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作家、高橋三千綱の生き様(高橋奈里)

 芥川賞作家の高橋三千綱さんが、今年(2021年)8月に亡くなられました。

 岩波書店の「図書」に、高橋さんならではの闘病記、「作家がガンになって試みたこと」を連載し、それは本にまとまりました。ただ、高橋さんの闘病生活はそれでは終わらず、病との闘いは続いたのです。その記録はやはり『図書』に「帰ってきたガン患者」として綴られました。

 この度、『作家がガンになって試みたこと』『帰ってきたガン患者』を電子書籍として配信を開始しました。『帰ってきたガン患者』は、電子書籍オリジナル版です。たくさんの高橋さん、高橋さんのご家族の写真も収められています。そして、お嬢様にあとがきとして、高橋さんの最期を綴っていただきました。ここに、お嬢様・高橋奈里さんのその文章を掲げ、高橋三千綱さんのご冥福を祈りたいと思います。

 

父の愛犬、ブル太郎

 

 2021年1月26日、「今腹水を抜いている」と手術前のパンパンになったお腹の写真と共に父からLINEが入った。写真を見ただけでこちらが苦しくなるほど膨れていた。すぐにでも日本に帰国したい気持ちになったが、コロナ禍の中で五歳の娘とロサンゼルスから日本に帰国するのは容易な事ではなかった。
 2021年2月6日、退院した父からLINEが入った。
 「パパは今、体が非常に悪い状態にある。まだ上手く歩けない。最悪だな。だけど、二つの異なったテーマで新作を書いている。難しい時代なので出版できるか未知数だ。だが諦めずにやっている」
 父が私に「体が非常に悪い状態」と伝えてきたのは初めてだった。このメッセージを受け「今日本に帰国しなければ一生後悔する」、私は直感的に感じ帰国を決めた。
 2021年4月25日、ロサンゼルスから五歳の娘と一緒に羽田空港に到着した。一体父はどんな状態なのだろうか。痩せ細っているのだろうか。父にやっと会える嬉しさ、そして何とも言えない緊張感を感じながら実家へと向かった。
 「よく来たな。大変だっただろう」
 父は私たちを笑顔で出迎えてくれた。
 「腹水が溜まって妊娠8カ月の妊婦みたいだろ。足もパンパンだ」
 想像していたよりも父は元気そうで安心した。
 しかし翌日、父が洗面所で吐血。狼狽える母を横目に、私は急いで救急車を呼んだ。救急車が到着すると救急隊員は色々と質問をしてきた。母は動揺していてまともに質問に答える事は出来なかったが、代わりに父がしっかりと答えていた。救急車の扉が閉まる直前に父は、「大丈夫だから。あまり大袈裟に考えるな」、そう私に言い残し病院へと運ばれていった。
 そして2時間後、病院に付き添った母から連絡が入った。
 「パパ、今夜が山だって。コロナの影響で病室には入れないから、生きているパパにはもう会えないと思う」
 私の思考回路は完全に止まった。その夜は、病院からの連絡が怖くて眠れなかった。
 そして入院から3日後、身体中が管に繋がれている写真と共に父からLINEが届いた。
 「3人部屋だが使っているのは1人だけ。コロナウィルスの検査が明日終われば個室に移れるかもしれない。辛いけど、まだまだ頑張るぞ」
 父からの連絡に私は驚いた。もう生きている父と話す事は出来ないだろうと気持ちの中では覚悟していたからだ。
 「生きたいと思う気持ち」
 父の強い思いが、またしても奇蹟を起こした。
 
 それから父は、毎日体調の報告をしてくれた。会えなくても直接父とやり取りが出来るだけで幸せだった。そんな中、父は私に、
 「コロナのワクチン接種をしたいから予約して欲しい」
 そうお願いしてきた。
 「何を言っているんだ。医者からはいつ死んでもおかしくない状態だから覚悟しておくようにと言われているのに」と私は心の中で思ったが、父には言えなかった。母に相談すると、
 「パパの好きにさせてあげて」
 母がそう言うならと、私は父の思いを尊重する事にした。
 入院中の父に、ワクチンが予約できたことをLINEで伝えるとすぐに返信が来た。
 「了解。考えていた時期より早く打てるので期待している。幹細胞というのを知っているか? 細胞の中でもこいつが戦う。だが年をとると幹細胞は眠りこける。パパの腹水が肝硬変の副作用で腫れ上がっても、身内だとみなして戦おうとしない。実際、外敵ではないから知らん顔だ。しかしコロナワクチンは違う。ウイルスが薄められて入っているのだが、立派な外敵の侵入だ。そこで白血球の中の幹細胞は目覚める。主人の身体を守ろうと立ち上がる。このとき、復水を起こしていた悪い因子をも撲滅してくれるのではないか、というのがパパの希望なのだ。それは奇蹟である。しかしやってみなくては分からない」
 父の考えに度肝を抜かれた。コロナのワクチンをそんな風に考える人なんて世界中探しても高橋三千綱だけだろう。この10年間で、私たち家族は何度医者から「覚悟して下さい」と言われたことだろう。その度に父は奇蹟を起こしていた。だからこそ、父の宇宙人的な考えを素直に受け入れる事が出来た。
 そして10日間の入院の末、自力で呼吸が出来るようになり奇蹟的に退院した。
 2021年5月24日、退院して2週間経った頃、1度目のワクチン接種の日が訪れた。母と私以外の人たちは、みんな父がワクチンを打つことを猛反対した。
 「そんな体で打ったらその場で死んでしまう、家族が止めるべきだ」
 周りには散々言われたが、何を言われようと母と私は父の意見を尊重した。
 そして父は1度目のワクチン接種に臨んだ。
 心配していた副反応は全くなく、それどころか元気になった父。接種した翌日から3日間、父は歩くだけでなくスクワットなどのトレーニングまで行えるようになった。
 6月に入ると脳症を起こすようになり、高橋三千綱の人格が薄れる日が度々あった。歩く事も困難な状態になり、体調は日々変化していった。食道癌の影響か声が出なくなり、意思疎通をするのも難しくなった。そんな中、2021年6月24日、2回目のワクチン接種日が訪れる。母も私も、主治医の先生など、父の今の状態を知る人達全員が、ワクチン接種は絶対無理だと言った。しかしワクチン接種当日の朝、「何が何でもワクチンを接種する!」そう言って、父は出掛ける準備をしていた。父はワクチンに生きる望みをかけていた。母と私は、そんな父の想いを尊重した。そして父は、誰もが無理だといった2度目のワクチン接種に臨んだ。
 
 2回目のワクチンを終えた父は、驚くべき回復を見せた。なんと、出なくなった声が出るようになり歩けるようにもなった。「この人は人間なんだろうか」と主治医も看護師も私も、みんなが驚いていた。父の驚異的な回復は1週間程続いた。
 だが実際は、身体中が病に侵され限界をとうに超えていた。ワクチンを打つ度に驚異的な回復を見せたのも、全ては父の生きたいという強い想いからだった。7月半ばになると、水を飲むのも厳しいほど食道が狭くなっていた。水を飲もうとすると咳き込み、腹水も取った翌日には膨らみ、もう見ているのが本当に辛かった。
 それでも父は決して生きることを諦めていなかった。
 「まだまだ書きたい事があるんだ。NHKの時代劇も狙っている」、そう言って、少しでも体調が良い時は、寝室の隣にある書斎へ行き、執筆活動をしていた。指も思うように動かす事が出来なかったが、他人の力を借りる事なく、自分の力で、はぁはぁと苦しそうな呼吸をしながらタイピングしていた。
 2021年7月22日、父は最後の望みをかけ、T大学病院へ向かった。
 「一か八かで良いんです。手術中に死んだって構わない。食道を拡げる手術をしてもらえませんか」
 院長先生からの言葉は、
 「三千綱さん、もう医療の限界なんです」
 その言葉を聞き、父は絶望的な顔をしていた。私たち家族も絶望的な気持ちになった。しかし翌日、必死でパソコンを操作し、食道狭窄の手術をしてくれる病院を探していた父の姿があった。
 呼吸をするのもやっとなのに。これほどまでに父の生きたい気持ちは強いのか。その姿に心が打たれた。
 
 2021年8月2日、父は私に、死ぬ前にどうしても「ゴジラvsコング」が映画館で見たい。そう訴えた。外出なんて到底出来る状態では無かったが、どうしても父の願いを叶えてあげたかった。いつ死を迎えることになってもおかしく無い状態というのは、誰が見ても分かっていた。父の姉夫婦に協力をお願いし、4人で映画館へと向かった。そして父は最後まで「ゴジラvsコング」を鑑賞した。
 2021年8月15日昼過ぎ、父は私を2階の寝室に来るよう呼び出した。そして父は私に遺言を言った。酸素濃度は低すぎて測れる状態では無かった父。それでも必死で声を出し私に伝えた。その夜、私はまた父に呼び出された。寝室へ向かうと「何か食べたい」と言う父。私はゼリーを父の口へと運んだ。ゼリーを食べ終わると、歩く練習がしたいと言い出した父。私は必死で父を立ち上がらせ、肩を貸した。
 目を開けている父と接したのは、この日が最後だった。
 父の最期の願いを叶えるため、母は眠っている父の唇にそっと日本酒を付けた。その瞬間、父は微かに反応した。
 
 そして2021年8月17日、午後2時半、高橋三千綱は眠るように旅立った。
 命と同様に作家であることが大切だった父。新たな世界でも作家として生きて欲しい。そんな想いから旅立ちの服は、43年前に着た芥川賞授賞式のタキシードを身につけた。実にカッコよく、新しい世界への旅立ちに相応しい姿だった。
 
 誰に媚びる事なく、
 思った感情をストレートに表現し、
 いつも自分の感情に正直に生きる。
 
 そんな父と最期を共に過ごせた事は私にとって一生の財産だ。

    2021年10月

高橋奈里 
ロサンゼルスにて
 

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