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金 文京 柳田、南方山人論争と中国の山人[『図書』2022年12月号より]

柳田、南方山人論争と中国の山人 

小生は目下山男に関する記事をあつめおり候。熊野はこの話に充ちたるらしく存ぜられ候。恐れ入り候えども御手伝い下されたく候。

 右は明治四十四年三月十九日、柳田国男が南方熊楠にはじめて出した手紙の一節である。柳田は南方の「山神オコゼ魚を好むということ」を読んで、面識のない南方を同志と思い手紙を出した。一方、南方はこの前年、神社合祀反対運動での乱闘騒ぎで田辺警察に入監中、柳田の『石神問答』を、その後『遠野物語』も読んでおり、返信で「山男に関することいろいろ聞き書き留め置き候も、諸処に散在しおり、ちょっとまとまらず、そのうち取りまとめ差し上げ申すべく候。支那のさんそうまた安南、交趾、また欧州にも十六世紀ごろまでアイルランドにかかるものの話有之候」と応じ、併せて神社合祀反対への支援を柳田に依頼している。
※「操」の漢字はけものへん

 柳田はこれ以前から、山の中の住人は日本人とは異なる人種であるという考えをもっていた。そしてそれは、『山人外伝資料』で「拙者の信ずるところでは、山人はこの島国に昔繁栄していた先住民の子孫である」と述べるように、研究の結果というよりは多分に柳田の信念であった。それが山猿、妖怪のように見なされるに至った理由について、柳田はまず中国文献の記述が山人に同情をもたず、それが本草学などを通じて日本に伝わり、江戸時代の『大和本草』や『和漢三才図絵』がその見方を広めたせいであり、「支那書の受売り」であると言っている。他方、子供の時に『和漢三才図絵』を筆写して愛読し、本草学に関心のあった南方は、山男とはサルの一種と考えていた。南方のいう「山操」の名は、の一種として中国の『本草綱目』に見えている。南方は柳田が批判的であった本草学の用語をもって、そうとは知らずに柳田に答えたわけである。

 その後数年間、二人の間には頻繁な文通があり、柳田は神社合祀反対運動のために尽力、南方をして「音に聞く熊野の大神も柳の蔭を頼むばかりぞ」と言わしめた(明治四十四年六月二十六日書簡)。大正二年に柳田はわざわざ和歌山の田辺まで南方を訪問している。しかし山人をめぐる両者の見解の相違は埋まらず、大正五年十二月二十三日、南方はついに柳田説を批判する長い手紙を出した。以下適宜節略して示す。

 山男山男ともてはやすを読むに、真の山男でも何でもなく、ただ特種の事情より止むを得ず山に住み、世間に遠ざかりおる男というほどのことなり。それならば小生なども毎度山男なりしことあり。小生らが従来山男として聞き伝うるは、猴類にして二手二足あるもの、原始人類ともいうべきものなり。貴下の山男の何々といわるるは、尋常の人間で山民とか山中の無籍者とかというべきものなり。こんなものを山男と悦ぶは山地に往復したことなき人のことで、吾輩毎度自分で山中に起臥したものなどに取っては笑止と言うを禁じ得ず候。

 この手紙は、のち大正六年に柳田の主宰する『郷土研究』四巻十一号に「諸君のいわゆる山男」と題して転載されたが、二人の文通は、これをもってほぼ終りを告げた。

 これについて民俗学者の谷川健一は、「両者の交信の断絶を契機として、柳田の眼は山人を離れて常民へと方向を転ずる。それは柳田のみならず、日本民俗学にとっても大きな転回点を意味するものであった」(「『柳田国男南方熊楠往復書簡集』を読んで」、『朝日新聞』一九七六年四月十二日)と述べ、中沢新一『森のバロック』は、「柳田国男が美しい姫君と見そめた女性に、熊楠はただのパン屋の売り子を見た」と評している。柳田はドン・キホーテというわけである。しかし柄谷行人『遊動論──柳田国男と山人』のように、柳田は最後まで山人論を放棄していないとする見方もある。

 私見によれば、この問題を考えるうえで一つの参考となるのは、中国における山人の存在である。山人の二字を合わせれば「仙」になる。古代中国の山人とは、仙人の修業のため山中に棲む隠者を指す。しかし仙人修業といっても霞だけを食っているわけにはいかない。中には家族同伴の隠遁者もおり、生業が必要であった。山中の生業といえば、薬草や鉱物の採取、これは仙薬を作るためにも欠かせない。その過程で山中の原住民との交流も生じる。そしてそれを里に出て食糧と交換するのが山人生活の実態であったろう。

 唐代になると、官途に就けない多くの士人が隠遁を標榜しつつ、実際には都会で売薬、医術、書画などさまざまな職業に従事し、山人と称した。彼らはまた放浪者でもあった。李白なども山中隠遁と放浪を繰り返し、山人と自称している。この山人の活動がもっとも盛んであったのは、十六、七世紀の明代末期で、「昔の山人は山の中の人、今の山人は山の外の人」と言われ、山人は都会の中の一種の異人として、士人、官僚と民衆との間で一大中間階層を形成するに至る。

 そしてこの明末の山人が、やがて江戸時代の日本にも現れる。その代表は風来山人こと平賀源内、また蜀山人大田南畝であろう。幕府の役人であった蜀山人は、中国でいう中隠または吏隠である。その後、明治から大正まで山人と称した人物はきわめて多い。死後なおコマーシャルに登場した北大路魯山人がおそらく最後の山人であったろう(以上、『岩波講座 世界歴史 7「東アジアの展開 八~一四世紀」』の「士大夫文化と庶民文化、その日本への伝播」を参照)

 ところで南方はこの中国の山人の存在を知っていたと思える。南方が青年時代からもっとも精読し、「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」など多くの論文に引用した『ゆうようざっ』には、唐代の山人についての記述が数多くみられる。そして「蜘蛛を闘わすこと」などでは『酉陽雑俎』の山人の話を引用しているのである。知らなかったはずはない。南方は柳田への手紙の中で『酉陽雑俎』も紹介しているが、中国の山人には触れていない。

 南方は人類ではない山男と山の住民としての山人を区別しており、まして里に住む中国の山人は別物と考えていたのであろう。そもそも南方は中沢新一が「森の人は町中の庭園の番人」になったと評したように、その生き方自体が中国山人風で、本人はかえってはっきりとは意識しなかったのかもしれない。

 一方、柳田の山人論は簡単に言えば、山人の大部分は時代とともに里におりて混血同化し、山中に残った者は山神から妖怪へと徐々に零落したということになる。しかし山と里を往還する生活様式、あるいは里におりても完全には同化せず、山人の生活感覚を維持することは十分に可能であろう。『山の人生』の中で、柳田は町に出てきた山男について語っており、また職人、芸能者など漂泊民に対しても大きな関心をもっていた。

 柳田は中国の山人については、おそらく知らなかったであろう。中国の文献は同情が足りないと批判した所以である。しかし江戸時代の山人については、むろん知っていたはずである。現に『山の人生』、『山人外伝資料』の双方で『桃山人夜話』を引用している。『桃山人夜話』は一名『絵本百物語』、江戸の戯作者、桃華園三千麿の作である。しかし柳田は江戸の山人を自らの山人説に結びつけることはなかった。もし南方が中国の山人についてのヒントをあたえていれば、あるいは別の展開がありえたかもしれない。

 柳田と南方の交流は、二人の性格の相違、また南方が八歳年上であったこともあり、まったく遠慮のない南方に対し、柳田は終始低姿勢であった。柳田が田辺を訪れた時、南方は最初の日は泥酔して、次の日は二日酔いで寝たまま柳田に会っている。それでも柳田は南方を悪くは言っていない。柳田は天狗などに子供がかどわかされる、いわゆる神隠しについて、神隠しに遭いやすい気質があり、自分なども隠されやすい方の子供であったと述べている。一方、南方の子供の時の綽名はてんぎゃんであったという。柳田は蔭にかくまったはずの南方天狗によって、いつのまにか神隠しに遭ってしまったように見えなくもない。二人のこの共鳴の中のすれ違いが、山人論に影響したと見ることもできるであろう。

 南方と大学予備門で同級であった夏目漱石は、小説『』の中で主人公の宗助よね夫婦について、「彼らは山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた」と書いている。これは自らの住居を漱石山房と名づけ、書画の落款には漱石山人と書いた彼自身の心境でもあったろう。漱石と南方の間に交際はなかったが、澁澤龍彥によれば、ロンドンから帰る南方の船とロンドンへ向かう漱石の船は、印度洋のどこかですれ違ったはずだという。この二人にも山人をめぐる共通点があった。

 数年来のコロナ禍によって、都会の孤独はさらに深まった反面、山の中で都会の生活を送ることも可能となった今日、柳田や南方が論じた山人、また前近代の中国や江戸時代以後の都会の山人に思いをめぐらしてみるのも、あながち無駄とは言えないであろう。現代社会は新たな山人像を求めているかも知れないのである。

 (きん ぶんきょう・中国古典戯曲小説)

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