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赤坂憲雄×三浦佑之 「遠野物語」の新たな読みに向けて

1910年(明治43年)6月14日、わずか350部の自費出版として世に出た『遠野物語』は、いまや複数の文庫に収録され、100年を超えて読み継がれています。
その『遠野物語』の柳田国男による自筆草稿などを収録した『原本 遠野物語』が、今年1月に刊行されました。編集委員として出版に携わった三浦佑之さんと赤坂憲雄さんが、この本の豊かな可能性について語りあいました。
 

『遠野物語』の普遍性と世界性

赤坂 以前、遠野にアメリカやカナダの研究者を招き、シンポジウムを開催したことがあります(国際フォーラム「21世紀における柳田国男」。2012年、遠野文化研究センター主催)。そこでアラスカ大学の先生が、英語訳の『遠野物語』で授業をすると、学生たちが繰り返し2つの感想を書くとおっしゃっていたんですね。1つは、「不思議だ」。もう1つは、「懐かしい」。その「懐かしい」という言葉に、とても揺さぶられました。
 
 おそらく『遠野物語』には、日本人の体験や感性だけでなく、普遍性が深いところに横たわっている。世界文学としての『遠野物語』というものがありえるのではないかと感じています。
 この小さい本が100年を超えて生き延びていることもすごいことですが、柳田国男が佐々木喜善に聞き書きしてまとめた、毛筆草稿、ペン字原稿、初校という「物」がすべて残っていて、今回、三浦さんが中心になって編集し、『原本 遠野物語』(以下、『原本』)として出版できたことには、たいせつな意味があると思います。宮沢賢治の校本全集には作品の途中経過も取り込まれましたが、この『原本』は、それとは違うかたちで、語りが文字になったプロセスをたどることができる稀有なテキストです。ここからいろいろなものが見えてくると感じています。
 

語りから文字へのプロセスが明らかに

三浦 『遠野物語』という作品がどのような経過を経てできたのかを、前提としてお話ししたいと思います。
 柳田国男は明治8年(1875年)に、姫路の北のほう、現在の兵庫県神崎郡福崎町に生まれ、少年時代をすごしました。本ばかり読んでいた子どもだったらしいですね。
 佐々木喜善は柳田より11歳若く、明治19年(1886年)、岩手県西閉伊郡栃内村に生まれ、すぐに佐々木万蔵という人の養孫になり、遠野の山口村というところで育ちました。
 柳田は兄を頼って東京に出て東京帝国大学に入り、エリートコースをたどって官僚になる。農商務省で産業組合法の成立に大きな役割を果たし、この法律の普及のために全国各地を訪ねるようになります。
 明治41年(1908年)には、中農という自作農養成の考えを普及するため、九州と四国を約90日間かけてまわりました。この旅で椎葉村に行き、猟師などの生活を知って九州の山村に興味を持ち、民俗学への関心を深めたと言われています。
 
 そうして柳田が西の人たちの生活を知り、北の人たちにも興味を持っていたときに、当時の流行作家だった水野葉舟から、東北から出てきたお話をたくさん知っている青年がいるということで紹介してもらったのが、佐々木喜善でした。
 喜善は岩手で医学校に入りましたが、小説家になりたかったようで、医学校を中退して明治38年(1905年)に上京していたんですね。そして、哲学館(東洋大学の前身)に通っているうちに、水野葉舟と出会った。二人は下宿が一緒だったと言われています。
明治41年(1908年)11月4日、喜善は葉舟に連れられて柳田邸に行きます。それが柳田と喜善のはじめての出会いでした。
 喜善が語る遠野の話に驚き喜んだ柳田は、その話を熱心に筆記したらしく、資料で明らかなところでは、11月13日、18日、12月2日にも会い、夜中まで話を聞いてメモをとったようです。『遠野物語』「序文」には「昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり」とありますが、明治42年と書いたのは勘違いなのか意図的なのか、実際にはその前年から話を聞き取っていたことになります。
 
 喜善から聞いた話を、柳田は半紙を2つ折りにして紙縒(こよ)りで綴じた自作のノートに毛筆で書きこんでいます。それをさらにペンで原稿用紙に書き換えて整理をし、その原稿を印刷所で職人さんが活字に組んでできた初校ゲラに書き込みをした。その3つが、現在、遠野市に所蔵されていて、私たちが今回『原本』に掲載したものになります。
 毛筆草稿は、明治42年のはじめごろから夏の前にはできあがっていたと思われます。その草稿を柳田は喜善に託したようです。喜善が訂正や補足を鉛筆で書きこんでいます。
 その毛筆草稿を踏まえて柳田が原稿用紙にペン字で印刷用の原稿を書いたのがいつなのかは、はっきりしていないのですが、『遠野物語』が出版されたのが明治43年(1910年)6月14日で、原稿が完成したのは、出版のわりと間際の段階であったと見なされています。
 
 つまり、明治41年11月の出会いから明治43年6月の出版までの間に、喜善の語りの機会があり、柳田が書きとめ、簡潔な擬古文の文章にあらためられ、推敲され、本にしていった、ということになります。
 佐々木喜善は昭和8年(1933年)に亡くなり、その追悼の記念として、昭和10年(1935年)に『増補版 遠野物語』が出版されました。角川文庫など、現在の『遠野物語』の文庫のほとんどは、この増補版を底本としています。岩波文庫は初版本が底本です。
 初版本と増補版にも微妙な違いがあり、それはこれまでも比較することができましたが、今回の『原本』の出版により、『遠野物語』を語りの場から見ることができるようになったのは、自分たちの仕事を言うのもなんですが(笑)、きわめて貴重な仕事であろうと思います。
 

激動の年に生まれ、守られてきた『遠野物語』

赤坂 『遠野物語』が出版された明治43年は、ハレー彗星の接近にメディアが大騒ぎしていた年でもあります。8月には日韓併合条約が調印され、柳田はその法制に官僚として関わっている。幸徳秋水などのアナーキストが死刑になった大逆事件も同じ年です。激動の年に官僚として政治に生臭く関係していた柳田が、『遠野物語』という、一見、牧歌的でローカルな物語を自費出版していたということも、重ねて思い出しておきたいところです。
 また、『遠野物語』の中扉には、「此書を外国に在る人々に呈す」という献辞があります。柳田はエリートでしたから、海外へ出ていた友人や知り合いがたくさんいたんですね。近代化が進む日本の晴れやかな風景からスライドして見てみると、遠野では、山男にさらわれたり、熊と闘ったり、河童の子どもを産んだという話が、現在の出来事として体験され、語られている。この献辞は、そういうことを知ってほしい、そして、日本人であること、日本文化を背負っていることを忘れないでほしいという、メッセージだったようです。110年あまり経ったいまとなっては、われわれはみな外国にある人々として『遠野物語』を読んでいるのだと思います。
 
 柳田は『遠野物語』の草稿類を20年以上たいせつに保存して、それを昭和7年(1932年)に信州出身の知識人の池上隆祐さんに託した。柳田は、戦後の『岩手日報』のインタビューで、「池上というのにくれてやりました」と言っています。「くれてやりました」というのは、微妙な言葉ですよね。池上さんは、柳田が孤立していたときに、『石』という雑誌で、仲違いのような状況にあった折口信夫などとつないだ人なんですね。
 
三浦 東京帝国大学の若者で、年齢がずいぶん違うということもあって、かわいい。家も、柳田の書斎の明かりが見えるぐらい近くに住んでいたようです。
 
赤坂 悪い意味ではけっしてなく、照れもあって「くれてやりました」と言ったのだと思いますが、池上さんは裕福な名家の出身だから原稿を古書店に流して金儲けするようなことはしないという信頼があったし、この男に託せば守ってくれると柳田は思い、実際にそうだった。池上さんは、空襲を避けるために原稿を疎開させたり、ものすごく大事にしました。
 
三浦 そのことについては、解説の「『原本 遠野物語』公刊までの軌跡」で、小田富英さんがわかりやすく書いてくれています。
 
*その後、池上隆祐氏所蔵の草稿類が遠野市に寄贈され、今回の出版に至るまでの経緯は、原本遠野物語編集委員のお一人、木瀬公二さんが、遠野文化研究センターのnoteで連載している「やっぱり遠野物語は面白い」に詳しい。
 

『原本 遠野物語』の魅力

三浦 池上さんの没後、遠野市に寄贈され、私も実物を見ましたが、時間が経って原稿用紙のペン字はインクが色あせたりもしているけれど、毛筆草稿は和紙というのはこんなにも持つのかと驚くほどのきれいさです。どれだけ大事に保管されてきたのがよくわかります。
 出版するにあたっては、毛筆草稿の影印と翻刻を上下に並べて対応させるレイアウトにして、ここに至るまでにはまたいろいろといきさつがあったのですが(笑)、『柳田国男全集』に入っている毛筆草稿の翻刻だけだとなかなかわからない筆の運びや文字づかい、柳田の手描きの挿絵や推敲も、今回の本ではよくわかるようになっています。
 ペン字の原稿用紙はB4判、25字×12行の升目の見開きで、これは初版本の行数と文字数にぴったり対応していて、『原本』では原稿用紙と初版本の校正ゲラを上下に対応させて並べているので、最初から本の体裁をイメージする仕立てで原稿を書いていったことが、大変によくわかります。
 しかも、明治43年に刊行した初版本の版面も掲載し、佐々木喜善宛の謹呈の言葉が書かれた第一号の本扉の画像も載せているので、毛筆草稿、ペン字原稿、初校、初版本と、4種類の『遠野物語』が見ていただけるというものです。
 
赤坂 2020年が『遠野物語』110周年ということもあって、この本の企画を立ち上げ、多くの人が読めるよう、なんとか5000円ぐらいで買える本にしようということで、そうとうに試行錯誤して。それでも企画してから1年あまりで刊行にこぎつけることができました。
 もう1つ、ぼくが編集委員のみなさんにお話したのは、研究し尽くして本にするのはやめようということだったんです。ぼくの「はじめに」には、三浦さんや小田さんの解説も唯一の正解といったものではないということをはっきりと書いて、これからの若い研究者のために余白のあるテキストづくりをめざしました。
 

出版時に伏せ字にされた箇所

赤坂 柳田は『遠野物語』が遠野の人たちに読まれることをおそれていたと言われていますよね。固有名詞もいっぱい出てきますから。第五十五話には、河童の子どもを産んだ娘の話があります。
 
三浦 川端で笑っている女の人がいて、その人は結婚しているのだけれど、夜な夜な通う者がいて、それがどうも河童らしいという噂になる。そして、産んだ赤ちゃんの手には水かきがあったと語られている話です。その女の人の家の名が、活字の初版本では「〇〇〇〇〇」と5字分の伏せ字になっているんですね。毛筆草稿、ペン字原稿、初校では、実名で書かれている。おそらく再校のときに伏せ字に直した。柳田は『遠野物語』の他の箇所では「何某」と書いて匿名にしているのが多いので、ここはゲラにまで進んでいたので活字を動かさないために伏せ字になっているのではないかとも思われます。
 この話は、お金持ちの家についての噂話ですよね。伏せ字になっている家はいまも遠野にあり、昔の話なので問題ないとおっしゃってくださっているんですけれど、『遠野物語』は単なるおとぎばなしではなく、村のどろどろとした問題が背景にはあることも見えてきます。
 
赤坂 柳田が伏せ字にしたのは、その下に本当の名前が隠されていることを痕跡としてあえて残しているのかもしれません。民俗学者の報告書は、村や人の名前も入っていることが多いんです。そのかわり、あえて書かないこともある。ぼくもそうです。じいちゃんと話をしていると突然に泣き出して、「これは絶対に書くな」と言われたりするのが、聞き書きの現場です。『遠野物語』では、毛筆草稿で「去年」とあるのを原稿で「一昨年」に変えているところがあると小田さんが指摘していましたが(第四十三話)、柳田が昔話ではなくて実際に一昨年にあった事実として本にしたことと伏せ字のことを一緒に考えると、おもしろいなと思います。
 

柳田による改編、喜善による加筆の痕跡 

三浦 遠野には遠野三山と呼ばれる山――早池峰山、六角牛山、石上山があって、そのなかでは早池峰山が修験の山で一番重んじられているんですね。『遠野物語』の早池峰に女神が鎮座した由来を伝える話(第二話)が、毛筆草稿と初版本では違っているんです。
 これまで本になって読まれてきた『遠野物語』だと、お母さんの神様が三人の娘に、「今晩、よい夢を見た娘によい山を与える」と告げ、夢のなかの出来事として、お姉さんの胸の上に天から降ってきた花を妹が自分の胸の上に載せ、だから早池峰をもらった、という話なんですね。ところが、毛筆草稿には夢のお告げという部分はなくて、実際に妹が姉から花を盗んで早池峰をもらうという話になっている。
 遠野の近辺で伝えられている似た話でも、沖縄などで伝えられている話でも、直接に盗むというモチーフはあるので、おそらく喜善が語った話でも、夢のなかの出来事とはなっていなかったんじゃないでしょうか。ところが柳田はそれが気に入らなかったらしく、彼の倫理観のようなものによって夢の話にしてしまったのではないか、というのが私の解釈です。『遠野物語』にエロティックな話がないのも、柳田の倫理観がかなり作用しているんじゃなかろうかということも考えられます。
 
赤坂 柳田の手さばきというのは大事だと思いますね。村の語りであればエロティックな話が出てこないわけがない。ぼくの完全な想像ですが、11歳年上で高級官僚の柳田が謹厳実直な顔をして座っている前で、喜善さんがずうずう弁で一生懸命に話す、そこで性的な話になると、柳田が書き留める手を止めてじっと睨んだ……というようなことがあったかもしれない。語りの場では、ああ、こういう話は望まれていないんだな、やめておこう、と、空気でわかるものがある。相互的なものなんです。
 花盗みについては、後年の柳田であれば、そのままにしたかもしれません。よその土地から作物の種を盗み、それを植えたことでその作物の栽培がはじまったという、穀物盗みのモチーフは、当たり前にありますし。
 
三浦 たしかに昔話の整理などをした後年の柳田であれば、そのままにしたでしょうね。『遠野物語』は、柳田が「昔話」「伝説」「歌謡」といった伝承文学の定義づけをまだしていない、まっさらな時代に書かれたということが、やはりきわめて重要なことだと思います。家族の争いや噂話、昔話や神話などが、ごちゃまぜに投げ込まれていて、村落のお話のありようをうかがわせてくれるというのが、『遠野物語』の魅力を大きくしている。この時期にしか生まれなかった民譚集だと思います。
 
赤坂 どの段階でのことかはわかりませんが、柳田は喜善から「昔々」ではじまる話を提供してもらって、第一一六話、一一七話、一一八話を付け加えています。それは、柳田があるとき、自分はいわゆる昔話ではないものを聞いていると気づいて、もっと昔話を入れたいと思ったからだと思うんです。
 
三浦 毛筆草稿では最後に「百九、」と番号だけ書いてあって、あとは白紙です。出版された『遠野物語』の第一一五話に対応するのが毛筆草稿の「百八」で、第一一六話、一一七話、一一八話には、毛筆草稿にない継子話が収められている。喜善は語っただけでなく、文字を介しても話を提供したことが、今回の『原本』でよくわかります。
 

文体が秘めているもの

赤坂 明治43年に『遠野物語』が刊行されたときに、泉鏡花が「伝説異聞怪談を、土地の人の談話したるを、氏が筆にて活いかし描けるなり。あえて活かし描けるもの」と絶賛しています(「遠野の奇聞」)。鏡花は、土地の人の話を生かしたのでなければ、妖怪などがこんなにも躍動した表現になるなんてありえないと思った。『遠野物語』には、音声による語りと筆を用いた柳田の初期文体をどう考えるかという問題があります。
 三島由紀夫も『遠野物語』を絶賛したんですよね。
 
三浦 三島由紀夫が新潮社の『波』に連載していた「小説とは何か」の第9回(1970年1月号)で、第二二話について、「この中で私が、「あ、ここに小説あつた」と三嘆これ久しうしたのは、「裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくるくる〔原文では繰り返し記号使用〕まはりたり」といふ件りである」と書いています。この連載が本になったのは1972年で、この三島の言葉は吉本隆明の『共同幻想論』とともに『遠野物語』を非常に有名にしました。
 三島が引いたこの箇所は、『原本』を見ていただくと、とてもおもしろいんです。はじめ柳田は毛筆草稿に「裾にて炭取にさはりくるくるとまはりたり」と書いていて、そこに「炭取なれば」と書き加え、さらに「丸き」を書き添えている。さらにペン字原稿で「しに、」というのを加えて、三島が引用した表現に完成しています。
 つまり、私たちが読んでいる『遠野物語』の文章は、何段階かの過程を経て書かれている。喜善が語ったことを柳田がどうやって文字にしたかがうかがえるようで、なかなかおもしろいところです。
 
赤坂 『遠野物語』は擬古文と言われてきましたが、「くるくるとまわりたり」は擬古文ですか?
 
三浦 違いますね。擬音語を使うのは口承の語りですね。意図的に語りの表現を使っている。それは喜善が使っていたものだと思います。
 
赤坂 『遠野物語』でオノマトペ(擬音語)がどのように使われているかといったことも、まだ問われていないことかと思います。そこに、もしかして喜善が隠れているのかもしれません。
 遠野に暮らしている人たちの混沌とした噂話や世間話の世界があり、喜善はそれを子どものころから耳で聞いて記憶し、文学青年となって東京に出て、柳田と出会ってすべて吐き出すように示した。それがさらに変化して、いまわれわれが読んでいる『遠野物語』になった。その変化のプロセスを確認できるのが、この『原本 遠野物語』で、とても稀有な資料だと思います。
 今回、このようなかたちで出版され、しかもあえて解説を控え、余白だらけにしてありますので、たくさんの人たちが、その読み解きに参加して、いろんな発見が出てくることを期待しています。
 
三浦 私も大いに期待しています。
 
(2022年2月26日、朝日カルチャーセンター新宿教室にて開催された対談をもとに構成)

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