(書評)竹内早希子『巨大おけを絶やすな! 日本の食文化を未来へつなぐ』|評・渡邊十絲子
はるか昔と遠い未来をつなぐ
漠然とテレビなどを見ていると、どんな分野であれ、日本の職人のもつ伝統的な技術をみんなが誇らしく思っているかのように伝えられることが多い。しかし実際のところ、それらを作るわざが伝承されていく環境を守ろうとは誰もしていない。昔ながらのわざを身につけた職人たちは、その技量や重責にみあう尊敬を得られず、後継者のないままこの世を去っていく。
自然の恵みである材料を集め、切り、組み、塗り、あるいは綯い、染め、織るといった各工程を担う職人がだんだんに欠けていけば、昔のようにものを作ることはできなくなる。すでに伝承が途切れてしまったものも多いと聞く。竹内早希子『巨大おけを絶やすな! 日本の食文化を未来へつなぐ』(岩波ジュニア新書)にも、そうした危機のひとつが描かれている。
醬油の仕込みに使う巨大な木の桶が150年という寿命を迎えて壊れ、この桶を作る職人はもういない、となって初めて、醬油の蔵人は困り果てた。ほんとうはそうなってからでは遅いのである。しかし、醬油の99パーセントが金属やプラスチックの桶で作られている現在、木の桶が消滅しても醬油が消滅するわけではないから、これを火急の要事だとは言い出せずにいたのだろう。
ともあれ、桶作りは桶師の仕事だとは考えず、自分は醬油を作る職人だが桶作りもやろうという人が現れた。それがこの本の主人公だ。境界線をまたぎ越し、「最後の桶師」に会って教えを請う者の冒険譚は、さわやかで痛快だ。はるか昔と遠い未来をつなぐ役割を引き受けたとき、「生きる意味」が輝くようすを目の当たりにできる。この挑戦を6年という長期にわたって取材したのが、この本の著者である。
昔の木桶をばらすと、側板の側面(板の「厚み」の部分で、桶を組んでしまえばもう人目にふれることはない)に当時の職人たちがいろいろなことを書き込んでいるという。米の値段のこと、天候のこと、ケチな蔵元の悪口。それを初めて目にする後世の人たちを思い浮かべて書いただろうひみつの落書きの、なんと健康な明るさだろうか。桶作りに乗り出した蔵人は、この健康さを継ぐ者になったのである。
30石(約5,400リットル)入りという巨大桶は、大勢の人が集まらないと作れない。よその人が駆けつけて力を貸し、わざを学びあうということが起こる。知識と技術の保存ルートが増える。これこそが希望だと思う。伝統技術の出口を開いておくやり方は、尊敬に値する。
金属やプラスチックの桶で醬油を仕込むとは、発酵の過程をすべて人の手でコントロールするということである。木の桶ではそれを自然の力にゆだね、人はただ見守り、手伝うのみだ。結局はそれがもっとも人類の力や叡知を実感できるやり方なのだと、わたしたちはもう知りつつあるのではないだろうか。
渡邊十絲子(詩人)