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『図書』11月号【試し読み】沼野充義/川端裕人/ラサール石井/

◇目次◇

女らしさ                 畑中章宏
SFとウイルスと黒幕のはなし  笠井献一
悲哀の哲学  小坂国継
誰と何のために戦っているのか?  中川 裕
ロック史  工藤冬里
Perspective 遠くにあって近くにある音 仲野麻紀
月桂樹とレモンの香り  亀山郁夫
二冊のロシア巡礼記  四方田犬彦
ながれの世界  時枝 正
それはだれのものか、と問う声がする 赤坂憲雄
CDの一曲目を受け止めたい  片岡義男
再創造としての表装  橋本麻里
九相図の彼方に  長谷川櫂
 
十一月の新刊案内
 
(表紙=司修)
(カット=佐藤篤司) 
 

◇読む人・書く人・作る人◇

徹底して戦争と死について書く
沼野充義
 
 ベラルーシの記録文学作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、戦争と死のことばかり書いてきた。代表作『戦争は女の顔をしていない』は、第二次世界大戦で銃後を守るだけでなく、前線でも戦い、勝利に貢献した百万を超える女たちの苛酷な経験を、無数の声の織り成すポリフォニックな女声合唱のように描き出した。それまで、勝利の手柄はもっぱら男の声によって語られ、女たちは自分の物語を奪われていたからだ。

 ただし、アレクシエーヴィチは悲惨な過去を問い返すことによって「敵」への憎しみをかきたてるような書き方はしないし、惨事をもたらした元凶を直接追及するわけでもない。彼女は記録者としては厳しく現実に向き合うが、「ちっぽけな人たち」の気持ちに寄り添うその姿勢は限りなく優しい。ここで示されるのは、徹底して戦争と死について書くことが、平和と生のもっとも力強い擁護になるという逆説である。

 これは、現代日本に無縁の遠いソ連の過去の話ではない。アレクシエーヴィチはウクライナの原発事故の被災者に取材した『チェルノブイリの祈り』の著者でもある。かつて来日して北海道の泊原発を見学した折、「日本ではすべてがきちんと計算されているので、チェルノブイリみたいなことは起こりません。あんな事故を起こすのはだらしないロシア人だけですよ」と説明されたという。福島の事故はその八年後に起きた。アレクシエーヴィチの書く戦争や原発事故は、実は日本のことでもあるのだ。今、日本でこそ読まれるべき作家ではないか。
(ぬまの みつよし・ロシア文学・現代文芸論)
  

◇試し読み⓵◇

ドードーはどこへ行った?(上) 
――郷土史家、自然愛好家の協力求む
川端裕人
 
モーリシャスの山腹から
 二〇一七年六月のとある好日、ぼくはインド洋のモーリシャス島オリィ山の中腹にて地面に這いつくばるようにして、三五〇年ほど前に絶滅してしまった飛べない鳥の「遺物」を探していた。
 周囲にいるのは同士ともいえる、イギリス・ロンドン自然史博物館のジュリアン・ヒューム、そして、オランダ・マーストリヒト大学のレオン・クラッセン、および学生たち。密に生えた木々の間を縫い、植物に覆われた火山岩の割れ目を探しては、腕を突っ込んで中のものをかき出す。
 大部分は落ち葉や、それが分解した腐葉土だが、死んで干からびたムカデなどの節足動物や、ネズミなどの小さな白い骨がみつかることもある。危険な捕食動物がいなかったこの島でも、風雨や夜の冷え込みをしのぐ必要があり、こういった山腹の小穴はそのために最適だったと思われる。実際にこのあたりの岩の隙間から、ぼくたちが探している鳥の骨が出たことがある。だからこそ、この探索が計画された。
 
 目当ての鳥とは、つまりドードーだ。
 一七世紀なかば、三五〇年くらい前までには絶滅してしまった飛べないハト科の鳥である。頭でっかちのがっしりした体型で、体重も一〇キログラムほどあったと言われる。絶滅動物のアイコンとも言える存在だが、日本では『不思議の国のアリス』に登場するキャラクターとして知ったという人が多い。その場合は、「実在の鳥だとは思っていなかった!」という声も聞く(チェシャ猫やグリフォンや代用ウミガメと一緒に出てくるのだから仕方ない)。しかし、一七世紀までは生きてモーリシャス島に住んでいた。いわゆる「近代の絶滅」(modern extinction)なので、人の側の責任も大きく、そういう意味でも強い印象をもたらす。
 
 ぼくは「近代の絶滅」に関心があり、ドードーに特別な思い入れを持っている一人だ。これから説明する様々な行きがかりで、この発掘調査に参加することになった。ドードーをめぐっては世界的な関心のネットワークがあり、研究者としてドードーに相対しているジュリアンやレオンは、その中でも中心的な存在だ。『不思議の国のアリス』の国イギリスのジュリアン、モーリシャス島を一時領有し、その間にドードーを絶滅に追いやってしまった悔恨を持つオランダのレオン、というふうに表現すればその国々の研究者がここにいることに、ある程度、納得してもらえるのではないだろうか。
 
 では、ぼくは? 日本から来たアマチュアに、発掘に参加する理由などあるのだろうか。
 実は、少しはある、といえる。今、世界の主要なドードー研究のほとんどに絡んでいるジュリアンが、ぼくとメールのやり取りをし、職場であるロンドン自然史博物館や自宅のあるウィクハム(ハンプシャー州)で、二度、三度と会い、彼のフィールドへの同行を許す程度には。
 
 つまり、日本は、ドードー研究者にとって興味を掻き立てられる場所であって、ぼくは情報提供者かつ同好の士として扱ってもらっている。ほとんどの日本人が知らないうちに、日本は世界的なドードーネットワークの中に重要なノードとして組み込まれていると言ってもよい。それがどんな事情なのか、本稿の中で説明を試み、さらにはぼくが抱いている「目論見」へとつなげたい。
 
日本にドードーが来ていた!
 まずは、ドードー研究の世界では超有名人であるマサウジ・ハチスカ、蜂須賀正氏(一九〇三―五三)から説き起こそう。
 旧徳島藩主蜂須賀家の第一八代当主で、「ラスト・ショーグン」徳川慶喜の孫だったこの人物は、大名華族、政治家、鳥類学者、探検家、飛行機野郎、エッセイスト……と様々な側面を持つ。しかしそのコアな部分にあったのは鳥類への関心だった。特に、ドードーについては、博士論文をもとに没後に刊行された"The dodo and kindred birds; or The extinct birds of the Mascarene Islands", H. F. & G. Witherby, 1953(『ドードーと近縁の鳥、あるいはマスカリン諸島の絶滅鳥類』)が、ドードー研究の古典として今も引用されている。現在、山階鳥類研究所が所蔵する、日本で唯一のドードー標本は、蜂須賀が寄贈したものだ。
 
 その蜂須賀が、この一九五三年の書籍の中で「ドードーが日本に来ていた可能性」を論じている。
 一六四七年、オランダ領インドネシアのバタヴィアにあったオランダ東インド会社の総督が、日本のオランダ商館に対して、「ドードーを送る」という内容の書簡を送っており、その「控え」が、オランダ、デン・ハーグにある国立古文書館に現存している。ドードーの生息地だったモーリシャス島は、オランダ船がアジアに来る際の中継点であり、途中でドードーを載せてきても不思議ではない。そして、オランダ船はしばしば動物をともなって日本に来ていた。蜂須賀は、この書簡に言及した上で、「当時の日本において、ヨーロッパの船が来たのは長崎がもっとも確からしい。そこで、長崎図書館のMr. R. Masudaに問い合わせたところ、ドードーについてのいかなる情報も追跡不可能と回答があった」と報告した。
 
 日本人である蜂須賀が調べても分からなかったのだから、この件はきっと「迷宮入り」だろうと多くの関係者が思っていた。しかし、二〇一四年になって、青天の霹靂のごとく一つの論文が投稿された。"The dodo, the deer and a 1647 voyage to Japan"(「ドードーと鹿、一六四七年の日本への旅」)というタイトルだった。
 デン・ハーグの国立古文書館に保管されている出島のオランダ商館長日記の、まさに一六四七年の部分に、「ドードーを受け取った」と書かれていたという。さらには、積荷の目録、帳簿に相当する文書にまでしっかり記入されており、もはや疑いを差し挟む余地がないほどだった。発見者のリア・ウィンターズ(オランダの自然画家で、アムステルダム大学の図書館員でもある)は、すぐにロンドン自然史博物館のジュリアン・ヒュームに連絡を取り、三カ月後には論文として公表することになった。
 
リア・ウィンターズと彼女の描いたドードーの絵
 
 日本でそれを読んだぼくが、まず感じたのは「なぜ、日本では見つからなかったのだろう」ということだ。「商館長日記」が日本語になっているのは知っていたので、すぐに調べたところ、当該部分は戦前すでに『出島蘭館日誌 下巻』(村上直次郎訳、文明協会、一九三九年)として邦訳されており、蜂須賀が『ドードーと近縁の鳥』を書いた時にはもう日本語になっていた。また、蜂須賀の没後、一九五八年に復刻された版が『長崎オランダ商館の日記』(岩波書店)として出版され、さらに二一世紀になってからは、東京大学史料編纂所による『日本関係海外史料 オランダ商館長日記 譯文編之十』にも収録されている。つまり、日本では実に七五年間、常に誰でも気づきうる状態で情報が準備されていたのにもかかわらず、スルーされていたのである。
 
 悔しいというか、なんというか……。ぼくはさっそく論文の主著者であるジュリアンに連絡を取り、「日本での追跡をするつもりだ」と伝えて、やりとりをするようになった。「日本に来たドードーは、時期的にモーリシャス島から出た最後の一羽だったかもしれない」というジュリアンの指摘もあり、モチベーションは大いに高まった。
 
ジュリアン・ヒュームとドードーの想像図
 
出島ドードーはどこへ?
 ドードーチェイスの始まりである。
 出島以降のドードーの行方を探るには、まず『商館長日記』を注意深く読む必要がある。ドードーが登場するのはこのような件だ(訳は『日本関係海外史料 オランダ商館長日記 譯文編之十』(東京大学史料編纂所による)。
 
 同月朔日(引用注・正保四(一六四七)年九月一日)
 (略)コイエット閣下の所持品の箱と生きた動物たちを陸に上げてよい、という許可を得て、それに喜んで従った。(略)
 同月二日 知事の求めにより、鹿とドードー鳥は、見物のため、役所へ[原注・連れて行かれ]、それから再び戻された。その後、夕刻近く、博多の領主が両知事と大人数の配下の一団とともに、ただ前述のものをさらに詳しく見るために、島に現れた。彼らは相当満足して、その鹿はもし博多の領主が求めれば[それに応じて]遣わすように、等々と命じた。
 
 コイエットは、ドードーと一緒にやってきた新任の商館長で、日記は前任者(引き継ぎ前の現職者)のフルステーヘンが書いたものだ。ドードーと鹿(白い鹿)が登場し、「博多の領主と両知事」の目に触れたことがはっきりと記されている。
 ところが、ドードーについての記述はこれだけだ。日記の書き手は、すぐにコイエットに引き継がれるのだが、それ以降、ドードーどころか、他の動物についても一切記述がない。
 というのも、実はこの年には「有事」があった。オランダ船に先立って、本来入港が禁じられていたポルトガル船が来航し、それに協力した嫌疑をかけられたオランダ側は、将軍の拝謁を拒否されている。コイエットの関心は「将軍に会えるかどうか」に集中し、ほかの話題が入りこむ余地がなかった。ドードーは「出島以降」の記録もないまま、三七〇年以上にもわたって行方不明というのが実情だ。
 
 それでも、探索の方向性はつかめる。「有事」に際して、長崎を警護する立場にあった三名の有力大名が、ドードーがいた長崎に勢揃いしており、将軍でなければ、これらの三名の誰かに渡ったのではないか、と考えられるのである。その三名とは長崎奉行の黒田忠之(福岡)と鍋島勝茂(佐賀)、そして彼らを監督する立場だった長崎本奉行の松平定行(松山)だ。
 その中で、黒田官兵衛の孫にあたる忠之は、『商館長日記』のドードーの件に登場する唯一の大名(博多の領主)で、白い鹿に興味を示していた。また、松平定行は、後日「オウムとその他の鳥」を贈られたとされる記述がある。
 こういうことを考え合わせると、(一)白い鹿と一緒に黒田が購入し福岡へ向かった、(二)「オウムとその他の鳥」の中にドードーも入っており、松山に向かった、(三)出島で死んだ、あたりが有力な仮説ということになるだろう。
 
「動物園」にドードーはいたのか?
 探索の細かい話は語り始めるときりがないので、ここでは省略して結論からいう。残念ながら、(一)の福岡説も、(二)の松山説も、いずれも資料の散逸ではっきりしたことはわからない。まず、松山については、第二次世界大戦末期の空襲による被害が大きく、古い文書の多くが失われた。明治時代に編纂された『松山叢談』と、そこには入っていない文献を集めた『松山市史料集 三』などには、当該年に、当主が長崎から何を持ち帰ったかという記録は残っていなかった。また、福岡についても同様で、『新訂黒田家譜(第二巻)』『福岡県史・通史編 福岡藩 一』『黒田家文書 第三巻』といった編纂された文書には、ドードーだけでなく「白い鹿」についての記述もなかった。ちなみに、一七世紀の黒田家の歴史、『黒田家譜』を編んだのは、著名な本草学者で家臣だった貝原益軒だ。博物学的な記述については得難い「人選」なのだが、ドードーはおろか「白い鹿」についても触れられていないのは、残念なことだ。
 
 それでは、(三)出島で死んだ、というのはどうだろう。実は、出島では今も「発掘」が続けられており、異国からやってきた動物の骨も数多く出土する。出島内の石倉を復元した〈考古館〉では、哺乳類ではシカやウサギやネズミやテン、鳥類ではニワトリやサギなどの骨が展示されている。また、当時の絵を見ると、サルやヒクイドリといったエキゾチックな動物も見受けられる。その中にドードーが混じっていても、何の違和感もなさそうだ。
 ただし、問題がある。発掘で出てくるのは、今のところ幕末、一九世紀のものなのである。一七世紀は果てしなく遠い。しかし、もしも将来、発掘作業が進み、一七世紀の骨が出始めたらどうだろう。出てきた骨はすべて専門家が確認しているそうだから、そこにドードーの骨がもし混じっていたら即座に気づいてくれるはずだが、それでもかなり偶然に左右されることだろう。
 
目を多くする
 以上、日本のドードーの追跡がかなり難しいということは認めざるをえない。主だった可能性を潰した後で残るのは、長崎から江戸までの間、いずれの場所にもありうる薄い可能性だ。例えば、長崎の市中の可能性はどうか(江戸に連れて行かないことになった後、町人に預けたり、譲ったりした可能性はないだろうか)、さらには江戸参府の道中のすべての土地にまで視野を広げる必要がある(実はドードーを伴って江戸に向かったが、どこか途中で死んだというのもあり得る)。ここまで来ると、個人の努力では無理だ。日本に来ていたドードーについての認識を広げて、各地の郷土史家や自然愛好家の目を多くして、「あるいはうちにも可能性が……」「変な鳥が来たと書いてあるが、ひょっとすると……」という意識を持って、日々、史料や標本を見てもらうしかない。
 これが、冒頭で述べた「目論見」でもある。
 
 そのためには……なぜドードーが特別なのか、という点を少し敷衍しておく必要がありそうだ。ぼくのように「日本にドードーが?」というだけで「うわーっ」となる人ばかりではないというのは明らかだし、「ドードーと日本」というテーマの先に広がるはずの豊かな認識をある程度、共有できなければ、説得力も薄いだろう。
 
(かわばた ひろと・作家) 
 
  
◇試し読み②◇
子どもの頃の日曜日の朝
ラサール石井
 
 私は昭和三〇年に大阪で生まれました。父は当時としては珍しく大学を出て、戦争で満州に行き、字が綺麗だったので参謀書記などをしていたそうです。終戦で引き揚げ、母とお見合い結婚をしました。しばらくサラリーマンをしていましたが、母方の店を手伝う事になりました。母方の祖父母は惣菜屋を経営しており、祖父は大阪煮豆協会の会長で、公設市場の中の店を二軒と、違う町にもう一つ小ぶりの市場を経営していた、まずまずの実業家でした。
 
 父は大きな鉄鍋で豆や煮物を煮たり、ポテトサラダを作ったり、コロッケを揚げたり、と、三人兄弟の末っ子の私が生まれる頃にはすっかり惣菜屋の店主になっていました。
 柴田錬三郎のような風貌で眼鏡をかけていた父は、一見インテリ風で、「あのおっちゃん愛想悪いな」と客から言われ、あまり商売には向いていませんでした。しかしとにかく真面目な人で毎朝暗いうちに出かけ仕入れをし、夜八時にはどこにも寄らずまっすぐ帰ってくる。毎日判で押したようにこの繰り返し。子供心にも「こんな毎日で楽しいんだろうか」と思ったものです。
 
 で、そんな父は読書家で家には本が沢山あった、というのがこの手の文章の常道ですが、決してそういうわけでもありませんでした。そもそも父の部屋はなく書斎もない。本棚らしきものもありません。ただ当時の流行で、どこの家にもセールスに買わされた二〇巻ぐらいの百科事典の全巻セットがありました。
 
 我が家にもご多分に漏れず「原色百科事典」全巻が並べてありました。そしてその横には飲みもしないサントリーのダルマの瓶があるのが、まあ当時の中流家庭のお決まりでした。
 風邪をひいて学校を休み一人で家で寝ているときは、その事典を使って性的な言葉を引きまくり、「下着」や「性交」などの言葉に興奮し、「陰毛」を調べ、「『恥毛』を見よ」と書かれていたので「恥毛」を調べると、「『陰毛』を見よ」と書かれていてどうしていいか分からなくなる、というような活字体験をしていました。
 
 母方の祖父は地方から集団就職で出てきた若者たちを雇って自宅に住まわせ、仕事を覚えさせては嫁を世話し、店を作ってやって独立させるという、昔からの大店の店主みたいなことをしていました。なので、祖父の家にはまだニキビだらけのお兄ちゃんたちが沢山暮らしていました。
 私は幼稚園が終わるとバスで自宅ではなく祖父の家に連れていかれ、仕事終わりの母を待ってから自宅に帰っていました。なので店のお兄ちゃん達としょっちゅう一緒にいたのです。
 
 そこで幼い私がやってお兄ちゃん達にウケることが二つありました。一つはビールを飲んでみせること。コップに一杯注がれたキリンのラガー(今のクラシックラガーですね。当時はもっと苦かった)を小学校に上がる前の子供が一気に飲み干すと、やんややんやの声援でした。もちろん母には怒られましたが、私は「ウケる」「笑ってもらえる」という快感を感じていました。これがお笑い芸人になりたいと思い始めるキッカケになったのかも知れません。
 
 もう一つは漢字を読んでみせることでした。週刊誌や新聞の漢字を指でさされ、それを大声で読んでみせると皆が感心します。それが嬉しくて、母の横で『主婦と生活』などを読み、いつも「これなんて読むの」と聞いては漢字を覚えていきました。
 漢字を読めば喜ばれ、本を読んでいると感心される。それが嬉しくて活字がどんどん好きになりました。それが私の読書体験の始まりというわけです。
 
 しかし実際小学校に上がると、成績は中の上ぐらいで全くふるいませんでした。授業中に先生の言うことを聞かず、ずっと空想にふけっていたからです。
 なによりもとにかくマンガが好きで、手塚治虫を神のように崇めていました。
 小学校四年ぐらいでしょうか。あまり漫画ばかり読んでいる私に不安を抱いたのか、母が本を買ってくれました。芥川龍之介の小説集です。「蜘蛛の糸」「鼻」「トロッコ」「杜子春」等、どれも寓話的で子供にもやさしく、ファンタジー好きの私の心を掴みました。「小説って面白いんだ」と思うようになりました。「漫画家になりたい」という少年の夢が「小説家になりたい」と変わっていったりしました。
 
 当時町にはまだ貸本屋というのがありました。かなり寂れてはいましたが、単行本の『0マン』や『ジャングル大帝』などの手塚作品が埋もれていたり、劇画時代の『影』や、水木しげるさんの『墓場鬼太郎』などもあり、今からすれば宝の山でした。その貸本屋に何かの台が置かれた一角があり、その向こうにも何やら本がありそうだったので、「この台動かしていい?」とおばちゃんの許可を得て動かしてみると、そこには江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズの単行本がズラッとならんでいたのです。
 今も売られているものはありますが、表紙絵などがソフィスティケイトされていて、少しも怖くありません。たぶんその全集は初版に近かったのでしょう。その表紙絵のおどろおどろしさは原作の雰囲気そのもの。『サーカスの怪人』のピエロや『魔法人形』の人形の顔など、一度見たらトラウマになるような、縁日の見世物小屋やお化け屋敷の看板のような恐ろしさでした。
 
 さあそれからはその「少年探偵団」シリーズを借りては貪り読み、一日や二日で返してはまた借りました。『透明怪人』の「ああ、大友君の手や足が消えていくではありませんか」というくだりに胸震わせ、『大金塊』の「ししがえぼしをかぶるとき、からすのあたまのうさぎは三十ねずみは六十。いわとのおくをさぐるべし」という暗号に心躍らせました。今でも空で暗唱できるぐらいです。
 ここから江戸川乱歩のそれ以外の作品も読み始め、そのペンネームの元であるエドガー・アラン・ポーの『黒猫』や『モルグ街の殺人』を読むようになり、推理小説の面白さにハマっていきます。
 小学校には一週間に一回、図書室で読書をするという時間がありました。私は図書館にある推理小説を片っ端から読みました。ホームズ物、ルパンシリーズ。ミルンの『赤い館の秘密』、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』、ディクスン・カーの『夜歩く』など、図書室にあるものはあらかた読みました。
 
 そして満を持して私の前に現れたのがガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』です。その奇想天外な密室と人間消失のトリック、意外すぎる犯人。推理小説の代表的な古典です。が、どこから借りてきたのか、その本はハードカバーでかなり分厚く、読み始めるにはかなり骨な大作でした。休みの日はお布団を上げるのを遅らせてもらい、朝日の差し込む部屋で、本をその明かりにかざし、寝っ転がって起き抜けのまどろみの中、ひたすら読むのが大好きでした。何日かかったか、なんとか読みきりました。
 なんだかあまりの謎解きの意外さに、むしろ呆気にとられポカンとしていたのを覚えています。これを超えるならもう、「この本を読んでいたあなたが犯人だ」ぐらいの結末でなくてはならない。
 子供ながら、小説内の登場人物は実はすべて「蚊」で、その本を読者が閉じた時に挟まって殺された、という筋書きを考えましたが、結局は書きませんでした。
 
 これだけの少年時代を過ごせば、さぞや成長してかなりの推理小説マニアになっているだろうと思われるかもしれませんが。私の性格上そんなことはなかったのです。何事も一つ事をずっと続けられないという集中力のない私は、中学になると推理小説への情熱は薄れていました。それでも長編小説を時間をかけて攻略した私は、次なるターゲットを探していました。今度は推理小説でなくてもよい。兄の本棚にあった本のタイトルに私の目線は釘付けになりました。『吾輩は猫である』。あの最初に読んだ芥川龍之介が師と仰ぐ夏目漱石の本です。
 
 読んでみると猫の一人称で書いてあるのですが、旧仮名遣いと漢字がやたらに多い。振り仮名も振ってあるが、ないものもあり、そういう場所は仕方なく漢字は飛ばし、平仮名だけ読んで推測しました。なかなかに読み進みにくく、内容の把握にも時間がかかりました。
 それでも大人の世界を描いた人間関係も少しわかってきて、ユーモアのあるところでは笑えることもありました。なんとか毎日少しずつ読み進め、最後の猫が死ぬ場面は、呆気なく終わって驚きでした。宗教的哲学的な何か諦観のような、あるいは夏目漱石が面倒臭くなって一気に終わらせたような。それでも長編を必死で読み終えた達成感はありました。なにより読み終えることに目的があったからです。
 
 さて、思い返せば人生であれだけがむしゃらに読書したのは、あの頃がピークであったような気がします。
 それ以降中学高校と受験勉強を理由にあまり読書しなくなり、読むには読みましたが読書家と呼ばれるほどではなかった気がします。
 
 本は好きだ。今でも本屋に行けば何時間でもいられる。本を買うのも大好きだ。今でもとにかく本を買う。紙袋二つぐらい買い込んで、それをベッドにばらまき、次から次へと冒頭部分ばかり読み進めるのは至高の時間です。しかしそこで満足してしまうのです。そのあとがなかなか読み進められません。そしてまた本を買う。
 
 今や。我が家は本で溢れ、まだ読んでない本が数千冊はある。もう死ぬまでに読めないかもしれない。それはいつも書店や図書館で感じることと同じです。どう考えてもここにある本を読み尽くすことはできないという圧迫感。ええい何クソと本を買いますが、ただ本が家に移動しただけで状況は変わらない。
 
 コロナ禍で芝居がすべて無くなり、これは本を読むしかないと、家にある本を読めばいいものを、明治と昭和の文学全集を古本屋で全巻買い込んで、勢い込んで読みましたが一巻目もまともに読めない。歳をとり、ますます集中力が無くなってきました。
 あの頃の、あの子供の頃の日曜日の朝が懐かしい。時間は無限にあるように感じました。物語が体の中にスーッと飛び込んできました。もう一度あんな風に本が読めたら。老いて死ぬまでにもう一度。
(らさーる いしい・俳優) 
 
 
◇こぼればなし◇
 ◎ 「この文庫は、日本のこの新しい萌芽に対する深い期待から生まれた。この萌芽に明るい陽光をさし入れ、豊かな水分を培うことが、この文庫の目的である。幸いに世界文学の宝庫には、少年たちへの温い愛情をモティーフとして生まれ、歳月を経て、その価値を滅ぜず、国境を越えて人に訴える、すぐれた作品が数多く収められ、まだ名だたる巨匠の作品で、少年たちにも理解し得る一面を備えたものも、けっして乏しくはない。私たちは、この宝庫をさぐって、かかる名作を逐次、美しい日本語に移して、彼らに贈りたいと思う」
 
◎ 「この文庫は、日本のこの新しい萌芽に対する深い期待から生まれた。この萌芽に明るい陽光をさし入れ、豊かな水分を培うことが、この文庫の目的である。幸いに世界文学の宝庫には、少年たちへの温い愛情をモティーフとして生まれ、歳月を経て、その価値を滅ぜず、国境を越えて人に訴える、すぐれた作品が数多く収められ、まだ名だたる巨匠の作品で、少年たちにも理解し得る一面を備えたものも、けっして乏しくはない。私たちは、この宝庫をさぐって、かかる名作を逐次、美しい日本語に移して、彼らに贈りたいと思う」

◎ 岩波少年文庫が創刊されたのは一九五〇年。敗戦から五年後のことです。ここに挙げた「岩波少年文庫発刊に際して」の一節には、当時の編集者たちが、どのような思いをこの叢書に託していたかがよく表れています。しかし、その「思い」は敗戦以前、戦時期から脈々と息づいていたものでした。

◎ 小社から少年向けの教育科学叢書「少国民のために」が創刊されたのは一九四一年、日米開戦から一週間後のことでした。これに続いて「岩波少国民文庫」が企画されましたが、用紙不足のために刊行を断念。一九四三年の日付をもつ「発刊の辞」も用意されていたといいます。

◎ しかし、厳しい戦時下でもその志は失われることなく敗戦を乗り越え、むしろ戦後の混乱期ゆえにこそ、少年少女向けの叢書に懸ける関係者たちの情熱は燃え上がっていたようです。

◎ 創刊に先立つ二年前、一九四八年の春には、すでにその装丁や図案のサンプルなどが作られていたといいますから、戦後の荒廃のなかで、かなり早い時期から刊行の準備が進められていたことがうかがえます。往時を知らぬ者は想像するしかありませんが、この少年少女のための叢書に注がれていた願いは、以下の一節にも認められます。

◎ 「戦後、いたるところに見た草木の、あのめざましい姿は、私たちに、いま何を大切にし、何に期待すべきかを教える。未曽有の崩壊を経て、まだ立ち直らない今日の日本に、少年期を過ごしつつある人々こそ、私たちの社会にとって、正にあのみずみずしい草の葉であり、若々しい枝なのである」

◎ 少年少女たちに対する「深い期待」が託された岩波少年文庫は、さながらクリスマス・プレゼントのごとく一二月二五日に刊行されました。星霜を重ね、この叢書も来月には創刊七〇年を迎えます。
◎ 少年文庫七〇年目のキャッチコピーは、「冒険してる?」――これはいまを生きる子供たちと、かつて子供だったみなさんへの問いかけであると同時に、この叢書がもつ広大で多彩な世界への旅立ち、その誘(いざな)いでもあります。

◎ 全国の協力書店で記念フェアを行うほか、「心ゆさぶる さし絵の世界」パネル展も各地の図書館、書店で開催中。小社HPの特設サイトでは、少年文庫にまつわるエッセイをご寄稿いただくなど、その魅力を紹介しています。どうぞ岩波少年文庫の七〇年に、ご注目ください。

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