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思想の言葉:藤本一勇【『思想』2022年8月号】

◇目次◇

思想の言葉…藤本一勇
マルクス・アウレリウス『自省録』の謎を解く…荻野弘之
怒りの鉄拳,悲しい旋律,優しい風味…源河 亨
空間と時間の哲学――視点論的アプローチから…鈴木雄大
翻訳者の召命――ジャック・デリダを廻って…櫻田裕紀
フロイトの抵抗――終わりのある自己分析と終わりのない自己分析…工藤顕太
フロイトのダイモーン(上)――転移の彼岸における神話と思弁…上尾真道

〈書評〉ジュディス・バトラー『問題=物質(マター)となる身体』――Still Crazy After Thirty Years…新田啓子

 

◇思想の言葉◇

ディルドーの哲学

藤本一勇

 
 いまスペイン出身のトランスジェンダー思想家ポール・B・プレシアドの『カウンターセックス宣言』を翻訳している。二〇〇〇年にフランスで出版され、その後スペイン語版、そして二〇一八年に英語の決定版が出版されたが、残念ながら日本では彼/彼女の本はまだ一冊も訳されていない。『カウンターセックス宣言』は、欧米圏や南米のLGBTQ+の思想や運動ではすでに基本書となっているが、日本ではほとんど紹介されておらず、またプレシアド本人についても日本語版ウィキペディアの項目さえ立っていない状態である。ここからも、いかにこの分野では、日本が政治や社会の面においてばかりでなく、思想の面においても遅れているかがわかる。

 プレシアドは一九七〇年九月一一日(!)にスペインのブルゴスに生まれた。出生時に割り当てられた女性の性に早くから違和感を抱くトランスであったが、保守的な土地柄と家庭環境のなかで苦しんで育った。「彼/彼女」が「解放」される道が見えたのはニューヨークへの留学時代であり、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチでジャック・デリダとアニエス・ヘラーのもとで学んだ。その後プリンストン大学の建築学科で博士号を取得し、トランスジェンダーにかかわる美術批評家やキュレーターとして活躍する。そして二〇一〇年頃からテストステロンの投与によって外科手術をすることなく「男性化」し、二〇一五年からは「ポール」という男性名をもとの女性名「ベアトリス」と一緒に用いて活動し、いまやジェンダー思想の最先端の思想家の一人である。

 このホルモン剤(薬)を使った「性転換」という体験こそが、従来のセクシュアリティ論やフェミニズムからの大きな方向転換あるいは大転換だろう。いわゆる第二派フェミニズムまでの社会構築主義や言説主義による闘争(法や制度や社会や文化や思想に対する変革要求)を踏み越えて、実際に 物理的=肉体的(フィジカル)なレベルで性をトランスしてしまうのである。従来、個人の性自認(あるいは自認否定)を医学的な性割り当てによって「自然な(ナチュラル=フィジカル)」と言われるものに縛りつけてきた(実は)社会的な性権力を、まさしくフィジカルなレベルで転覆させるのである。性にまつわるみずからの割り当て権力をフィジカルなものに立脚させてきた社会権力は、ホルモン剤という薬物を使ったフィジカルなレベルでの性の自由変更、その可塑性を前にして、その基盤を掘り崩されざるをえない。かつては「自然」と幻想されていたフィジカルなレベルで、もはや性同一性を維持することはできないのである。

 この薬理学的な性革命(「薬学ポルノグラフィ」とプレシアドは呼ぶ)は、フーコーの生政治の概念やドゥルーズの生成変化の思想を経由しつつ、ダナ・ハラウェイのサイボーグ・フェミニズムに接続されていく。それを象徴的に示す用語がプレシアドの言う「ディルドー学」(あるいは「ディルドー・テクトニクス」)である。ここにはデリダの「代補=サプリメント(supplément)」の思想も響いている。ふつうファルスの代理物とみなされているディルドーだが、実はコピーとみなされているディルドーこそが、ファルス=オリジナルの幻想を生み出し、最終的にはファルス自体がつねにすでにコピーにすぎなかったという事実が明らかにされる。ファルス自体は自然なものではまったくなく、多種多様な力関係から織りなされた工作物であったことが判明する。まさに性とはテクノロジー、あるいはテクノロジーの効果なのである。

 性が自然を装ったテクノロジーであるとすれば、あるいは自然を制作するテクノロジーであるとすれば、介入し奪取し利用すべきは、このテクノロジーそのものである。ファルスを脱構築したディルドーは、かつての生殖器へと整流された性的快楽(生殖=再生産への縮減された性)をあらゆる身体部位に転移させる。身体のあらゆる部位が性的快楽の発源帯であり「性感帯」となる。身体全体が、転移し移植されたディルドー的な快楽中枢になる。これがプレシアド流の「器官なき身体」である。このテクノロジーと薬物の主体となること。それこそがトランス主体としての新たな性の主体(生の主体)の存在論の基盤をなす。そのとき、テクノロジーとその製品の所有権の問い直し、その共産化の思想と制度設計が要求されることになるだろう。ディルドー主体は、新たな時代のプロレタリアートであり、そこに誕生するのは「惑星規模の身体のコミュニズム」である。

 この性テクノロジーの詳細な歴史学(フーコー的な考古学)と革命的な介入実践については『カウンターセックス宣言』を読んでもらうしかないが、その唯物論的な 物理(フィジカル)暴力の思想と、合理性を突き抜ける冷めた理性は、サドを彷彿とさせる冷徹な魅惑と危なさとを同居させつつも、ときにコミカルに、わたしたちに迫ってくる。極限に至ったクールさはコミカルである(「一度目は悲劇、二度目は喜劇」とマルクスは言った)。プレシアドの黒いユーモアは、性の真理を引き摺り出しながら、社会制度の悲劇の世界を喜劇の舞台へ反転させるだろう。その結果、従来の社会関係は、個人から家族(家庭)、愛とセックスのあり方、子どもの作り方から育て方(生殖と教育という再生産)、民族から国家に至るまで、ミュータント化せざるをえない。まるでライヒの「性革命」の実装化をも思わせるが、しかしライヒのような神秘的な生命論は必要ない。そこにはただ単になんの変哲もないディルドーがあるだけでよい。広大な砂漠に佇む無数のディルドー。これは新たな性の「バベルの塔」だろうか。

 

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