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『図書』4月号 【試し読み】熊野純彦/清水真砂子

 『図書』は大勢の知的好奇心あふれる読者に半世紀以上愛読されてきた「読書家の雑誌」です。
 古今東西の名著をめぐるとっておきの話やエピソード、心を打つヒューマン・ストーリー、旅のときめき体験、人生への思索などを綴る、滋味あふれるエッセイの数々。
 文学・芸術・学問の面白さを語る対談・座談・インタビュー。若手からベテランまで『図書』ならではの一流の執筆陣が書き下ろす文章の力と味わいは、日常生活にピリッと刺激を与えるスパイスの働きをするはずです。

 ・本誌は毎月 1日発売です。
 ・A5判,本文 64頁,定価(本体93円+税)
 ・年間購読料 1,000円(送料込み) お申し込み方法はこちら

〇目次〇

[読む人・書く人・作る人] マルクス、宣長、アマゾン(熊野純彦)
ル=グウィンは今も私たちの傍らに(清水眞砂子)
穏やかな朝(奥田浩史)
〈鼎談〉見えないものを表す(赤坂憲雄×石内都×梯久美子)
日本占領下の愛玲たち(濱田麻矢)
時代を切りとる(須田努)
ナポリを見てから死ね(佐伯泰英)
誕生日・范蠡・深仕舞い(さだまさし)
デストピア小説の普遍性(柳広司)
中原中也(2) (加藤典洋)
我ら、犬ころズ(ブレイディみかこ)
わかる、わからない(齋藤亜矢)
道化の出現(若松英輔)
ロンドンの桜の花に、晩年のヴェイユを偲んでみる。(冨原眞弓)
黄泉の坂・黄泉の穴(三浦佑之)
こぼればなし  
         

〇読む人・書く人・作る人〇

 マルクス、宣長、アマゾン(熊野純彦)

 七、八年まえ、もういちどマルクスの『資本論』を徹底的に勉強しなおそうと心ぎめして、研究文献を集めはじめた。いくども古書店街に足をはこび、絶版となっている研究書の多くを入手した。御茶ノ水駅近辺の古書肆では「マルクス関係はもう売れないんだよ」と声をかけられ、神保町では「今でもこんな本を必要とするひとがいるんだね」とも言われてしまった。
 いたく反動的なことを書くけれど、もともと「あたらしい」ものに対して、いわれなき敵意をもつタイプである。いまでもネットで調べものをすることはないし、アマゾンなど、当時はなまえしか知らなかった。「リアル」な世界を動きまわり、足で集めた多くの本が、今年のはじめ岩波新書から出して頂いた拙著『マルクス 資本論の哲学』を支えてくれている。
 四、五年まえから、本居宣長関係の書籍を集めている。その間、二年にわたり学部長室に幽閉されていたので、アマゾンに手を出し、「日本の古本屋」の客となった。――そして、現在、いったん手にした便利さを、もう手ばなせなくなっている。
 アマゾンは程なく流通形態のすべてを変えてしまうだろう。マルクスのことばを使えば、アマゾンという時間操作の怪物はいよいよ空間を絶滅してゆくはずだ。拙著は『資本論』のなかに、資本制が圧しつぶしてゆくちいさなものたちへの視線をも読みとろうとするものだった。そのような本を書いてしまった者として、目のまえで不可逆的に進行している事態をどのようにとらえればよいのかを考えはじめ、考えあぐねている。(くまの すみひこ・哲学者)

〇4月号の記事から〇

 ル=グウィンは今も私たちの傍らに(清水眞砂子)

 一月二十四日朝、地元紙の記者から取材の電話が入り、アーシュラ・K・ル=グウィンの逝去を知らされた。その前日だったか、アラスカ湾沖で大地震発生とのニュースに、私はアーシュラは大丈夫だったろうか、こわい思いはしなかったろうかと心配していたところだった。某紙に寄せた追悼文にも記したように、二〇〇三年夏、オレゴン州ポートランドのお宅を訪ねた折、セント・ヘレンズ山を見はるかす高台に夫君チャールズの運転する車で案内してくださった時、山の噴火のもようを、そしてその恐怖を、いたいけな幼い女の子のように語ってくれたからである。
 私は電話のむこうの記者に亡くなった時刻をたずね、頭の中で急いで時差を計算。ああ、よかった、とそっと胸をなでおろした。ポートランドがたとえ揺れたとしても、その恐怖は感じることなく旅立ったはずだ。
 
 ここ十数年、つまりこちらが六十代に入る頃から、これは誰にも起こることなのだろうが、日本だけでなく海外の近しい人々の訃報に次々と接するようになった。二〇〇〇年に入ると間もなく、ソルジェニーチンの英国への紹介者として知られる、名高い編集者であり、若い時からスコットランド独立運動の闘士でもあったジェイムズ・マクギボン(一九一二年生まれ)が亡くなり、その二年後にはパートナーのジーン(一九一三年生まれ)が亡くなった。ジーンの『ハル』を訳したことが夫妻と、さらにはその家族と近しく交わるきっかけとなった。

 そして二〇〇六年十二月には、翻訳の機会こそなかったものの、二十余年有形無形の語らいを続けたフィリパ・ピアス(一九二〇年生まれ)が逝き、二〇一二年には何点かの翻訳もすれば、来日の折には拙宅にも泊まっていただいたニュージーランドのマーガレット・マーヒー(一九三六年生まれ)もこの世を去った。IBBY(国際児童図書評議会)の会報誌に平和を生きのびることのむつかしさを書いたとき、すぐに共感の手紙をくれたオーストラリアのパトリシア・ライトソン(一九二一年生まれ)もまた、二〇一〇年三月には亡くなっている。昔風に干支でいえば、ちょうどひと回り上のアーシュラに何が起きても不思議はない。私たち夫婦はそれまで届いていたクリスマス・レターへの返事が、続けて届かなかったことに、ある予感のようなものを覚えていた。

 新聞社からもたらされた逝去の知らせに、私たちはル=グウィンからの手紙をおさめてあるファイルをとりだした。最後の手紙は二〇一五年元旦のどうやら午前に書かれたもの。きんと空気のひきしまった中、新しい年が明けていくその朝の美しさを短い文章に綴ってくれていた。
 「まさに詩だね。」夫がその透明な文章にあらためてうなり、十二年たってなお、ポートランドで共に過ごした二日間に触れてくれていることに、私たちは胸を熱くした。
 私たちは今、ファイルの手紙を少しずつさかのぼって読み直し始めている。夫とふたりで読む時もあれば、私ひとりの時もある。私信を公表するのはためらわれるが、今日も私はあらためて、ひとり、じんと胸を熱くした。

 それはまだ直にお会いする四か月ほど前の二〇〇三年四月四日付の手紙。二つ折りのカードの手紙はこんな文章で始まっていた。
 Thank you so much for the good news of “our” The Other Wind! I am happy to hear it.
 (ああ、“our” とまで書いてくれて……。この一語にあの時私はどんなに元気づけられたことか。)
 そう。よく憶えている。私は前々便(二〇〇三年一月十三日付)で、小さな女の子がするように、アーシュラに言い付けたのだ。「ゲド戦記」(このシリーズ名も今となっては大いに問題ありなのだが、第三巻までの時点ではこう命名されてもやむをえなかったとも思う。)最後の巻The Other Windの日本語版タイトルをめぐって、担当編集者と折り合いがつかず、困っていると。そして私は編集者が出してきたタイトルを英語で説明し、自分にはかくかくしかじかの理由でどうしても納得がいかないこと、私自身は英語でいえば××××のタイトルにしたいのだが、作者のあなたはどう思うかとたずねたのだった。

 ル=グウィンからは時をおかず私の主張する邦題を支持する旨の返事がきて、私はその手紙を編集者に見てもらって、いま一度両者で邦題を検討。そして、日本語版の書名は『アースシーの風』に落ち着いた。私はすぐにル=グウィンにそのことを報告。前にあげた二〇〇三年四月四日付の手紙はその報告を受けてのものだったのだ。
 が、この日の手紙はここで終わってはいなかった。それどころか、このあと続く手書きの文字はカード見開きの右ページから左ページへ移り、じきにそこもいっぱいになって、おやと気づいてル=グウィンの印した矢印を追えば、すでに読みおえた右ページの裏へと続いて、さらに三行。そしてようやく結びのあいさつとなっていたのである。
 そう。この年の春ル=グウィンには、自著の日本語版のタイトルもさることながら、もしかすると、それをはるかにこえて、書かずにはいられないことがあったのだ。

 そして私もまた、「ゲド戦記」最終巻が作者・訳者・編集者の三者合意の上で『アースシーの風』という書名を冠されて初めて書店に並んだ二〇〇三年三月二十日の夜は、一方に安堵の気持ちを抱きつつ、また一方には止むに止まれぬ焦りを抱いて、東京のアメリカ大使館をとりまく大勢の人々の中に、ひとり身を置いていた。アメリカのイラク侵攻にせめて抗議の意思を示したいと、すぐ近くで催されていた勤務先の短大の卒業パーティーをぬけ出してきたのだった。
 アーシュラ・K・ル=グウィンが二〇〇三年四月四日、自著の日本語版の書名が納得のいくように決まったことへの安堵以上にスペースを割いて書いてきてくれたこと、それは自国のイラク侵攻に対する抗議の意思であり、怒りであり、そして、自国の政府は世論調査では国民の七〇パーセントが今度の戦争に賛成というけれど、町で人々と話すかぎり、とてもそうは見えないとの彼女の受けとめ方だった。もっとも、そう書いたすぐ後に「とはいえ、できることなら政府に反対の意思表明はしないですませたいと思っている人が多いのも事実だけれど」と書き添えることも忘れてはいなかった。

 ル=グウィンはこの年「イラク戦争に抗議する詩人の会」を一三〇〇〇人の仲間と立ちあげており、日本でもネットでそのサイトにアクセスした人々は少なからずいたのではないだろうか。
 彼女はその創作活動で時間・空間を縦横にとびかいながら、しかし、けっして根なし草にはならなかった。ル=グウィン夫妻は共に、自分たちがアメリカ合衆国の市民のひとりであるとの自覚をもち、その責任をいつも感じていたのではないかと思う。二〇〇三年八月、私たち夫婦がポートランドで夫妻に迎えられた初日、ふたりが最初に連れていってくれたのは、大戦中の日系人の強制収容所を自ら記憶しておくべく、アメリカ市民が建てた石碑の前だった。私たちは、個人でありながら、同時に収容所に入れられた日系人に連なる者として迎えられたのだと思う。夫妻はそんなことは何ひとつ口に出しては言わなかったけれど、私たちはそこに夫妻の人間存在への深い誠実さを見ないではいられなかった。

 「ゲド戦記」とは何だったか。アーシュラ・K・ル=グウィンが三十余年、六巻にわたる作品を通して私たちに問いかけたことは何だったのか。百人いれば百通りの読み方があるだろう。それでいいと思う。それこそ当然だと思う。訳者の私が見せてもらったその地平については、すでに二〇〇九年二月号の本誌に記した(「ある夫婦の肖像――『ゲド戦記』再訪」。拙著、かもがわ出版刊『本の虫ではないのだけれど』に収録ずみ)。

 今、そろそろペンを置くべき時を前にして、ル=グウィンとの三十余年にわたる、主として作品を中にしての対話の日々が私自身の暮らしに開けてくれた窓のこと、そこに見えた風景、聞こえてきた声を少しだけ記させていただこうと思う。
 「ゲド戦記」の読者の皆さんはノコギリソウのことを憶えていてくださるだろうか。植物のノコギリソウは日本にもあるし、スコットランドを旅した時にも見つかったし、中央アジアの平原にちょっとだけ足を踏み入れた時にも、そこに白い花を咲かせていた。もちろん、今ここでたずねたノコギリソウは、「ゲド戦記」にほんの少しだけ登場するカラスノエンドウの妹のことである。私が勤務先の定年退職を待って地域の仲間と始めた読書会は六年続いて今は休会中だが、この会の名まえが全員一致で「ノコギリソウの会」と決まったとき、ル=グウィンはすぐにお祝いのカードを送ってきてくれた。みんなの顔が輝いたのは言うまでもない。カードはコピーして、今はみんなが持っている。

 いまひとり、訳していて次第々々に目を見張り、あゝ、作者はこの人が大好きなんだ、と思った人物がいる。アフガニスタンの女性たちが身にまとうブルカを思わせる服を着た、不器用な不器用な娘。が、ル=グウィンはこの娘の服のすそにわずかにのぞく足をなんと美しく健康的に描いていることだろう。そう、あの娘だ! 名は……。いや、それは言わないでおこう。
 ある時、横浜で高校生たちと「ゲド戦記」を語り合った夕、帰りしなにそっと近づいてきて、「わたしは○○○○がいちばん好き。」とだけ小声でその娘の名を言い、急ぎ去っていった女子生徒がいた。(ああ、ル=グウィンにすぐにも伝えたい。)と思った。

 「うちの生徒たちには『ゲド戦記』はむずかしくて……。」と学校の先生方はよくおっしゃる。が、実際に私の耳に届く若い人たちの声はそうした先生方の思い込みをうれしくも裏切っている。東北のある高校の図書館司書の方は、生徒のひとりが最終巻『アースシーの風』の最後の場面が象徴的に語るところをあやまたずとらえて、その感動を語ってくれたと、静かに喜びを伝えてきてくれた。
 どこでだったか、今やはっきりとは思い出せないのだけれど、「『ゲド戦記』の一巻から三巻まではヤング・アダルト向き、四巻以降はシニア・アダルト向き」とたしかル=グウィン自身が語っているのを読んだ記憶がある。なるほどとうなずいたが、そんな区分けなど意識せず、若い人たちが「ゲド戦記」を楽しんでくれているのはうれしい。が、それでも私は今また思い出している。第四巻『帰還』が出て間もなく、六十代半ばと見える方がそっとつぶやくように言ったことばを。「これは定年退職後の私たちにとって、バイブルとなる本ですね。」あの方は『アースシーの風』最後の場面をどう読まれたろうか。それはまだうかがっていない。 (しみずまさこ・児童文学翻訳家)

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