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『図書』2021年9月号 [試し読み]古矢旬/柳家三三

◇目次◇

咀嚼不能の石………古矢 旬 
無駄と遠廻りと、行きあたりばったりと………柳家三三
時差式………柳 広司
身体を介する自己紹介………栗田隆子
無教会と皇室………赤江達也
読書の敵たち………大澤 聡
アメリカの窓から………矢作 弘
一九六四年、パリ………片岡義男
王子さまのいない星(後編)………吉田篤弘
世代を超えてリレーされる笑顔………真鍋 真
オギュスタ・オルメスとジュディット・ゴーティエ………青柳いづみこ
やっとやりくり保育の記………時枝 正
席順と魂………中川 裕
差別と虚無………四方田犬彦
「かるみ」という重荷………長谷川 櫂
こぼればなし
九月の新刊案内

 (表紙=司修) 

 

◇読む人・書く人・作る人◇

咀嚼不能の石
古矢 旬
 
 昨年、岩波新書のシリーズアメリカ合衆国史の最終巻を刊行した際、「あとがき」にこの数十年間アメリカは「遠い国」になった気がすると書き留めた。長く研究対象とし、多くの友人もいるアメリカについて、咀嚼不能の石を呑み込んだような違和感を覚えるようになった直接のきっかけは、やはり二〇〇一年九月一一日の米中枢同時多発テロ事件にあったように思う。

 事件後の「対テロ戦争」下、アメリカの法、政治制度が憲法や国際法を逸脱し、「例外状態」に陥ったことをいちはやく指摘したのは、G・アガンベンであった。グァンタナモ基地やCIAの「暗黒収容所」に拘束した「敵性戦闘員」に対する適正手続の拒否や無制限拘留や拷問、また政府情報機関による広範な社会に対する監視・盗聴などが、自由デモクラシーを旨とするアメリカ社会の開放性にそぐわないことはいうまでもない。

 かかる「例外状態」の存続を許したのは、「対テロ戦争」の戦端を開いたブッシュはむろん、リベラルの輿望を担ったはずのオバマでもあったことは、彼の政権下に断行されたビン・ラディン暗殺や彼に付された「最初の(対テロ)ドローン大統領」の異名が示唆するところであろう。

 バイデンによるアフガニスタン戦争からの撤兵にともない、タリバンが政権復帰を果たした今、アメリカは9・11を契機とした国家間戦争からはようやく脱却しつつあるのかもしれない。しかし、当面「対テロ戦争」と「例外状態」が完了する見込みはなく、自由デモクラシー腐食の進行も避けえないように思われる。

(ふるや じゅん・アメリカ政治外交史) 

 

◇試し読み◇

無駄と遠廻りと、行きあたりばったりと
柳家三三

 芸は人なり――噺家になってから何度この言葉にふれてきたでしょうか。私の大師匠(おおししょう)(自分の師匠のそのまた師匠。おじいちゃんにあたる関係)である五代目柳家小さんがよく説いた教えであり、一門もその薫陶を受けて心に留める者が多いゆえでしょう。
 「落語ってやつは演者の人柄が出る。素直な奴の噺は素直だし、ずるい奴の噺はどこかずるくなる。だから落語の技術以上にまず人間を磨かなくちゃいけない」と、生前の小さん師匠はさまざまな機会に語っていました。……あ、お断りしておきますが、別にこれから芸について深く掘り下げようとか、落語論をくり広げようなんてつもりはありません。この言葉をとっかかりとして「そういえば自分がどんな人間か、あまり考えたこともなかったなあ」なんて、ぼんやり思ったのです。

 柳家三三(さんざ)、稼業は落語家です。噺家って言いかたをする人もいますね。私はどちらでも構いません。やってることが変わるわけでもないので。一九七四年、神奈川県の西のはずれ、小田原市で生まれました。
 故郷にはやっぱり愛着があります。小田原という街、暑さはさほど厳しからず、さりとて冬の寒さも困るほどでなし、いわゆる穏やかな気候でほっとできます。そして私の大好きなもののひとつ、お城のある街です。というより城下町に育ったからこそ城好きになったのでしょう。
 この仕事をするようになって日本じゅう公演でおじゃまします。毎回とはいきませんが、機会があれば会場近くに城跡がないか調べて行ってみることがたびたびあります。そういえば群馬県甘楽(かんら)町に行ったときには共演が春風亭昇太師匠でした。落語界随一の城好きというだけでなく、城郭に関する知識は玄人はだしという師匠です。「近くにいい城があるんだよ。一緒に見に行くかい?」と、私が好きなのを知っていて声をかけてくれました。芸人同士ならふつうは「いい飲み屋があるんだ」なんてのがお誘いの言葉ですけどね。「いい城」って何だってハナシですな。
 さて、連れて行っていただいた麻場(あさば)城、ここは世間の皆さんが思い描くお城の要素が皆無です。高い天守閣も堅牢な石垣も水を満々とたたえた堀もありません。小高い丘の土を掘って空堀を拵え、その土で土塁を築く。興味のない人が見ればただのデコボコな土地です。けれどこれが戦国時代の実戦的な城のリアル、私は大興奮。おまけに落語界屈指の売れっ子、昇太師匠がマンツーマンで、専門家顔負けの知識を惜し気もなく披瀝しながらガイドしてくれるのです。こんな贅沢な時間なんてそうあるものじゃないでしょう。
 ……と、ここまで書いてハタと気付きました。この調子だと城見物の思い出だけで紙幅が尽きてしまいます。故郷の小田原にはお城があるというだけの話だったのに……。高座でもこんな傾向がありまして。落語の本題に入る前の導入のおしゃべり、いわゆるマクラがどんどん脱線して何の話をしていたのか分からなくなってしまうという現象がちょくちょく起こります。
 ですから慌てて軌道修正。小田原で生まれ育ち、落語との出会いはおそらく小学一年生ごろ。両親がたまたまテレビで放送されていた「文違(ふみちが)い」という落語を見ていたのを、これまたたまたま一緒に見たんです。「文違い」は新宿の花柳界を舞台にした女郎買いの噺です。しかも男と女の騙し合いで笑いもそんなに多くない、およそ子供には不向きなネタ。それでも見ているうちに噺の世界の中に紛れ込み、ことの成りゆきを物陰から息をひそめて見ているような不思議な高揚感があったのをよく覚えています。でもあのときの演者は誰だったんだろうなぁ。
 中学一年の夏休みに初めて寄席に行きました。生の落語は最高で、高座も客席も演者も聴き手も消えて、ただ噺の風景が広がった片隅にたたずんでいる……。そんな気持ちのいい時間をいちばん味わわせてくれたのが後に入門する柳家小三治でした。中二の冬には「落語家になりたい」と「高校に行きたくない」という気持ちが半分ずつ、これに背中を押され入門志願。しかし「高校ぐらい出てなけりゃ無理だ」と追い返されてしぶしぶ進学。後年師匠から聞いたのは「高校に通ってるうちに熱も冷めて気が変わるだろう」とたかをくくっていたとのこと。それが高校卒業目前に再び頼みに来ちゃったから、仕方なく入門を許したのだそうです。

 弟子入りしたからといってすぐに高座で落語を演じられるわけではありません。見習いの期間を経てから身分の階級があって、下から、前座(ぜんざ) → 二ツ目(ふたつめ) →真打(しんうち) → ご臨終……って、これは高座でよくやるくすぐりでした。真打がいちばん上で、昇進するまで十五年ほど。スタートラインに立つ見習いの間は師匠宅に毎日通って(現在もですが、約三十年前でも、住み込みの内弟子はごく少数でした)の修業……といっても掃除、洗濯、電話番、お使いにカバン持ちといった雑用がほとんど。そういう毎日の中で礼儀や心構えを身につけ、時間を見つけて着物の着かたやたたみかた、太鼓の叩きかた(寄席で出雜子の三味線に合わせて叩くので必修です)、さらにそのあいまを縫って落語の稽古をつけてもらうのです。
 芸人としての基本の〝キ〟を仕込まれると前座となり、師匠宅での雑用に毎日の寄席での楽屋働きが加わります。
 寄席での前座の仕事は、開演前からの楽屋の支度や番組進行の調整、太鼓を叩くことから出演料を渡すなど多岐にわたり、身分は最下層の虫けら以下といわれつつ責任は重大です。しかし何といってもいちばんの仕事は、出演する芸人が楽屋入りしてから出番を終えて帰るまでのお手伝いです。落語家といっても十人十色。自分の師匠にはこれでいいと思っていた働きかたが、他の師匠の逆鱗にふれて大目玉、なんてこともあります。「どこの弟子だ、何を教わってきやがった」なんて小言のときにも口答えや言い訳をしないのが前座の心得。人によって何が快適かは違うんだと身をもって叩き込まれ、そして面白いのが理不尽とも思えるこの修業が何のためにどんな役に立つのかを誰からも教わらないのです。「厭ならやめろ」ってなもんで、説明なんかナシ。私は高卒の子供同然でしたから疑問を感じる暇もなかったけれど、中には耐えられない人もいるようです。
 そんなよく分からない修業を終えて二ツ目になる、これはうれしいものです。ようやく自由を手に入れて、落語をしゃべることでお金を手にするようになるんですから。真打昇進時よりうれしいという落語家も多いんですよ。そしてしばらくして「これ、前座の経験が役に立ってるんじゃない?」と感じることがありました。
 毎日高座で落語を演じるという行為は、暗記した科白をペラペラしゃべればいいのではありません。登場人物に感情を込めるのはもちろん、お客席の反応という外からの要素にも左右されます。お客さまが自分の噺にどれくらい興味を持ち、どの程度理解してくれているかを目や耳や肌で感じ取り、しゃべる速度や言葉の言い廻しに常に微調整を加えながら演じる、まさに「お客さまのご機嫌をうかがう」稼業です。ときには察知したうえであえて合わせないという選択もします。いずれにしろ場を読む力があってこそ。この、相手の様子を察しながら働くというのが……そう、見習いのときは師匠ばかりでなくその家族にも受け入れてもらえるように、前座時代は更に楽屋の師匠がたが気分良く高座に上がれるよう最善のお手伝いをするという行為そのものです。誰からも教わらなかったからこそ何年もたって自分でたどりついた、しかも正解かどうかも分からない答え。こういう無駄と遠廻りって面白いですね。

 うーん、気がつけばまた脱線。こうなったら逸れたついでにお話ししますけど、前座時代は修業という名の雑用にかまけて落語の稽古をあまりしませんでした。二ツ目昇進時はふつう二十~三十席、立川流のご一門は五十席の落語を覚える必要があるそうです。私は三年の前座期間で六席か七席。別に一席ずつに時間をかけて練り上げたとか格好のいいものでなく、毎日師匠宅の用事や楽屋の仕事をこなすことに追われて「こんな忙しいときに落語なんか覚えてる場合じゃねぇよ」と……落語をしゃべりたくてこの世界に飛び込んだのに、本末転倒もいいところです。
 ことほど左様に私の生きかたは行きあたりばったりな傾向が大きいようです。計画的にものごとを組み立てるのが苦手で、目の前のものをくわえて駆け出すバカ犬みたいなもの。で、途中でふと我に返り、帳尻を合わせるために大わらわ。たちが悪いのは、その帳尻合わせが思いのほかうまくいって、周囲からなぜかわりとしっかり者のように勘違いされて今日に至っているフシがあります。
 「芸は人なり」という話に戻りますが、新しいネタを初演する折なども、一夜漬けどころかその日漬けなんてことが正直なところ何度もありました。そのたびに深く後悔はするのですが、ごくまれに追いつめられて登場人物が私の思いもよらない言葉をしゃべり出し、勝手に行動するという不思議な経験をすることがあります。そうなると物語のゆくえは演者の手から離れて、でもお客さまも一体となって楽しんでいる空気もひしひし伝わってくる。自分が噺を操るなんて考えはおこがましいと思い知ります。
 さて、計画性のなさのせいで、噺家になって今日まで、そしてこれからといったお話をするつもりが、もはやそのスペースはなくなってしまいました。またお目にかかる機会があったら続きを申し上げるということで。

 (やなぎや さんざ・落語家) 

 

 

高座に上がる前に著書『前略、高座から――。』(三栄書房)にサインをねだられて

 

◇こぼればなし◇

◎ 緊急事態宣言下の東京オリンピック・パラリンピック。五輪大会期間の折り返し点にあたる本稿執筆の八月頭時点で、大会関係者・メディア関係者の新型コロナウイルス感染者は七月一日からの累計で三〇〇人に近づく勢いに。東京都内で確認された一日の感染者数は四〇〇〇を越えており、都は通常医療への制限を都内の医療機関に検討要請する状況です。日本選手のメダルラッシュを伝えるテレビやネットのニュース画面を横目に、やりきれない気持ちになります。

◎ 予定時間を超過して日付が変わる直前まで行われた五輪開会式では、長嶋茂雄さん、王貞治さん、松井秀喜さんが最終盤の聖火ランナーとして登場。それを見ながら、そういえば何十年か前、長嶋さんに小誌の誌面を彩っていただいたことがあったなと、記憶が甦りました。ちょうど四〇年前の一九八一(昭和五六)年三月号、一学年年長の作家井上ひさしさんとの有名な対談「ぼくらは野球少年だった」がそれです。

◎ 対談中、当時の有望な若手(どなたでしょう)を肴に、野球選手の体力が話題となるくだりがあります。「井上 しかし二十二のとき、長嶋さんは新人王と打点王とホームラン王でしたからね。/長嶋 いまの二十二、三の連中よりも、ぼくらの時代のほうが、体力的には上でしたね。/井上 つまんないものを食って育った世代なんですけどね(笑)。」

◎ かのベーブ・ルースにも比肩される「二刀流」の大活躍、特に本塁打王の期待も高まる連日の豪快なアーチで野球ファンならずとも見る者を魅了してやまないエンゼルスの大谷翔平選手は、元々はクレープなど甘いものがお好きだとか。そんな二七歳の強靭な体躯を維持し、目下の快進撃を支えるのは、やはり管理栄養士さんのアドバイスのもと、精密に計算された栄養バランスと高カロリーとが両立した三度の食事のようです。

◎ 野球選手と食事、といえば、自ら宮崎などキャンプ練習地の宿舎に食材を持ち込み、鍋にして王さんや長嶋さんらチームメイトとともに囲んだという金田正一さんの「金田鍋」が伝説となっています。でも、「落合鍋」なるものの存在を知ったのは、小社から四月に出た『戦士の食卓』によってです。

◎ 好物はカップ麺。しかも甘党。幼時から、白米に粉末ジュースの素をふりかけて掻き込むのが「言葉で表現できないくらいの美味さ」だったという落合博満さん。紆余曲折の末にそんな夫を「食」に開眼させ、実に三度も三冠王を獲らせたのが信子夫人。信子さんの驚くべき証言とともに、落合流「食の哲学」が本書で初めて明かされるのです。

◎ 強い体は十分な食事と睡眠で作られると強調する二〇世紀最後の大打者の誕生には、夏バテ知らずの鍋料理が大きく貢献しました。きっかけは、台湾料理店の石鍋だったそうです。スープや野菜から水分や塩分が無理なく採れる多種多様な鍋料理は、冬場だけでなく、それらが不足する夏場こそ重宝する食事、と。是非お試しあれ。効果覿面です。

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