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『科学』2021年6月号 【特集】被曝影響評価をめぐる

◇目次◇

福島県甲状腺検査の10年……濱岡 豊
UNSCEAR2020年報告に潜む歪み――甲状腺被ばくを巡るミスリード……榊原崇仁
3.11以後の科学リテラシー〈102〉……牧野淳一郎
福島県の甲状腺検査についてのファクトシート(2021年4月アップデート版)……平沼百合
福島県における甲状腺がん疫学調査・分析の問題点と検査の必要性……崎山比早子
切り捨てられる「黒い雨」――「科学的・合理的な根拠」の再考を……小山美砂
放射能汚染について環境目標値が必要だ……今中哲二

巻頭エッセイ 
科学の危機が映し出す社会の危機――マートン規範と宮崎・早野論文……黒川眞一 *お読みになれます

[これからの科学のために]
科学の破壊を防ぐメタ科学としての知識情報分析は可能か――その前提/対象について……影浦 峡
伊達市外部被曝データ解析論文問題についての早野龍五氏と黒川眞一氏の対論より……編集部
太陽系のはじまり……橘 省吾

[新型コロナウイルス感染症]
ワクチンをめぐる混乱,猛威をふるう変異株:新型コロナウイルス感染症〈その15〉……小澤祥司

[シリーズ放射性微粒子の追究]
不溶性Cs粒子による生体影響の評価にむけた現状と展望……鈴木正敏・千田浩一・福本 学

[連載]
絲綢之路遊学〈6〉パガン遺跡……大村次郷
これは「復興」ですか?〈51〉復興五輪……豊田直巳
入試問題から広がる物理の世界〈2〉衝突をめぐる解釈……吉田弘幸
利他の惑星・地球[追創編]〈25〉もっとも貴いもの……大橋 力
廃炉への道をどう選ぶのか〈4〉素通りされたスリーマイルの教訓(2)――デブリ取り出し後「安全貯蔵」の必要性……尾松 亮

表紙=藤嶋咲子「Unstoppable Unfolding」2020年(2面組作品の左側)
表紙デザイン=佐藤篤司  連載「利他の惑星・地球」タイトル・デザイン=木下勝弘

 

◇巻頭エッセイ◇

科学の危機が映し出す社会の危機――マートン規範と宮崎・早野論文

黒川眞一(くろかわ しんいち 高エネルギー加速器研究機構名誉教授)

 1942年にマートン(Robert Merton)は“Science and Technology in a Democratic Order”(「民主主義体制における科学と技術」)というエッセーを発表し,次のような科学の規範を提唱した。すなわち,Universalism(普遍性),Communism(公有性),Disinterestedness(無私性),そして Organized Skepticism(組織された懐疑主義)の4つである。普遍性とは,科学者の活動にとって,その人物の個人的または社会的属性,すなわち,人種,国籍,宗教,階級,個人の資質などは一切関係がないということである。公有性とは,科学における成果は社会的協働の成果であり共同体が所有することである。無私性とは,純粋な知識欲,無欲な好奇心,人間性に対する利他的な関心などの,科学が職業である以上科学者がもたなければならない性質であり,私利私欲は避けられなければならないことである。最後の組織された懐疑主義とは,科学者は権威や権力に従うことなく常に批判的知性を働かせなければならないということである。マートンがこのような規範を提唱したのは,全体主義による「反知性主義という病気が蔓延しようとしている」ことに抗し科学を守り民主主義を守るためである。マートンが提唱した4つの規範は,「反知性主義という病気が蔓延」している現代の日本の科学者にとって重要であることはいうまでもない。


 今年2月に早野龍五著『「科学的」は武器になる』(新潮社)という本が出版された。早野氏は,福島県伊達市民のガラスバッジによる外部被曝線量測定データを用いて作成されJournal of Radiological Protection誌に2016年12月と2017年7月に発表された2本の論文,いわゆる宮崎・早野論文の著者の一人である。この論文は,データ提供に同意していない市民のデータを研究に使用したという理由で2020年7月に撤回されている。この2つの論文に対しては,4つのLetter to the Editor(同じ論文誌に発表された論文についてコメントする論文)が投稿され,いずれも正式なacceptまたはprovisionally accept(著者の応答を求め応答と一緒に出版すること)になっていた。4つのLetter to the Editorは論文における数十の不整合を指摘しているが,とりわけ重大なものとして,著者には渡っていない期間のデータに対応する図が論文中に複数掲載されていることがあげられる。早野氏と宮崎氏は,伊達市から提供されたデータを第2論文が出版されてから1年強で廃棄している。また著者たちはこの4つのLetter to the Editorに一切の応答をしていない。また,応答しない理由の一つは早野氏によればデータがないことである。


 早野氏の上記の著書には,上記の4つの批判論文が投稿され著者に応答が求められたことについての記述がない。それにもかかわらず,著書の中で宮崎・早野論文について記述している部分の最後に,「「論文についてのやりとりは論文上でおこなうものだ」というのが僕の科学者としての姿勢です。科学とは別の土俵に,上がるつもりはないのです。」と書かれている。論文で批判されたことを隠し,あたかも自分は科学の規範を守っているかのようにふるまっている。早野氏は,宮崎・早野論文が雑誌に掲載されたとき,Twitter上で,論文のダウンロード数が数万にのぼりさらに増え続けていることを宣伝していた。マートンは,無私性を論ずる章の中で次のように書いている。「科学者と非専門家の関係が重要になるにつれて,科学の規範から逃れようとする動機が働くことになる。専門家としての権威の悪用と偽科学の創造は,その任にふさわしい同僚によるコントロール機能の効果がなくなることから始まる。」マートンはまた,科学の規範を破壊する者たちが,あたかも科学の規範の擁護者であるかのようにふるまうこともエッセーの中で指摘している。約80年前に書かれた文章であるが,予見性に富み,まさに,宮崎・早野論文の核心を突く言葉である。


 民主主義が破壊され反知性主義が跋扈する社会では言語そのものが変質せざるを得ない。オーウェルは『1984』において思考の自由が一切許されない究極の監視社会を描いており,そこでは矛盾する2つの事柄を同時に信じる「二重思考(doublethink)」が強いられている。現在の日本でも二重思考が次第にはびこりつつあると思う。例えば,「論文についてのやりとりは論文上でおこなうべきだ」としながら批判論文に応答しないのは,まさに二重思考である。二重思考は考えること自体を成り立たせなくする。宮崎・早野論文問題は科学の危機であるだけではなく,危機にある日本の民主主義の問題であると考える。

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