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『思想』2022年1月号 【特集】 チャールズ・テイラー

◇目次◇

思想の言葉………島薗 進  

【座談会】 テイラーをいかに読むか………千葉 眞・高田宏史・梅川佳子・辻 康夫
民主主義における緊張………チャールズ・テイラー
文化的多数派による文化防衛の正当性………石川涼子
テイラーの世俗化論の一断面――排他的人間主義の出現,交差圧力,宗教的暴力vs.アガペーを中心に………千葉 眞
政治哲学と「世俗化」論――マルセル・ゴーシェとチャールズ・テイラー………宇野重規
テイラーの世俗主義論――ハーバーマスとの批判的対話………木部尚志
テイラーの政治理論と実在論――「地平の融合」の理解をめぐって………高田宏史
テイラーの「信仰の道」………坪光生雄
アンスコムの『インテンション』とテイラーの『行動の説明』について………梅川佳子

 

◇思想の言葉◇

 『世俗の時代』の歴史哲学と宗教研究

 島薗 進


世俗化論の系譜のなかで
 世俗化は宗教社会学の論題としてはそれなりの蓄積がある。宗教社会学の祖ともされるマックス・ウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』(一九〇四―五年)は、信仰の純化を目指したプロテスタンティズムが、逆説的に世俗への積極的関与を押し進め、結果として「精神のない享楽人」、「心情のない享楽人」をもたらしている、その傾向は増大していくのではないかと憂いのうちに結ばれていた。
 世俗化が進み宗教が力を失っていくと、社会の統合力が失われていくのではないか、という疑念は、もう一人の宗教社会学の祖であるエミール・デュルケムの『自殺論』(一八九七年)や『宗教生活の原初形態』(一九一二年)からも引き出されるものである。社会の機能分化が進むと、宗教は公的領域から撤退していき、私的な関心事となる。公共空間において宗教の不在が強まっていくことは、社会の統合力を弱める。それは個々人の精神の安寧をも脅かすのではないか。
 第二次世界大戦後の社会学者による世俗化論は、公共領域からの宗教の撤退を世界的な動向から示そうとするような方向と、世俗化の進行を教会の礼拝行事への出席の減少とか、神の実在や死後の生への信念の後退を実証的に示し、その理由を示そうとするような方向に進んだ。これはチャールズ・テイラー『世俗の時代』(二〇〇七年)の世俗性の三類型からいうと公共的空間の世俗化に注目する「世俗性1」と、宗教的信条と実践の衰退に注目する「世俗性2」との方向からの論だった。

世俗化論の限界の議論
 その後、一九八〇年代からは世俗化論の限界を示そうとするような議論が増えてくる。『聖なる天蓋』(一九六七年)で世俗化を不可避の展開と見なしていたピーター・バーガーが自らの「世俗化論」は誤りだったと認めるのは一九九〇年代の前半であり、冷戦後の「文明の衝突」が憂えられるような状況においてだった。一九六〇年代から米国の国家儀礼や政治演説のなかにかつてルソーが予測した「市民宗教」が実在することを示そうとしたのはロバート・ベラーだが、八〇年代には若い学者らとの共著、『心の習慣』で「聖書的伝統」の根強さを示そうとした。公共空間における宗教の影響力の持続について論じたホセ・カサノヴァの『現代世界における公共宗教』が刊行されたのは一九九四年である。
 自ら宗教音痴を自認する社会学者であり、宗教社会学にはさほどの親しみがないウルリッヒ・ベックが伝統的な宗教とは一線を画す個人的な宗教性に注目し、『〈私〉だけの神―平和の暴力のはざまにある宗教』を著したのは二〇〇八年、哲学者のユルゲン・ハーバーマスがローマ教皇になる前のラツィンガー枢機卿との対談に臨んだのは二〇〇四年のことである。後者は後に『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』として刊行される。前者は私領域における世俗性の限界を、後者は公共圏における世俗性の限界を強く意識したものである。そのハーバーマスとチャールズ・テイラーにジュディス・バトラー、コーネル・ウェストが加わった『公共圏に挑戦する宗教―ポスト世俗化時代における共棲のために』の原著が刊行されたのは二〇一一年のことである。

歴史哲学的な宗教/世俗論
 こうした世俗化論をめぐる歴史的文脈を振り返ると、どちらかというと楽観的な世俗化論に与していた戦後の宗教社会学の枠内に、かつてウェーバーやデュルケムが抱いていたような世俗性の限界についての認識がようやく組み込まれるようになってきたとも言える。とはいえ、歴史哲学的、文明史的な展望をもってその意味を問うような論にまでは展開していなかった。
 『世俗の時代』は大きな歴史哲学的な展望をもつ世俗化論であり、これまでの世俗化論とは質的に異なる新たな位相のものと言える。もっともテイラーは、かつてウイリアム・ジェイムズが『宗教的経験の諸相』(一九〇二年)のもととなった講演を行った伝統あるギフォード講座で、既存の宗教社会学的な世俗化論を検討し、『今日の宗教の諸相』(二〇〇二年)として刊行している。この題はもちろんジェイムズの著書名を強く意識したものである。既存の世俗化論を踏まえるとともに、西洋人文学の伝統を継承する者として、親しんできた近代西洋哲学史、思想史・文芸史を見渡しつつときに掘り下げ、太い哲学の軸を通し、力業でまとめられた著作である。
 一九八九年の『自我の源泉』との問題意識の重なり合いはテイラーの仕事に詳しい論者が指摘しているが、哲学的なグランドセオリーの新たな提示者としてのテイラーにとって、「世俗化」がその論題となったことはまことに興味深いことである。『世俗の時代』は、現代世界において哲学的省察を行う上で、宗教が主要なテーマの一つであるということを分厚く論証しようとしたものと捉えることもできる。これはイスラーム圏やインド、中南米やアフリカを見ればさほど不思議がことではないが、「西洋」と呼び習わされてきた、また世界の哲学や学術を今なお主導していると見ることができる北大西洋世界(テイラーの用語)において、それが妥当するのだと示そうとしたものである。

世俗化論の更新
 『世俗の時代』の中心的なテーゼは、「世俗化1」、「世俗化2」ではなく、「世俗化3」こそが妥当だというものだ。その「世俗化3」とは、「神信仰が挑戦を受けることなく、まさに当たり前のものとして受け止められていた社会から、さまざまな選択肢があるなかでの一つの選択肢―しかもしばしば簡単には受容できない選択肢―として受け止められるような社会において認められる」もの(『世俗の時代』上、三頁)とされる。これは世俗化が確かに進むがそれには限界があるということ、そして有神論に対抗し、有神論は衰退していく過去のものと見なす排他的人間主義、あるいは世俗的人間主義の立場にも限界があることを示そうとするものである。
 「世俗化3」は中世から近世へと移行し、人文主義が勃興し宗教改革が起こる時期から五〇〇年の変化として捉えられている。この間にどのようにして神信仰が自明のものでなくなり、他の選択肢が浮上してくるのかについて、主に哲学史、思想史、文芸史的な素材を取り上げつつ、議論が展開していく。その過程は「近代科学の知が普及していくに従って神信仰が後退していった」というような単純なものではない。自己意識のあり方が変化し、ミルチャ・エリアーデらが示したような「多孔的な自己」から「緩衝材に覆われた自己」への変化が起こる。宮廷社会のマナーが社会へ浸透していく「文明化」に注目したノルベルト・エリアスの議論や、監視される自己の内面化が起こるとするミシェル・フーコーの議論など、「生きられた経験」に注目する社会史的な議論が注目されている。これらはウェーバーの「脱魔術化」を二〇世紀後半の人文学の地平によって捉え返したもので、従来の世俗化論を大きく越える広がりをもっている。
 啓蒙主義は脱魔術化を伴うこうした社会史的な過程を反映しながら形成されていったものである。啓蒙主義は理神論と同時代的であり、キリスト教が自ら合理化の道を押し進めたという側面も無視できない。これは宗教改革前後の「大文字の改革」の展開を引き継ぐものとして捉えることができる。

排他的人間主義と有神論という枠組み
 近代科学を踏まえた啓蒙主義の宗教否定の言説こそが、宗教の衰退をもたらしたというのが「主流派(排他的人間主義)の物語」であるとすれば、「私の物語」はより複雑なものとなる。とりわけ、キリスト教そのものが「緩衝材に覆われた自己」を推し進めた側面もある。また、フランス革命以後の民主主義や市場経済の発展がもたらした「近代の社会的想像」も、大きな役割を果たした。自由・平等・博愛に対応するような独立した個々人の交わる場としての社会の像が、「生きられた経験」に反映し、宗教的な次元を遠ざける「緩衝材に覆われた自己」をさらに深く浸透させていく。
 だが、こうした変容がもたらす「世俗化3」に抗うように、宗教性のさまざまな表出が行われてきた。テイラーが注目するのは、哲学・文芸・芸術の領域での現れであって、代表的なものはロマン主義である。ピーター・バーガーらの宗教社会学者なら東洋の宗教やグノーシス主義やスピリチュアリズムなどを例にあげて『異端の時代―現代における宗教の可能性』(原著、一九八〇年)を取り上げるのは欠かせないところだ。ところが、テイラーがあげる例はあくまで「有神論」の枠内と捉えられるものである。仏教等への関心の持続的増大を考慮に入れるとき、この点は、ややもの足りなく思われるところである。
 本書がねらいとするところの一つは、自己を「世俗」に定位し、それこそが現代における正統的な立場だと信じて疑わない「排他的人間主義」「世俗主義」の意識を揺さぶるところにある。「超越」への視線を欠いたこのような立場が、西洋においても「有神論」と背中合わせに存在していることの認識を促し、有神論的な過去という基盤の重要性を見失うべきでないことを強く訴えかける大著である。方法論的西洋中心主義という点でも、世俗主義的近代の閉塞への警鐘という点でも、ウェーバーの地平を更新し、宗教/世俗を焦点に人文社会諸学を見渡した歴史哲学の書である。東アジアで人文学に取り組む立場からは、仏教や儒教や「日本の宗教」が「超越」の不在とどう関わるかを問い直さざるをえないところでもある。

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