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あまんきみこさんの「服のはなし」

あまんきみこさんの「服のはなし」

聞き手:行司千絵

 

『車のいろは空のいろ』『ちいちゃんのかげおくり』などの物語で知られる童話作家のあまんきみこさん。幼いころから針仕事が大好きで、お人形やこどもたちの服をつくってきたそうです。あまんさんにとっての「服のはなし」を聞きました。

 わたしは1931年に旧満州(現在の中国東北部)で生まれました。父が南満州鉄道の系列会社に勤めていて、生まれた当初は撫順で暮らしていました。祖父母、父と母、2人の叔母、そして、ひとりっこだったわたしの7人家族でした。

 体が弱く、幼稚園や小学校は休みがちでした。外でわーっと遊べないので、本を読んだり、布団のなかで窓から見える空をながめては空想したり。部屋は静かでも、心のなかは賑やかで楽しかったのよ。

1歳のころのあまんさん
 
 母が和服を縫っている姿を今もよく覚えています。そんな母とわたしは背中合わせにして座り、あやとりしたりしていました。背中がくっついていると落ち着くの。

 祖母も服をつくってくれました。黒い別珍で白い襟がついたワンピース。それを着たらとてもいい気持ちになりました。

 家にはたくさんの端切れがあったので、市松さんなどのお人形の着物は母や祖母が、抱き人形の洋服はわたしがつくりました。お人形の服をつくるのは大好きでした。

 父、母ともに宮崎の出身で、2、3年おきに母と里帰りしました。列車で奉天(現在の瀋陽)から朝鮮半島を南下して釜山に向かい、船に乗り換えて下関へ。祖父が一緒のときの写真があります。わたしは覚えていないのですが、背景に写った景色から、別府に立ち寄ったようです。祖父と母は着物姿。祖父は帽子もかぶっていて、おもしろいよね。わたしはまだ小さくて、セーラー服にズボンをはいています。

 小学校へ入学したころは新京(現在の長春)に住んでいました。あのころ、帰り道におともだちのれいこちゃんと一緒に歌ったのが、『赤い帽子 白い帽子』です。

  赤い帽子 白い帽子 仲良しさん
  いつも通るよ 女の子
 

 偶然にも、れいこちゃんが赤い帽子を、わたしが白い帽子をいつもかぶっていたのね。わたしたちはこの歌を自分たちの歌だと思い、わたしの家に着くと、玄関前でこの歌を必ず歌って、さよならしました。白い帽子はふんわりとしていて、たぶん冬の帽子でした。

 3年生のときに大連へ移り、南山麓小学校に通いました。わたしが住んでいた南山麓という地域は日本人の家ばかりでした。中国の人と縁なく暮らし、その人たちが隅っこに追いやられていったことを、わたしは気づいていなかった。自分たちはひなたの場所にいて、ひかげに追いやられた人たちがいたことを知らなかったのです。まだ、こどもだったので、守られていたのでしょう。でも、こどもだから罪がないとは言えません。知らないから無邪気。その無邪気さが人を傷つけることもいっぱいあると思います。

〈祖父が他界し、父が奉天へ転勤するなどして、家族は母、祖母、叔母、あまんさんの4人に。戦況が厳しくなるなか、あまんさんは大連にある神明女学校へ入学する。学校では竹やりや銃の扱い方を習うなど、軍事訓練の日々を送った〉

 1945年8月15日の敗戦から数日たったある日、隣組の班長さんの奥さまが丸刈りにして、わたしの家に来られて、「ソ連軍が進駐してくる」「女の人は髪を短くして男に見えるようにするのが安全」などと、おっしゃいました。わたしはおさげにしていた長い髪を刈り上げ、お向かいの男の子から譲り受けた服を着ました。

 敗戦から1週間ほどして、ソ連軍が進駐してきました。家から1軒おいたテニスコートでソ連軍が野営したときは、ロシア人の歌声が聞こえてきたの。わたしや母たちはベランダに身を隠して、じっと聞きました。ロシア民謡のようなさみしい歌声でした。

 ロシア兵が家に入ってきたこともありました。母と祖母、叔母とわたしは息をひそめて隠れていましたが、女ばかりだったのでとても怖かったです。

 10月には女学校が再開されて、白い線の入ったセーラー服を着て通学しました。スカートは久しぶりでうれしかった。怖くない生活が送れるようになった、と実感しました。

 父は召集令状を受けて兵隊になっていたのですが、戦後処理のため奉天の会社に戻されました。処理が終わってから大連の家へほとんど歩いて戻ってきました。途中で中国の人に助けてもらったそうです。大連での引き揚げはなかなか進まず、ふた冬を過ごさざるを得ませんでした。生活は厳しく、みんなが売り食いをしていました。

 大連には手作り品を置いてくれる委託販売の店があって、母は裾模様のある着物をほどいて、ソ連兵の奥さま向けにロングドレスをつくっていました。編み物が得意な叔母はこども用のセーターなどを編みました。

 わたしも、淡いピンクや水色のクレープの紙で花束をつくり、その店に置いてもらっていたの。若いソ連兵が恋人の贈り物として買ってくれたと聞いてうれしくなり、さらにつくりました。

〈1947年3月、あまんさん一家は大阪に引き揚げた。その2か月前、あまんさんは風邪から肺炎になるなど体調を崩していた。熱は一向に下がらず、引き揚げ船では40度を超えたため、船内の記憶はないという。佐世保から大阪へ列車で向かう途中、原爆が投下された広島の街を目に、母と車窓から手を合わせた。大阪駅へ到着すると、そのまま大学病院に運ばれ、あまんさんは手術を受ける。快復後に大阪府立豊中女学校に編入した〉

 大連では2匹のセッターを飼っていました。ロンとレオという名前です。戦時中に食べていくのも大変なのに、犬を2匹も飼っているのは非国民だと言われて……。ロンはさしあげたのですが、レオは齢を取っていてもらい手がありませんでした。日本へ連れていくこともできず、引き揚げ後のことを考えると本当に心配でした。わたしたちの言葉がわかったのか、レオは引き揚げる10日ほど前に死にました。

 それから犬との暮らしはありませんでしたが、大阪で暮らし始めたころ、母が猫を拾ってきたの。赤ちゃんをたくさん産むので、わたしは女学校のおともだちにもらってもらおうと考えました。

 猫ちゃんを少しでもかわいく見せるためにつくったのが猫帽子です。首元をリボンで結ぶ、フランス人形がかぶるような帽子でね、帽子を嫌がるしぐさが、またかわいいの。母も面白がってくれて、色とりどりの端切れでたくさん縫いました。

 猫帽子をかぶった猫ちゃんを1匹ずつバスケットに入れて、学校に持って行きました。おともだちに見せると「うわー! かわいい!!」。必ず誰かがもらってくれました。今思うと、学校で猫ちゃんがニャゴニャゴ言ったらダメだよね。あの時代の学校は今と違って、すきまだらけだったのでしょう。

 〈満州での暮らしと引き揚げの心労で母は胃がんを患う。ひとり娘の将来を案じて、あまんさんに結婚を勧め、婚約を見届けるようにして、その翌日、43歳で永眠する。あまんさんは20歳で結婚し、女の子と男の子のおかあさんになった〉

 こどもが生まれて間もなく、夫の転勤で東京・三鷹に住みました。お店で布を見るのがとても好きで、こどもたちの服をたくさん縫いましたね。赤や黄色、模様入りなど、いろんな布でつくりました。

20代半ばのあまんさん。手づくりの服を着せた2人のこどもたちとともに
 

 2人とも同じ柄の服を着ているのは、1枚の布で2着縫えるように工夫して、型紙を突き合わせたからです。安くできるので、自分の服もよく縫っていました。カーテンやこたつ掛け、刺繍入りの靴磨きのミトンなどもつくりました。

 ミシンをカタカタしていると、娘は喜びましたが、息子は刺繍の入ったかわいい服はいやなのね。わたしがつくった服はあまり気に入らなくて、漫画がプリントされたTシャツやスポーツシャツといった既製服をほしがりました。

 あのころ、童話を書くなんて思いもせず、必死に「おかあさん」をしていました。こどもを目の前にして、母はこんな気持ちだったのかな、とよく思いました。母とは本当に仲が良かったの……。また、わたしがこどもだったときを思い出したり、今はわたしがおかあさんなんだ、と意識したりもしました。

 こどもたちにおはなしをつくることも大好きでした。「天井にネズミさんがいて、見ているわよ」とか、大きな雷に怖がって抱きつくこどもたちに「雷さんにお電話するわね」とか。作品ではないけれど、物語の萌芽のようなものだったのかもしれません。

 〈自分の時間が持てるようになった28歳のとき、日本女子大学家政学部児童学科の通信教育を受けた。こどもたちに話す物語をレポートとして提出したのがきっかけで、児童文学者の与田凖一氏のもとで童話の勉強を始める。はじめての単行本『車のいろは空のいろ』で日本児童文学者協会新人賞と野間児童文芸推奨作品賞を受賞。その後も途切れることなく、物語を紡ぎ、2020年にははじめて旧満州を舞台にした絵本『あるひあるとき』を発表した〉

 わたしがまだ小さいころ、眠る前に祖父母や両親が物語をつくっては聞かせてくれました。戦争中はおともだちとそれぞれおはなしをつくってノートに書き、交換していました。ソ連兵が進駐し、自分の部屋から出られなかったときは、自分のために新聞をつくり、家のできごとや童話を書きました。

 人間って、赤ちゃん時代から始まって、幼年、青年、老年と各時代が木の年輪のように重なり、全部を抱え持っていると思います。こどものころの悲しみや喜びといった、当時言葉にできなかった思いが今もわたしのなかにあり、それを物語にしています。

 服もおなじかもしれません。着ていた服を思い出すことで、そのときの気持ちまでよみがえってくるからです。今のわたしは、黒っぽい服を着ています。夫が1989年に亡くなってから自然とそうなりました。黒っぽい服を着ると落ち着くの。

 人間って、自分で選んで生きてきているように思っていますが、いろんな人からもらっているんですね。祖父母や両親、おともだち、夫、こどもたちからもらったものが、わたしを育み、つくってくれていると改めて思います。

 

あまん・きみこ 1931年、旧満州生まれ。京都府在住。坪田譲治主催の雑誌「びわの実学校」の同人として童話を書き始める。1968年『車のいろは空のいろ』で第1回日本児童文学者協会新人賞、第6回野間児童文芸推奨作品賞を受賞。『ちいちゃんのかげおくり』(小学館文学賞)、『おっこちゃんとタンタンうさぎ』(野間児童文芸賞)、『きつねのかみさま』(日本絵本賞)他、作品多数。エッセイ集に『空の絵本』(童心社)がある。

 

 

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