歴史の「負け組」から見えてくるものとは 佐藤卓己氏×平山昇氏対談(後編)|『負け組のメディア史』
見落とされてきた「地方」メディア
平山 本書『負け組のメディア史』の特色の一つが、地方への視点です。メディア史は多くの場合、都市が中心になりがちです。本書で佐藤さんが描く野依秀市という人物は、自ら刊行する『実業之世界』『帝都日日新聞』といったメディアを自分の道具として使い、大実業家の渋沢栄一や哲人である三宅雪嶺にも気に入られて、東京でメディア人間として名を立てていく。しかし、45歳の1924年に地元の大分から衆院選に出馬するのですが、得意のメディア戦略すらうまくいかず大失敗します。佐藤さんは、「野依は地方の地盤がわかっていなかった」という描き方をしていますが、面白い指摘です。
私は去年の3月まで7年間福岡に住んでいましたが、東京のような大都市ではタコツボで別々になっている民俗学、歴史学、学芸員といった人たちの間の距離が近く、みんな知り合いです。東京中心のジャンルの分け方というのがちっとも通用しないような、そういう世界がある。そういう、メディア史で見落とされがちな「地方」が描れています。
佐藤 これは文庫版あとがきの最後にも書いたんですが、本書の旧版を2012年に刊行した後、私は地方新聞の経営者などメディア出身で政治家になろうとする「メディア政治家」の共同研究に取り組んでいます(科研基盤B・2015 – 2017「「メディア出身議員」調査による新しいメディア政治史の構想」、同2020 – 2022「近代日本の政治エリート輩出における「メディア経験」の総合的研究」)。戦前ではたいていどの地方にも政友会系と民政党系の新聞が並立していた。選挙戦に出馬したメディア政治家は、負ければそのまま新聞社を経営して生計を立て、勝てば誰かを主筆を立てて政治家として東京に行く、そうしたケースが多いわけです。こうした、地方新聞の性格をこれまでほとんどメディア史ではあまり研究してこなかった。「地方紙には自由民権の伝統があり、反権力の気風がいまも……」といったことを平気で言う研究者さえいましたね。
平山 ははは(笑)。
佐藤 実際はそんなことはまったくなくて、地方の新聞、その言論は、地方政治と癒着し、政党政治と一体化していた。これまでのような「権力VSメディア」という単純な図式で社会の現実は見えません。いま、新聞記者からスタートして、やがて政治家になったジャーナリストの『近代日本メディア議員列伝』全15巻(創元社)を共同研究の成果として若い人たちと計画しています。野依は突出した存在ですが、こうした「メディア議員」を象徴的に体現していたといえます。メディア史の脱中央というか、東京以外に目を向けるということも、本書から連続している私の研究方針ですかね。
ナショナリスト野依秀市の信仰
佐藤 野依は恐喝で4年間服役した後に浄土真宗に帰依し、自ら『真宗の世界』『真宗婦人』などの仏教誌も刊行するようになります。本書で残された一つの論点は、なぜ浄土真宗だったのか、ということです。野依の出身がもともと浄土真宗だったということもあるけれど、それだけではない。本書でも、「なぜ日蓮宗ではなく浄土真宗だったのか」を少し論じていますが、野依のパーソナリティからすると日蓮宗のほうがしっくりくる気がする。
確かに、マックス・ウェーバーの宗教社会学では浄土真宗がプロテスタンティズムとして扱われています。しかし、野依の生きた時代、ファナティックな革新を主張した著名人には浄土真宗より日蓮宗の信者が多い。ただ、日蓮宗は先鋭化するけれど必ずしも日本社会の多数派ではないですね。野依がメディア人間として受け手を想定したとき、こうした事を考慮して、仏教の宣伝上の立ち位置として最大多数派の浄土真宗を「選んだ」のではないかとも思うんですね。
それと、宗教の問題が重要なのは、我々の悩みや苦悩のなかには社会科学で学問的に解決・説明できる領域と、そうでない決断的な領域があります。宗教でないと解決できないことは確かに存在すると思います。そのことを認めたがらない社会科学系の人たちもいますが、こうした部分に目を向けないと世の中はわからないはずですが、それをなかなか直言できない学問的風土があったと思うんですよね。だから、平山さんがなさっている、宗教の観点からの政治やコミュニケーションのスタイルの研究への取り組みには、大変期待しているところです。
平山 どれほどナショナリストであっても、宗教にはそのナショナルを超えるものがあります。お釈迦様も、どうみたって日本人ではないですよね。野依は仏教によって、国家を重んじながら、同時に国家に100%捕らわれることはないという「余白のある」ナショナリストであると言えます。宗教をバックボーンとして持ったことが、彼の後の振る舞いにつながっていくと言えるのではないでしょうか。
それと、なぜ日蓮宗ではなかったのかについては、まったくの仮説ですが、近代の日蓮主義の主役として知られる田中智学の存在もあったのではないか、と考えています。この田中智学というのは、日蓮主義を旗印にして明治期から列車内で演説をしたり、駅で機関誌を配置するなど精力的な宣伝活動を実施し、既成の教団と喧嘩してきた、言わばミニ野間清治でもありミニ野依秀市でもあるというような人物です。
大阪大学の仏教史研究者ユリア・ブレニナさんに教えていただいたのですが、当時の東京の雑誌出版物はジャンルを問わず、大日本印刷の源流に当たる印刷会社がほとんど作っていたようです。そうなると、田中智学の機関誌や野依が手掛けた雑誌は制作過程で必ず重なっていたと思われ、野依が田中智学のことを知っていたのは間違いない。
日蓮主義は商工業者、実業者からの支持が強かったんです。簡単に言うと「あなたたちが金儲けしているのは世のため人のため、そして仏のため」というもの。官尊民卑がひどく、まだ士農工商の風潮が残っていた時代に、「あなたたちは素晴らしい人たちだ」と認めてくれる。商売人の居場所があったのが日蓮主義です。
田中智学は演説の天才で、雑誌もたくさん売り、「知り合いにこの雑誌を配るのが生きがい」という読者の投書が投稿欄に載ったりしている。『『キング』の時代』で佐藤さんが描いた野間清治のような振る舞いを、規模こそ違うものの、明治期から先取りして行っている。文書資料で示すのは難しいかもしれませんが、野依が「田中智学とは棲み分けをしておこう」と考えて浄土真宗を選んだ可能性もあるんじゃないでしょうか。
次なる野依秀市=メディア人間が現れる時代?
佐藤 平山さんが解説の最後で、「言論の自由」について言及頂いておりますが、これは特に重要な指摘だと思います。少しご説明いただけますか?
平山 野依は戦時下の1941年、「負け組」で採算の取れていない自社の新聞と「勝ち組」の大手新聞を対比する文脈で「僕は経済上の独立は出来ぬが、言論の独立は出来てゐる」という一言を発しています。自分のメディアは経営的には厳しい状況にあるが、大手新聞とは異なり自由に言論や主張ができているんだぞ、ということです。
こうした「言論の自由」に関する議論のときに、「独立」という観点を抜かして考えるのは現代の良くない風潮だと思っています。私は大学に務めて身分は安定したけれど、100%言論の独立ができているか、というと、忸怩たるところもあります。大学もじわじわ締め付けられているところがあり、それに比べると野依のこの堂々とした発言はすごいですよね。
高度経済成長期、対米従属の構図のなか日本は経済的に豊かになっていきます。そうなると、野依の「金持ちから金を貰う」図式が立ち行かなくなっていく。でも、彼は時の権力に迎合することは決してしない。商業的にはうまくいかなかったものの、転向・迎合・妥協のいずれもしなかった。ですから、その面で野依は「負け組」にはちっとも見えないんですよね。むしろ、戦後に戦前・戦中の自分たちの転向・迎合・妥協が見える語りを隠蔽してしまった大手メディアこそ、「勝ち組」ではなく「負け組」というべきかもしれません。
野依は自由と独立をセットで、もちろんリスクを取りながら活動していた人です。これは福澤諭吉以来の明治のモチーフで、自由と独立は絶対に引き離してはいけない、というもの。でも、戦前の日本は独立のほうにこだわり過ぎた結果、周りの国に迷惑をかけて、昭和20年の敗戦を迎えた。
その後、「独立」は半分フェイクで、実質的には対米従属となるけれど、飯も食えるしそこそこ自由にさせてもらえる、という社会状況になりました。個人レベルでも、大企業や官公庁に勤めて安定した生活を送ることが当たり前の人生モデルになります。つまり、戦後日本の社会は「独立」という福澤諭吉の理想の半分を削ぎ落としたわけで、それでもいいじゃないか、という考えもあるけれど、野依のような考えはそうではない。自分の言論の自由は言論の独立があってこそのもので、大手メディアのようにはならないぞ、というところが出発点ではないのかな、と。でも、みんなそこそこ食べていけるという数十年続いた時代から「格差社会」と言われるようになった現在、食事が満足にできずに亡くなる方が出てきてしまっている。インターネットというのは回線やスマホさえあれば、だれでも投稿できます。もしかしたらこれから、スマホ一つで野依のようになっていくメディア人間がでてくるかもしれない、と思ったんですね。
佐藤 いまおっしゃったことは、本書でも取り上げた、三宅雪嶺のいう「貧強新聞と富弱新聞」の区別にあたりますね。つまり、『朝日新聞』や『毎日新聞』は財力があるけれど権力に弱い富弱新聞、一方で野依の『帝都日日新聞』は貧しいけれども何でもいいたいことを言えて強い、貧強新聞だという。なるほど1944年4月に廃刊に追い込まれるまで、政府批判を繰り返し東条内閣期だけで48回も発禁をくらっている。戦時下に「抵抗のジャーナリスト」というなら、まず野依ですよ(笑)。
たしかに今から振り返ると、野依の『帝都日日新聞』は『朝日新聞』になれなかったし、同じく『実業之世界』は講談社の『キング』にも、あるいは岩波書店の『世界』にもなれなかった。でも、それなりに同時代でも特異な強度をもっていたということが、野依秀市の活動を通して見ることができます。その意味では現代の「富弱メディア」、つまり資本が大きいけれど権力に弱いメディアも、いま曲がり角に来ている。それに対してSNSが「貧強メディア」と言えるかもしれないし、そういう貧強メディアの未来に向かいつつあるのかもしれません。SNSには、それこそ野依が持っていたある種の野蛮さ、世間から眉を顰められるような部分も数多くあります。「天下無敵」と呼ばれた野依を取り上げる本書は、こうした現状を考える一つのきっかけにはなるだろうな、と思いますね。
逆張りか、先見か――負け組から見えてくる風景
平山 野依はハチャメチャなことばかり言うように見えますが、必ずしもそうではない。大正期以降、学歴の高い人や軍人を含めて偽史やオカルトに走る人も出てきますが、野依は絶対にそっちへは行かなかったですよね。
佐藤 たしかにそうですね。また、野依自身は男女関係にルーズだったと自慢もしていますが、自らを売り出している『実業之世界』や『帝都日日新聞』上で、色恋沙汰をネタにすることはほとんどなかった。グロい「政治」は大いに書くけどエロい「性事」はネタにしないところも、国家のことからは一切外に出なかった、という平山さんのご指摘と重なるように思います。
それと、これは個人的なことでもあるんですが、かつて中公新書で『言論統制』(2004)をまとめたとき、陸軍の情報官だった鈴木庫三少佐が1939年の日記に『実業之世界』で対談をしたと書いていて、その中身を知りたくて調べたことがあります。その執筆当時は対談記事が見つけられず、あとになって別冊で書籍扱いの1200頁もある『興亜産業経済大観』に収録されていたことがわかりました。そこで鈴木少佐は「日本人は生活費が高い、満州人、支那人は非常に低い、この儘(ま)まで行つては到底手を握ることが出来ない。……[生活標準を引き上げてやれば]やがて技術に於いても其の他の文化に於いても、五十年以内で満人、支那人は日本人に追ひつきます」と当時の植民地的支配を批判し、家族主義的な「日満支新生活運動」を提唱します。これに他の座談会の出席者がドン引きしてしまい、対談がまるでまとまらなかった。ところが、野依だけは「私は鈴木少佐の説に全然(まったく)同感です」と答えている。そしてこの座談会を編集校正したのは、実業之世界社に身を寄せていた社会主義者・荒畑寒村なんですね。
どこまでが野依のオリジナルなものか疑わしい面もありますが、石橋湛山が述べていた小日本主義に近い主張を同じ時期に野依は展開していました。それから80年以上を経た現在、中国の著しい経済発展を見ると、鈴木庫三が主張し、野依が同意した方向に世の中が動いているように見えます。野依秀市という「負け組メディア」の視点からは、これまでの主流派=現在まで生き残っている勝ち組メディアとは違う風景が見えてくる。そういうところも、現代の私たちの参考になると思いますね。
平山 野依は体当たりでオンデマンドに言説を行うなかで、例えばいち早く「婦人参政権を認めよ」という現代とフィットするものも出しています。彼は「逆張り」なんて言われていましたが、当時「婦人参政権をみとめればいい」と、簡単に言えるものではなかったはずです。
80年代や90年代だったら、この本の良さがわかる人が今より少なかったかもしれないですね。同時代では狂気に見えているものが、別の時代ではある種の正気であったりする、そういったことが、野依の言説のバリエーションから伺えます。特に、冷戦崩壊後の新しい軸ができあがらないうちに9.11が起こり、世界的に感情的な政治や分断が拡がって世界状況はますます不透明さを増しています。そうした現在こそ、佐藤さんが野依を掘り起こしたことの意味がより強く見えてくるのではないでしょうか。
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