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モリテツヤ モリのガジュマル[『図書』2023年2月号より]

モリのガジュマル

 

 僕は田畑をしながら汽水空港という本屋を妻と二人で営んでいる。店舗を空港になぞらえて「ターミナル1」とし、畑を「ターミナル2」と位置づけている。

 ターミナル1が象徴するものは、都市的な文化だ。人の心や願いが言葉になり、言葉の束は本になる。本が集積する空間をつくり、それをフックにいろいろな人が行き交うことを目指している。

 三年ほど前からターミナル2に新たな名称を与えた。「食える公園(汽水空港ターミナル2)」という名だ。もともと自給用の野菜を育てるために借りていた畑だったが、個人の用途を越えて、ここを公園と呼び、公共の畑であるとした。自分たちが生き延びるためだけではなく、人と共に生きていける環境をつくりたいという気持ちが湧いてきたからだ。

 以来、僕は公園の管理者という肩書きを得て、権力者となった。ルールも自由につくることができる。誰が蒔いた種でも、誰が植えた苗でも、「食える公園」で実ったものは、誰でもいつでもどれだけでも収穫していいと公言した。訪問者は無制限の権利を得ている。でも僕は、その気になれば特定の人物の出入りを禁じることもできる。たんなる貧乏本屋の店主である僕が突然得た権力。さて、この権力とどう向き合っていくべきか。

 「食える公園」の環境が生み出す問いは、「政治とは何か」「金とは何か」「労働とは何か」「権力とは何か」「公共とは何か」など、さまざまだ。どれも人間が長い間向き合い、考え続け、いまだにベストな解を得ることができていない。僕は僕で、自分が手にしてしまった権力に居心地の悪さを覚える。なるべくパワーを使いたくない。だが、もし実際に無制限に実りを収穫され続けた場合、なんらかのルールを設けざるを得ないかもしれない。僕は権力というものと直に向き合い、自分の問題として悩み、ジタバタともがいてみたいのだ。

 元は梨畑でジャングル状態だった「食える公園」を、僕は開拓している。草、低木、竹をガシガシ刈り取っていく。政治をはじめるという行為はコントロール可能な状態にするということだ。「○○に政治を持ちこむな」と日本ではよく言われる。でもそれは、議会や政治家だけが占有しているものでもなければ、哲学書や思想書、小説の中だけにある概念でもない。政治というものは日常生活の中に常にあるのだということを暴き、人々と共に悩み抜きたい。

 僕は「食える公園」に持ちこんだ政治を、「表層の政治」と呼んでいる。政治とは本来、表層程度にすぎない。ルールを加えることや変えること、分配方法について考え意見していくこと。政治は自分たちの手で創造していく事柄なのだということを、関わる人々と共に確信していきたい。国の政治も食える公園の政治も、その根本はきっと大きくは違わない。

 僕が自分自身に与えられた権力を発揮しようとした時、最初に問われたのが、木をどうするかという問題だった。

 ひととおりかりはらいをかけた後、「食える公園」にはたくさんの木が残った。僕はこの木を切り倒すべきかどうかを三年間悩み続けている。僕には木々が先住者のように思えた。なんらかの偶然でこの土地に種が落ち、芽吹き、この時まで成長を続けた。そしてこれから先も、僕が切らなければずっと成長を続けていく。この偶然の産物の時間を自分が切断してもいいものなのだろうか。

 畑として見れば、日陰は少ない方が良い。合理性に委ねて木を切り倒すべきか。しかし、土地には人間だけでは収まらないものがある。人間は、土地に区画をつくるし、所有者も変える。利用方法も所有者の意向ひとつで決定される。だがそれらはすべて人間の世界の表層での手続きで、僕は土地に対する手続きを何も知らないことに気づいた。

 それは自然科学の問題でもあるが、なんらかの礼儀に関する問題でもあるような気がしている。一本の木があることで、どれほどの生き物が暮らしていくことが可能なのかを、僕はよくわかっていない。多様な生きものがいるということが、その土地を豊かにしているのであれば、木を残すことで結果的に野菜がよく育つ可能性もあるのではないか。農業をきっちり勉強した人であれば、そのことを科学によって解決するだろう。しかし、やはり畑を営むには木を切るほうがよいのだとして、この土地に続く偶然性の連なりを切断するということへのうしろめたさは、どうすればいいのか。

 草や低木、竹だって、同じように偶然性の連なりによって、そこに生きているには違いないのだが、そのライフサイクルの短さが僕を躊躇ためらわせることなく刈らせる。しかし木には僕と対等、もしくはそれ以上の時間の流れがある。ネイティブアメリカンが木を「この人」と、人間と同様に呼ぶ感覚がわかるような気がした。

 レベッカ・ソルニットは、庭仕事が好きだったジョージ・オーウェルが植えた薔薇と七〇年以上の時を超えて出会い、オーウェルの思想や植物と政治との関係を考える『オーウェルの薔薇』を書いた。オーウェルは、木を植えることは、「後世の人に残すことのできる贈り物」だと言っている。では、木を切ることはどうなのか。

 僕はだんだんと、木を切るのならば、その前に「祈る」というような行為が必要に思えてきた。表層の政治が地へと至る時、そこには土や木に対するなんらかの手続きが要る。

 こうしたスピリチュアリティに関する行ないは、現代の日本でも失われてはいない。家を新築する前には「地鎮祭」が行なわれる。目的は工事が無事に終わることだが、深層心理には人が土を占有してしまうことへのうしろめたさがあるように思う。一度家を建ててしまえば、その土からは何も芽吹くことがない。

 土からは常にありとあらゆる植物が芽吹こうとすることを、畑を始めて実感した。いろいろな事情でこの一年ほぼ放置してしまった「食える公園」は、元のジャングルに戻りつつあるほどだ。土は人の事情にお構いなく、つねに芽吹こうとする力を内包し、その力は人だけでなく、あらゆる植物、虫、動物の糧を育んでいる。僕が感じている罪悪感の正体は、この芽吹こうとする力を支配することにあるのではないか。

 人の世界は政治で動いているが、それはあくまでも表層の範囲に限られる。世界にはもっと深みがある。そしてそれは人も同様だ。表層には名前や肩書きがあり、その時々の役割を持つが、その下には身体があり、身体には固有の力がある。それは土と同じく、芽吹こうとする力、生きようとする力に満ちている。現代社会は、この力をあまりにもコントロールしようとしすぎている。人は、自分自身が土と同様の力を持つことを忘れている。そのことを思い出し、表層を覆う政治を突き破りたい。

 「パンは身体を養い、薔薇はさらに霊妙な何かを養う」、人間にはその両方が必要だと権利を主張する、「パンと薔薇」というスローガンが、社会運動では長らく使われてきた(『オーウェルの薔薇』)。誤解を恐れずに言うならば、僕は政治家に対して「パンと薔薇」を求めて声をあげたくない。

 日々金には困っているし、政策には意見をした方が良いと思う。だが、僕はパンを育むのは、表層にすぎない政治ではなく、あくまでも土なのだと言い張りたいのだ。僕の手はその種を蒔くことができる。そして、僕の生きようとする力と、土の芽吹こうとする力が出会った時に、薔薇は生まれるのだと感じている。それは外部から、上から、施しとして与えられるものではない。土の中に手を突っ込んだ時に触れる生命のうごめきや、人と虫とを問うことなく照らす陽光の中で生まれるものだ。薔薇はパンを育む過程で香るもの。パンの内部に薔薇はある。政治なんかにコントロールされてたまるか。僕は畑に政治を持ち込んでおきながら、その政治を突き破りたいという矛盾する欲望を抱いている。

 現代を生きる人間は金銭を介在する経済活動から逃れることは難しく、国家という枠組みからも容易に逃れることはできない。なんらかの商いをし、自分たちを覆っている政治にアプローチしていく必要がある。それらの活動は必要に迫られてやるほかない、生き延びるための行為と言えるだろう。だが、人は生き延びるために生きているのではない。生きているという確かな実感を得られる道を常に探り続け、創造し続ける生き物だ。新しい生き方を求める心は泉のように湧きあがり続ける。

 本を並べて売っているターミナル1は、生き延びるための商売と政治へのアプローチを行うと同時に、「生きる」とはどういうことなのかを考えるための場所になるようにと願いながら運営している。言葉、政治、経済、芸術、人が人と関わる時に生まれるものたち。しかし人が生きる世界は、人だけでできているのではない。土や海、森が育む多くの命と共に生きている。人もその一部だ。生きるということの可能性を開こうとするならば、世界そのものに触れる環境に身を置いておきたい。そのためのターミナル2、「食える公園」だ。

 「食える公園」を始めてから、店内には、自然科学や霊性に関する本、文化人類学や民俗学に関する本が以前よりも増えた。それらの本には、今まで僕が見過ごしていた在りし日の世界の姿が記録されている。世界は常に喪失し続け、そして創造される過程にあるのだと本は示し続けている。紙に印刷された言葉も僕の寿命の遥か未来へと続くだろう。ターミナル1とターミナル2の往復運動を通じて、僕自身は常に変化し続けている。その結果がどのように実るのかは分からないが、僕はまだカタチのない世界の姿が現れることを期待している。

 最近、沖縄から渡ってきたガジュマルの木の挿し木をもらった。その土地に暖かな南風を呼ぶような姿をした、南国の木だ。ガジュマルの木にはキジムナーという精霊が宿るといわれている。キジムナーはいたずらもので、人間と敵対することはほとんどないが、すみかの古木を切ったり虐げたりすると徹底的に祟るという。

 しめしめ。僕はこの挿し木を大切に育てて、「食える公園」に植え付けてしまおうと今考えている。僕は人間として、この土地で「食える公園」という政治を行う。引き続き土地のコントロールを試みるだろう。それと同時に、このガジュマルの木がその政治を突き破ることを期待している。大事に育てれば一〇〇年以上生きるはずだ。

 オーウェルは薔薇を植えた。僕はガジュマルを植える。僕の責任と無責任、コントロールしようとする欲求とそれを無視して湧き上がる力、目には見えないスピリチュアルなものの気配、それら全てを内包してくれる存在として。宿れ、キジムナー。

 一〇〇年後の未来へ向けて、壮大な悪戯を仕掛けているところだ。

(もり てつや・書店店主・農業)


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