忘れられた傑物、野依秀市を追う 佐藤卓己氏×平山昇氏対談(前編)|『負け組のメディア史』
忘れられた「メディア人間」、野依秀市
佐藤 今回、岩波現代文庫に収録された『負け組のメディア史』は、明治の後半から昭和にかけて『実業之世界』『帝都日日新聞』など数々の雑誌・日刊紙を刊行した出版人、野依秀市(1885-1968、青年期のペンネームは「秀一」)の評伝です。今日その名はほとんど忘れられていますが、彼は同時代の著名人を痛烈に批判する、大企業への恐喝で逮捕される、戦時中に新聞で反東條内閣キャンペーンを行って発禁処分を受ける、それでも発言を止めない。同時代には「言論ギャング」ともいわれた有名人でした。
この野依秀市、経営・発行する雑誌・新聞で自ら「野依式」を強烈にアピールして論陣を張り続け、生涯に200冊以上の「自著」を刊行しました。ただ、そこから一貫した主張を読み取るのは難しく、そもそも自著について「代作してもらった」とも公言している。ある人物の言説から思想を描くのが思想史の手法ですが、野依の場合その手法は有効ではない。であれば、一貫した言説をもつ「言論人」ではなく、自分を売り込んで宣伝する「メディア人間」、つまり広告媒体的人間としてのありようから読み解くことはできないか――そうした観点から、野依秀市という人物を描きました。
私が野依に関心をもったのは、大日本雄弁会講談社(現在の講談社)の国民大衆雑誌『キング』を追った『『キング』の時代』(2002、のちに岩波現代文庫)の執筆のため、その歴史を調べていたときのことです。この本のカバーにも載せた『積悪の雑誌王』という、講談社社長・野間清治を糾弾する「怪文書」も野依が自著リストに載せています。これは当時、検閲当局から「徒ニ皇室ニ関スル事例ヲ以テ攻撃シ却ツテ不敬ニ渉ル」と削除処分を受けているのですが、国会図書館へ閲覧に行くと、3冊収められているうちの2冊は切り取り箇所があり、検閲で使用されたと思われる1冊だけがそのまま残っていました。どこが切り取られた「不敬」部分なのか、興味深いのですべて復元して『『キング』の時代』に掲載しました。そのころは中身をコピーさせてくれなかったので、古い世代の歴史家のように全部手で写しましたが(笑)。
この『積悪の雑誌王』の内容はもともと野依の刊行していた『実業之世界』に連載されていた「野間征伐」キャンペーンであり、それをきっかけにこの雑誌に、そして発行人の野依に興味を持ったんです。この雑誌名は『実業之世界』ですが、その実際は「野依雑誌」「野依之世界」とでも言うべき代物でしたから。
書影右下の写真が野依秀市著『積悪の雑誌王――野間清治の半生』
平山さんも解説で書いてくださったように、『実業之世界』をふくむ経済誌、ゴシップ誌のような雑誌は戦前たくさんあったはずですが、メディア史研究ではほとんど取り上げられることがない。だけどそこには、メジャーな総合雑誌や一流の全国紙が伝えているものとはあきらかに違う世間の動きが描かれています。これまでのメディア史研究が考えてきたのとは違う形の大衆メディアのありようが戦前にもあり、それを象徴する大衆的言論人が野依秀市ではないのか――それが、この人物に着目した出発点です。
一人の人間と社会全体を同時に描く
平山 本書は旧版が2012年に新潮社から刊行されていますが、実は私が本書に出会ったのは最近でした。昨年のメディア史研究会の研究集会に際して「佐藤さんのこれまでのメディア史研究にコメントをしてほしい」という無茶な依頼を頂いたことがきっかけでした。院生の頃から佐藤さんの本はいろいろと読んでおり、3分の1くらいは既読でしたが、この依頼を受けて残りをすべて買って読みすすめているうちに、この本の魅力に取り憑かれました。
まず、理屈抜きに面白いんですね。読んだら「こんなヤツが生きていたのか」と思いますよ。どの時代・国・地域でも、よほど閉塞していない限り変わった人物がいるものですが、すごいのは、こんな破天荒な人物が、戦前から戦後まで生き延びていることです。1943年に中野正剛が反東條内閣の主張ゆえに逮捕され、自殺したあとでさえ、野依は反東條の主張を続けている。これは注目に値すべきことです。そんな、簡単にラベリングできないような人間が描かれていることが衝撃でした。
本書に限らず、佐藤さんの著作が魅力的なのは、社会全体と同時に一人ひとりの生身の人間をしっかり捉えているという理由が大きいと思います。『『キング』の時代』では、「ファシスト的公共性」という社会学的な言葉が使われつつ、同時に「この野間清治という人物は欲望の塊だったんだな」と、一人の人物が見えてくる。狭い個人の思想史ではないのに、社会全体の構図と個人の生身の人間を同時に見せてくれる――その極致が、この『負け組のメディア史』だと私は感じています。
すごいのは、佐藤さんはこれだけのものを書いておきながら、「自分は野依秀市という人物を全部捉えきった」という説明を決してしないことです。その箇所ごとにきれいな説明をするけれど、でもやっぱりわからないところがあることをにじませている。本書では最後に野依のお墓を訪れるんですが、「私は黄昏の墓園を後にした。聞きたいことは、まだ山ほどあるのだから」と、印象的な記述をなさっています。
自分の読者は3000人、そこにどう伝えるか
佐藤 お話を聞いていてとてもうれしいですね。ご指摘の記述の仕方という点では、若いころ、私が歴史学の記述方法に絶望した経験があることも理由の一つかもしれません。いまの西洋史研究だと、極端に言えば「〇〇〇〇年の△△地方の〇〇について」といった研究でないとアカデミックには認められない。だけど、そんな論文を現地の文書館で一次資料を駆使して書いても、自分と査読者以外にはほとんど数人しか読者はいない。そんな、全く受け手のことを考えない学問研究のあり方に、特にドイツ留学中に危機意識を抱いたんですね。
私は、自分の著書が3万部売れるとは思っていません。それ以上売れた新書もあるけれど(笑)、全部がそうではない。自分の本には3000人の読者がいるとして、その人たちに伝えるようにどう書けばよいかのか――そのためには、「人間」を扱わないといけない。つまり、『実業之世界』というかつて存在したマイナー雑誌の内容分析でも論文をうまく書くことはできるけど、それで3000人に興味を持たせることには限界があります。やはり、焦点を当てるのは「人間」、だから野依秀市という破天荒な人物にスポットを当てる必然性があったということです。
平山 もう1つ指摘しておきたいのが、佐藤さんが誰にでも居場所がある書き方をしているということです。私は、大衆を馬鹿にするテイストをどこかにじませていると、それだけで読む気がなくなるんですよね。吉野作造や石橋湛山を持ち上げる人の文章の中には、読むとそういう嫌気が差すものもあります。
佐藤 (笑)。
平山 佐藤さんご自身はすごい知性の持ち主で、京都大学の教授という立場にいながら、そのご著書を読むと「ここに、私やご先祖さんの居場所がある」と感じられるんですよ。先程、歴史学に対する違和感のお話がありましたが、そのように試行錯誤された一つの結果がこうした書き方なのではないでしょうか。
そのことを一番強く感じたのが、『テレビ的教養』(2008、後に岩波現代文庫)です。これは「一億総白痴化」とさえ評されたテレビの影響について、「活字的教養」とは異なる「一億総博知化」ともいうべき教養的側面から捉え直した快著です。新しいメディアが出てくると、旧来型の教養を身に着けた人々がバカにする――これは、2000年代にインターネットが拡がっていったときに論壇系知識人たちから起こったウェイブと同じです。それに対して佐藤さんはむしろ「テレビというものが新しい大衆的教養をつくっていった」とポジティブに捉えた。これはすごいことだと思います。昼のワイドショーが大好きで、何をきいても「テレビで言いよったけん」と答えていた私の祖母のことを思い出します(笑)。
一方で、権力者や知識階層ではない人々に焦点をあてる「民衆史」となると、出口なお(大本教の開祖)のような特別な人を取り上げて、「民衆にはすごい人がいた」という書き方になる。でも私なんかは「民衆といっても、うちの祖母はそんなことはないけど」と、素直には受け取れません。「民衆史」と言いながら民衆を理想視したようなものとは違う、そういう大衆の描き方を佐藤さんはしている。情緒的な書き方はしないけれど、テレビにかじりついていた人たちのことを温かみを持って捉えている。
『負け組のメディア史』で描かれるように、野依秀一はめんどくさい人物ですよね。誌面でも「これは誰れでしよう?」なんて聞いていて、知ったこっちゃないよと思う(笑)。それでも佐藤さんの文章を読んでいると、いいなぁと思うんですよね。誰もが居場所を感じられる佐藤さんの歴史の書き方を、私もできるといいなと思っています。
野依秀市の戦後公職追放解除を祝う「興和成立特集記念号」(『実業之世界』1951年10月号)より
迎合するのは簡単じゃない
佐藤 本書では野依という人物を捉えるために、「メディア人間」というキーワードを置いています。メディア人間、つまり広告媒体人間である野依は、自ら広告媒体(メディア)として受け手=読者の心をどう掴むかを第一に考えている。自己主張が強く、輿論(よろん:オピニオン)の指導をめざしつつ、大衆のエモーショナルな世論(せろん)に非常に敏感です。だからこそ、彼は渋沢栄一や三宅雪嶺といった大物たちに可愛がられるんですね。長老となると、もう感情のままには動けない。分身が必要なわけですね。
平山 「世論」に敏感ということは軽く見られがちですが、そうすべきではないと思います。私は10年以上予備校の講師をしていましたが、「予備校なんて人気を取ればいいんだろ」とバカにする大学の先生もいました。ですが、聞いている人に頭と心を開いてもらい、注目してもらうというのは、全く簡単なことではない。「わからないのは大衆が悪い」と大衆をバカにする論壇系知識人もいて、岩波に書いたりもしているけど(笑)、そういう主張には全く共感できません。「迎合する」というのは、簡単なことじゃないんです。野依は「読者がどう考えるか、どう受け取るか」にとても敏感で、それを掴むためにものすごく努力している。
かといって、「売れれば何でもいい」とはならない。「天下国家のため」という目的からは絶対に外へ出ないんですよ。今で言う、ゴシップで自分を目立たせYoutuberとして名を売っていくだけ……というような人物とは全く違う。だから渋沢や三宅は、野依を認めるのです。
それともう一つ、身体性をとても重視していることも重要です。佐藤さんのデビュー作『大衆宣伝の神話』(1992、のちにちくま学芸文庫)では、生身の人間が街頭に集まることによる集合的な身体性が大きな力を持ち、旧来型の教養を押しつぶしていくという構図を描いていましたよね。野依の場合も、大衆から憎まれないためにどんな身体的な表象やポジションを取ればいいか、それを考えていたはずです。その意味で戦前の国民的大スター、双葉山の後援会長になったというのは天才的です。双葉山のバックにいるというだけで、あとは天皇へのリスペクトさえあれば、何を言おうが何をやろうが「野依は悪いやつじゃない」と納得する人は多かったでしょう。彼の行動には一見脈絡がないようで、実はそうした布石を打つことで「メディア人間」のシステムをつくっていたように思います。
現代の起点は明治か、それとも20世紀か
佐藤 平山さんに書いていただいた解説では、「明治生まれのメディア人間」という重要な視点が提示されています。先に述べたとおり、私はこの野依秀市という人物を、彼の思想内容からではなく表現形式、つまり自らを宣伝していく、広告媒体的人間=メディア人間という20世紀的、あるいは大正デモクラシー的な枠組みで捉えています。それに対して平山さんは、「彼が明治生まれの『メディア人間』であったことの意味を看過すべきではない」という指摘をしています。明治から引き継いだものが野依の存在を野依たらしめている、という。
平山 これは佐藤さんへの批判でもあるんですが、佐藤さんは本書を含め、現代の起点としての20世紀のメディア社会を描いてきましたよね。これは本質的な議論だと思う一方、明治の思想・政治を研究する三谷博ゼミの空気を吸ってきた身からすると、他方で明治の遺産が現代に強く響いていることも強調したいんですね。明治の人たちは、四書五経を読むときも音読しましたし、刀を振り回してやんちゃなこともする。それは大正、昭和と時代が過ぎても簡単には突き崩されなかった。そして、野依もこうした明治の思想と身体性を体現していたと思うんですよ。だから、渋沢栄一や三宅雪嶺も野依をかわいがったのではないでしょうか。
佐藤さんは野依の特徴として、敵を名指して攻撃することで言説をつくっていく「敵本位主義」を指摘しています。でも、現代のインターネットで誰かを名指ししてギャーギャー言っているだけの人たちと野依は違う(笑)。その違いは何かというと、明治時代に共有された頭・心・体の3点セットの「型」です。そうしたバックボーンをもった上での敵本位主義だから、何かしら社会にインパクトを与えたし、簡単にバカにすることもできない。
おそらくそういう「型」がないと思われると、暴力が加えられていたんですよ。びっくりするのは、あれだけのことをしてきた野依が暴力沙汰に巻き込まれなかったことです。
佐藤 危うく右翼に拉致されそうになったことはありましたけど、確かにそうですね。
平山 たとえば美濃部達吉は、天皇機関説事件のあおりで銃撃されます。彼は立派な人物だと思いますが、同時代では人々に「お勉強ばかりしてきた人」と思われて、銃弾を打ち込まれる。ところが野依のように「あいつは何かあったら刀を持って切り込んでくるぞ」と思われる人には、そうそう暴力が振るわれない。
無論、野依自身も相手に出刃包丁を送りつけたりしていますし、現代的な法観念や価値観からは全く正当化できません。でもそれがいいか悪いかは別として、彼の存在によって担保された言論の「余白」が確実にあった。それを認めず、過去遡及的に石橋湛山のような人物を持ち上げて「言論の力」をうたうのは、現代の知識人の弱さでしょう。私は、佐藤さんが野依という人物を掘り起こしたことには、こうした明治以来の身体性の発揮を示したという意義があると思います。
佐藤 「明治」と「20世紀」の対比という観点では、明治以来の「「国家」と「官」を区別する思考」という解説でのご指摘も重要です。平山さんは、「国家」と「官」(その時々の政府)を一体化させてしまうという現在のネット上の思考の枠組みを批判しつつ、野依はそれと異なり、「官」を攻撃したが一貫して「国家」を背負おうとした、ということをおっしゃっていますよね。
大正期の第一次世界大戦の影響下で構想された総力戦体制は、昭和に入って本格的に整備され、国家と社会がじょじょに一体化していきます。「国民」と「社会」を区別し、その間に公共圏を置くハーバーマス的な議論も19世紀的な市民社会でならありえます。明治時代もホブズボームの言う「長い19世紀」(1789-1914)に含まれます。しかし、第一次世界大戦後の「短い20世紀」において、たいがいどこの先進国でも社会と国家が一体化した戦争国家warfare state、つまり福祉国家welfare stateになってしまう。
私はこれが現代社会を考察する起点だと考えています。どうしてもドイツ語でいうSozialstaat(社会国家/福祉国家)、つまり社会と国家が分けられない国民国家の現状を前提として歴史を見てしまうわけです。つまり、現代の問題を平山さんのように明治リベラリズムを起点に考えようとするか、私のように昭和ファシズムと連続している大正デモクラシーを起点に考えるか、その違いかもしれません。平山さんのご指摘を踏まえると、野依秀市という人物は、「かつて存在した明治の市民的公共圏が狭くなっていくなかで、そこをはみ出して公共的活動を続けた大衆的言論人」と捉えることができるのかもしれませんね。
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