高き俗称スペイン風邪(スペイン発ではない)に罹患し、数日後の一一月九日に急逝した。三八歳の若さである。

 ピカソが訃報を受けたのは、彼が鏡に向かって自画像を素描にしている最中であった。これほど深刻で寂しげなピカソの自画像はほかにない(図参照)。パリでもスペイン風邪のために多くの犠牲者が出、どうにか柩が調達されると、著名人が眠るペール=ラシェーズ墓地に埋葬された。ピカソの悲しみと喪失感はいかほどであったろうか。亡き盟友への追憶はピカソに生き続ける。一九三五年、妻オルガとの離婚交渉が決裂して「人生最悪の時」を迎えた頃、画家は絵筆を握る気力さえなく、ペンを執り豊穣なイメージを句読点のない言葉に変えていった。詩人ピカソの誕生である。生前のアポリネールが『カリグラム』の余白に「僕もまた画家だ」と書いたところ、ピカソは「僕もまた詩人だ」と応えたという。友愛は消えず、アポリネール記念碑のための草案は記念碑創立委員会の反対にあいピカソ自身の手で何度も変更された後、ようやく一九五九年、サン=ジェルマン=デ=プレの墓地に、愛人ドラ・マールを模したブロンズ製の少女の大きな頭部(一九四一年の石膏原作のレプリカ)がモニュメントとして設置された。

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