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『図書』2021年3月号【試し読み】佐伯一麦/髙橋昌明/小川公代

◇目次◇

十一年目の枇杷………佐伯一麦
止まった刻を進めるために………山﨑 敦
大江山に鬼が出た!………髙橋昌明
ラッドリー家の人々………小川公代
古びない物語の魅力………松田青子
団扇と夫人………青柳いづみこ
もっともらしさ………畑中章宏
六十七年前の時間を再生する………片岡義男
ナボコフの呪い………亀山郁夫
とうとう文壇追放………四方田犬彦
いぬいとみこさんのこと………斎藤真理子
虎杖丸の謎 (その一)………中川 裕
あんぜん対あんしん………時枝 正
水引に張りつめる力………橋本麻里
不幸な日本国憲法………長谷川 櫂
こぼればなし
三月の新刊案内

(表紙=司修) 

 

◇読む人・書く人・作る人◇

十一年目の枇杷
佐伯一麦
 

 集合住宅の自宅の狭い庭には、枇杷の若木がある。「枇杷晩翠」という言葉があるように、多くの樹木が葉を落とした冬景色のなかにあって、艶やかな葉の緑が目立つ。昨年の晩秋に初めて咲いた白い花が、実を結ぼうとしている。

 その枇杷は、東日本大震災の前年に、作家の木山捷平のご子息の萬里さんから送っていただいた長崎名産の「茂木びわ」を食した後、種を五つほど試しにと植木鉢に埋めてみたのがはじまりだった。やがて芽が三つ出て、窮屈そうに葉を伸ばすようになったので、庭の東隅の側溝近くへと移植した。その後、この土地はすぐに震災に見舞われることとなった。

 枇杷たちは、震災後の慌ただしさで水をやることも忘れていたが、三、四十㎝ほど地面が陥没した中でも生き延びて、三本とも艶のある葉を大きく伸ばし、どんどん枇杷らしくなっていった。秋になって、地盤沈下したところに新たに土を入れることになり、側溝も造り替えることになったので、今度は、工事の手が加わらない西隅の枝垂れ桜の前へと移植された。

 そうして昨年、三メートルほどの背丈となった枇杷の木が、十一年目にしてようやく蕾を付けたのだった。「桃栗三年柿八年枇杷は九年でなりかねる」という諺を実感した。

 震災によって喪われたものが数多くあるなかで、震災後の歳月の中でしっかりと育ったものもある。宮城県生まれの歌人の佐藤佐太郎が、敗戦後の東京で枇杷の花を詠んだ歌を引こう。

 〈苦しみて生きつつをれば枇杷の花終りて冬の後半となる〉

(さえき かずみ・作家)

 

◇試し読み⓵◇

大江山に鬼が出た!
――都に疫病を流行らせるもの

髙橋昌明


 ときは平安時代末、安元三年(一一七七)二月二二日(いまの暦で三月三〇日)、ところは丹波(たんば)の大江山(おおえやま)、都のある山城(やましろ)国と西隣丹波国の境である。山あいを縫って走っているのは山陰道、山陰道諸国を貫き平安京に入る国家の幹線道路だ。陽もとっぷり暮れてあたりは闇のなか、春も盛りとはいえ夜の山中は肌寒い。息を潜めて待つ間に、道の先にザワザワと群れをなしてうごめくものがいる。だが姿は見えない。
 国境の峠で行われようとしているこの祭を四堺祭(しかいさい)(四境祭(しきょうさい))という。四堺祭だから、あと山崎(やまさき)境、逢坂(おうさか)境、和邇(わに)境の三つの地点でも、同じ時刻に挙行された。他の三つは、それぞれ山陽道、東海・東山両道、そして北陸道のバイパスが、山城国に入らんとする地点である。各地点では通行人をさえぎるように若い小枝を編んで作った台が置かれ、その上には盆・坏(つき)などの容器が並び、米・酒・稲・鰒(あわび)・堅魚(かつお)・腊(きたい)(ほし肉)・海藻類・塩など、めったに食膳に上ることのないごちそうが山盛りにされている。
 何者かを待ち受けているわれわれは、陰陽寮(おんみょうりょう)】の官人(陰陽師を含む)と勅使だ。陰陽寮からは祝(はふり)を頭に、奉礼(ほうれい)一人と祭郎(さいろう)が三人出ばり、それぞれ従者たちを従えている。奉礼は祭場の設営ならびに祭の進行を担当、祭郎は供え物を差配した。そして、この一団を率いているのが、天皇の命を承った勅使、この大江境では検非違使(けびいし)である紀兼康殿(きのかねやすどの)と、私、右衛門尉中原実康(うえもんのじょうなかはらのさねやす)の二人である。
 やがて生臭い匂いとともに、怪しい気配が近づき、姿を顕し始めた。隠れ蓑を脱いだのである。一匹、二匹、次々と、どれもこれも醜く、いともおぞましき鬼神の群れ。鬼たちは、台に並んだごちそうを、てんでにむさぼり食いはじめる。
 頃合いを見はからって祝殿が祭文(さいもん)(祭祀の際、神前で奏する祝詞(のりと))を読み上げた。宣命体(せんみょうたい)の荘重な文体だが、鬼たちに、饗応の品々に満足して、ここからは山城国に立ち入らず、大人しく引き上げるよう説諭する内容である。鬼どもは一瞬ためらったが、供え物に惹かれて立ち去る気配がない。そこでつぎに木綿(ゆう)をつけた鶏を一度に放つ。木綿は楮(こうぞ)の皮を剥ぎ、繊維を蒸して水にさらし、細かに裂いて糸状にしたもので、神事を行うとき襷(たすき)として使う。木綿を体にまとわせることによって神霊が寄ることを示したのである。
 明け方に鳴くはずの鶏をまだ宵のうちに鳴かせるには、ちょっとした工夫が要る。なんでも足を湯で温めて、暁がきたと錯覚させるのだそうだ。異国はしらず本朝では、鶏は肉や卵を食するものではなく、朝ごとにときを告げる時告鳥(ときつげどり)だ。鬼は夜が明けたら出られない。それ、朝が来た、とあわてて退散してゆく。馬のひずめの音も聞こえたから、馬に乗って逃げたらしい。

   *  *  *

 と、以上は大江山における四堺祭の情景を、実例に諸種の史料を交えて復元したものである。四堺祭は大内裏(だいだいり)の四隅で行われる四角祭(しかくさい)とセットで行われ、四角四堺祭と呼ばれた。大江山は現在の京都市西京区と亀岡市の境、老ノ坂(おいのさか)のことで、近年は近隣に老ノ坂亀岡バイパスと新老ノ坂トンネルができたので、景観は激変してしまった。
 祭の最中に鶏を放つことは、平安最末の歌学書である顕昭(けんしょう)の『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』「ゆふつけどり」の項に、「世の中さはがしき時、四境祭とて、おほやけ(天皇、朝廷)のせさせ給(たまふ)に、鶏に木綿(ゆう)を付て四方の関(せき)にいたりて祭(る)也」とある。
 鶏の早鳴かせ法に湯を使うことは、井原西鶴の『好色一代男』に「庭鳥のとまり竹に湯を仕懸けて、夜深になかせて」(巻二旅のでき心)とあるのが、ヒントである。鶏を早鳴かせして鬼を退散させることは、「団子浄土」「地蔵浄土」など、爺が鶏の鳴く真似をして博奕(ばくち)や酒宴中の鬼どもを退散させ、遺棄された宝物を得る、という型の昔話に継承されてゆくのだろう。
 この祭は、平安京で疫病が流行り始めると実施された。外界からの疫神を、山城国や大内裏の境という二重の障壁を設けて、阻止するのが目的である。古代・中世の社会では、疫病は鬼が流行らせると考えられていた。鬼は人間にマイナスの作用を及ぼす超自然的存在である。一方、現下の新型コロナウイルスではないが、疫病は正体不明で、突然に人を襲って死にいたらせる。見えないものはよけい恐い。この想像の不安から逃れようと、人は病の原因に鬼という名称や醜悪な姿形を与えた(人身に、牛の角・虎の牙を持ち、裸で虎の皮の褌(ふんどし)を締めた定番の姿は後世の産物)。鬼や神のような神性を帯びる存在は、普段は姿を顕わさない。蓑笠つまり隠れ笠・隠れ蓑を身にまとっているので、人には見えないと考えたのである。狂言「節分」には、節分の夜やってきて食い物を請求する蓬莱(ほうらい)島の鬼は、人家の門口で隠れ笠・隠れ蓑を脱いで、その姿を顕す。
 ここまでの説明では境界を道路上の一点とした。たとえ山や川や湖が境界であっても、そこは人が通れない。ある領域から別の領域に入るにはもっぱら道路を使うから、その道路上の境目が境界になるわけである。疫神も道路を通って侵入してくる。疫病の流行が速やかなのは、馬に乗っているからと考えられた。大江山の鬼たちが馬に乗って退散したと書いたのは、『今昔物語集』に馬に乗った二、三〇騎の人びとが、じつは行疫神(ぎょうえきしん)(流行病の神)だった(巻十三─三十四)、とあることによった。
 さらに新たな疫病は、主に大陸から朝鮮・九州を経てやってくると考えられていた。だから西からの疫病に備えねばならない。とくに西北が肝腎である。柳田国男は、東北を鬼門とする陰陽道が輸入されたあとも、民間の実生活では西北方を恐れてきた、それは黄泉(よみ)の国の方角、霊魂の帰りゆく方角だった、という(「風位考」)。疫病は主に西北すなわち山陰道から流行ってくる。だから四境祭のうち最も重要なのは大江山、というわけである。
 だが、隠れ蓑などあるはずがない。見えないはずの鬼が何故見えるのか。名人陰陽師として知られた賀茂保憲(かものやすのり)が子どもの頃、父忠行(ただゆき)の祓について行って、帰路父に、自分が見た「気色(けしき)おそろしげなる体(てい)したる者どもの、人にもあらぬが、(中略)二三十人ばかり出で来て並びゐて、すゑたる物どもを取り食ひて、其(そ)の造り置きたる船・車・馬などに乗りてこそ散り散りに返りつれ。それは何ぞ」(『今昔物語集』巻二十四─十五)と問うている。
 鬼神の姿は、その能力を有する人や、特定の状況下でしか見ることができない。父忠行も著名な陰陽師だったが、それでも幼童の頃は鬼神を見ることができなかったという。これに対し、四堺祭を修祭中の人びとは、疫神を迎え饗応し、退散してもらわねばならない。得体の知れないものを願ったように操作するのが役目だから、かれらは鬼神の群れが、蓑笠をぬいで、饗応の品々をむさぼり食う情景を幻視すべく、はじめから動機づけられているのである。

   *  *  *

 平安京の歴史は疫病蔓延の歴史である。疱瘡(ほうそう)(痘瘡、天然痘)・赤斑瘡(あかもがさ)(はしか)・咳病(がいびょう)(インフルエンザ)・痢病(りびょう)(赤痢)などが頻発した。九九五年から一〇二七年までの道長政権期を例にとると、四つの病だけで計八年、一一回の流行をみた。これは勢いが盛んなので記録に残ったまでで、潜在的・散在的な罹患を入れればずっと増える。京都は四年に一度は確実に、疫病の流行に苦しんでいた。
 花の都の平安京は、衛生を中心とした環境整備という点では完全に落第だ。下水道が備わらず、人の排泄物が街路の随所に積もり、街区の側溝にも流し捨てられた。ドブさらえの体制も不十分、鴨川の度重なる氾濫で市街が水浸しになると、汚水は全市に拡散し、井戸水が汚染される。この状況については拙著『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、二〇一四年)で、概略説明した。
 一方、大都会は人の出入りが激しく、病が外からどんどんもたらされる。人口の稠密も病を広げる。大都市の影の部分である底辺住民の劣悪な居住条件、不衛生な生活環境は、それらの猛威を増幅させる。生活の困難は、いつの時代でも、感染症を招き寄せる。
 四角四堺祭は一〇世紀の初めには成立し、室町時代まで続いた。その後、疫病が流行るたびに行われたから、大江境は疫鬼の跳梁する場所と深く印象づけられる。注意していただきたいのは、大江境に派遣されるのが陰陽師だけではない点である。勅使として初期は滝口(たきぐち)、平安後期には検非違使や衛府(えふ)の尉(じょう)(三等官)などが遣わされた。前者は蔵人所(くろうどどころ)に属し宮中の警衛に当たった武士、後者も多くは武士である。当時の武士は魔よけの能力があると信じられていた。
 大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)という名の鬼神を退治する物語は、一四世紀中葉に完成を見た。物語成立の前提には、多年にわたる平安京・京都の住人たちの、大江山への恐怖の記憶があった。それが源頼光(らいこう)とかれの四天王の鬼退治物語に発展してゆくには、シンプルな鬼神像に、多種多様なイメージが重畳してゆく複雑な過程がある。その謎解きは、拙著『定本 酒呑童子の誕生――もうひとつの日本文化』(岩波現代文庫、二〇二〇年九月刊)を御覧あれ。

 (たかはし まさあき・日本中世史) 

 

◇試し読み②◇

ラッドリー家の人々
――文学を愛する労働者階級の人たち

小川公代


 イギリスの労働者階級(ワーキングクラス)の人々といえば、日本人にとって、どんなイメージだろうか。ステレオタイプとしては、パブでビールを飲むおじさん、若いシングルマザー、あるいは公営住宅地にたむろする礼儀知らずな若者たちだろうか。ゼロ年代に「チャヴ」(chav)という言葉が誕生して以来、「無礼で、攻撃的で、教育レベルが低く、特定のファッションを身に着けている」労働者階級の人たちを指すようになった(ロングマン現代英英辞典)。
 『チャヴ――弱者を敵視する社会』(海と月社、二〇一七年)の著者オーウェン・ジョーンズによれば、中流階級の人間がこの言葉を用いる場合は、たいてい「侮蔑」や「チャヴ・ヘイト」を意味するという。労働者階級の若者たちは、教養のなさ、見た目だけでなく、独特の英語の発音などで「チャヴ」のレッテルを貼られるようになってしまった。
 ブレイディみかこ氏は数々のエッセイで、そういうステレオタイプとは違う、血の通った労働者階級の若者やおじさんの人間模様を描き出している。たとえば、エセックス州のパブでビールを飲んでいたサイモンと彼の甥っ子の会話はじつにリアルである。ある日、サイモンが路上生活者に財布からあるだけの硬貨を渡した。そんなのドラッグを買う為に物乞いをしているんだから「渡すべきじゃないよ」という甥っ子にサイモンは「まあ理屈でいえばそうなんだろうけどな」と留保しながら、こういった。「お前らの世代は、何でもそういう風に合理的に片付けようとするけど、人間が生きるって、それだけじゃないからな」(ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け』筑摩書房、二〇二〇年、五一~五二頁)。
 ブレイディ氏のエッセイを読んで、イギリスの労働者階級の人たちに親近感を覚える読者は少なくないだろう。サイモンはこうも言っている。「サッチャーの前の時代までは、純粋なベガー〔物乞い〕っていなかったよな。路上でカネをくれって言う人々はたくさんいたけど、七〇年代ぐらいまでは、何かと引き換えだったもん。(中略)物乞いっていうより、路上商売だったよな、あれは」(同、五二頁)。これとまったく同じことを言った人たちを私は知っている。かつて労働者階級の人たちが、今よりもっと人間らしい扱いを受け、人間らしい暮らしができていた時代を生きたラッドリー夫妻である。彼らも労働者階級出身で、三〇年前に留学生だった私を家族として迎え入れてくれた。二人が私に教えてくれた豊かさについて書いてみたい。

 戦後直後のイギリス社会には、労働者階級の人たちの生活、教養、文化を育むための土壌や制度があった。夫妻に出逢ったのは一九八〇年代半ば。既に彼らは中流階級への転身を果たしており、私が彼らを労働者階級であると認識するには少し時間がかかった。何不自由ない生活を送っていたこともあるが、ある種ステレオタイプ的な卑屈さや無教養といったところが一切感じられなかったからだ。
 イギリスのサフォーク州にあるベリー・セントエドモントの町から車で一〇分ほどのホリンジャー村に今でも住んでいるこのご夫婦の名前は、レイモンドとポーリン・ラッドリー。レイモンドはロンドン東部のダゲナムという町の出身だ。ダゲナムは、一九六〇年代のフォードの自動車工場で働く女性工員が男女同一賃金制を訴えストライキを起こす物語で知られる映画『ファクトリー・ウーマン』(原題:Made in Dagenham)の舞台でもあり、映画『リトル・ダンサー』の舞台となった北部の炭鉱町と同じくらい労働者階級文化と結びつけられる町である。
 彼は公営住宅に両親と弟の四人で暮らしていた。公営住宅は、二〇世紀前半に主に労働者階級の暮らしを向上させるために建てられ始め、低所得者や失業者などが入居できた住居である。彼の父親はトラック運転手であった。私もその公営住宅に連れていってもらったことがある。黄色の壁紙と黄色のランプシェードが印象的なそのリヴィングルームで、甘いケーキと濃くておいしい紅茶を飲んだ。今思えば、ケン・ローチの映画『マイ・ネーム・イズ・ジョー』に描かれる公営住宅の暗澹たる雰囲気とはまるで違う、明るい室内で、朗らかな家族だった。
 レイモンドやポーリンの生い立ちは、高校生の私にとっては、どんな物語よりも刺激的で、ワクワクした。二人は現在七十代後半だが、その頃はまだ四十代半ばくらいだったろうか。ポーリンがあるとき “This is me book.”(これは私の本です)という表現を使ったのがきっかけで二人がロンドンの労働者階級の人たち特有のコックニー方言を話していることがわかった。レイモンドも、自分たちの訛りを隠すどころか、誇らしくレクチャーした。「所有格もmyじゃなくてmeになるんだよ。私は少年時代からずっとコックニーだ」そうにこやかに言った。
 それからというもの、チャンスがあれば、二人の昔話を聞くようになった。彼らの幼少期の物語は、チャールズ・ディケンズの小説にも匹敵する。当時、公営住宅に入れなかった低所得者たちは、トイレが外に設置されているようなスラムの住居環境で暮らしていた。レイモンドの家族はスラム暮らしを免れたが、親戚の家はまだ外付けトイレだったため、彼らの家に泊まりに行ったときの夜のトイレはあまりに怖かったから朝まで我慢したくらいだと言っていた。
 ポーリンの父親は、生前、塗装業者だったが、主に飛行機の機体や車、工業製品に用いるペンキの品質管理をする仕事に就いていた。ポーリンの両親の世代は、日本でいうと、航空技術者の堀越二郎が活躍した時代である。もちろん、ポーリンの父親は生活のために十代から働いていたわけだから、堀越のように大学の航空学科を首席で卒業するようなエリートではなかった。しかし、ポーリンが父親の写真を私に見せながら、彼の仕事ぶりについて語り始めると、堀越と同じ情熱で仕事に没頭していたであろう様子がその額に深く刻まれたしわや青い瞳に重ねられ、ありありと思い浮かべられたのだった。いつも微かにペンキの匂いがする父親と、洋裁で家計を助けていた母親の愛娘ポーリン。そう思うだけで、私のポーリンへの親しみは湧いた。父親がペンキの有害物質を何年も吸い込んでいたことが原因で早逝し、残された母娘は互いに助け合って生き延びたそうだ。
 レイモンドは、貧困層でも実力さえあれば入れる公立の進学校「グラマースクール」を卒業したが、大学は受験せず、エンジニアとしての資格取得のために勉強しながら、ありとあらゆる仕事をこなした。下水工事から始まり、街灯や道路の工事、柵の設置、壁塗りなどしながら、生活のやりくりをした。それでも、好きなH・G・ウェルズの小説を読むのをやめたことも、十代から続けている槍投げを諦めたこともないという。
 ポーリンも、やはりグラマースクールを卒業していた。当時の労働者階級の人たちは高額な学費が必要な私立高校に行かずとも、実力でこのような学究志向の高校に通うことができた。グラマースクールは残念ながら一九七〇年代以降、(独立し有償化された一部を除いて)ほとんどが廃止されてしまった。
 彼女も文学少女で、エミリー・ブロンテの『嵐が丘(ワザリング・ハイツ)』はヒースクリフという孤児と荒野(ムーア)を駆け巡るキャシーの物語だと熱っぽく語ってくれた。私が興味をもったことがわかると、ブロンテが生まれたハワースの町に連れていってくれ、ほんとうに掛け値なしの文学愛を教えてもらった。
 ポーリンは病院の事務の契約社員として勤めていたが、ブロンテ研究書など多数所蔵しており、数年前に再訪したときには「キミヨがイギリス文学を研究してくれていて嬉しい。私の大事な蔵書を譲りたい」といって貴重な本をたくさんもらいうけた。労働者階級の家庭に育っても、あるいは大学を卒業していなくても、工夫を重ねて精神を豊かにする人たちがいることに心を打たれた。
 知に貪欲なレイモンドやポーリンが大学に進学しなかったのは残念だが、二人にとって英文学は精神と経済両方の豊かさへの鍵だった。文学の教養と労働者階級の人々のメリトクラシーを擁護したのは英文学者F・R・リーヴィスである(河野真太郎著『〈田舎と都会〉の系譜学』ミネルヴァ書房)。ブレグジット問題以降イギリス社会の格差が広がりつつある今こそ、一九六〇年代のリーヴィスの教養主義が再評価されるべきと感じる。

 二人はダゲナムの職場で出逢い、結婚。ホリンジャーでマイホームを手に入れた。子ども二人の四人家族だ。娘のキャシーがたまたま日本に関心を持ったこともあり、私との交換留学が成立した。この夫婦から学んだのは英語と文学だけではない。二人は特に節約家ではなかったが、医療費に関してはイギリスの公共医療サービス事業(NHS)の断固たる擁護者で、どれほど大怪我をおっていても決して私立病院にはいかなかった。
 有言実行の人たちで、特にレイモンドの信念は強い。陸上競技の後遺症で人工股関節置換手術を二回受けているが、二回とも待機者リストに名前を連ねて、三年間という長い時間、痛みに耐えながら自分の番を待った。NHSは医療費抑制政策の結果、想像を超える人数の入院待機者がいる問題を抱え続け、今でも状況は変わらない(レイモンドが二度目に手術を告げられた二〇〇〇年代には一三〇万人の入院待機者がいた)。何十万円もの手術代を支払うくらいなら、子供の教育費や別の出費にあてる方がいいという考えだ。
 NHSといえば、いつも思い出し笑いをしてしまう逸話がある。ポーリンの母親は数年前まで存命で、ラッドリー一家のすぐ近くに住んでいた。私も彼女をナニーと呼んで慕っていたので、よく遊びに行った。ナニーが九〇歳を越えた頃、居間のロッキングチェアーで編み物をしていたとき、ある事件が起こった。
 レイモンドがナニーの家の屋根裏部屋で探し物をしていると、突然床が抜けて、編み物をしていたナニーの上に落っこちてしまった。レイモンドは一八五センチほどの背丈のがっしりした体格である。ナニーが手の骨を折っただけで済んだのは、奇跡としかいいようがない。ただし、レイモンドは両方の二の腕の肉が抉られて脇に集まるほどの大怪我を負い、ナニーも一歩間違えば命とりになっていたような大事件である。
 こんな痛々しい状態の二人がポーリンに連れられてNHSの病院に行ったのだが、「緊急性が低い」と判断されてしまい、ロビーでずっと待たされることになった。待合室にいた患者から「何があったんですか?」と尋ねられたレイモンドは、屋根裏部屋から編み物をしている義理の母の上に落っこちたんだという、どう考えても漫画のネタのような話を笑って聞かせたそうだ。
 レイモンドとポーリンは毎日犬の散歩を最低一時間はする習慣があり、それは今でも続けているらしい。留学中の私は二人からたくさん話を聴きたい一心で、可能なかぎり犬の散歩に同行した。そして、今でも二人を訪ねると必ず一緒に犬の散歩をする。ホリンジャー村は、自然が豊かな敷地をもつイックワースというカントリー・ハウスに隣接しているため、地元の人々はこの広大な敷地を健康維持のため、あるいは犬の散歩のため利用している。彼女らは、ジムやヨガスタジオに通う都会人とはまた異なる生活習慣をもっている。
 ポーリンの悪い癖は、大声で私に英語で話しかければ、その音量とともに私の理解度も増すだろうと勘違いしていたこと。それでも、文学を愛してやまないラッドリー夫妻の逸話はいつも人間味に満ちていて、心が洗われる。私との交換留学で日本語をマスターしたラッドリー家の長女キャシーは、スターリング大学を卒業し、語学指導を行うJETプログラムに参加した後、日本語を使いこなすビジネスウーマンになった。息子のデイヴィッドはホリンジャーの豊かな自然に影響を受けて、大学では環境学を学び、自然保護官(パークレンジャー)の仕事に就いている。私はある意味でラッドリー夫妻の三人目の「子供」として育ててもらった。私の英語力を飛躍的に伸ばしてくれたのも、豊かさという価値を教えてくれたのも、この二人である。


(おがわ きみよ・英文学) 

 

◇こぼればなし◇

◎ 小社ホームページ上で二〇一一年五月一一日にスタートし、継続中のウェブ連載「3・11を心に刻んで」は、毎月三名の執筆者にご寄稿いただき(一九年四月からは二名)、一一日に更新してきました。東日本大震災と原発事故について息長く考えていきたい。「心に刻んで」いくための場をつくりたい。そんな思いから、何人かの編集者が動き始めて一〇年。様々な分野の、著名人から各地で活動する一般の方まで、寄稿者は二一年二月一一日号で三三一人を数えます。

◎ ある文章や、歴史上の人物、有名無名の人の言葉、詩歌や歌詞、聖書や仏典の一節、フィクションの登場人物の台詞など任意の言葉を冒頭で引用し、その言葉に思いを重ねて綴るリレー連載。それを一年ごとにまとめ、最初は単行本の一部、二冊目以降はブックレットとして毎年三月に刊行して今に至ります。連載は三月より隔月で継続しますが、書籍としては二一年版ブックレットをもって一つの区切りとすることにいたしました。

◎ 「なぜ家の中を汚されて我慢しないといけないんですか。何度も何度も意見を伝えてきたのに聞いてくれない。私たちの声は小さくて聞こえないかもしれませんが、良い記事を書いてください。(子どもを連れて自主避難する母親の言葉)」

◎ これは福島原発事故を取材する新聞記者の日野行介さんが、一七年版収録の文章冒頭で引用している言葉です。一六年一二月一一日の日付をもつその文章の末尾近くには、「棄民政策はこの国の民主主義を蝕みつつある」との日野さんの憤りを込めた一文が。思えばこの一〇年、現下のコロナ危機まで、度重なる災害と繰り返される失政に、小さな声の人たちがどれだけ追いつめられてきたでしょうか。権力をもつ者の虚偽と隠蔽、論点すり替えと開き直り、逃亡……。

◎ 水俣病患者の遺言や、暮らしの場である海にふれながら綴られた、石牟礼道子さん、原田正純さんの文章が読めるのも、本シリーズの貴重な財産でしょう(最初の単行本、一二年三月刊)。そして考えさせられます。いったい何が変わり、何が変わらないままなのか。出版社として文字に刻み、届けなくてはいけない小さな声をどうやって聞き取るか。どうすればそれを、少しでも大きな声として届けていけるのだろう……。

◎ ブックレット『3・11を心に刻んで』では、河北新報社さんのご協力で現地ルポも毎年収めてきました。小誌本号掲載の山﨑敦さんは同紙ベテラン記者で、二一年版ブックレットにも執筆。河北新報による地元紙ならではの長期連載「止まった刻(とき)  検証・大川小事故」は小社から書籍化され、学校防災の強化で未来の命を救うための検証と提言の書として刷を重ねています。

◎ デヴィッド・グレーバー著『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史他訳)が、「紀伊國屋じんぶん大賞2021」第一位に選ばれました。コロナ以後の仕事と人間、自然と世界をめぐって、グレーバーさんの考えをもっともっと聞きたかった。残念です。

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