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西 平等 リベラルな理想の世界とリベラルでない現実の私たち[『図書』2022年11月号より]

リベラルな理想の世界とリベラルでない現実の私たち
 ──ロールズ『万民の法』をどう読むか
 


 「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉がある。五木寛之の『青春の門(自立篇)』に登場する変わり者の体育教師が述べているように、これはひどい誤訳である。元となったのは「健康な身体に健全な精神が宿るように、と願われるべきである(orandum est ut sit mens sana in corpore sano)」というユウェナリスの詩句で、これは、いずれも簡単には手に入らない健康な身体と健全な精神を同時に実現する理想を謳っている。『万民の法』を読んで、ふとそんなことを思い出した。

 『万民の法』で提示されるロールズの議論を標語にまとめれば、「リベラルな国際秩序を、リベラルな諸国民衆(Peoples)によって成らしめよ」ということである。つまり、「相当程度に正義に適ったリベラルな」体制を一国内で作り上げるだけでなく、それを国際関係にも拡張することを目指すべき、という高邁な理想をロールズは掲げている。先進的な民主主義国を含む多くの国々においてリベラルな政治勢力が守勢に立たされているように見えるこの時代に、国内・国際秩序を貫いてリベラルな原則を実現するという野心的なプロジェクトを目にすると、読者は眩暈めまいを覚えるかもしれない。たしかに本書は、それが書かれた時代を反映している。

 この本の原書は一九九九年に公刊された。冷戦が終わった前世紀末には、リベラルな民主主義だけが人々を幸福にする政治秩序のモデルである、という高揚感があった。ボスニア内戦やコソボ危機に際して、アメリカ合衆国は軍事力を含む強力な介入を実施することで問題を解決に導いていた。他方で、大量の犠牲者を出したルワンダについては、アメリカが十分に介入しなかったことが批判された。当時は、リベラルな民主主義の担い手であるアメリカが、他国の危機の克服のために積極的に関与してゆくことで、リベラルな諸国から成るリベラルな国際秩序を建設してゆくというプロジェクトが、それなりの現実味をもって受けとめられたのである。

 今日では事情は大きく異なる。アフガニスタンやイラク、リビアの現状は、積極的な関与と介入によるリベラルな民主主義国家の建設というプロジェクトが失敗したことを物語っており、リベラルの世界正義プログラムに対する信頼を揺るがしている。

 では、『万民の法』にはもはや意味はないのだろうか。そうではない。世界を変えるプロジェクトとしての意義は薄れたとしても、自己反省を促す機縁としての価値は十分にある。言い換えれば、国内・国際秩序を貫く理念を提示する本書を自己反省的に読むことによって、国内/国際の区別を前提として知らず知らずのうちにダブル・スタンダードに陥ってしまう自らの姿勢を正すことができる。自分たちの政府は、国内ではリベラルな価値をそれなりに重んじつつも、外国については、「戦略的」な観点から、それらの価値を踏みにじるような政府を支援してきたのではないか。それどころか、敵対陣営との対抗を理由として、外国で成立した民主的政権を転覆することさえ画策してこなかったか。逆に、対外的には世界の平和や内戦の克服を唱えつつも、自国の内部では特定の集団を「二級市民」として扱い、集団間に敵意の種を播く政策を許してこなかっただろうか。大国の人々がそのような自己反省を行うことは、無意味であるはずがない。

 注意が必要なのは他者攻撃への悪用である。政治的秩序に関する理論である限り、他者への批判が伴うのは避けられない。しかし、敵対する国の民衆を貶めるためにリベラルな国際秩序の構想が用いられるなら、それは本末転倒としか言いようがない。本書において、国際社会のメンバーシップが正当に認められるのは「リベラルな諸国の民衆」と「良識ある諸国の民衆」に限られる。そして、いずれについても、その基準は解釈の余地の広い一般的な言葉で規定されている(三五―三八頁、一〇三―一〇七頁)。したがって、その基準に則って、特定の国家の民衆を「リベラル」でもなければ「良識」もないと評価し、国際社会の一員としての資格がないと断定することはさほど難しいことではない。例えば、「法システムを実際に執行する裁判官やその他の官僚たちが誠心誠意、かつ、道理に反しないやり方で法は本当に正義の共通善的観念に導かれていると信じている」という基準について、それを満たしていないという批判を向けることは、日本を含むだいたいの国に対して、やろうと思えばできそうだ。

 もっと悪い読み方は、理想の提示を事実の記述と取り違えることであろう。かつてユウェナリスの詩句は、「健全な精神は健全な身体に宿る」という事実命題として誤って理解され、「健全な精神」を叩き込むためのしごきによって自由を抑圧する軍国主義教育の標語となった。同じように、ロールズの議論が「リベラルな国際秩序はリベラルな諸国民衆より成る」という事実命題と理解されるなら、それは恐ろしい帰結を生み出しかねない。リベラルな諸国の民衆(および良識ある諸国の民衆)だけが、事実として、安定したリベラルな国際秩序を構成するのだとすれば、戦争のない国際秩序を実現するもっとも実効的な方法は、武力を含むあらゆる手段を用いて、問題のある諸国の人々をリベラルな(もしくは良識ある)民衆に改変することだと考えられる。それでは、〈戦争を廃絶するための最終戦争〉というような終末論的な安全保障政策が正当化されてしまうかもしれない。

 もちろん、このような最悪の誤読を避けるために、理想と現実をきちんと区別すべきことをロールズは強調している。

 万民の法は、良識ある階層社会の民衆が現実に存在することを前提とするものではないし、同様に、相当程度に正義に適った立憲民主制諸国の民衆が現実に存在することを前提とするものでもない。要求水準を高く設定すれば、そのどちらも現実には存在しないのである。(一二二頁)

 ところが、理想と現実との取り違えを誘発するような記述も、『万民の法』の中に散見される。例えば、リベラルな諸国の民衆の間には戦争が生じないという「事実」をロールズは繰り返し指摘する。それは、つまり、「リベラルな諸国の民衆が戦争をするとすれば、それは(中略)無法国家との戦争以外にはあり得ない」(七五頁)ということを意味する。この事実命題は凄まじい破壊力を持つ。リベラルを自認する諸国の民衆にとって、戦争の相手は必然的に「無法国家」でしかありえないということになってしまうのだから。

 ロールズは、寛容の観点から、リベラルな国際社会のメンバーシップをリベラルでない諸国民衆にも拡張しているが、それが認められるのは「良識ある諸国民衆」までである。そして、「無法国家」はその拡張の外側にある。政治的な敵対を乗り越えて社会の構成員としての地位を承認する「寛容」という原理の適用さえ、「無法国家」には認められない。「無法国家に対する寛容を拒絶することは、リベラリズム、ならびに、良識あるということの当然の帰結である」(一三一頁)とロールズは言う。つまり、リベラルを自認する民衆が何らかの理由で戦争に突入するとき、その相手は、必然的に、国際社会において正当な地位を認められないアウトローということになる。このような他者理解が、戦時における敵対関係を緩和する方向に働くことはないだろう。

 戦争の一方当事者が、国際社会における無法国家(outlaw states)とみなされるとき、戦争は、国際社会の正当なメンバーと、メンバーたりえない者との間の非対称的な敵対関係となる。このような差別的な戦争把握を、カール・シュミットは「法外放置(outlawry)」とみなして批判した。法外放置とは、悪質な犯罪者から共同体の構成員としての地位を剥奪し、構成員に認められる一切の法的保護を剥奪するという、前近代的な刑罰である。法外放置の宣告を受けた者は、もはやまっとうな「人」ではなく、あたかも森の野獣のように打ち倒されてよい。

 近代の国際法は、主権国家どうしの敵対関係として戦争を構成することによって、一群の交戦法規を作り出した。そこでは、私的領域とは区別された「国家」という限定と、対等な「主権」という平等原理が重要な役割を果たしている(国家機関である戦闘員から区別される文民の保護、国家の指揮命令系統から外れた捕虜への攻撃や虐待の禁止、双方交戦者に対する法規の平等適用などを想起してほしい)。戦争が、リベラルなと無法な国家との間の敵対関係として構成されるとき、国家への限定も平等原理も機能しえない。ロールズは、伝統的な戦争法原理に依拠しない、リベラルな自己抑制としての交戦法規の基礎づけを試みている(一五五―一七二頁)が、戦時において人々が極限まで敵意を高めている状況のなかで、それが現実的な基礎となりうるのかどうかは覚束ない。あらゆる利用可能な手段を用いて無法国家をこの世から消し去る、というようなせんめつてきな戦争が出現しないためには、理想が理想であるということを常に意識し、現実には私たちもまた全きリベラルではありえないという自覚の下で、『万民の法』を読み解いていくべきだろう。それがロールズのリベラルな読み方だと思う。

 *引用の頁数は、岩波現代文庫版(中山竜一訳)に拠る。

(にし たいら・国際法)

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