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シリーズ 古代史をひらく

歴史学を「ひらく」  吉村武彦×成田龍一(シリーズ「古代史をひらく」完結記念対談)

*この対談は2021年3月11日に行われました。
*この記事は、「図書」7月号にも掲載していますが、紙幅の関係で掲載しきれなかった部分を増補しています。 
 
 

戦後歴史学を離れて

成田 吉村さんとは久しぶりにお目にかかります。吉村さんが、吉川真司さん、川尻秋生さんと3人で編集された「シリーズ古代史をひらく」(全6冊、2019‐21年)を拝読しました。各冊の巻頭に、古代史を「やさしく、深く、面白い」歴史叙述によって伝えたいとあり、専門的な内容をいかに伝えるか、様々に工夫されていることがわかります。これは、ひょっとしたら、井上ひさしさんに拠っていますか。

吉村 まさに井上さんの言葉、「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく」からヒントを得ました。

成田 そうですか。井上さんは、近現代史に材をとった作品がもっぱらなのですが、古代史に関する戯曲も一作あります(『日の浦姫物語』)。平安期の東北が舞台で、「天皇制と国家の辺境」をテーマとしています。

 井上さん同様にというとおこがましいですが、私も古代史研究と言えば、石母田正さんの『中世的世界の形成』(1946年)に代表される、天皇制や国家の形成が大きなテーマだという認識がありました。しかし、「古代史をひらく」を読むと、そういうかつて知っていた古代史とはガラッと異なっている風景に直面しました。かつての古代史研究を受け継ぎながら、文字通り古代史を「ひらいて」、ずいぶん遠く、新しいところまできているなという感があります。 

吉村 シリーズの趣旨を理解いただき嬉しく思います。『中世的世界の形成』は石母田さんが三十代前半で書かれたもので、今言われたような理解をされることが多く、色川大吉さんなどもこの本で目を開かれたと言っています。ただ重要なのは、この著作の根っこに石母田さんの具体的な共同体研究があることです。戦前の仕事で石母田さんは、正倉院文書を中心とした文書群から、家族や村落などの共同体の実態をつかもうとしています。

成田 とても面白い指摘です。私も史学科で勉強しましたが、まずは『中世的世界の形成』を読めと言われました。古代史にとどまらず、歴史学を学ぶうえでの指針となっていたのですね。1970年代初めのことです。ただ、石母田さんは『日本の古代国家』(1971年)でまた新たな展開をしますね。歴史学だけではなく文化人類学の知見を大きく取りいれていて、びっくりしました。後智恵で、「戦後歴史学」を内部から揺るがそうとした作品と思っていますが、どちらの石母田作品に拠るかも論点になりそうですね。

吉村 石母田さんには、戦後最初に出た『岩波講座 日本歴史』(第1巻、1962年)に「古代史概説」という、これもまたよく参照される論があります。こんな言い方をすると叱られるかもしれないけれど、そこではエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』の理論を日本列島の歴史に適用すればどうなるか、かなり頑固にやっておられる。しかしこうしたヨーロッパ的な国家の形成と中世世界の展開ということだけでは、アジアの歴史は十分に解けない。アジアに根ざした理論化をしなければならないと考えたのだと思います。

 ちょうど1960年代、西嶋定生さんと、井上光貞さん、石母田さんが中心になって、東アジア世界論が展開され始めた。私は使わない言葉ですが、井上さんは一般に「実証主義史学」と言われる、いわば「近代的古代史学」とも言うべきものです。井上さんに言わせると、日本の古代国家というのは律令制的なものと氏族制的なものの二つから考えるべきで、エンゲルスがヨーロッパについて言う、氏族制が崩壊して国家ができるという論には当てはまらないんですね。そうすると、アジアの国家形成とヨーロッパの国家形成というものの二つを通底する、一般的な国家形成の道を考えなければならない。『日本の古代国家』ではそれが論じきれなかった面もあると思いますが、流れとしてはそのように捉えています。

成田 なるほど。いっそう複雑ですが、「戦後歴史学」における古代史研究の布置と問題意識がよくわかります。世界史の基本法則を念頭に置きながら、アジアの中での日本古代の展開を考える石母田さんたちの試み――「近代日本古代史」を、「現代日本古代史」というところに点綴する営みとして「古代史をひらく」が構想されているのですね。 

考古学との連携から

吉村 古代史が近現代史と大きく異なるところは、正倉院文書を除けば、同時代史料がほとんどないということだったんです。だから『古事記』『日本書紀』(記紀)など、後代の編纂物を中心にやるしかなかった。ところが1970年ぐらいから木簡が大量に出てきました。全部文字が読めるわけではないけれど、現在50万点近くあると言われています。こうなると、同時代史料を念頭に古代史を語らないわけにはいかない。これは古代史学にとって大きな事だったと思います。考古学的事実を無視しては、とてもやっていけなくなったんですね。

成田 近現代史の場合は共時的な史料が圧倒的に多く、その中で史料批判を行います。ところが古代史の場合、とくに木簡が大量に出る前は、断片的に出てくる共時的な史料を手がかりに、通時的に記された記紀を分析していくしかなかったということですね。私もそのような授業を受けました。しかし、それが今では総合的に行われるようになったということでした。これは、文献史学と考古学との共同作業が本格化していると理解してよいでしょうか。

吉村 それが、少なくとも大学ではそう簡単にいかなかった。木簡研究の中心的な場である奈良文化財研究所は、歴史学・考古学・建築史・庭園史など様々な専門の人が共同でやっています。ところが日本の大学では、考古学専攻の講座が戦前からあったのは京都大学だけで、他はすべて戦後です。それも日本史の講座から分離して出来たようなところがあって、あまり仲がいいとは言えなかった(笑)。

成田 古代史に限らず、歴史学全体が、民俗学・文化人類学・絵画史などを「補助学」と呼び、その上に君臨するという構造でしたから、状況はよく分かります。その構造が、木簡の大量出土と軌を一にして、1970年代あたりから崩れてくるということでした。アカデミズムのなかにあった歴史学が、アカデミズムのなかで完結できなくなったということでもあると思います。高度経済成長のなかでの開発が木簡の出土を促していますが、同時に古代史に関心を持つ一般の人々が増えてきたことも背景にありますね。

吉村 古代史のなかでも、考古学への向き合い方は分かれていましたね。坂本太郎さんなどは関心がなかったようですが、井上光貞さんや、中世史だと石井進さんや網野善彦さんはかなり関心を持っていたようです。ちょうど平城京・藤原宮跡の保存運動や、高松塚古墳の発見などがあって、考古学的な側面から、一般の方の古代史への関心が進んだ時期でした。かつて岡山の、一般市民が参加した月の輪古墳発掘などもありましたし。

成田 そういう素地があったから、発掘で出てきたものを使い、研究を通じての社会還元という問題意識がみられたのだろうと思います。そしてそれらが合流し、古代史研究の方向が変わってきたのではないでしょうか。記紀に依拠し、律令国家の体制を軸として描かれてきた古代史像が、人々の活動に即して組み立て直されていくということです。

 あらためて、中央公論社が出していた「日本の古代」シリーズ(15巻・別巻1、1985―88年)と、吉村さんたちが編集された「列島の古代史」シリーズ(全8巻、岩波書店、2005―06年)を読み、そのことを感じました。とくに「列島の古代史」では「ひと・もの・こと」というサブタイトルに編集方針が明示されていて、新鮮でした。また全巻の構成を見ると、第1巻に「古代史の舞台」を置いている。畿内とその界隈に限定せず、東北や九州へとぐっと領域を広げた上で、暮らしと生業、社会集団と政治組織、人と物の移動など、列島の中の人々の生活とその有り様を探り、最後に政治史で収めるという仕組みですね。中央の天皇(大王)や貴族ではなく、地域で生活する人々の姿が大きな柱となっています。 

吉村 地域を重視しようということは意識していました。

成田 歴史のシリーズというと、通史とくに政治史を提供するという発想になりがちです。日本では、通史を書くのが歴史家の「上がり」とみられ、個別研究がそこで束ねられます。このとき「列島の古代史」では、まず「地域」に目を向け、それを東アジアの中に位置づけながら、人や物の移動を見ていく。そうした具体的な局面を踏まえ、政治史を書き直そうとしています。これはさきの石母田・井上・西嶋さんたちの問題意識を引き継ぐものであると同時に、吉村さんが強調される歴史学と考古学、文献と考古との共同作業による1つの古代史像と思って接しました。 

3つの「ひらく」

成田 こうした流れを受けて出てきたシリーズ「古代史をひらく」ですが、この「ひらく」には、おそらく3つの意味が込められていると思います。1つは歴史学を「開く」。文献史学に閉じることなく、考古学などと協働する。それに各冊に必ず、日本国外で研究されている外国籍の方が参加されている。つまり専門領域と国境を超えていくという意味での「開く」。次に「啓く」ですね。これは今までの歴史学がもつ啓蒙主義を批判した上でのものだと思いますが、アカデミズムの中に閉じず、広く人々と知を共有していくという意味での「啓く」。3つ目は「拓く」。新しい問題群を切り拓いて探究していくということですね。

本の構成としても、専門書でありながら「ひらく」ことがつよく意識されていると思います。最初に「招待」として包括的な議論を示し、論点を掘り下げた「各論」があり、最後の「座談会」で今いちど論点を整理し、今後の課題も提示していく。写真や地図も多く、コラムや脚注も充実しています。 

吉村 本をつくる時に、専門家の側としても、「いいことを考えたから読め」では駄目だと思うんですよ。それで冒頭の「招待」には、なるべく「素朴な疑問」を入れるようにしました。例えば1冊目に出た『前方後円墳』では、そもそもなぜ「前方後円墳」というのか、どうして四角い方が前なのかということから始めた。私自身も最初は説明できなかったし、意外に考古学の本でもきちんと書いているものが見当たらなかったんです。そういうことは一般の読者もやはり疑問に思われるだろうと。あとは、各論の最後に読んでもらおうと載せた座談会を、最初に読んだという方が多かったですね。

 

 

成田 私もそうです(笑)。座談会というのは、自明のように扱われていた解釈が、実は論点をはらんでいることが分かるなどの「発見」がありますね。たとえば「都城」といえば王宮のありかだと普通は思い込んでしまうけれど、王墓を中心に考える立場もあるなどと……。

吉村 とくに専門の違う人と話すと、分かっているはずのところで迷ったり、意外なところで共感したり、そういうところがストレートに出てくる。歴史用語を使って簡単に説明できたと思いこんでいては、一般の人には読んでもらえない。辞書を使わなくても読める本にしたいと思いました。

成田 はい、その姿勢が強く感じられます。そして、この「ひらく」という営みは古代史だけではなく、歴史学全体の方向性も示しているでしょう。近現代史で言うと、社会学が斬新な歴史解釈をし、文化人類学や文学研究でも歴史叙述を行います。歴史をめぐる専門を越えた学際的な動きが日本史研究全体に及び、これは世界的な動きともなっています。一国の中、1つの領域に閉じた形では、もはや歴史を考えることができなくなってきている。カタカナばかり使うと吉村さんに怒られるかもしれませんが、「ひらく」という営みはパブリック・ヒストリーにつながる議論だと思っています。今までの歴史学は歴史研究者の仲間内の研究であり、一般の人々の問題関心とすり合わせるような議論をしてきていなかった。しかし、一方的に歴史家が啓蒙するというやり方はもはや通用しません。そこを意識しての歴史学の刷新――これは世界的な共通の流れです。 

吉村 例えば考古学では、新たな遺跡が発見されると「現地説明会」が開かれるんですね。地方の説明会でも100人集まることはざらにあるし、今はコロナ禍で難しいけれど、飛鳥などでは数千人集まることもあります。研究者より一般のファンのほうが熱心に通っている。文化庁の指導もあって、情報公開は進んできています。私の関わっている千葉県の『市川市史』のように、市民目線での市史編纂のような試みも出てきています。

成田 まさにパブリック・ヒストリーですね。実際に古代史のファン、サポーターは多いし、そういう人たちとともにやっていく方法を探ることが、「ひらく」という意味だと思います。「ひらく」ことを意識的に、早い時期に実践したのはジェンダー史でしょう。ジェンダー史は1つの専門、1つの地域、1つの事例では問題を投げかけられないことから、意識的に学際的・国際的な形で議論をしてきています。古代史がらみでも、2020年、国立歴史民俗博物館で「性差(ジェンダー)の日本史」という展覧会がありました。木簡、土器、古墳などをジェンダーの観点から分析し、新たな歴史像を提供したと思います。

吉村 歴博もそうですが、博物館の多くは友の会のような組織を作っていて、研究者と一般の愛好家が共に学ぶ場になっている。各地域でそういう取り組みが進んでいるように思います。古代史の場合、国府や国分寺をはじめ、どの地域にも遺跡はありますから。古墳なんてコンビニの3倍もの数があるらしい(笑)。ただそれが観光資源に直結してはまずいんですけどね。

成田 難しいところですね。歴史が「消費されるもの」になってしまうことをどう考えるか。これは現代歴史学に共通の問題だと思います。

「現代日本古代史」の問題群

成田 「古代史をひらく」全6冊のテーマとなっている問題群についてもお聞きしたいと思います。「古代史をひらく」は、『前方後円墳』『古代の都』『古代寺院』『渡来系移住民』『文字とことば』『国風文化』で構成されていますね。この6つのテーマで一つの流れを示されたというようなことはあるのでしょうか。

吉村 最初は倍くらい候補があった中から6冊に絞りましたので、意識的に一つの流れを示しているということでは必ずしもありません。ただ、研究が進んでこれまでとずいぶん状況が変わってきたテーマを選んだということはあります。古墳研究では相当発掘が進んで、分かってきていることがありますし、都城研究も同様です。『文字とことば』についても、いわゆる「歌木簡」の発見を機に、これまで日本文学でなされてきた和歌史研究が変わらざるを得なくなってきている面がある。この3つはそういう研究水準の変化に着目したテーマと言えます。

 そのほか、例えば『渡来系移住民』というのは、古代の移民問題なんですね。「帰化人」と呼ぶのか「渡来人」と呼ぶのか、用語の問題が注目されることが多いけれども、私はやはり朝鮮半島から移ってきた人たちが「何をしたか」に関心があるんです。言葉だけではなく、実態を明らかにする必要がある。半島と往来を続けていた人も多かったようですが、どちらかと言えば移住してきた人たちの実態を知りたいということで、「渡来系移住民」としました。実際、『新撰姓氏録』(弘仁6〈815〉年)によれば、平安時代の主要人口の約3割弱は「蕃国」、つまり渡来系だったと言われています。

 『古代寺院』についても研究会を主体に学際的な研究が進んできていて、この機会に分かりやすく書いてもらいたいということがあった。『国風文化』は渡来系の問題とも関係していますし、そもそも平安中期の文化をどう捉えるかという問題につながる。それを史学史的に再検討された佐藤全敏さんを中心に、美術や文学の研究者に参加してもらおうということになったのですね。

成田 なるほど。

吉村 あらためて考えてみると、「古代史を相対化する」と言うのは簡単だけれど、実際にはやはり海外の研究者がどう見ているかということを柱にしたかったということもあります。「前方後円墳」や「渡来系」「都」については、中国ないしは韓国の人たちが非常に関心を持っているし、実際彼らは現地説明会があるとなるとすぐ日本に来るんですね。日本語も話すし、そういう意味で国境はもともとなかったと言ってもいい。奈良文化財研究所や、同じく奈良県にある橿原考古学研究所などは、中国・韓国の人と研究員の交換をやっている。そういうところから、日中・日韓双方に詳しい人が出てきています。『前方後円墳』に書かれている申敬澈さんは韓国の考古学を切りひらいてきた人ですが、日本でも勉強した経験を持っている。『渡来系移住民』に書かれている朴天秀さんなども、一時は日本の遺跡説明会に日本の研究者より足繁く来ていた。そういう人が結構出てきているんですね。むしろ日本の古代史研究者のほうが、フットワークがまだまだだと思います。本当に古代史をやるなら、まず中国の歴史をやって、朝鮮半島の古代史をやって、それから日本の歴史をやれば大体筋道は分かるはずなんだけれど、実際には順序が逆ですしね。

 いっぽうで「古代寺院」「文字とことば」「国風文化」については、関心を持つ人がアメリカにかなりいるんです。皆さん仏典なども読みこなし、日本語で論文も書かれています。だとすれば、実際そういう方々に執筆してもらって、日本の読者に読んでもらうのが一番いいでしょう。

 そのあたり、近現代史ではもともとあったことかもしれませんが、だいぶ研究状況が変わってきましたね。考古学はとくに、アジア系の留学生も増えています。そういえば昔、石母田さんが、コンピュータ時代になれば、そのうちアメリカ人の研究に日本史研究者なんかみんな負けますよと言っていたことがありましたが(笑)。

成田 詳細にお話しいただきました。「現代日本古代史」がどういう背景から出てきているのか、その中で「古代史をひらく」のテーマ設定がどのようになされ、意味づけられているか、その状況がよく分かりました。それぞれのテーマの背景の違いも興味深いところです。

 例えば「渡来系移住民」という問題。先ほど指摘されたように、私がかつて高等学校の教科書で習ったのは「帰化人」という言い方でしたが、それが「渡来人」と改められ、そしてさらにいまは、両方が混在する状況になっています。最新の『岩波講座日本歴史』(第2巻、古代2、2014年)では「渡来人ではなくて帰化人だ」という論考が出ています。私などは、素朴に、現代日本での「帰化」という用語法を念頭に置くと、やはり「渡来人」と言うべきなのかなあ、などと思ったりし、歴史教育の現場でも、疑問が出てきていたと聞いています。

 このとき、シリーズ中の『渡来系移住民』の巻はまさにそこを問題にしていて、『古事記』と『日本書紀』では呼び名が違うという指摘をし、それぞれの言い方の複雑な背景と実情を踏まえた説明がなされています。どちらかの説を一方的に議論するのでなく、双方をとりあげ、議論の布置を示されています。そのうえで「渡来系移住民」として議論しており、とても整理が行き届いていると思いました。

 『文字とことば』の巻でも、興味深い議論がなされています。漢字からひらがな・カタカナへという流れはこれまでもある程度議論され、相当の蓄積もあると思うのですが、これはあくまで書き言葉の表記の問題系ですね。しかし、言葉には、書き言葉だけでなく話し言葉があり、その相互関係を視野に入れた、「文字とことば」を論ずる議論――新しい問題の立て方が出てきていました。話し言葉という要素を入れることによって、言葉をめぐる議論の射程が一挙に拡大します。これまでの、「文字とことば」の光景が、ガラッと変わってきました。

吉村 『日本書紀』に関しても、実は和歌についてもそうなのですが、「話し言葉を文字にして書くというのは簡単なことだ」という、そういう誤解がずっとあったんですよ。私は『続日本紀』の校注に関わっていたときに、『万葉集』がご専門の稲岡耕二さんから「話し言葉はそんなに簡単に書けるものですか」と問われた。おそらく稲岡さんは「書けない」という答えを求めていたと思うのですが、実際そうだと思うんですね。話し言葉を文字にして書くことは、そう簡単ではなかった。

 これまでの研究では、もともとは話し言葉を、宣命体のような漢字を用いた和文で書いた、しかし律令制の導入に伴い、和文を漢文に直した、と考えられていたわけです。ところが、そもそも宣命体を用いて「話し言葉を書くこと」そのものが難しかったとすれば、『日本書紀』や『古事記』の編纂過程についても考え直す必要が出てきて、改めて史料批判が必要になってくる。ある意味ではかなり重大な事態なんですね。

 さらに訓字の問題もあります。「万葉仮名」と言うように、当時はすべて漢字を用いて書くわけですが、「山(さん)」を「やま」と読ませるような訓字、これは6世紀の欽明朝にはすでにあったのですが、和歌の表現として使われるのは天武・持統朝ごろになる。最初は一字一音の漢字仮名のようなものがずっと使われていたのが、言わば文字を通して歌をうたうという段階が出てくる。音だけではなくて文字、つまりヤマを「山」と表記することによる表現もかなり重要になってくるわけです。

成田 今言われたことは、近代に話をずらすと、明治期に言文一致体を作るときに、散々苦労をした話と重なりますね。

吉村 同じですね。

成田 二葉亭四迷や坪内逍遥、国木田独歩たちが、あらたに言文一致体を作ろうと苦労するわけだけれど、それがなかなかできない。二葉亭などはいったんロシア語を日本語に翻訳して、その翻訳体の中からあらたな文体をつくり出そうとするけれど、結局挫折してしまいます。しかも、やっかいなことは、言文一致体というのは、これは話し言葉ではなくて、書き言葉の作法なのですね。そうした近代史で議論されている論点が、古代史研究においても焦点が当てられているということは、とても面白いです。

 挙げられた宣命体の事例は、とても複雑で、書き言葉と話し言葉がそこで往還するわけですね。だから、よく言われる、話し言葉から書き言葉へという形での単純な推移ではないことが明らかです。『文字とことば』の巻での議論は、このように、言葉に対する議論の奥行きを深くしていくものとなっています。

 もう一つ、先ほど言われた外国の研究者の書かれた内容がとても面白い。例えば、いま議論している『文字とことば』では、コロンビア大学のデイヴィッド・ルーリーさんが書かれています。ルーリーさんは、たしかに日本語には、幾通りもの書き方(表記法)があるものの、でもそれは日本語の特性ではなくて、世界の言語の文字史の中では一般的なことだというのですね。漢字があり、ひらがな、カタカナが加わり、それらが混用される形態は、決して日本の特殊性では説明ができないと指摘したうえで、でもその故に、そうした性質をもつ日本の文字を調べることは、世界の文字史の理論形成に役に立つことがある、と議論を展開していきます。つまり、日本の古代史を考えるということが、世界の歴史の中で一体どういう意味があるのかという議論です。日本の古代を、世界のなかの1つの事例に押し込めるのではなく、そこから問題をパーッと開いていっています。「古代史をひらく」の仕掛けのなかで、こういう議論ができている、と思います。

吉村 ある意味では、こうしたことを外国の人から指摘されるというのは、恥ずかしいと思わないと駄目かもしれませんけどね。日本の万葉学の人たちは基本的に写本で研究しているから、同時代史料というのは想定外なんです。

成田 「外部」の眼のもたらす効果ですね。とともに、同時代史料によってあらたな視野が開けてくるということなのですね。

吉村 しかし「難波津木簡」と呼ばれる、『万葉集』の歌とおぼしきものが書かれた木簡がすでに出てきています。2020年の12月には貴族の邸跡から、『古今和歌集』の一部が書かれた、今度は木簡ではなく墨書土器も出てきました。ここから、貴族社会において、墨書土器を用いた和歌によるコミュニケーションが成されていたことが見えてくる。しかし従来の日本の万葉学では、和歌がどういう場でうたわれてきたのかということをやっている人はほとんどいないと思います。歴史の人間からすると、木簡が出たのだから、もうこれは無視できないことだと思うのですが。

成田 今の指摘は本当に興味深いところです。万葉の研究と言ってもいいし、文字の研究と言ってもいいのですが、これは長らく国学の独壇場だったわけですね。本居宣長を一つの大きな軸にして、その解釈を踏襲しながら、『万葉集』やそれ以前の日本の言葉を見ていくという発想でした。しかしこのシリーズの『文字とことば』の巻では、今言われた歌木簡のような同時代史料を含めて日本語を根底から問い直すという問題提起がなされています。国学的考察を踏まえながら、言語学的な問題意識を持ち込んでいく、ということになるでしょうか。

吉村 まずは、日本文学の研究者が理解してくれればいいと思うのですけどね。古代の漢文を読むには、実は、和歌と漢詩両方の教養が必要なんです。ところが日本の文学研究のカリキュラムでは、両方やる人は本当に少ないらしい。もっと言えば、これは法制史の瀧川政次郎が強調しているのですが、文学の研究者は律令をどれだけ勉強しているのか、律令を勉強しないで歌の解釈なんかできないと言う。もちろんオールマイティじゃないと研究できないというわけではないのですが、表記の問題はかなり重要なことだと思うんですね。

成田 さっきの議論と重なりますが、本当に、明治期と重なる問題群の所在を感じます。明治にはまだ漢文の教養が柱となっています。このときの漢文はもちろん日本的漢文なのですが、鷗外にしろ、漱石にしろ、教養の核は漢文で、その点から「西洋」と「近代」に向き合っています。漱石など、日課のようにして漢詩を作っています。

 品田悦一さんなどが言われている「万葉の発見」というのも、実はこういう問題につながっているでしょう。『万葉集』を特別視しはじめるのは、明治期が1つの画期となっています。「近代日本」の教養やアイデンティティとして、『万葉集』が位置づけられます。岩波新書の創刊書目に斎藤茂吉の『万葉秀歌』があるということも、ここにつながってきます。言ってみれば、近代における「古代の発見」ということです。

 現在の文学史では、当たり前のように書かれている『万葉集』の位置づけや評価に対し、この『文字とことば』では、それが出されてくる過程をていねいにひらいていっていると思います。現在のような評価が作り出される根拠と過程が、論じられているということです。

 そして、「古代史をひらく」シリーズ全体が、そうした姿勢を打ち出しているでしょう。出来上がった古代史像を完成品として提供するのではなく、さまざまな切れ目を入れ、論点を(あるいは、そのことを論点として)提示しながら、あらたな古代史像として作り上げようとしていっているように思います。

現代史としての古代史

成田 もう1点、近現代史の立場からうかがっておきたいのは、今「古代の発見」と述べたのですが、古代史像が「明治期に創られた伝統」である、という論点です。大化改新により律令制国家ができ、公地公民制が導入されるという古代史像は、明治維新により近代国家ができ、版籍奉還がなされるという近代史像とパラレルになっています。近代の経験が古代史像に投影されています。そもそも明治維新のときには「王政復古」がスローガンとなっており、古代史像と現時の歴史意識とが往還していた局面もあります。

吉村 これは川尻秋生さんが岩波新書の日本古代史シリーズ『平安京遷都』(2011年)で書かれたことですけれど、平安朝にできた公家文化は明治天皇の時期まで続くわけです。しかし維新で明治天皇は東京に出ることになり、列強と対面するときに、それまでの白粉とお歯黒の装束というわけにはいかない。それで明治天皇は軍服を着て剣を持つようになり、結果、公家文化を総じて否定することになる。そこから、公家文化と対照的なものとして、飛鳥・奈良時代が再発見されるというんですね。つまり「伝統」が新たに創られた。『万葉集』などもそこで再発見される。

 そういう意味では、古代史は現代史なんです。先ほど言われた「公地公民」というのも、明治20年代から出てくる言葉です。版籍奉還以後、日本の領土・領民をどう考えるのかというところから出てきた言葉を、実は今の教科書も使っている。

成田 たしかに、古代史は現代史であるということができますね。これは「近代史学史」の問題ということでもあるでしょう。冒頭で話題にした石母田さんも、近代史学史の必要性を強調していました。

 さてその上で、これからの古代史がどこを目指すかということですが、「列島の古代史」では、「日本的なもの」の原型は古代史にあると着想されています。稲作や日本語のような「日本的なもの」の原型を探るということですが、「現代日本古代史」の課題と方向は、どのように考えられていますか。 

吉村 私は、日本文化は「雑種文化」ということでいいと思っているんです。日本列島には、最初に縄文系の人たちが来て、その後に稲作農耕を伴って弥生系の人たちが来る。他にアイヌ系、南島系などの人たちがいて、そのなかで混血が進んでくる。さらに5世紀ごろからは半島から渡来系移住民がたくさんやってきて、日本の文化は成立するわけです。文字も律令も、中国から朝鮮半島を通じてもたらされている。平安時代に至っても、畿内に住む氏族の3割近くは渡来系の人たちだったという史料もあります(『新撰姓氏録』)。だからいわゆる「日本的なもの」のアイデンティティを求めるというのとは少し違う。

 一般の人たちには、飛鳥・奈良時代というのは日本の国づくりが行われた時で、人の一生で言えば青春時代だと説明することが多いですね。「創られた伝統」とも関係しますが、例えば聖徳太子なども、(近世の)儒教世界の中では悪者だったのに、明治になるとガラッと扱いが変わる。そういうことは、今は理解しづらいですよね。夫婦別姓というのも、明治の戸籍作成時に初めて夫婦同姓が決まったので、それ以前は全部夫婦別姓なんです。じゃあ日本の古代・中世・近世の家族はみんなバラバラだったかというと、そんなことはあり得ないわけです。どうも1つの見方や制度が3、4世代続くと、みんな奈良時代から行われてきたことだ、と思ってしまう節がある。実はそうではないので、歴史学の立場からもそういうことは言っていかないといけない。

成田 それは近現代史でいえば、史料批判の視点とも関係すると思います。古代史では記紀をはじめとする文献史料はイコール歴史ではなく、そこから仮説と推論により歴史像に接近することは自明の前提だと思います。しかし、近現代史では、「この新聞記事にこう書いてある」ということが、そのまま史実の証明になってしまうのです。 

吉村 古代史では、史料そのものを批判的に解釈するというステップははずせない。

成田 はい。新聞それ自体が情報を選択・解釈しているということが、留保条件以上にはなりにくい状況です。出来事と記録・記述の一筋縄ではいかないありようは、現代思想でも議論されています。私が現代思想――言語論的転回などの議論をことさらにいうのも、そうした理由に拠っています。 

吉村 私は、中学・高校の歴史の教科書が全国一律であることにも実は反対なんですよ。例えば古代でいう道別、今で言えば東北地方、中部地方、関東地方、近畿地方などそれぞれに作ればいい。それをやらないと、東北のことなんて、ヤマト王権に征服される対象としてしか出てきませんからね。沖縄だってそうです。もう少しカリキュラムを自由なものにしていく必要がある。

成田 そうした指摘は、歴史学の有り様の変化とも対応しているだろうと思います。かつてはまず「歴史学原論」があり、「古代史概説」「中世史概説」があり、代表的な史料に接するというカリキュラムが組まれ、それでみな満足していたけれど、今は異なる状況でしょう。

吉村 戦前の「国史」が日本史になり、「東洋史」と「西洋史」を合わせたのが世界史、ということでこれまではきてしまった。そこには、日本列島から世界を見るという視点は本当になかったわけです。今回導入される科目「歴史総合」で、そのあたりが解消されるといいのですが。

成田 高等学校の新設科目「歴史総合」が扱うのは、残念なことに18世紀以降で、それ以前はスポッと抜けています。「歴史総合」という科目は大きな可能性を持つと思っていますが、前近代史をどう考えるのかという問題は先送りになってしまいました。

吉村 これまでお話ししてきたように、古代史はある種の現代史であることは間違いないですからね。

成田 まったくそのとおりです。その意味からも、「古代史をひらく」において実践された「開く・啓く・拓く」という営みは、ひとり古代史のものではなく、歴史学全体の課題として取り組むべきものだと思います。

 

■吉村武彦(よしむら たけひこ)
1945年生まれ。明治大学名誉教授。日本古代史。著書に『日本古代の社会と国家』(岩波書店)、『聖徳太子』『女帝の古代日本』『蘇我氏の古代』『大化改新を考える』(以上、岩波新書)など。

■成田龍一(なりた りゅういち)
1951年生まれ。日本女子大学名誉教授。近現代日本史。著書に『近現代日本史と歴史学』(中公新書)、『大正デモクラシー』(岩波新書)、『増補「戦争経験」の戦後史』『方法としての史学史 歴史論集1』『〈戦後知〉を歴史化する 歴史論集2』『危機の時代の歴史学のために 歴史論集3』(以上、岩波現代文庫)他多数。

 

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