『だれが校則を決めるのか』編者・内田良 インタビュー「子どもも先生も、校則から自由になるために」
地毛証明書、細かな服装規定、理由が定かでない規制……理不尽で人権侵害にあたる校則の存在が問題視され、改善の試みも少しずつ紹介されつつある。一方で、そうした校則の現状が根底的に変わるには、いまだほど遠い。そもそも校則をだれが、どのように見直し、決めていくのが望ましいのか。そして、今後どのように変えていくことができるのか。新刊『だれが校則を決めるのか』編者の内田良氏に、校則問題のかつてと現在、広がりつつある「生徒自身による改革」への期待と懸念、調査からみえた教師や保護者の校則に関する意識など、校則を変えていくための展望を伺った。(構成:岩波書店編集部)
現代の校則問題
2018年ごろ、大阪府立懐風館高校の女子生徒が、髪の色を黒く染めるように繰り返し指導されて不登校になったことをきっかけに、校則が数十年ぶりに社会問題化し始めました。当時私は、評論家の荻上チキさんが主導し調査や発信を行う「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」に協力する機会があり、校則の問題を注視するようになっていきました。
それをきっかけとして私は、この調査をベースとした共編著『ブラック校則』を荻上さんと2018年に刊行します。その執筆のために文献を調べていると、先行研究の数が多くないことに気づいたのです。もちろん、1980年~90年代に校則が社会問題化していた時期があり、そこで校則の議論はさかんでしたが、どちらかというと管理主義批判の文脈のものが多く、校則の教育学的な枠組みでの検討や、統計的な分析は少なかった。さらに、そうした議論が見られるのは2000年頃までで、以降は下火になっていました。このこともあり、研究自体も限られていたのです。
私はそもそも、2000年以後は校則の問題自体が減り、ルールもゆるくなっていったものと思っていました。ところが荻上さんたちの調査では、靴下の色、さらには下着の色まで指定し指導するといった、細かな指導が増えている可能性が指摘されました。これは衝撃的で、校則に関するさらなる学術的な検討が必要であると思いました。
本書『だれが校則を決めるのか』は、こうした校則の問題を、社会問題からアカデミックな文脈につなげて論じることを目的としています。そして、充実した執筆者のおかげで、それにふさわしい内容になったと自負しています。
「生徒自身による校則改革」の問題
──校則問題を注視するようになって4年ほど経った現在、社会状況の変化や研究の進展はどうでしょうか?
「問題のある校則が多く存在する」ということは、広く知られるようになりました。また、校則見直しの動き、とくに生徒自身が校則を変えていく取り組みは、多く紹介されつつあります。さまざまな見方はありますが、社会の側の受け取りという点では、予想よりも素早い変化が起こったと感じています。そのことは基本的には歓迎すべきものでしょう。
ただ一方で、疑問を感じる面もあります。たとえば、人権侵害となっている校則の見直しを、生徒が数カ月間かけて行うという事例の紹介もしばしばみられます。ですが、それを「生徒主体」で行うことにどれほどの意味があるのでしょうか。そうでなくても、数ヶ月にわたる生徒たちの議論のすえ、「認められる靴下の色が一色増えた」に留まるものもみられます。意味がないとは全く思いませんが、こうしたやりかたが全面的に望ましいとは言いにくいでしょう。
現在の制度や枠組み上、校則やルールを作っているのは教師であり、それを強制されているのは生徒の側です。にもかかわらず、それを「生徒自身に変えさせる」というのは不思議な構図ではないかと思います。普通に考えたら、理不尽なルールを押し付けている側が変わらなければならないはずですよね。いわば、暴力の被害者の側が声を上げることを求められているような図式なのです。
もちろん、生徒自身が参加して変えていくことの意義が大きいことは確かです。その意味で私は、「既存の問題のあるルールを廃止する場合」と、「自分たちなりのルールを作っていく場合」とで分けて考えたほうがいいのではないかと思っています。前者であれば、これまでルールを作ってきた教師・大人の側が責任をもってやめるようにするべきでしょうし、後者であれば、「生徒自身が参加して決めていく」ということが重要な取り組みになってくるのではないかと思います。本書でいうと、全国生活指導研究協議会(全生研)という研究団体が「生徒による自治」をどう追求してきたかを検討した松田洋介さんの第2章「子どもの自治と校則」、管理職が生徒による校則改革を導く過程を論じた末冨芳さんの第4章「学校という『公共圏』と校則見直し」などは、生徒主体でルールをつくっていくという方向性を考えるにあたって、ぜひ参照して欲しい内容です。
「学校悪者論」だけでは見えにくい現実と改革の方向性
──校則問題が論じられるときには、「理不尽で時代錯誤の校則」と、学校や教師が悪者として描かれることが多い印象です。他方、今回のご著書では、教師や学校がなぜ、どのように校則を運用しようとしているのか、あるいは変えようとしているのか、そうした論点も盛り込み、丁寧に論じている点が特徴的です。
人権侵害となるような校則を批判することは大事ですし、その批判によって世の中の認識が広がったことは大きいでしょう。他方、そうした一方的な批判を続けると、学校や教師が一分の理もなく理不尽なことをしている、ということになってしまいます。そうした主張では、問題の解決にはつながりません。
ですから、なぜ校則がこのような形で運用されているのか、教員はどのような意図をもっているのか、それを検討することが非常に重要です。本書の鈴木雅博さんによる第3章「校則を決定・運用する教師たち」では、「エナメルバッグの禁止の是非」などのルールをめぐって、先生たち同士が議論をして決定していく過程を、エスノメソドロジーの手法にもとづいて丁寧に描いています。その結果、学校内部のメカニズム、決して一枚岩ではないそれぞれの教師の意図や立ち位置などが見えてくる。これは、外から「学校が悪い」と批判するだけではわからないことです。
もちろん、そうした学校内のメカニズムや指導の意図の是非は、また別に問う必要がありますし、結果として人権侵害が生じているのであれば、直ちに是正すべきです。他方、こうした学校のメカニズムや機能を見ていくことで、それではどうやってより良い方向に進めることができるか、前向きな議論につながるはずです。
服装を緩めても風紀は緩まない?
もう一つ強調しておきたいのが、校則の問題と教師の働き方という論点の重なりです。
校則問題は多くの場合、生徒の人権侵害というシングルイシューで語られています。生徒の人権侵害は決して見逃すべきでない問題であることは確かですが、他方、学校という時空間は生徒・教師の生活や関係で成り立っているため、土台となる部分を一緒に考えないと、踏み込んで考えることは難しいのです。
そこで私は、教員がどれだけ校則の指導に時間や労力をかけているのか、そうした働き方の問題と重ねつつ、校則の問題を第1章「教師の目線、生徒の目線」で論じています。
少しだけ中身をご紹介しましょう。私が取り上げた調査では、制服に関する意識として「制服を着用すべき」に対して「はい」「いいえ」と答えた2つのグループそれぞれに「生徒の服装や頭髪などの規定をなくすと、生徒指導に要する時間が増えると思う」という問いへの回答をクロス集計しました。
その結果、「制服を着用すべき」に「はい」と答えた教師は、服装・頭髪の規定をなくすと指導の時間が増える=荒れるだろうと考える割合が高い。他方「いいえ」と答えた教師は、指導の時間は増えない=荒れないだろうと考えている割合が高い──そうしたことが見えてきました。
こうした分析の詳細は本書をご覧頂きたいですが、この結果は、制服を着用させる必要がないと考える教員が、荒れることはない、指導の時間は増えないと想定する以上の意味があると考えられます。つまり、そもそも服装や頭髪の自由が尊重される学校生活であれば、ツーブロックでもどんな髪の色でも、あるいは服装でも「違反」ではないからです。
現在のところ多くの学校では、「厳しい校則を強いれば学校がうまく回る」という考え方で動いています。ただ、先の結果からは、別の見方も可能です。つまり、指導を厳しくして取り締まらなくとも、実は風紀が緩むわけではないのかもしれない。そうだとすると、わたし自身は、これまでルールからの「違反」だと考えて取り締まっていたものを、「個性」と考えてもいいのではないかと思います。それを緩めてみて、荒れやトラブルにつながらないならば、非常に多忙な教員がそれに時間を費やさなくてもいいのではないでしょうか。
やめて影響がなければ、なくしてもいい
──教員の多忙は、これまで内田さんが『迷走する教員の働き方改革』、『部活動の社会学』といった著作で論じてきた重要なテーマでもありますね。
教員の長時間労働はそれ自身問題ですが、生徒へ及ぼす負の影響もあります。先生たちが長時間労働に苦しむなか、生徒たちへのきめ細やかな対応を望むことはできませんし、教育上もけっしてよいことではないでしょう。私は研究者として「子どもと先生の両方が苦しむことなく、幸せになるためにどうすればいいのか」を課題としています。その観点でいうと、校則問題とは、子どもも先生も苦しい問題でもあるのです。だから、お互いが幸せになる道につながる改革を目指しうるのではないかとも思っています。
そのとっかかりとして、なにかを「やめてみた結果どうなったか」をみることは、一つ重要でしょう。このコロナ禍で、たとえばジャージで登校してもいい、マスクの色は白でなくともいい、といった「緩和」が学校現場にはありました。これらは新型コロナウイルス対策という全く別の理由による変化ですが、それによって、生徒の風紀が乱れたり、荒れたりしたでしょうか。もしもそうでないなら、教員が時間と労力をかけて、取り締まる必要はないと考えていい。つまり、もとのように戻さなくてもいいのでないでしょうか。
──本書でも、「白以外のマスクは禁止」というルールが撤廃されたことで、特に風紀の乱れが起こったわけではないという高校生との対話が紹介されています。
そうです。なおかつその高校生自身が、カラフルなマスク、あるいはツーブロックなどの髪型が「荒れ」につながるというリアリティ自体を持っていなかった。生徒たちは、先生たちが「ツーブロックは荒れにつながる」と説明するのは耳にしているので、理屈としては知っている。ですが、「なぜ荒れにつながるのでしょう?」と理由を尋ねてみると、全くピンとこないという。そうだとすると、校則を緩める/自由を認めることが荒れにつながる、という大前提自体を疑ったほうがいいのかもしれません。繰り返しになりますが、厳しいルールを緩めてみたときに実質的になんらかの被害やトラブルが生じないのであれば、そのルールはなくしてもよいかもしれない、そう考えてみてはどうでしょうか。
こうした、ルールの理由が必ずしも明確でない、合理的でない校則はしばしば見られます。髪の色を染めるのを禁止、という校則も、直接的な理由として「就職活動のときに問題になる」と説明されたりします。ですが、本当に就職活動が理由なら、その時だけ黒く染めればいいですよね(笑)。もしかしたらこうした理由付けは、自由にさせておくことへの不安にすぎないのかもしれません。
変えていく鍵は保護者と地域
ただ、教師の側は校則の取り締まりをおかしいと思っていても、続けざるを得ないことがあります。先生たちからよく聞く声が「保護者が望んでいる」「地域から服装についてのクレームがくるから、指導しないといけない」というものです。学校は保護者・地域の人々の声を非常に気にしていて、そこに応えざるを得ない面があるわけです。本書で私が言及している制服に関するデータでも、生徒よりも教師のほうが保守的ですが、保護者はさらに保守的であることがわかっています。学校は板挟みになっており、こうした面でも自ら変わっていくのが難しいところがある。
だからこの問題では、教師だけでなく、保護者や市民の側の意識も変わらないといけません。保護者からの助け舟こそが、校則を変えていく後押しになると思っています。
「学校は保守的な集団だから、校則を変えるハードルは高い」と感じるかもしれませんが、先にも触れたように、先生たちはいろいろな悩みを持ちながら現状を維持したり、変えようと努力したり、あるいは断念したりしてもいます。だからこそ、保護者やその地域の皆さんの後押しが重要になってくるでしょう。そうした意味でも本書は、学校関係者や研究者だけでなく、保護者や学校に地域として関わる人たちにこそ読んでいただきたいですね。